星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
翌朝、俺は日の出とともに目を覚ました。
寝坊したわけでも、早起きが得意なわけでもない。単に、眠れなかったのだ。昨夜のあの感覚――石が、遅れて落ちた、あの一拍。それが頭にこびりついて離れなかった。
瞼を閉じれば、掌の真下で鈍く落ちていく石が見える。あれは夢だったんじゃないか。魔力を使い果たした頭が見せた、都合のいい幻。そう疑う気持ちも、正直、あった。人は、都合のいいものを見たがる。石ころ使いと嗤われ続けた男が、ある夜ふいに「誰も知らない力」を掴んだ――そんな話は、できすぎている。
だから、確かめる。
それだけのことだった。夢か本物か。確かめもせずに一喜一憂するのは、俺の性分に合わない。
俺は板張りの床に起き上がり、昨夜の石を掌に乗せた。冷えた朝の空気の中で、石の重みだけが、確かにそこにある。
「……やるぞ」
魔力を練る。腹の底の熱を、細く長く。昨夜のやり方を思い出す。押し上げるんじゃない。石の周りの、落ちようとする流れを包み込む。地面のほうを、傾けるように。
石が浮く。指四本。
手を、開く。
――遅れた。
夢じゃない。
石は、掌の真下、拳一つぶんの空間で、確かに鈍った。まっすぐ落ちながら、その速さだけが薄まっている。ことん、と間の抜けた音を立てて、床に着く。
俺は、しばらく動けなかった。
昨夜の高揚が、悪寒が、また背筋を這い上がってくる。だが今朝は、それに一つ、別の感情が混じっていた。安堵だ。幻じゃなかった。俺の頭がおかしくなったわけじゃなかった。
そして、安堵の次に来るのは、いつだって問いだ。
これは、何なのか。
その日から、俺の暮らしは変わった。いや、変わってなどいない。傍から見れば、相変わらず倉庫の隅で石を持ち上げているだけの、四半人前の石ころ使いだ。掃除をし、帳面を付け、その合間に石を握る。日々の形は、何一つ変わっていない。
だが、頭の中は、まるで別の場所にいた。
俺は検証を始めた。
まず、範囲。石の落下が遅れるのは、掌の真下、拳一つぶんの空間だけだ。そこから外れると、石は普通に落ちる。ならば、この「遅れる場所」は、俺が動かせるのか。掌の位置を変えれば、遅れる場所も動くのか。
動いた。
掌を右にずらせば、遅れる空間も右にずれる。俺の手を中心に、拳一つぶんの球体――そういう領域が、生まれているらしい。目には見えない。だが、そこに石を落とせば、遅れる。何度やっても、遅れる。指先で宙をなぞると、その球の輪郭が、なんとなく分かる気さえした。
次に、大きさ。拳一つぶんの領域を、広げられないか。
これは、簡単には広がらなかった。魔力を注ぎ込めば注ぎ込むほど、井戸はすぐに干上がる。半日粘って、拳一つが、拳一つ半になった。それだけ。だが、それだけでも、俺は日記に丁寧に書き記した。
『第百九十九日。領域、拡大可能。ただし魔力消費は面積……いや、体積に比例して跳ね上がる模様。拳一つ半で、通常の持ち上げ三回ぶんの魔力を消費』
体積に比例。その一行を書いたとき、俺は自分の書いた字を、しばらく見つめていた。
俺は学者じゃない。教会の学院に通ったこともないし、貴族の家庭教師についたこともない。読み書きと簡単な計算は、河原で拾った本と、ギルドの帳面付けで独学した。それだけの男だ。母が生きていた頃、寝床の脇で、拾った本を声に出して読んでやった。母は文字が読めなかった。だから俺が、代わりに読んだ。そうやって覚えた読み書きだ。
だが、それだけの男でも、分かることがある。
この現象には、規則がある。
でたらめに起きているんじゃない。範囲があり、大きさがあり、それが魔力の量と、はっきりした関係で結ばれている。規則があるなら、それは、いつか式になる。式になれば、それは、操れる。
背筋が、また、ぞくりとした。
三日後、俺はギルドに顔を出した。
検証には、道具が要る。重さの違うもの、大きさの違うもの、いろいろ落として試したい。だが、石ばかり拾っていても限界がある。ギルドの資材置き場なら、鉄くずも木材も鉛の錘も、書き損じの帳面と引き換えに分けてもらえる。
ギルドの受付には、いつもの女がいた。
マレナという。三十がらみの、大柄な女だ。赤茶けた髪を無造作に後ろで束ねて、太い腕をカウンターに乗せている。背は、そのへんの男より高い。声も低くてよく通る。目つきは鋭いが、口は悪くない。荒くれ者の冒険者たちを、その一睨みで黙らせる。この都市で、俺を「石ころ使い」と呼ばずに「クロト」と呼ぶ、数少ない人間の一人だった。
「よう、クロト。今日は帳面か、それとも珍しく依頼か?」
「帳面だ。あと、資材置き場の鉛の錘、いくつか借りたい」
「錘ぇ? あんた、それ持ち上げられんのかい」
「持ち上げるんじゃない。落とすんだ」
「……なんだそりゃ」
マレナが片眉を上げた。俺は説明しなかった。説明したところで、遅れて落ちる石の話なんて、誰が信じる。俺だって、この目で見ていなければ信じない。
「まあ、いい。書き損じの山、そこにあるから好きなだけ持ってきな。錘は裏で見張りのジグに言っときゃ出してくれる」
「助かる」
「クロト」
立ち去ろうとした背に、マレナの声がかかった。
「昨日、ガレンのやつがまた酒場でお前のこと笑ってたよ。石ころ持ち上げて訓練だとさ。……あんまり気に病むなよ」
俺は、少し笑った。
「気に病んでないさ。むしろ、あいつには感謝してる」
「はぁ? 感謝?」
「蹴られると、悔しくてな。悔しいと、魔力の練りがよくなる」
マレナが、呆れたように、それでいてどこか眩しそうに、俺を見た。
「……あんた、変わってるねえ」
「よく言われる」
それは、本心だった。悔しさは、燃料になる。昨夜、指四本を超えられたのも、たぶんガレンのおかげだ。踏まれるたびに、俺の中の何かが、静かに熱くなる。その熱を、俺は石にぶつけている。
変わっている、か。
自分でも、そう思う。だが、変わっていない男に、この現象は見つけられなかった気もする。誰もが見向きもしないゴミスキルを、三年も、二百日近くも、飽きずに磨き続けるような男でなければ。母が「器用だねえ」と笑ってくれた、たったそれだけを胸に、石を握り続けるような男でなければ。
ねぐらに戻り、俺は検証を再開した。
鉛の錘。木片。鉄くず。重さの違うものを、次々に、遅れる領域に落としていく。
分かったことがある。遅れ方は、重さによって変わらない。軽い木片も、重い鉛も、同じ割合で遅れる。落ちる速さそのものが薄まっているのであって、重さを支えているわけじゃない。
これは、大きい発見だった。
もし俺が、重さを支えて遅らせているなら、重いものほど魔力を食うはずだ。だが、そうじゃない。木片だろうと鉛だろうと、領域の大きさが同じなら、消費魔力は同じ。
つまり、俺がいじっているのは、落ちるものじゃない。
落ちる、その場所そのものだ。
「……場所を、いじってる」
声に出すと、体が震えた。
重さを操るんじゃない。空間を、その中の時間の流れを、直接いじっている。石を持ち上げる魔法だと、ずっと思っていた。教会の記録にもそう書いてある。「対象を浮揚させる」。
違う。
俺の重力魔法は、対象を浮かせているんじゃない。俺を中心にした空間の、落ちる流れを――時間の流れを、書き換えている。持ち上げるというのは、その最も原始的で、最も無駄の多い使い方に過ぎなかった。
だから、あれだけ魔力を食ったのだ。空間そのものをいじって、その副産物として、ものを浮かせていた。無駄が多くて当然だ。俺は今まで、大砲でハエを撃っていたようなものだ。城壁を壊す大砲で、羽虫を一匹、叩き落としていた。そりゃあ、疲れる。
なら。
もし、浮かせるためじゃなく、時間を遅らせるためだけに、この力を使うなら。
どうなる。
俺は、震える手で、日記を開いた。もう、書くべきことが多すぎて、ペンが追いつかない。それでも、一行ずつ、丁寧に記していく。気のせいかもしれないことも、確かなことも、全部。
『第二百二日。重力魔法の正体、判明の可能性。これは浮揚の魔法ではない。空間と時間をいじる魔法だ。浮揚は、その一用法にすぎない』
書き終えて、俺はペンを置いた。
窓の外は、もう暗い。今日も夕飯を抜いた。魔力を使い果たして、頭がふらつく。だが、腹が減ったという感覚より、ずっと強いものが、体の芯にあった。
俺だけが知っている。
この世界の誰も――貴族も、教会も、名だたる冒険者も知らないことを、この倉庫の隅で、四半人前の石ころ使いが握っている。
可笑しくて、そして、少しだけ怖かった。
この力が、どこまで行くのか。どこまで俺を連れて行くのか。まるで見当がつかない。見当がつかないことが、こんなにも胸を高鳴らせるものだとは、知らなかった。
俺は最後の力を振り絞って、もう一度、石を掌に乗せた。
遅らせる。ただ、遅らせることだけを念じて。浮かせようとはしない。石を、掌に握ったまま、その周りの時間だけを。
石は、動かない。当たり前だ、握っているのだから。
だが。
握った石の表面で、埃が、ゆっくりと舞っていた。
俺が息を吹きかけたわけでもない。風もない。ただ、石の周りの空気の中で、細かな埃が、水中を漂うみたいに、ゆっくりと、ゆっくりと、動いていた。
そこだけ、時間が、遅い。
俺は息を止めて、その光景を見ていた。
拳の中の、小さな、小さな宇宙。そこだけ、世界がゆっくり流れている。
「……綺麗だな」
誰に言うでもなく、俺は呟いた。
この光景を、いつか、誰かに見せられたら。そう思ったのを、覚えている。母に見せたかった。そして。ほら、母さん。俺の石ころは、時間まで遅くするんだ。器用どころじゃないだろう。そう言って、あの痩せた顔を、もう一度笑わせたかった。
石ころ使いと嗤われた俺の、たった一つの、誰にも知られない宝物。