星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
人を、堕とすのに。手を汚す必要はない。
ただ堕ちていくのを。止めなければいい。
毒を盛る必要も。刃を向ける必要もない。差し伸べられるはずだった手を。そっと、払いのけて。伸ばされるはずだった声を。そっと、遮って。あとは、人が自分の重みで堕ちていくのを。黙って見ていればいい。
それは誰にも咎められない。私は何もしていないのだから。ただしなかっただけ。世界でいちばん静かな罪。
クロトがステラを諦めきれずにいたのを。私は知っていた。
あの子は届かないと分かっていても、追わずにはいられない性分だった。石ころを二百日も磨き続けたあの諦めの悪さで。ステラという届かない星を。ずっと追い続けていた。
私が隣にいても。あの子の目は。いつも遠くのあの黒髪を探していた。
――邪魔だった。
あの星が。
ステラがいる限り。クロトの心は私の方を向かない。あの子は届かない星を追いかけて。その隣で私はただの便利な幼馴染で。相棒で。それだけ。
ならどうすればいいか。
答えは簡単だった。
あの星を。クロトの手の届かない場所へ遠ざけるのではなく。
――クロトの心の中で。壊してしまえばいい。
私は何もしなかった。
ステラを堕とすために。私がしたことは。ほとんど何もない。
ステラは放っておいても堕ちていった。貴族の世界に。ぬるま湯に。あのまっすぐだった子が。驚くほどあっけなく。人は環境に溶ける。資質があろうと。過去に何があろうと。心地よい場所に置かれれば。人はそこに馴染んでいく。ステラもそうだった。
私はただそれを。見ていた。
止めることもできたかもしれない。かつての幼馴染として。「あなたは変わってしまった」と。「あの頃を思い出して」と。声をかけることも。あの子が完全に堕ちきる前に。手を伸ばすことも。
――しなかった。
私はステラが堕ちていくのを。ただ見ていた。止めずに。堕ちるに任せて。
クロトの心の中のあの星が。少しずつ輝きを失っていくのを。待っていた。
それは罪だろうか。
私は何もしていない。ステラは自分で堕ちた。私はただ止めなかった。それだけ。
――手を汚してすらいない。
あの宴。
あそこにクロトを連れて行ったのは。私だ。
「情報が必要よ」と。ヴェルドー家の討伐の規模を間近で見ておけるまたとない機会だと。私が段取りをつけた。
嘘ではなかった。情報は本当にあった。
だが。
私は知っていた。あの宴で。ステラとあの男が。どんな風に振る舞うかを。あの男がどんな性質かを。教会に近い私には。貴族たちの噂も耳に入る。あのヴェルドー家の嫡男が。どれほど傲慢で。どれほど庶民を嬲るのを好むかを。
あの男の前に。クロトを連れて行けば。
どうなるか。
――分かっていた。
分かっていて。私はクロトをあの宴に連れて行った。
クロトがあの光景を見て。ステラがあの男の色に染まりきった姿を見て。あの子の心の中の星が。完全に砕けるのを。
私はそれを。望んでいた。
だから連れて行った。
クロトが廊下で吐いているとき。私はあの子を追いかけて。背中に手を置いた。
温かい手を。装って。
――あのとき私の胸に広がったものを。喜びと呼んでは。いけないのだろうか。
あの子の背中は震えていた。吐いて、泣いて、壊れて。その震える背中に手を置きながら。私は静かに満たされていた。長い、長い狩りのいちばん大きな獲物が。今私の手の中で崩れ落ちている。その崩れる感触を。私は掌で味わっていた。
あの子の星が砕けた。ようやく。長い、長い時間かけて。あの子の心を占めていたあの星が。私の目の前で。砕けて消えた。
そして砕けたその場所に。
私が手を置いた。
クロトが抜け殻になったとき。
私は迷わなかった。
この瞬間を。私はずっと待っていたのだから。
あの子の心が空っぽになるその瞬間を。目的を失い。渇きを失い。何も欲しくなくなるその瞬間を。
空っぽになった器は。何かで埋めたくなる。人は空虚には耐えられない。だからその空白に。私が収まればいい。ゆっくりと。あの子が気づかないように。
私は何も変えなかった。
抜け殻のクロトの隣で。私はいつも通りにいた。何も要求せず。何も急かさず。ただ変わらず。隣にいた。
全部が変わってしまったあの子の世界で。私だけが変わらない。それがどれほどあの子にとって救いになるかを。私は知っていた。
だから私は変わらなかった。
変わらないことが。いちばん深くあの子を私に縛りつけると。知っていたから。
依頼を選ぶのも。段取りを組むのも。情報を集めるのも。全部私がやった。
あの子が抜け殻のあいだ。あの子の暮らしを私が丸ごと回した。
優しさから?
――違う。
あの子が一人では何もできないように。あの子の暮らしの何もかもを。私に依存させるために。
あの子が立ち直ったとき。あの子の世界は。完全に私を中心に回っていた。依頼も段取りも情報も心も。何もかも私なしでは成り立たない。あの子はもう。私なしでは立てない体になっていた。
あの子はそれを「絆」と呼んだ。
「お前がいてくれてよかった」と。「お前がいなかったら俺は駄目になってた」と。何度も。心から。
私はそのたびに。「そんなことないわ」と答えた。「私がいなくてもあなたは大丈夫」と。
嘘だった。
あの子は私なしでは駄目だ。それを私は誰よりもよく知っていた。知っていて。あえて否定してみせた。あの子が自分の依存に気づかないように。「絆」という美しい言葉のままでいられるように。
――私が「あなたは私なしでも大丈夫」と言うたびに。あの子はいっそう深く。私に寄りかかっていった。
そして今。
あの子は空っぽの器を抱えて。理由を渇望している。
聖点だけが残った。だがなぜ目指すのか分からない。理由が欲しい。あの子はそう渇いている。
私はその渇きを。ずっと育ててきた。
ステラという理由を砕いて。目的を溶かして。あの子を空っぽにして。理由を渇望する器に仕立てた。
全部、この日のため。
あの子の空っぽの器に。私の用意した理由を。注ぎ込むこの日のため。
私はもうその理由を。とうに用意している。
――圧倒的な自由。誰にも見下されない力。そして。ほんの少しの意趣返し。
あの子を砕いたあの世界への。あの子を嬲ったあの男への。
それを餌に。あの子をもう一度歩き出させる。私の敷いた道を。私の隣を。今度こそ。ステラではなく。私の方を向いて。
これがどういうことか。
私は分かっている。
私はあの子の恋を壊した。あの子がいちばん大切にしていたまっすぐな想いを。砕いて。そこに依存を植えつけて。歪んだ理由を注ごうとしている。
あの子はそれに気づかない。私を「かけがえのない相棒」だと信じている。純粋に。何一つ疑わずに。
その純粋さを。私は利用している。
――これが罪でないと。言うつもりはない。
私は問うた。何度も。こんなことをしていいのかと。あの子をこんな風に縛りつけて。歪ませて。それで手に入れたものを。愛と呼べるのかと。
問うた。
その上で。
――踏み越えた。
構わない。愛でもなくても。罪でも。あの子の純粋な想いを踏みにじった卑劣な簒奪でも。 構わない。
だって、私は。
あの六つの夕暮れから。ずっと。あの子のあの光を。私だけが見ていたあの光を。
――私のものにすると。決めていたのだから。
どんな手を使っても。
戦であれ。恋であれ。手段を選ぶ女に。あの子は手に入らない。ステラはまっすぐで何もしなかった。だからあの子の恋を得た。私はまっすぐではいられない。だからあらゆる手を使う。
全部を使って。あの子を手に入れる。
あの子は今夜も。空っぽの器を抱えて。眠っている。
「理由が欲しい」と。日記に書いて。
可愛い人。
安心して。理由なら私があげる。とっておきの理由を。あなたがもう一度歩き出すための。
その理由が。あなたをどこへ連れて行くのか。
あなたはまだ知らない。
その道の果てで。あなたが何を失い。私が何を手に入れるのかを。
あなたはまだ知らない。
――それでいい。
知らないまま。私の敷いた道を。私の隣を。歩いてくれれば。
私は。それで。
六つの夕暮れ。
歪んだ光をたった一人見ていたあの日から。
私はずっと。この日を待っていた。
あなたの心から。ステラが消えて。あなたの空っぽの器に。私の理由が注がれる。この日を。
長かった。
でももうすぐ。
――もうすぐあなたは。私のものになる。
どんな手を使っても。
私はそう決めている。
あの夕暮れの光を見たあの日から。ずっと。
変わらずに。