星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
それからどれくらいの時間が過ぎたのか。
俺はもう数えるのをやめていた。
日々は過ぎていった。
朝が来て。夜が来る。討伐に行き。魔物を倒し。ねぐらに帰る。ルーチェがいて。段取りを組み。俺はそれに従う。
その繰り返し。
季節が巡ったのかもしれない。だが俺には分からなかった。暑いも寒いも。晴れも雨も。何もかもが遠い膜の向こうの出来事のようだった。俺はその膜の内側で。ただ同じ動作を繰り返している。石を握るように。かつては意味のあったその動作を。今は意味も分からずに。
力は伸びていた。俺は確実に強くなっている。だがそれがどうしたというのか。強くなって何になる。俺はその問いをもう口にすることすらやめていた。答えがないと分かっていたから。
かつて俺は。この伸びていく手応えに酔っていた。指一本ぶんの高さに一喜一憂して。日記に丁寧に記録して。伸びることそのものが喜びだった。だが今は。伸びても何も感じない。伸びた力を振るう先が。どこにもないのだから。
空っぽの器を抱えたまま。俺はただ生きていた。
いや。生きているというのも正しくない。ただ体が動いている。心はどこか遠くで。止まったまま。
あの夜の光景は。今も時折瞼の裏に蘇った。
ステラがあの男の腕の中で満ち足りていたあの光景。俺の恋した少女が俺の知らない女の顔で幸せそうにしていたあの光景。
最初の頃は。それを思い出すたびに。吐き気がこみ上げた。
だが今は。
もう吐き気すら来なかった。
ただ鈍い痛みが。胸のいちばん奥で。くすぶっているだけ。それも日に日に遠くなっていく。感情が摩耗していく。悲しみも。悔しさも。やがて鈍くなって。ただ空白だけが残る。
俺はその空白に慣れていった。
慣れるというのは恐ろしいことだった。あれほどの痛みも。時間が経てば。ただの鈍い背景になる。俺はもうあの光景に吐きもしない。泣きもしない。ただ遠い他人事のように。思い出して。また忘れる。
感情が動かない。
何を見ても。何があっても。俺の中の何かが。ぴくりともしなくなっていた。
石ころ使いと嗤われていた頃の俺は。
こんなじゃなかった。
あの頃は。俺は渇いていた。見返したい。強くなりたい。届きたい。その渇きが俺を突き動かしていた。蹴られても。嗤われても。俺の中には火があった。諦める理由が見当たらない限り燃え続ける火が。
その火は。
もう消えていた。
ステラという薪を失って。俺の火は燃えるものをなくして。静かに消えた。残ったのは冷えた灰と。空っぽの器だけ。
母は言った。諦める理由が見当たらないから生きると。
だが今の俺は。生きる理由すら見当たらなかった。諦めるも何も。目指すものがない。渇きがない。火がない。俺はただ惰性で。体を動かしているだけの。抜け殻になっていた。
母のあの言葉は。俺の背骨だった。折れそうなたびにあの言葉が俺を支えた。だがあの言葉は。諦める理由があるかないかという話だった。目指すものがある者のための言葉だった。目指すものを失った今の俺には。あの背骨だった言葉すら。もう支えにならなかった。母さんと胸の中で呼んでみても。その声は空っぽの器の中で。虚しく反響するだけだった。
――こんな俺に。
なんの価値があるのだろう。
ふとそんなことを思うこともあった。だがその問いすら。深く考える気力が。もうなかった。俺はただ沈んでいた。底の見えない空白の中に。
ルーチェだけが。
変わらず隣にいた。
俺がどれだけ空っぽでも。あいつは見放さなかった。毎朝訪ねてきて。討伐に連れ出して。隣で戦って。日々を回してくれた。
俺はその気配に。ぼんやりとすがっていた。
空白の中で唯一。まだ確かにそこにあるもの。それがルーチェだった。あいつがいなければ。俺はとっくに討伐もやめて。ねぐらに引きこもって。灰のまま朽ちていた。だろう。
あいつがいるから。俺は辛うじて朝を迎えていた。
だがそれは。生きているというより。ただ消えずにいるというだけ。灯が消えないように。誰かが手で囲ってくれている。その手の中で。俺はかろうじて揺れている。それだけ。
だがその手が。俺を生かしているのか。それとも消えることすら許さずに囲っているのか。そのときの俺には区別がつかなかった。ただその手の温もりだけが。空っぽの俺に残されたたった一つの確かなもので。俺はそれにすがるほかなかった。
もしルーチェまでいなくなったら。
俺はその想像すらできなかった。できないほど深く。俺はあいつの気配に依存していた。ステラを失ったあの空白を。今辛うじて埋めているのは。あいつの変わらない気配。それだけ。それがなくなれば。俺は本当に何もなくなる。だから俺は。あいつが隣にいることに。ただすがっていた。
ある夜。
討伐を終えて。俺のねぐらで。二人灯りを囲んでいたとき。
ルーチェがふと俺を見た。
碧い目が灯りに揺れていた。その目が。いつもと少しだけ違う色をしていた。何かを決めたような。何かを切り出そうとするような。
「クロト」
あいつが静かに俺の名を呼んだ。
「……あなた、このままでいいの?」
俺は顔を上げた。
「このまま?」
「ええ。……このまま空っぽのまま。目指すものもなく。ただ日々を繰り返して。……それでいいの?」
俺は答えられなかった。
いいわけがない。だがどうすればいいのかも分からない。目指すものがない。渇きがない。火がない。どうしようもなかった。
「……どうしようもないだろ」
俺は掠れた声で言った。
「目指すものなんてもうない。俺は空っぽだ。……お前も分かってるだろ」
ルーチェはしばらく俺を見ていた。
そして。
あいつは静かに言った。
「……ねえクロト。一つ聞いてくれる?」
「なんだ」
「あなたがまた歩き出せる。……そんな理由の話を」
理由。
その言葉に。俺の中の何かが。かすかに。ほんのかすかに。反応した。
空っぽの器が。渇いていたあの理由。それをルーチェが。口にしようとしている。
俺はあいつの碧い目を見た。
あいつは微笑んでいた。いつもの静かな微笑み。だがその奥に。何か深い確信のようなものが。宿っていた。
俺はまだ知らなかった。
あいつがこれから口にするその「理由」が。俺をどこへ連れて行くのかを。
空っぽの器に。今まさに。何かが注がれようとしていることを。
俺はただ。
その次の言葉を。待っていた。
――渇いた器が水を待つように。
何が注がれるのかも知らずに。ただ渇きを満たしてくれるその言葉を。
待っていた。