星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
「あなたがまた歩き出せる。……そんな理由の話を」
ルーチェはそう切り出した。
灯りの揺れる俺のねぐら。二人きり。あいつの碧い目が。まっすぐ俺を見ていた。
俺は黙って次の言葉を待った。
空っぽの器が。渇いていた。理由を。歩き出すための理由を。それをルーチェが口にしようとしている。俺はそれに。すがるように。耳を傾けた。
「クロト。……あなたは強くなった」
ルーチェは静かに言った。
「石ころ使いと嗤われていたあなたは。もういない。時間を遅らせ。光を曲げ。竜すら沈める。都市でも指折りの冒険者になった。……もう誰もあなたを見下したりしない。かつてあなたを蹴った連中は。今やあなたの影に怯えている」
その言葉は。事実だった。
俺を蹴り嗤ったあの連中は。もうどこにもいない。ガレンも。ドグも。俺の顔を見れば道を空ける。
だが。
それがどうしたというのか。俺は心の中で呟いた。強くなった。見下されなくなった。だが俺の中は空っぽだ。ステラはいない。目的もない。強くなったことに何の意味も――
「でも」
ルーチェの声が。俺の思考を断ち切った。
「まだ、上がいるでしょう」
まだ上がいる。
その言葉に。俺の中で。あの夜の光景が。蘇った。
宴。あの男。ヴェルドー家の嫡男。身分でも力でも俺の遥か上にいたあの男。俺が剣を向ければ一瞬で殺される絶対の強者。俺を踏み潰した虫を眺めるように見て。笑いながら去っていったあの男。
精々励むがいい庶民。
あの言葉。
俺はあの男の前で。虫けらだった。どれだけ力をつけても。都市で指折りの冒険者になっても。あの貴族の世界の頂の前では。俺は何者でもなかった。
ルーチェは。俺のその傷を。まっすぐ突いてきた。
「貴族。あの、生まれながらに聖点の力を宿す者たち。あなたがどれだけ強くなっても。庶民である限り。あの頂には届かない。……あの夜あなたを嬲ったあの男のように。あなたを虫けらのように見下す者が。まだ上にいる」
俺は拳を握りしめていた。
いつの間にか。あの夜の屈辱が。鈍っていたはずのあの痛みが。ルーチェの言葉で。また鮮やかに。よみがえっていた。
「でもね、クロト」
ルーチェは身を乗り出した。金の髪が灯りに揺れる。碧い目が。俺を捉えて離さない。
「その頂すら。越えられる道があるの」
「……道?」
「聖点よ」
ルーチェは静かにしかし確かな熱を込めて言った。
「聖点を獲るの。それも誰の目にも明らかな圧倒的な戦果で。庶民が貴族の勲功を覆せるほどの。……そうすれば。あなたは勲一等の英雄になる。庶民のままで。あの貴族たちと伍する。いいえ――伍するどころじゃない」
ルーチェの声が。低く深くなった。
「あなたを見下したあの男よりも。上に立てる。誰にも見下されない。誰にも踏みつけられない。……圧倒的な自由を。手に入れられる」
圧倒的な自由。
その言葉が。俺の空っぽの器の底に。ぽたりと落ちた。
乾ききった器に落ちた一滴の水。それがじわりと底に染み込んでいく。俺はその感覚を。久しく忘れていた。何かを欲するという感覚を。空っぽになってから。俺は何も欲しくなかった。渇きすらなかった。だが今。あいつの言葉が。その干からびた器の底に。かすかな渇きを呼び覚ました。
誰にも見下されない。誰にも踏みつけられない。あの男の前で虫けらだった俺が。あの男よりも上に。
その光景を思い描いた瞬間。
俺の中で。消えていたはずの火が。かすかに。ちりと。爆ぜた。
消えたと思っていた。ステラという薪を失って。俺の火は燃えるものをなくして消えたと。だが消えていなかった。灰の下で。まだ種火が。くすぶっていた。あいつの言葉が。その種火に。そっと息を吹きかけた。
だが。
俺はすぐにその火を疑った。
自由。見下されない場所。それは確かに魅力的だ。だが。それはステラのいない自由だ。ステラを失った俺に。誰にも見下されない場所を手に入れて。それがなんになる。
「……でも」
俺は掠れた声で言った。
「そこにあいつはいない。……ステラは。俺がどれだけ上に立っても。あいつはもう」
「ステラのことは」
ルーチェは俺の言葉を遮らなかった。ただ静かに続けた。
「……無理に忘れなくていいの。でもクロト。よく考えて」
あいつは俺の目をまっすぐ見た。
「ステラをあんな風にしたあの世界。あなたを虫けらのように嬲ったあの男。……あの貴族たち。あの連中の頂点に。あなたが立ったら。どう思う?」
俺は息を呑んだ。
「セルフィリア」
ルーチェは地図の北の一点を指した。
「ヴェルドー家が狙っている大珠。ステラの箔付けのために。あの男があの討伐隊を率いて。あそこを獲れば。ステラの輿入れが決まる。あの男の武功になる。……あの男はまた勲一等を手にして。ますます増長するでしょうね」
ルーチェの声に。かすかな冷たさが宿った。
「でも。もし。……あなたが。あの男より先に。あそこを獲ったら?」
俺の心臓が。跳ねた。
「あの男の目論見は砕ける。ステラの箔付けは不発に終わる。ヴェルドー家が何年もかけて狙ってきた獲物を。あなたが庶民の身で。掻っさらう。……あのあなたを虫けらと嗤った男の目の前で」
ルーチェは微笑んだ。
静かで。それでいて。どこかぞっとするような微笑みだった。
「……ほんの少し。ざまあみろと。……思わない?」
ざまあみろ。
その言葉が。俺の中の火に。風を送った。
あの男。俺を踏み潰した虫を眺めるように見て。笑いながら去っていったあの男。「精々励むがいい庶民」と。
その男の狙っている獲物を。俺が横から掻っさらう。あの男の目の前で。庶民の身で。
あの勝ち誇った顔が。歪むところを。あの余裕の笑みが。消えるところを。
――見てみたい。
俺はそう思った。
ほんの少し。本当にほんの少しだけ。あの男に。あの貴族たちに。ざまあみろと。言ってやりたい。俺を虫けらのように扱ったあいつらに。俺があいつらの獲物を奪って。あいつらの頂に立って。
――ちっぽけな仕返しだ。
自分でもそう思った。あの男を倒すわけでも。ステラを取り戻すわけでもない。ただあいつらの目論見を砕いて。ほんの少し溜飲を下げる。それだけ。子供じみた可愛げのある仕返し。
だが。
そのちっぽけな仕返しが。空っぽだった俺の中に。小さな火を灯した。
「聖点を獲る」
俺は呟いた。
「圧倒的な戦果で。ヴェルドー家より先に。セルフィリアを。……あの男の目論見を砕いて。誰にも見下されない場所へ」
「そう」
ルーチェは頷いた。碧い目が静かに輝いていた。
「あなたにはその力がある。私がいる。二人でなら。……できるわ。きっと」
俺は地図の北の一点を見つめた。
セルフィリア。かつてステラに近づくための道だと思っていた場所。だが今は。
違う。
あそこは俺が。誰にも見下されない自由を。手に入れる場所だ。あの俺を嬲った連中への。ほんの少しの仕返しを遂げる場所だ。
新しい理由が。空っぽの器に。満ちていく。
俺はまた。歩き出せる。
――そう思った。
これは俺の意志だ。俺が決めた。自由が欲しい。仕返しがしたい。だから聖点を獲る。誰に言われたわけでもない。俺自身の選択だ。
俺はそう信じた。
空っぽだった胸に。火が戻ってきた。それが嬉しくて。俺はその火に。すがった。ようやくまた。目指すものができた。歩き出す理由ができた。
だが。
俺は気づかなかった。
その火が。かつてのステラへの想いのようなまっすぐな熱ではなかったことに。
自由。仕返し。見下されない場所。それは。俺があの夜負った傷から。生まれた火だった。あの男に嬲られた屈辱。あの虫けらのように扱われた痛み。その傷が。そのまま新しい欲望に変わっていた。
傷が燃料に変わっていた。
ルーチェが。俺のいちばん深い傷を。正確に突いて。それを火に変えた。「圧倒的な自由」という大義と。「ほんの少しの意趣返し」という人間らしい小さな欲を。両方混ぜて。俺の空っぽの器に。注ぎ込んだ。
大義だけでは。人は動かない。ほんの少しの私怨を混ぜてこそ。人は自分の意志だと信じて。動く。
俺は。まさに。そう信じた。
その夜俺は久しぶりに。日記を書いた。
筆が進んだ。空っぽだったあいだ書けなかった日記が。溢れるように。
『再び目標ができた。聖点を獲る。ヴェルドー家より先にセルフィリアを。誰にも見下されない自由のために。そして――ほんの少し、あの連中に、ざまあみろと言ってやるために。……ルーチェがいる。二人でならきっとできる。俺はまた歩き出す』
その一行を書いて。俺は久しぶりに。胸の高鳴りを感じた。
目指すものができた。歩き出す理由ができた。