星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
セルフィリアは。人の立ち入る場所ではなかった。
北の深奥。都市から何日もかけてたどり着いたその一帯。
足を踏み入れた瞬間。俺はそれを肌で感じた。
空気が違う。珠地域の浅い縁とは。中級の討伐地とは。まるで桁が違う。濃密な力が。大気そのものに満ちている。聖点の力。それがこの一帯を覆い尽くしていた。
最大級の未踏の大珠。
その力の中心に近づくほど。俺は圧倒された。
これは。人の領域ではない。
力に満ちたこの地を支配しているのは。人間ではなかった。
魔物が。ひしめいていた。
竜。
空を覆うほどの翼を持つ巨大な影。聖点の力で極限まで強化されたその鱗は。鋼を超える硬さを持つという。一頭で都市の一区画を焼き払う災厄。それが。この地には。一頭ではなかった。
狼。
馬より大きな群れ。数百か。数千か。数えることすらできない。牙も、爪も、聖点の力で研ぎ澄まされ。その一匹一匹が。歴戦の冒険者を凌ぐ。それが大群となって。この地を駆けている。
他にも。名も知らぬ異形が。無数に。
絶望的だった。
この戦力差は。人間の手に負えるものではなかった。ヴェルドー家が大規模な討伐隊を編成してようやく挑もうとした理由が。今目の前で分かった。個人が、二人が。どうにかできる相手では。断じてない。
そして。奇妙なことに。
これほどの竜も狼も異形も。どこか統率されているように見えた。ばらばらに暴れているのではない。この地のいちばん奥。大珠のある方角へ。何か大きな意志の下に。従っているような。まるでこれらはただの番犬に過ぎず。その飼い主が。もっと奥に。鎮座しているような。
そんな気配を。俺はこの地の空気の底に。かすかに感じ取っていた。だがそのときは。目の前の絶望的な戦力差に圧倒されて。その奥の気配まで。深く考える余裕はなかった。
「……これが、聖点か」
俺は思わず呟いた。
声が掠れていた。
人ならぬものたちの領域。ここを獲る。この絶望的な戦力差の中心にある大珠を。二人で。
――正気の沙汰ではなかった。
そして俺たちは。すぐに知ることになる。
その絶望的な魔物の領域に。既に挑んでいる者たちがいることを。
ヴェルドー家の討伐隊だった。
俺たちより少しだけ先に。あの男は。討伐隊を率いてセルフィリアに突入していた。数百の兵。腕利きの冒険者。魔法使い。聖職者。都市の総力を結集したような大部隊。
その部隊が。竜と狼の群れと。ぶつかっていた。
遠くから俺はそれを見た。
凄まじい戦いだった。兵たちが隊列を組み、竜の炎に焼かれながら、槍を突き立てる。魔法使いが狼の群れに火を放つ。聖職者が女神の力で傷ついた兵を癒す。
だが。
それでも。討伐隊は押されていた。
竜は一頭を倒すのに数十の兵の命を要した。狼の群れは、倒しても、倒しても、湧いてくる。聖点の絶望的な戦力差は。都市の総力を結集した大部隊すら。飲み込もうとしていた。
だが。
その押される討伐隊の先頭で。
一人だけ。異質な光景があった。
黒い影が。魔物の群れの中を。舞っていた。
剣星。
ステラだった。
俺は息を呑んだ。
あいつは。たった一人で。竜の群れの中に。飛び込んでいた。
黒い髪をなびかせ。一振りの剣を手に。
その剣が。閃くたびに。
竜が墜ちた。
あの鋼を超える鱗を持つ竜が。ステラの剣の一閃で。両断されて墜ちていく。何十もの兵の命を要するあの災厄が。あいつの剣の前では。一合。ただの一合で。
狼の群れがあいつに殺到する。数百の牙が。だが。ステラはその中を。舞うように駆け抜けた。剣が円を描くたびに。十二十の狼が。一斉に崩れ落ちる。
圧倒的だった。
都市の総力を結集した討伐隊が押されているその中で。ステラ一人だけが。魔物の絶望的な戦力差を。ねじ伏せていた。あいつがいる場所だけ。戦況が覆っていた。
剣星。
都市の誇り。星の頂の存在。その二つ名が。決して飾りではなかったことを。俺は初めてその目で見た。
あいつは。強かった。
人ならぬものたちの領域で。ただ一人。人でありながら。その絶望を覆すほどに。
――俺が追いかけていたあいつは。こんなにも遠い場所にいたのか。
俺はしばらく。その圧倒的な黒い影を。見つめていた。
「クロト」
ルーチェの声が俺を我に返らせた。
「見とれてる場合じゃないわ。……ヴェルドー家は既に突入してる。このままだと。あの男たちが先に大珠にたどり着く。……私たちは私たちの道を行かないと」
「……ああ」
俺は頷いた。
ヴェルドー家の討伐隊は。ステラの圧倒的な力を先頭に。押されながらもじわじわと大珠の中心へ。進もうとしている。あの剣星の力があれば。時間はかかっても。いつかあそこを獲るだろう。
先を越されたら。終わりだ。
俺とルーチェは。討伐隊とは別のルートを選んだ。大部隊が正面から魔物の群れとぶつかっているその隙を突いて。手薄な側面から。最深部を目指す。
だがそのルートにも。当然。魔物はいた。
竜が。狼が。異形が。俺たちの行く手を阻んだ。
二人だけで。この絶望的な戦力差の中を。進む。
――無謀だ。
誰もがそう言うだろう。
だが。
俺は掌を掲げた。
迫り来る一頭の竜。聖点の力で極限まで強化されたその巨体。鋼を超える鱗。討伐隊なら数十の兵の命を要する災厄。
その竜が。
俺の領域に。踏み込んだ。
――遅れろ。
竜の動きが。鈍った。
いや。鈍ったどころではなかった。
止まった。
あの巨体が。まるで時が止まったかのように。空中で静止した。
俺は自分でも驚いていた。
竜は。聖点の力で極限まで強化されている。そして――その強化された力ほど。俺の重力は深く効く。俺の力は根源に近い。聖点に由来するものにこそ。強く作用する。
だから。
この聖点の最深部で。極限まで強化された魔物たちは。
――俺にとってこれ以上ない格好の的だった。
街中のただの人間には。あんなに苦労した俺の重力が。ここでは。竜すら止める。
「ルーチェ!」
「――ええ!」
止まった竜のその無防備な喉元へ。ルーチェの光が。突き刺さった。
俺が曲げて導いたその光は。竜の硬い鱗のわずかな隙間を。寸分たがわず貫いた。
竜が。声もなく。墜ちた。
しんと静まり返る。
俺は荒い息を整えながら。墜ちた竜を見下ろしていた。
倒した。竜を。二人で。あの災厄を。
そして。倒したその瞬間。俺の中に。竜の強化が。流れ込んできた。凄まじい量の。力。極限まで強化された竜。それを倒せば。それだけの強化が。俺のものになる。
体が。熱い。力が。溢れてくる。
俺は。この聖点の最深部で。倒すたびに。強くなっていた。それもこれまでとは。桁違いの速さで。竜を、狼を、異形を。倒すたびに。俺は。加速度的に。膨れ上がっていった。
この場所こそ。俺の力が。最も活きる場所だった。
絶望的な戦力差。人ならぬものたちの領域。都市の総力すら飲み込むその絶望。
その絶望こそが。俺にとっては。最高の糧だった。
遠くで。ステラがまだ舞っているだろう。
圧倒的な剣で。竜を、狼を。ねじ伏せながら。
あいつは強い。人ならぬ領域で。ただ一人。人でありながら。絶望を覆す。
だが。
俺は。掌を見つめた。
俺の力は。今。倒すたびに。膨れ上がっている。この絶望的な戦力差の中で。むしろ。強くなっていく。
ステラは強い。だがあいつの強さは。個の力だ。どれだけ圧倒的でも。一人の剣の届く範囲。
俺の力は。違う。
この聖点の力に満ちた領域で。倒せば倒すほど。俺は強くなる。この絶望を糧にして。際限なく。止まらない。
――俺は。あいつを越える。
初めて。俺はそう思った。
追いかけていたあの遠い背中。剣星。頂の存在。そのあいつを。俺はこの人ならぬ領域でこそ。越えられる。
空っぽだった胸の火が。ごうと音を立てて。燃え上がった。
だが。
その火が。ステラを越えたいというその渇きが。かつてのあいつに届きたいという透明な想いとは。まるで別の昏いものに。変わっていたことに。
俺は気づかなかった。
ただ越えたい。あいつを。あの頂を。誰にも見下されない場所へ。
その昏い火に身を任せて。
俺は人ならぬ領域の最深部へと。踏み込んでいった。