星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
時間を遅らせる。それが戦いに使えると気づいたのは、まったくの偶然だった。
その日、俺は河原で検証をしていた。落下ではなく、動くものに対して領域がどう働くか。それを試したかった。石を落として遅らせるのは、もう分かっている。だが、横に速く動くものはどうなのか。斜めに飛ぶものは。俺の掌の外を、勝手に、速く通り抜けていく何か。それに対して、この領域は、何をするのか。
手頃なものを探して、俺は小石を宙に放った。
放物線を描いて落ちてくる小石が、俺の領域――拳一つ半ぶんの、時間の薄まった空間を、通過する。
石が、領域に入った瞬間。
鈍った。
放物線の途中で、石が、水飴の中を進むみたいに、速度を落とした。宙で、つっかえたように、たわむ。そして領域を抜けると、また元の速さに戻って、河原に落ちた。
俺は、しばらくその軌跡を、頭の中で何度も再生していた。
速く動くものが、俺の領域に入ると、遅くなる。
……当たり前だ。時間が遅れているのだから。動くものが遅くなるのは、道理だ。だが、その当たり前を、俺は今まで、戦いと結びつけて考えたことがなかった。持ち上げる魔法だと思い込んでいたから。空間をいじる魔法だと分かった今でさえ、頭のどこかで、まだ「戦えない力だ」と決めつけていた。
決めつけは、いけない。
自分の力を、自分で狭めていた。二百日も磨いておきながら、その使い道を、勝手に一つに絞っていた。愚かな話だ。
もし、俺の目の前に、拳を突き出してくる相手がいたなら。その拳が、俺の領域に入ったなら。
「……遅れる、のか」
声が、掠れた。
試したくて、たまらなくなった。頭の中の理屈は、もう組み上がっている。あとは、確かめるだけだ。だが、確かめるには、相手が要る。速く、強く、俺に向かって何かを振るってくる相手が。
あいにく、そんな相手には、心当たりがありすぎた。
ガレンを見つけるのは、簡単だった。昼下がりの酒場の前で、取り巻き二人と、通りかかった新人冒険者に絡んでいた。
ガレンは大柄な男だ。俺より頭一つぶん背が高く、肩幅は倍近い。短く刈った茶褐色の髪に、日焼けした赤ら顔。腰には、そこそこの業物らしい剣を提げている。剣のスキル持ちで、都市の下層じゃ顔が利く。要するに、俺みたいな半端者を踏むには、これ以上ないほどうってつけの男だった。
「よう、ガレン」
俺から声をかけたのは、初めてだった。
ガレンが、絡んでいた新人から目を離し、こちらを見た。それから、にやりと笑った。
「なんだ、石ころ使いじゃねえか。どうした、蹴られに来たのか?」
「まあ、そんなところだ」
「はぁ?」
取り巻きが笑う。新人冒険者は、この間に、そそくさと逃げていった。それでいい。俺が声をかけたのは、半分は、その新人を逃がすためでもあった。
「一つ、頼みがある」
「頼み? 石ころ使いが、俺に?」
「殴ってくれ。本気で」
酒場の前が、しんとした。
ガレンの笑みが、消えた。取り巻きも、顔を見合わせている。頭のおかしいやつを見る目だ。まあ、無理もない。俺だって、逆の立場なら同じ顔をする。
「お前……頭でも打ったか」
「かもしれない。だが、頼む。一発でいい。本気で、俺を殴ってくれ」
「――上等だ」
ガレンの顔が、赤黒く歪んだ。こういう男は、侮られるのを何より嫌う。俺が正面から「殴ってくれ」と言ったこと自体が、あいつには挑発に聞こえたらしい。
好都合だった。俺は、本気の一撃が欲しい。手加減された拳では、検証にならない。
ガレンが、大きく拳を振りかぶる。剣は抜かない。石ころ使い相手に剣を抜くのは、あいつのちっぽけな矜持が許さないのだろう。素手で十分だと。
その拳が、うなりを上げて、俺の顔面めがけて振り下ろされる。
速い。強化された筋力の一撃だ。まともに食らえば、鼻の骨くらいは軽く持っていかれる。心臓が、跳ねる。恐怖はある。だが、それ以上に、腹の底が、熱い。
俺は、逃げなかった。
ただ、拳の通り道に、領域を置いた。
遅れろ。
ガレンの拳が、鈍った。
顔面に届くまで、あと指二本ぶん。そこで、拳が、水飴に突っ込んだみたいに、速度を失った。
ガレン自身も、目を見開いている。自分の拳が、なぜ止まったのか、分かっていない。強化された筋力は、そのままだ。腕は、全力で振り抜こうとしている。だが、拳の周り――俺の領域に入ったその部分だけが、遅い。腕全体が、途中でつっかえて、たわんでいる。
俺には、その一拍で、十分だった。
鈍った拳の下をくぐり、半歩、横に踏み込む。そして、あらかじめ掌に握っていた鉛の錘――ギルドで借りた、あの検証用の錘だ。それを、ガレンの脇腹に、ありったけの力で叩き込んだ。
鈍い音がした。
俺の体格じゃ、たいした一撃にはならない。魔力で強化もできない。だが、鉛の錘の重さと、無防備な脇腹。それだけあれば、こういう男でも、息くらいは詰まる。
「ぐ……ッ!?」
ガレンが、たたらを踏んだ。拳を振り抜いた勢いのまま、体勢を崩している。俺の領域を抜けて、遅れが解けた拳が、あらぬ方向へ流れていく。強化された筋力が、標的を失って、そのまま暴発したような格好だ。
そして、俺は。
もう一度、領域を置いた。今度は、ガレンの足元に。
人が体勢を崩したとき、とっさに踏み出す一歩。それが遅れたら、どうなるか。
答えは、単純だった。ガレンは、崩れた体勢を立て直せず、そのまま地面に倒れ込んだ。強化された巨体が、無様に、河原の泥の上に転がる。
酒場の前が、静まり返っている。
俺は、肩で息をしながら、倒れたガレンを見下ろしていた。魔力は、もうほとんど残っていない。領域を二度張っただけで、井戸は干上がる寸前だ。あと一度、あいつが本気で向かってきたら、俺には防ぎようがない。
辛勝だ。いや、勝ったとすら言えない。ただ、一矢報いた。それだけ。
だが。
だが、それだけで、俺の胸は、破裂しそうなほど高鳴っていた。
「……効いた」
思わず、呟いていた。
効いた。俺の力が。三年間、ただ石を持ち上げるだけだった、あのゴミスキルが。強化された剣士の拳を、遅らせた。倒せなくてもいい。防げただけでいい。俺は今、生まれて初めて、この力で、自分の身を守ったのだ。
「て、てめえ……何しやがった……!」
ガレンが、泥だらけの顔を上げて、俺を睨んだ。脇腹を押さえ、立ち上がろうとしている。取り巻き二人は、動けずにいる。何が起きたか、理解できていない顔だ。
俺は、残った魔力を掻き集めて、いつでも領域を張れる構えを取った。虚勢だ。あと一度が限界だと、自分が一番よく分かっている。
だが、虚勢でも、構えは構えだ。
「石ころ遊びだよ」
俺は、言った。
いつか、言ってやりたかった台詞。最初の日から、二百日以上、腹の底に溜めていた台詞。石ころで何を倒すんだ、と嗤った、あいつらへの。それを、今、こいつに向かって、まっすぐに言えた。
ガレンは、しばらく俺を睨んでいた。だが、立ち上がった膝が、わずかに震えているのを、俺は見逃さなかった。何が起きたか分からない。分からないから、怖い。自分の拳が、なぜ止まったのか。この石ころ使いが、何をしたのか。
得体の知れないものは、誰だって怖い。
「……行くぞ」
ガレンが、吐き捨てるように言って、取り巻きを連れて去っていった。去り際、俺を振り返る目に、今までとは違う色があった。侮りじゃない。警戒だ。
それを見て、俺は、ようやく息を吐いた。膝から、力が抜けそうになる。だが、こんなところで座り込むわけにはいかない。まだ、見られている。俺は、背筋を伸ばして、その場を後にした。
ねぐらに戻る道すがら、俺の足取りは、自分でも驚くほど軽かった。
魔力は空っぽで、頭はふらつき、脇腹には昨日蹴られた痕がまだ痛む。それでも、軽い。体が、地面から少し浮いているみたいだ。
勝ったからじゃない。勝ってなどいない。あんなもの、まぐれの辛勝だ。次に本気で剣を抜かれたら、俺は何もできずに斬られる。それくらい、分かっている。
軽いのは、道が見えたからだ。
この力は、戦える。使い方次第で、戦える。持ち上げるだけの魔法じゃない。時間を遅らせ、相手の動きを鈍らせ、その一拍を突く。魔力の井戸が小さくても、要所に、一瞬だけ、領域を置く。それだけで、格上の相手にも、一矢報いることができる。
なら、磨けば。
もっと魔力の練りを効率化して、領域を張る速さを上げて、置く場所の精度を高めていけば。
どこまで、行ける。
ねぐらの木箱の前に座り、俺は日記を開いた。ペンを持つ手が、まだ少し震えている。興奮のせいだ。
『第二百五日。時間遅延、戦闘に転用可能。強化された拳を、領域内で鈍らせることに成功。相手の踏み込みを遅らせ、体勢を崩すことも可能。ただし魔力消費が課題。連続使用は現状二回が限度』
書き終えて、俺は、その一行を、じっと見つめた。
二百五日。二百五日、俺はこの力を磨き続けた。誰にも認められず、嗤われ、蹴られながら。諦める理由を探しながら、結局、一つも見つけられずに。
そして今日、また一つ、諦められない理由が増えた。
俺は、頬が緩むのを抑えられなかった。
始末に負えない。本当に、始末に負えない性分だ。
だが――この性分が、この諦めの悪さが、俺をここまで連れてきた。誰も見向きもしなかった場所に、俺を、たった一人で立たせている。
母さん、と、俺は胸の中で呟いた。俺の石ころは、今日、人の拳を遅らせたよ。器用どころじゃないだろう。
窓の外には、星が出ていた。
俺は、なんとなく、その星を見上げた。手の届かない、遠い光。
いつか、あそこまで。
そんな、漠然とした思いが、胸の奥に灯ったのを、覚えている。まだ、それが何を意味するのかも、知らないまま。ただ、遠い光を見上げて、いつか手を伸ばしてみたいと、そう思った。
――その光が、いったい何の形をしているのか。
そのときの俺は、まだ、何も知らなかった。