星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
大珠は目の前にあった。
だが。俺たちはそこで。足を止めることになった。
魔物たちが。引いたのだ。
最深部の大珠を守っていた魔物の群れ。竜も。狼も。異形も。それらが。一斉に。後退した。まるで。号令がかかったかのように。整然と。
「……退いた?」
俺は戸惑った。
あれだけ狂ったように襲ってきた魔物たちが。今は大珠の周囲に陣を組むように集まって。じっと俺たちを見ている。
「知能があるのね」
ルーチェが静かに言った。碧い目が、後退した魔物たちを見つめている。
「セルフィリアの魔物はただの獣じゃない。……あれを見て」
ルーチェが指した大珠の中心。
そこに。
一つの巨大な影が。あった。
それは、これまでのどの魔物とも違った。
竜より大きい。だが竜ではない
小山ほどの巨躯が、夜の闇の中で蠢いていた。全身が捻じれている。竜の鱗のような黒い装甲がその巨体を覆い、装甲の隙間隙間から無数の触腕がうねうねと生き物のように蠢いていた。頭部は一つではなかった。いくつもの捻じれた首の先にそれぞれ別の顔があって、てんでばらばらの方向を睨んでいる。そのどの顔にも血のように赤い目がいくつもぬめりと光っていた。
体表からは黒い瘴気のようなものが絶えず立ち上っている。大珠の力。それが凝縮され腐り、澱んだようなひどく禍々しい気配。遠くから見ているだけなのに肌が粟立った。魂が竦んだ。近づいてはならないと、体のいちばん深いところが本能で叫んでいた。
狼の獰猛さと、竜の威容と、そして、何かもっと根源的な異形の気配を併せ持つ、大珠の力を全身にまとった存在。
――聖点の支配者。
俺は直感的にそう悟った。
この地を本当に支配しているのは、あの存在だった。竜も、狼も、異形も、全部あの支配者の下僕に過ぎなかった。
そして俺たちがこれまで倒してきた魔物たちは。
――あの支配者への道を塞ぐ、ただの邪魔者、いわば露払いに過ぎなかったのだ。
都市の総力を飲み込もうとした絶望的な戦力差。竜も、狼も、それすらあの支配者から見れば、捨て駒。真の敵はあそこに大珠の中心に鎮座している。
あの支配者を倒さない限りこの聖点は獲れない。
「今日は、ここまでね」
ルーチェが言った。
「魔物たちは支配者を守るために陣を組んだ。今突っ込めば四方から囲まれる。……あの支配者と周りの魔物を同時に相手にするのは無謀よ」
「……ああ」
俺は頷いた。
魔物たちは知能で膠着を選んだ。無駄な消耗を避けて、支配者の周りを固めた。俺たちが疲弊するのを待っている。あるいは俺たちが退くのを。
ヴェルドー家の討伐隊も同じだった。あの支配者の威容を前に、一度退いて態勢を立て直している。
戦線は一時膠着した。
明日、改めてあの支配者との掃討戦が始まる。それが本当の決戦だった。
俺とルーチェは、前線からわずかに退いた岩陰に身を寄せた。完全に退くわけにはいかない、先を越されたら終わりだ。ヴェルドー家より先にあの支配者を倒して大珠を獲る。そのために前線のすぐ傍でわずかな休息をとることにした。
明日の決戦に備えて。
夜が更けた。
岩陰の焚き火がぱちぱちと爆ぜている。
眠れなかった。
明日、あの支配者と戦う。これまでのどの魔物とも違う、真の敵と。倒せるのか分からなかった。俺の力は膨れ上がっている。だがあの支配者の威容を前にすると、確信は持てなかった。
昂ぶりと恐れが胸の中で渦を巻いていた。
眠らなければ明日に障る。分かっている。だがこの昂ぶりが俺を眠らせてくれなかった。
「……眠れないの?」
ルーチェの声がした。
振り向くとあいつも起きていた。焚き火の灯りに、金の髪が揺れている。碧い目が俺を見ていた。
「ああ……明日のことを考えると、どうも、な」
「……昂ぶってるのね」
ルーチェは静かに言った。
「怖い?」
「……分からない。怖いような、逸っているような……この昂ぶりを抑えられれば、眠れるんだけどな」
俺は自嘲するように言った
ルーチェはしばらく俺を見ていた
そして
静かに俺の傍へにじり寄ってきた
「……抑えてあげる」
ルーチェが囁いた。
その声がいつもと違っていた。低く、熱を帯びて。
俺は息を呑んだ。
ルーチェの碧い目がすぐ傍にあった。焚き火の灯りを映して、潤んで揺れている。金の髪が俺の頬に触れた。
「……ルーチェ」
「明日の、ためよ」
ルーチェは囁いた。
「昂ぶったままじゃ、眠れないでしょう。……抑えてあげる。明日、あなたがちゃんと戦えるように。……これはそのため」
明日のため。
その言葉が俺に逃げ道を与えた。
これは昂ぶりを抑えるため。明日の決戦のため。だからこれは仕方のないこと。俺が求めたわけじゃない、ただ明日のために必要なこと。
――そう自分に言い聞かせられる、逃げ道を。
俺はルーチェのその言葉にすがった。
これは明日のためだ。俺が能動的に求めたわけじゃない。ただ受け入れるだけ、昂ぶりを抑えるため。
そう、信じて。
俺はルーチェを抱き寄せた。
ルーチェの体は震えていた。
俺の腕の中で、かすかに震えていた。細い肩。熱を持った肌。俺の手が触れるとルーチェは小さく声を漏らした。
誰にも触れられていない肌だった。
俺は気づいた。
ルーチェは初めてだった。
この俺が初めてだった。誰にも触れられていなかった体。それをルーチェは今俺に差し出していた。ずっと取っておいたものを開くように。
俺はルーチェを抱いた。
ルーチェの声が焚き火の爆ぜる音に混じって夜に溶けた。ルーチェは俺にしがみついて爪を俺の背に立てたまるでこの一夜を逃すまいとするように俺を刻みつけようとするように。
そして。
鮮血があった。
あいつがこれまで誰のものでもなかった証。ルーチェがこの身をずっと取っておいた証俺のために。あるいは俺のためだけに。
俺はその鮮血を見て。
あの夜の光景を思い出した。
――ステラ。
あの宴。あの男が語った。「骨の髄まで私のものだ」と「夜になれば別人だ」と。ステラはあの男に染まりきっていた。何度も抱かれ、奪われ尽くしていた。もうどこにも俺の入り込む隙はなかった。
奪われた女。
だがルーチェは。
逆だった。
誰にも奪われていなかった。誰のものにもなっていなかった。その全部を今俺に差し出している。この鮮血がその証だった。
奪われた女と与える女。
ステラは俺の目の前で、他の男に骨の髄まで奪われていた。俺の恋した少女は俺の知らないところで俺以外の男に全部を奪われて満ち足りていた。
だがルーチェは。
誰にも渡さずにこの身を俺のためだけに取っておいて今全部を俺に与えている。
俺が掴めなかった剣星。奪われたあの黒髪。その代わりに。
全部を与える女がここにいた。
俺の腕の中で、鮮血を流しながら俺だけを見て。
事が終わって。
俺たちは焚き火の傍で息を整えていた
ルーチェは俺の腕の中で静かにしていた。金の髪が俺の胸に触れている。その体温を俺は感じていた。
昂ぶりは確かに鎮まっていた。
だが何かもっと深いものが俺の中に刻まれた気がした。それが何なのかは分からなかった。ただルーチェという存在がもう俺から切り離せないところまで来ていることだけは分かった。
依存でも感謝でもなかった。
もっと深い何か。
「……クロト」
ルーチェが俺の胸で囁いた。
それからくすっと笑って。
「これで、逃げられないわね、あなた」
俺は少し笑った。
「……逃げる気はないさ」
「ほんと?」
ルーチェは俺の胸に頬を寄せたまま、悪戯っぽく言った。焚き火の灯りにその横顔がゆらゆらと照らされている。
「じゃあ、決まり……一生私のものね。ちゃんと責任取ってよ?」
まるで子供が宝物の取り合いでもするような、軽い軽い口調だった。ころころと笑いながら羽のように軽やかに。
俺はそれを冗談として受け取った。事の後の甘い戯れ言そういうものだと。
「……ああ、分かった、分かった。責任取るよ」
俺はそう答えた、軽く冗談に冗談で返すように。
焚き火がぱちぱちと爆ぜる。
その灯りの中で、金の髪が満ち足りたように俺の胸で目を閉じていた。