星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
噂が広まるのは、驚くほど早かった。
ガレンを河原の泥に転がした翌日には、もう都市の下層に、妙な話が流れていた。石ころ使いが、剣のガレンを一発で沈めたらしい。何をどうやったのか、誰にも分からない。ガレン本人が、何をされたのか説明できないのだから、話に尾ひれがつくのも当然だった。金縛りにした。時を止めた。呪いをかけた。聞くたびに、話は大きく、そして俺から遠くなっていった。
俺は、その噂を、ギルドの受付で聞いた。
「あんた、えらい騒ぎになってるよ」
マレナが、カウンターに肘をつき、面白そうに俺を見上げた。赤茶けた髪を今日も無造作に束ねて、太い腕を組んでいる。
「石ころ使いが、ガレンを瞬殺した。魔法で相手を金縛りにしたとか、時を止めたとか、まあ、好き放題言われてるよ」
「金縛りでも、時を止めたわけでもない」
「じゃあ、何をしたんだい」
俺は、少しだけ迷った。だが、マレナには話してもいい気がした。この女は、二百日以上、俺を「石ころ使い」と呼ばずにいてくれた、数少ない人間だ。
「相手の動きを、ほんの一瞬、遅らせただけだ。その隙を突いた。それだけ」
「……それだけ、ねえ」
マレナは、しばらく俺の顔を見ていた。それから、ふっと笑った。
「あんた、その『それだけ』を、二百日、石ころ相手に磨いてたわけだ」
俺は、答えなかった。答える必要も、なかった。マレナの目が、もう全部分かっている、という顔をしていたから。この女は、噂の尾ひれになんて、はなから興味がない。俺が何をどれだけ積み上げてきたか、そのことだけを、ちゃんと見ている。
潮目が変わる、というのは、こういうことを言うのだと思う。
昨日まで、俺を見れば嗤い、道を空けさせ、たかりの種にしていた連中が、今日は、俺と目を合わせようとしない。すれ違いざまに舌打ちする者はいる。だが、正面から絡んでくる者は、ぱたりといなくなった。
得体が知れない。それが、こういう連中には、何より効く。分からないものは、怖い。怖いものには、近寄らない。単純な理屈だ。
だが、その単純な理屈が、二百日、俺には働いてくれなかった。俺は「石ころ使い」という、分かりやすい弱者だったからだ。分かりやすい弱者を踏むのは、安全で、気持ちがいい。連中はそれを、飽きもせず繰り返してきた。
その、分かりやすさが、消えた。
ガレンの取り巻きだった二人組の片割れ――ドグという、痩せた小男が、路地でわざわざ俺の前に立ちふさがったのは、その翌々日のことだった。
「よう、石ころ使い。調子に乗ってんじゃねえぞ」
ドグは、ナイフ使いのスキル持ちだ。細身で、素早い。ガレンほどの力はないが、その代わり、手が早い。腰の後ろに、投げナイフを何本も差している。目つきの落ち着かない、いつも何かに苛立っているような男だった。
「ガレンの兄貴は、油断してただけだ。俺は、そうはいかねえ」
「そうか」
「なんだよ、その態度は……!」
ドグが、ナイフを一本、抜いた。投げる気だ。細い腕が、しなる。
だが。
この二日で、俺は磨いていた。
ガレン戦での反省点は、はっきりしていた。領域を張る速さが、遅い。魔力を練ってから発動するまでに、わずかな間がある。その間を、相手に読まれたら終わりだ。ガレンには通じた。だが、あれは、あいつが油断していたからだ。同じ手が、次も通じるとは限らない。
だから俺は、あらかじめ領域を「置いて」おくことを覚えた。自分の周り、半歩ぶんの距離に、薄く、常に。魔力の消費は増える。井戸はいっそう早く干上がる。だが、この距離に踏み込まれた瞬間、練る手間なしに、遅らせられる。守りの、構えだ。
ドグの投げたナイフが、俺の顔めがけて飛ぶ。
俺の、半歩の領域に、入る。
鈍った。
鋭く回転しながら飛んでいたナイフが、俺の目の前で、ふっと速度を落とした。落ちたわけじゃない。ただ、遅くなった。俺は、体を半身ずらして、それを避ける。ゆっくり流れてきたナイフは、俺の頬を掠めることすらなく、背後の壁に、ことん、と当たって落ちた。
ドグの顔が、凍りついた。
「な……」
「次は」
俺は、一歩、踏み出した。
ドグが、慌てて後ずさる。二本目のナイフに手を伸ばそうとして、しかし、その手が止まった。得体の知れないものへの恐怖が、あいつの動きを縛っている。俺の魔法じゃない。あいつ自身の、恐怖が。
「……くそっ!」
ドグは、二本目を抜くこともせず、身を翻して逃げていった。
俺は、その背中を見送りながら、静かに息を吐いた。
勝った。今度は、明確に。一撃も食らわず、相手を退けた。
だが、胸の中は、ガレン戦のときのような、破裂しそうな高鳴りとは、少し違っていた。もっと、静かだった。手応え、と言えばいいのか。磨いたものが、確かに、形になっている。その手応え。
派手じゃない。時を止めたわけでも、金縛りにしたわけでもない。ただ、半歩の距離で、飛来物を一拍遅らせる。それだけ。
だが、その「それだけ」が、積み重なれば。
俺は、拳を、握りしめた。
その日を境に、俺に絡む者は、本当に、いなくなった。
ドグが逃げ帰って、また噂が広まったらしい。石ころ使いは、ナイフも効かない。投げたものが、勝手に遅くなる。近づいたら、何をされるか分からない。
全部、正しくない。ナイフが効かないわけじゃない。速く、鋭く、俺の領域の外から刺されたら、俺は普通に血を流す。半歩の領域なんて、本気の手練れには、簡単に踏み越えられる。俺の力は、まだ、そんなものだ。
だが、下層の連中は、それを知らない。得体の知れない何か、として、俺を遠巻きにするようになった。
嗤われないというのは、こんなにも、静かなものなのか。
俺は、それを、道を歩きながら、しみじみと味わっていた。誰も、俺を蹴らない。誰も、俺の名を嘲らない。ただ、道を空ける。それだけのことが、二百日以上、俺の手の届かない場所にあった。
悪くない。
悪くない、が――不思議と、それで満たされる、という感じは、しなかった。
嗤われなくなった。蹴られなくなった。それは、確かに、俺が欲しかったものの一つだ。だが、それは、山の、いちばん麓の一歩に過ぎない気がした。この先に、まだ、ずっと高い場所がある。そんな予感が、消えなかった。
その予感の正体を、俺は、まだ、うまく掴めずにいた。
ギルドの掲示板の前に、人だかりができていた。
資材を借りに寄った俺は、なんとなく、その人だかりを覗き込んだ。冒険者たちが、一枚の依頼書を見上げ、口々に何か言っている。
「おい、また出たぞ。北の珠地域だ」
「討伐隊、募集かよ。……こりゃ、俺たちの手には負えねえな」
珠地域。聖点――人が珠と呼ぶ、力の塊のある一帯。そこには、力を求めて、魔物も集まる。冒険者という稼業が成り立つのも、元をたどれば、この珠地域があるからだ。
俺は、その依頼書には、たいして興味を引かれなかった。討伐隊の末席に加わったところで、今の俺の力では、足手まといにしかならない。
だが、人だかりの、その向こう。
ギルドの奥の壁に、一枚の絵が、飾られていた。
叙勲の絵だ。かつて、大きな珠地域を切り開いた英雄たちを描いた、古い絵。褪せた絵の具の中心に、一人の剣士が立っている。掲げた剣が、光を弾いている。
剣星。
誰かが、その絵を見上げて、そう呟いたのが、聞こえた。
この都市で、今、最も強いと謳われる剣のスキル持ち。その名は、俺も、知っていた。知らないわけがない。都市の誇り。人々が、憧れと畏れを込めて口にする、頂の名前。誰もが、その名を口にするとき、少しだけ声を落とす。まるで、遠い星の名を呼ぶように。
俺は、その絵を、しばらく見上げていた。
絵の中の剣士は、俺の知る顔とは違う。もっと昔の英雄だ。だが、掲げられたその剣が弾く光が、なぜか、俺の胸の奥の、あの漠然とした予感を、ちりちりと刺激した。
いつか、あそこまで。
三日前、星を見上げて思ったのと、同じ感情だった。
あの頂に、手が届くとは、思わない。今の俺は、麓の一歩を、ようやく踏み出したばかりだ。頂は、雲の上にある。見上げることしか、できない。
だが。
見上げることが、できるようになった。
二百日前の俺には、それすら、できなかった。頂を見上げる資格すら、自分にはないと思っていた。石ころを持ち上げるだけの、四半人前。それが、俺のすべてだった。
今は、違う。
俺は、頂を見上げている。そして、その頂までの、途方もない距離を、測ろうとしている。
「クロト」
背後から、マレナの声がした。振り返ると、資材の入った麻袋を提げて、こちらを見ている。
「何、見てんだい」
「……いや」
俺は、絵から目を離した。
「遠いな、と思って」
「遠い?」
「頂が、だ」
マレナは、俺の見ていた叙勲の絵に、ちらりと目をやった。それから、俺の顔を、まじまじと見た。
「あんた、まさか、あそこを目指してんのかい。石ころ使いが」
俺は、少し笑った。
「かもしれない。まだ、分からないけど」
言ってから、自分でも、可笑しくなった。麓の一歩を踏み出したばかりの男が、雲の上の頂を、目指すだと。身の程知らずにも、ほどがある。
だが。
身の程を知っていたら、俺は二百日も、石ころを磨き続けたりしなかった。身の程知らずだからこそ、俺は、ここまで来た。
なら、この身の程知らずを、もう少しだけ、信じてみてもいい。
マレナは、しばらく俺を見ていたが、やがて、呆れたように、しかしどこか嬉しそうに、麻袋を俺に押し付けた。
「……ほら、資材。持ってきな。頂を目指すなら、まずは足元を鍛えることだね」
「ああ。助かる」
麻袋を受け取り、俺はギルドを出た。
空は、よく晴れていた。まだ日は高い。頂は、雲の上どころか、今日は雲一つ見えない、青の、ずっと向こうにある。
俺は、その青を見上げて、麻袋を担ぎ直した。
――このときの俺は、まだ、知らなかった。
俺が見上げていたその頂が、俺にとって、どれほど近く、そして、どれほど遠い場所だったのかを。
その頂の光が、俺の、二百日どころではない、ずっとずっと長い時間、追いかけ続けた、たった一つの光であったことを。
俺は、まだ、その名前を、口にしていない。