星を掴め ―― 嗤われた【重力魔法】、時間も光も支配して最強になった 作:朝凪小夜
会いに行こう、と思ったのは、その夜だった。
ドグを退け、都市の下層で、誰も俺に絡まなくなった。石ころ使いと嗤われた男が、麓の一歩を踏み出した。二百日以上、俺が欲しかったものの一つを、ようやく手に入れた。
だから、思ったのだ。
――今なら、あいつに、合わせる顔があるんじゃないか、と。
あいつ。ステラ。
俺の、幼馴染。
子供の頃、俺たちは三人だった。俺と、ステラと、ルーチェ。都市の外れの、貧しい家の子供たち。身を寄せ合うようにして、いつも一緒にいた。
ステラは、昔から、まっすぐな子だった。黒い髪を後ろで一つに束ねて、木剣を提げて、誰よりも早く走り、誰よりも高く跳んだ。緑の目が、いつも、まっすぐ前を向いていた。俺が石ころを持ち上げて笑われても、あいつだけは、笑わなかった。
「クロトの魔法は、いつか、すごいものになるよ」と、根拠もなく、言い切った。
ルーチェは、その隣で、静かに笑っていた。ステラが陽なら、ルーチェは月みたいな子だった。あまり、多くを喋らない。だが、いつも、俺たちのやることを、静かな目で見ていた。金色の髪の、大人しい子。ステラが「すごいものになる」と言い切ったとき、ルーチェが、何を思っていたのか。俺は、覚えていない。あの頃の俺は、ステラの、あのまっすぐな一言だけで、胸がいっぱいだったから。
俺が、二百日、石を磨き続けられたのは。
諦める理由を、探し続けられたのは。
――たぶん、半分は、ステラのあの一言のせいだ。
ステラは、聖点で剣のスキルを授かった。それも、途方もない代物を。剣星。今では、都市の誇りと謳われるほどの、圧倒的な強さ。子供の頃に、あいつが跳んだあの高さの、ずっとずっと先へ、あいつは一人で駆けていった。
俺とルーチェを、置いて。
いや、置いていったわけじゃない。あいつは、ただ、強かった。強すぎた。強さが、あいつを、俺たちの手の届かない場所へ、連れて行った。それだけだ。
この二年、俺は、あいつにまともに会っていない。会えなかった、というほうが、正しい。石ころ使いと嗤われる男が、都市の誇りに、どの面下げて会いに行けるというのか。
だが、今なら。
麓の、たった一歩でも、俺は前に進んだ。この力は、戦える。時間を、遅らせられる。誰も知らない場所に、俺は立っている。
まだ、あいつの頂には、遠く及ばない。それは、分かっている。
だが、それでも、報告くらいは、していい気がした。見ろ、ステラ。お前が言った通りになったぞ。俺の石ころは、すごいものになりかけている。まだ、途中だけどな。
そう言って、あいつが、あの頃みたいに、笑ってくれたら。
それだけで、俺は、次の一歩を、もっと高く踏み出せる気がした。
剣星ステラの居所を探すのは、拍子抜けするほど、簡単だった。
都市の誰もが、知っていたからだ。剣星様は、今、貴族街におられる。ヴェルドー家の招きで。近く、大きな叙勲があるらしい。
貴族街。
俺が、生まれてこのかた、一度も足を踏み入れたことのない場所だ。
この都市は、珠の――聖点の上に築かれている。そして、その聖点を支配するのが、貴族だ。彼らは、身体に強く、長く、珠の力を宿している。だから、強い。だから、都市を治める。王ですら、彼らに戴かれてこそ、王なのだと聞く。
その貴族が住まう街は、都市の中心の、小高い丘の上にある。丘の裾には、石造りの立派な塀が巡らされ、いくつかの門が、そこへの入り口を守っている。
俺は、その門の一つへ、向かった。
近づくにつれ、道は綺麗になり、行き交う人々の身なりが、良くなっていく。石畳は磨かれ、街路樹は手入れされ、空気まで、どこか違って感じた。下層の、饐えた匂いのする路地とは、まるで別の世界だった。同じ都市の中に、こんな場所があったのか。俺は、生まれて三度目か四度目くらいに、この街の広さを、思い知らされた気がした。俺の生きてきた場所が、この街の、どれほど狭い隅っこだったのかも。
そして、門の前。
俺は、そこで、足を止めた。
止めた、というより、止められた。
門の脇に立つ衛兵が、俺を、じろりと見た。磨かれた鎧を着た、屈強な男だ。その視線が、俺の足元から頭まで、一瞬で舐め、そして、値踏みを終えた。ほんの、一瞬。それで、俺という人間の価値が、あいつの中で、決まったのが、分かった。
「用件は」
声には、感情がなかった。追い払うほどの価値もない。ただ、そこにいる虫を、確認するような。
「……剣星、ステラに、会いたい」
言った瞬間、自分の声が、ひどく細く聞こえた。
衛兵は、答えなかった。ただ、鼻で、笑った。それだけだった。俺が、剣星の名を口にしたこと自体が、こいつには、滑稽だったのだろう。
「下がれ。ここは、お前のような者が来る場所ではない」
「幼馴染なんだ。子供の頃、一緒に――」
「下がれ」
衛兵の手が、腰の剣に、かかった。
それ以上は、言葉ではなかった。この門から先は、俺の言葉が、意味を持たない世界だ。幼馴染だろうと、なんだろうと、関係ない。俺が、庶民で、しかも下層の人間だという、それだけで、この境界は、俺を通さない。
俺は、下がった。
下がるしか、なかった。
悔しさは、なかった。悔しさを覚えるには、あまりに、相手にされなさすぎた。ガレンやドグは、俺を、蹴る価値のある何かとして、見ていた。だが、この衛兵にとって、俺は、道端の小石ですらない。蹴る価値もない、ただの、風景の一部。それが、この境界の、向こうとこちらの、違いだった。
諦めきれずに、俺は、塀に沿って歩いた。
どこかに、丘の上が見える場所は、ないか。門の中には入れなくても、せめて、遠くからでも、あいつの姿を、一目でも。
塀の途切れた、崖の際。貴族街の敷地の、いちばん端。そこからなら、丘の上の庭園が、遠くに見下ろせた。
崖の際の、細い道。俺の立つ、その場所が、この世界の境目だった。ここから先は、崖。振り返れば、貴族の塀。俺が立てるのは、この、ギリギリの、端の端。爪先の幅ほどしかない、境界の上だけ。塀の内側にも入れず、かといって、崖の下に落ちるわけにもいかず。俺のような人間の居場所は、いつだって、こういう、どこにも属さない、細い縁の上にしかない。
その、遠くの庭園に。
人が、いた。
貴族たちだ。着飾った男女が、庭園に集い、談笑している。陽の光の下で、酒杯が光り、笑い声が、風に乗って、切れ切れに届いてくる。その中心に。
黒い髪の、女が、いた。
遠い。あまりに遠くて、顔の細部までは、見えない。だが、俺には、分かった。分からないはずが、なかった。あの、まっすぐな立ち姿。誰よりも高く跳んだ、あの体の、芯の通り方。子供の頃から、ずっと、目で追い続けてきた背中だ。
ステラ。
黒い髪は、昔のように無造作に束ねられてはいなかった。丁寧に結い上げられ、装飾が、遠目にも光っている。まとう衣も、俺の知る、あいつのものじゃない。上等な、貴族の装いだ。緑の目は、遠すぎて、見えない。だが、その顔が、周りの貴族たちに向けて、微笑んでいるのは、分かった。
馴染んでいた。
あいつは、その場所に、馴染んでいた。
俺の知る、木剣を提げて泥まみれで走っていた少女は、そこには、いなかった。丘の上の庭園で、貴族たちに囲まれ、微笑む、一人の令嬢が、いた。
俺は、境目の上に立ち尽くして、ただ、それを見ていた。
声も、届かない。手も、届かない。この距離を、俺が越えることは、決して、できない。あの庭園の光の中と、俺の立つこの崖の縁とは、同じ陽の下にありながら、まるで、別の世界だった。
「――おい、そこの」
背後から、声がした。
振り返ると、崖の道の、貴族街寄りの側に、数人の男たちがいた。身なりからして、貴族街に出入りする、商人か、使用人か。そのうちの一人が、俺を、胡散臭そうに見ている。
「こんなところで、何をしている。物乞いか」
「……いや」
「見ない顔だな。剣星様の叙勲を、見物にでも来たか。ふん、下々の考えそうなことだ」
叙勲。俺は、その言葉に、思わず顔を上げた。
「剣星が、叙勲を?」
「知らんのか」
男は、少し得意げに、鼻を鳴らした。下層の人間に、自分の知っていることを教える。それが、こういう手合いの、ささやかな優越なのだろう。
「剣星様は、ヴェルドー家のご子息の、許嫁だ。この都市でも指折りの、名門よ。もっとも――剣星様は、庶民の出だからな。そのままでは、名門に嫁ぐには、箔が足りん」
許嫁。
その、二文字が。
俺の中で、うまく、像を結ばなかった。
男は、続けた。
「だから、聖点を一つ、獲るのだそうだ。新たな珠を、切り開き、支配する。その武功で、庶民の血に、箔をつける。それだけの功を立てれば、名門も、文句はあるまい。……剣星様ほどの力があれば、造作もないことだろうがな」
男は、それだけ言うと、興味を失ったように、仲間と連れ立って、去っていった。俺のことなど、もう、路傍の石ほども、気に留めていなかった。
俺は、動けなかった。
崖の際の、境目の上に立ったまま。遠くの庭園で微笑む、黒い髪の女を、見つめたまま。
許嫁。
叙勲。
名門への、輿入れ。
その、箔をつけるための、聖点。
言葉の一つ一つは、聞こえた。意味も、分かる。だが、それが、繋がって、一つの絵になった瞬間――俺の足元の、爪先の幅ほどしかない境界が、ぐらりと、崩れる気がした。
あいつは、もう。
俺の知る、ステラ、じゃない。
いや。あいつは、ステラのままだ。ただ、俺の手の届かない場所に、いる。ずっと前から、いた。俺が、麓の一歩を踏み出して、浮かれているあいだに。あいつは、頂の、そのまた向こうの、雲の上の世界で、名門の許嫁として、微笑んでいた。
俺が、報告しようとしていた、この、ちっぽけな一歩。
見ろ、ステラ。俺の石ころは、すごいものになりかけている。
――そんな言葉が、どれほど、意味を持たないものだったか。
あいつは、聖点を、獲るのだという。名門に嫁ぐための、箔として。俺が、いつか届きたいと見上げた、その頂を。あいつは、俺から、もっと遠い場所へ行くための、ただの踏み台として、越えていく。同じ頂を見ていても、あいつと俺とでは、その意味が、天と地ほど、違った。
俺は、遠くの、その微笑みを、見ていた。あの笑顔は、俺に向けられたものじゃない。あの頃、俺が笑われても笑わずにいてくれた、あの、まっすぐな笑顔とは、違う。あれは、貴族たちに向けた、令嬢の微笑みだ。
届かない。
声も、手も。そして、たぶん、これから、どれだけ俺が力をつけても。あいつが立っている、あの場所には。
どうやって、ねぐらまで帰ったのか、よく、覚えていない。
気づけば、俺は、倉庫の隅の、板張りの床に、座り込んでいた。膝を抱えて。窓の外は、もう、暗かった。
胸の中に、大きな穴が、開いていた。
悲しい、とも、違う。悔しい、とも、少し違う。ただ、ぽっかりと、何かが、抜け落ちていた。二百日以上、俺を支えてきた、あの、漠然とした予感。いつか、あそこまで。その「あそこ」が、どういう場所だったのか、今日、はっきりと、分かってしまった。
あそこは、頂じゃなかった。
頂の、ずっと向こう。俺が、どれだけ力をつけても、庶民である限り、決して踏み込めない、境界の、向こう側だった。
俺は、膝を抱えたまま、長いこと、動かなかった。
……だが。
どれくらい、そうしていただろうか。
俺は、ふと、顔を上げた。
諦める理由なら、今日たっぷり見つけたはずだった。身分の壁。許嫁。叙勲。名門。俺が、逆立ちしても、越えられないもの。諦めるには、これ以上ないほどの、理由が揃っていた。
揃っていた、のに。
俺の中の、あの、始末に負えない性分は。
――まだ、諦める、とは言わなかった。
なぜだ。あれだけの壁を見て。それでも。
俺は、自分の胸に、問いかけた。答えはすぐには出なかった。
だが一つだけ、はっきりしていることがあった。
あいつは聖点を獲る。
名門に嫁ぐための箔として。新たな珠を、切り開いて。
――聖点を。
その言葉が、俺の頭の中で、今日聞いた別の話と繋がった。
ギルドの掲示板。討伐隊の募集。珠地域。そして、いつか、マレナが言っていた。冒険者という稼業が成り立つのは元をたどれば珠地域があるからだ、と。
聖点。
力の、塊。
それを、獲れば。それを、支配すれば。
――何かが、変わるんじゃないか。
俺は、まだその考えの輪郭を掴めずにいた。ただ、胸の穴の、いちばん底で、消えかけていた火が、また、ちりと、小さく爆ぜた気がした。
この日の日記に、俺はたった一行だけ書いた。
『第二百八日。俺は、まだ、諦めていない。理由は、分からない』
――理由が見当たらないから諦めない。
母の口癖と、同じだった。
俺はその一行をしばらく見つめていた。それから、日記を閉じて、目をつむった。
瞼の裏に、遠くの庭園で微笑む黒い髪の女がいた。
届かない。
分かっている。
それでも、と。
俺の、始末に負えない何かが、暗闇の中で静かにそう呟いていた。