家族を病で失い、自らも死を待つ身となった老魔法使いサイラス・マッグドソン。

残された七歳の孫を守るため、彼は自らの寿命を使って守りの魔法を施し、もう一つの遺産を残した。

自分自身の肖像画と、それを嵌め込んだ木の人形。

「何があっても、あの子を守れ」

友との約束を守り、少年を育てる肖像画。

けれど少年は成長するほど、亡き祖父とは正反対の人間になっていく。

これは、絵具と木でできた「誰か」が、自分に心があるのかを考える話。

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初めて小説を書きました。
ご笑覧いただけますと幸いです。


絵具と木でできた祖父の話

 

「私は、あとどれくらい生きる?」

 

聖マンゴ魔法疾患傷害病院の治療師は、答える前に眼鏡を外した。

 

それで、サイラス・マッグドソンはだいたい分かった。

 

「冬まで、というところです」

 

「今年の?」

 

治療師は笑わなかった。

 

窓の外では、箒に跨がった配達人が、五階の窓へ『日刊予言者新聞』を投げ込んでいた。配達人は投げ損ねたらしく、新聞は窓枠にぶつかってひとりでに悪態をつき、そのまま地面へ落ちていった。

 

サイラスはそれを見送ってから、もう一度治療師を見た。

 

「孫には?」

 

「今のところ兆候はありません。ただ、ご家族の例がありますから」

 

妻が死んだ。

 

息子が死んだ。

 

息子の妻も死んだ。

 

最初に妻が高熱を出したとき、サイラスは性質の悪い流行り病だと思っていた。息子まで同じ熱を出したところで、ようやく聖マンゴへ連れてきた。その時にはもう遅かった。

 

魔法は便利だ。

 

折れた骨なら、一晩あれば生える。傷口なら杖の一振りで塞がる。マグルなら一生残るような傷跡でも、腕のいい治療師にかかれば翌朝には探す方が難しい。

 

だからこそ魔法使いは、ときどき病気を侮る。

 

サイラスもそうだった。

 

三人を埋葬したあと、自分にも同じ斑点が出た。

 

孫のノアは七歳だった。

 

「分かった」

 

サイラスは立ち上がった。

 

「お世話になった」

 

「マッグドソンさん」

 

治療師が呼び止めた。

 

「延命を試みることはできます。保証はできませんが——」

 

「いや」

 

サイラスは杖をしまった。

 

「その時間は、ほかに使う」

 

    *

 

最初に作ったのは、守りだった。

 

正確には作ったというより、古い魔法を拾い集め、継ぎ合わせ、無理やり一つにした。

 

家系図を三代遡り、古い呪文学の本を取り寄せ、ゴドリックの谷に住む引退した呪い破りに三度頭を下げた。途中、魔法省から「その術式は人間に使うな」という簡潔な警告状まで届いた。

 

サイラスは暖炉で燃やした。

 

代価は、自分の寿命だった。

 

あと半年生きるところを三か月に。三か月を一か月に。

 

どこまで削れば十分なのか分からなかったので、最後には全部入れた。

 

術式を完成させた晩、眠っているノアの額に杖を当てた。

 

銀色の光が、少年の髪にしみ込むように消えていく。

 

ノアは起きなかった。

 

それでよかった。

 

サイラスはしばらくベッドの脇に座っていた。やせ細った自分の手を、少年の胸に置いた。

 

規則正しい鼓動が返ってきた。

 

「お前は生きろ」

 

それだけ言って部屋を出た。

 

翌朝、杖を持つ手に力が入らなくなった。

 

残りは、長くても数週間。

 

予定どおりだった。

 

二つ目に作ったのは、肖像画だった。

 

こちらは予定どおりにはいかなかった。

 

「似てないな」

 

完成した自分の肖像画を見て、サイラスは言った。

 

『お前より男前だ』

 

絵の中の老人が答えた。

 

サイラスは画家を見た。

 

画家は得意そうに胸を張った。

 

「よく出来ているでしょう」

 

「口が悪い」

 

「そこまで似せられたということです」

 

額縁の中で、もう一人のサイラスが鼻を鳴らした。

 

『俺に言わせれば、こいつの方が口が悪い』

 

「私の顔で喋るな」

 

『お前の顔なんだから仕方ないだろう』

 

そこから三日ほど、二人は喧嘩をした。

 

四日目には、サイラスが茶を飲みながら妻の話をした。

 

五日目には、肖像画の方から息子のことを尋ねた。

 

六日目にはノアの話になった。

 

「朝が弱い。三度呼んでも起きない」

 

『お前もそうだったんじゃないのか』

 

「私は五時には起きる」

 

『嘘をつけ』

 

「なぜ分かる」

 

『お前の話を六日も聞いてる』

 

そうして毎日、二人は話した。

 

肖像画というものがどこまで物を考えるのか、サイラスは知らなかった。

 

普通の魔法肖像画なら、本人の口癖を真似し、好きだった物を好み、生前の人柄をそれらしく再現する。それ以上のものを求めるなら、描かれた本人が教えてやらなければならない。

 

だからサイラスは教えた。

 

自分の生まれた家。

 

父親。

 

母親。

 

ホグワーツで過ごした七年。

 

ハッフルパフに入れられたのが不満だったこと。三年目にはそれなりに気に入ったこと。五年目に天文学の試験で居眠りをしたこと。卒業後、魔法省の小さな部署に勤めたこと。

 

妻と出会った日のこと。

 

息子が生まれた日のこと。

 

妻を埋葬した日のこと。

 

話せば話すほど、額縁の中の男はサイラスに似ていった。

 

ただ、完全には同じにならなかった。

 

『それはお前が悪い』

 

「何が」

 

『息子の結婚式の話だ。お前、嫁の父親と喧嘩しただろう』

 

「向こうが先に言った」

 

『だから殴ったのか』

 

「杖を抜かなかっただけ褒めてほしい」

 

『六十を過ぎた大人の台詞じゃないな』

 

そんなことを言う。

 

ある日、サイラスはふと思った。

 

もし自分が同じ話を聞いていたら、そんな返しをしただろうか。

 

分からなかった。

 

その頃には、肖像画と話すのが一日の中でいちばん楽しい時間になっていた。

 

ノアが寝たあと、暖炉の前に額縁を置く。

 

サイラスは椅子に座る。

 

酒はもう飲めなかったので、薄い紅茶を淹れた。

 

『なあ』

 

「なんだ」

 

『俺は、お前なのか?』

 

唐突だった。

 

サイラスは少し考えた。

 

「違う」

 

『即答か』

 

「私だったら、そんなことは聞かん」

 

肖像画は黙ったあと、笑った。

 

『なるほど』

 

「だが、悪くない」

 

『何が』

 

「友人としては」

 

今度は肖像画の方が長く黙った。

 

『お前、友達いなかったのか』

 

「うるさい」

 

それが二人で笑った最後の夜になった。

 

    *

 

木人形は、サイラスが昔使っていた義手職人に頼んだ。

 

等身大では大げさなので、十二歳ほどの子供と同じ背丈にした。胡桃の木で作られた胴体に、膝、肘、指まで関節があり、いくつもの呪文で人間のように動く。

 

頭の部分には、小さく作り直した肖像画をはめ込んだ。

 

完成品を見たノアは、開口一番、

 

「気味悪い」

 

と言った。

 

『私もそう思う』

 

肖像画も言った。

 

「じいちゃんが二人いる」

 

『訂正しろ。私はあの爺さんではない』

 

「顔同じじゃん」

 

『そこは私も不満だ』

 

サイラスはベッドの上で笑った。

 

もう、一人で歩くことはできなかった。

 

「ノア」

 

「なに?」

 

「少し外へ行ってこい。台所にチョコレート蛙がある」

 

「昨日食べたよ」

 

「もう一つある」

 

七歳児は簡単に買収された。

 

扉が閉まるのを待ってから、サイラスは木人形を呼んだ。

 

ぎこちない足音がして、肖像画がベッドの脇まで来た。

 

『何だ』

 

「頼みがある」

 

『知ってる』

 

「まだ言ってない」

 

『あの子のことだろう』

 

サイラスは息をついた。

 

「そうだ」

 

『嫌だと言ったら?』

 

「困る」

 

『それだけか』

 

「ほかに頼める者がいない」

 

親戚がいないわけではない。

 

だが遠い。ノアに会ったことすらない者もいた。

 

何よりサイラスは、死ぬ間際になってひどく我が儘になっていた。

 

知らない誰かに任せたくなかった。

 

『どう育てろと』

 

「立派な人間に」

 

『一番役に立たない答えだな』

 

「嘘をつくな。人を見下すな。借りた物は返せ。食べ物を粗末にするな」

 

『続けろ』

 

「危ないことをするな」

 

そこで肖像画が笑った。

 

『ずいぶん念を押すな』

 

「命より大事な物なんぞ、そうそうない」

 

『昔のお前なら言わなかったんじゃないか』

 

「昔の私は家族を三人埋めていない」

 

肖像画は黙った。

 

サイラスは天井を見た。

 

「あれは勇敢な子になる」

 

『まだ七歳だぞ』

 

「分かるさ」

 

息子もそうだった。

 

怪我をした猫を見つければ、噛まれても抱いて帰ってきた。箒から落ちた友達を助けようとして自分も落ちた。そういう男だった。

 

ノアはよく似ている。

 

だから怖かった。

 

「あれに、自分の命を安く扱わせるな」

 

『分かった』

 

「約束してくれ」

 

『ああ』

 

「何があっても守れ」

 

肖像画はしばらくサイラスを見ていた。

 

そして、

 

『任せろ、友よ』

 

と言った。

 

三日後、サイラス・マッグドソンは死んだ。

 

    *

 

ノアは棺の前では泣かなかった。

 

葬儀が終わり、客が帰り、夜になってから泣いた。

 

寝室の隅で膝を抱え、声を殺していた。

 

木人形は扉のところに立っていた。

 

どうすればいいのか分からなかった。

 

サイラスなら抱きしめただろうか。

 

おそらくそうした。

 

ならば自分もそうするべきなのか。

 

しばらく考えたあと、木の腕を動かした。

 

ノアが顔を上げた。

 

「……じいちゃん?」

 

『違う』

 

言ってから、間違えたと思った。

 

少年の顔が歪んだ。

 

肖像画は慌てて付け加えた。

 

『だが、ここにはいる』

 

ノアは何も言わなかった。

 

木人形の胴に顔を押しつけた。

 

木には体温がない。

 

背中を撫でても、指は硬い。

 

それでもノアは、眠るまで離れなかった。

 

翌朝から、二人で暮らした。

 

    *

 

育児は、サイラスから聞いていたより面倒だった。

 

朝は本当に起きない。

 

野菜を食べない。

 

靴下を片方だけ無くす。

 

学校へ行く前に泥だらけになる。

 

八歳の春には、近所の子が木から落ちそうになっているのを助けようとして、自分も枝から落ちた。

 

幸い下が柔らかい土だった。

 

『何を考えていた!』

 

「落ちそうだったから」

 

『お前まで落ちたら二人になるだろう!』

 

「でも受け止めた」

 

『そういう問題じゃない!』

 

九歳の夏には川に飛び込んだ。

 

十歳の冬には、暴れた庭小人を追って隣家の煙突へ頭から突っ込んだ。

 

『どうしてお前は、危険なことばかり思いつくんだ』

 

「思いついてないよ。起きるんだよ」

 

ノアは悪びれもしなかった。

 

サイラスの予言は当たった。

 

十一歳の夏、ホグワーツから手紙が来た。

 

厚い羊皮紙の封筒を、ノアは三度読み返した。

 

木人形は横から一度読んだ。

 

『行かなくてもいいぞ』

 

「行くよ」

 

即答だった。

 

『まだ何も言ってない』

 

「絶対行く」

 

『学校というところは危険だ』

 

「じいちゃんも行ったんだろ?」

 

『だから危険だと知っている』

 

九月一日、キングズ・クロス駅。

 

九と四分の三番線に停まった深紅の機関車を前にして、ノアは朝からずっと落ち着かなかった。

 

荷物を積み、梟の籠を載せ、三度忘れ物を確かめた。

 

汽笛が鳴る。

 

「じゃあ行ってくる」

 

『規則を守れ』

 

「うん」

 

『知らない呪文を勝手に使うな』

 

「うん」

 

『決闘するな』

 

「しないよ」

 

『箒から落ちるな』

 

「それは分かんない」

 

『分からなくするな』

 

ノアは笑って列車に乗った。

 

窓から顔を出した。

 

「クリスマスに帰るから!」

 

『手紙を書け!』

 

「分かった!」

 

列車が動き出した。

 

木人形はホームに残った。

 

白い蒸気に隠れて、最後尾が見えなくなるまで立っていた。

 

帰宅したのは昼過ぎだった。

 

扉を開ける。

 

家は静かだった。

 

当たり前のことなのに、少し妙に思えた。

 

翌朝、七時になると二階へ上がった。

 

階段を半分まで行ってから、起こす者がいないことに気づいた。

 

引き返した。

 

次の日には一段目で気づいた。

 

その次の日から、上らなくなった。

 

    *

 

ノアから最初の手紙が来るまで十一日かかった。

 

その間、木人形は庭の手入れをした。

 

とはいえ、生垣は魔法鋏が勝手に刈る。

 

床には掃除用のブラシが走り回っている。

 

料理をする必要もない。

 

木人形は食べない。

 

家の中には、彼がしなければならない仕事が驚くほど少なかった。

 

それまで気づかなかった。

 

ノアの世話が、一日の大半を占めていたのだ。

 

十一日目の夕方、窓を梟が叩いた。

 

木人形は急いで開けた。

 

手紙は三枚あった。

 

組分けはグリフィンドールだった。

 

肖像画は額縁の中で目を閉じた。

 

『よりによって』

 

二枚目には、動く階段で迷ったことが書いてあった。

 

三枚目には、授業でマッチ棒を針に変えたこと、友達が二人できたこと、幽霊が本当に壁を抜けることが書かれていた。

 

最後に、

 

『箒の授業が楽しみです』

 

とあった。

 

返事には箒の危険性を羊皮紙一枚半にわたって書いた。

 

二通目には、飛行訓練で友人が腕を折ったと書いてあった。

 

三通目には、禁止されている森の入口まで行ったと書いてあった。

 

四通目には、

 

『中には入ってません』

 

とわざわざ付け加えられていた。

 

信用できなかった。

 

返事を書くたび、木人形はサイラスなら何と言うか考えた。

 

規則を守れ。

 

危険に近づくな。

 

無茶をするな。

 

生きて帰れ。

 

どれも簡単だった。

 

サイラスなら必ずそう言う。

 

だからそのとおり書いた。

 

何通かやり取りするうち、ある晩、羽根ペンが止まった。

 

ノアの手紙には、

 

『変身術で、今度はちゃんと針ができました』

 

とあった。

 

サイラスなら何と返すだろう。

 

よくやった。

 

授業を真面目に受けろ。

 

おそらく、その辺りだ。

 

それを書けばいい。

 

だが木人形は、しばらく何も書かなかった。

 

やがて、

 

『どんな針だった?』

 

と書いた。

 

銀色か。

 

太いのか。

 

細いのか。

 

初めて成功したとき、嬉しかったか。

 

書きながら、妙な気分になった。

 

どれもノアを守るためには必要のない質問だった。

 

教育にも関係がない。

 

サイラスから頼まれたことでもない。

 

ただ知りたかった。

 

返事が来るまで八日かかった。

 

その八日が、ひどく長かった。

 

肖像画はある夜、サイラスの寝室へ入った。

 

死んだ日から、部屋はほとんど変えていない。

 

眼鏡。

 

古いローブ。

 

止まった懐中時計。

 

引き出しには、ノアが赤ん坊だった頃の魔法写真があった。

 

写真のサイラスは、赤ん坊を抱いて困った顔をしている。

 

ノアが髭を引っ張った。

 

サイラスが顔をしかめる。

 

また引っ張る。

 

今度は笑う。

 

同じ動きが何度も繰り返される。

 

その日の話を、肖像画は知っていた。

 

髭を抜かれるかと思った。

 

痛かった。

 

けれど嬉しかった。

 

サイラスから何度も聞かされた。

 

言葉も、天気も、部屋の様子も知っている。

 

だが写真の中に自分はいなかった。

 

当然だった。

 

自分が描かれたのは、その何年もあとである。

 

木人形は写真を机へ戻した。

 

そのとき、ふと考えた。

 

ノアが卒業したら、自分はどうするのだろう。

 

結婚したら。

 

子を持ったら。

 

年老いたら。

 

死んだら。

 

サイラスはそこまで教えていない。

 

約束はひとつだった。

 

あの子を守れ。

 

では、守る必要がなくなったあとの自分は何なのだろう。

 

その晩は答えが出なかった。

 

次の晩も出なかった。

 

三日目には、考えるのをやめた。

 

答えのないことを考え続けるのは、人間の悪い癖だとサイラスが言っていたからである。

 

それを思い出してから、木人形は少し腹が立った。

 

腹が立ったことが、なぜか少し嬉しかった。

 

    *

 

ノアは毎年帰ってきた。

 

少しずつ背が伸びた。

 

声が変わった。

 

木人形を持ち上げられるようになった。

 

そして、危険なことをする癖だけは治らなかった。

 

二年目には、階段から落ちた一年生を助けようとして自分も転げ落ちた。

 

三年目には、友人のなくした猫を探して夜の校内を歩き回り、罰則を食らった。

 

四年目の夏休み、屋根から落ちた近所の子供を浮遊呪文で受け止め、本人は屋根瓦を頭に食らった。

 

『お前はどうしてそうなんだ』

 

「間に合っただろ」

 

額に包帯を巻いたノアは、台所でパンをかじっていた。

 

『間に合わなかったらどうする』

 

「その時はその時」

 

『その言葉を二度と使うな』

 

声が思ったより強くなった。

 

ノアがパンを置いた。

 

肖像画は気づいていた。

 

自分は怒っている。

 

おそらく。

 

怒っているように振る舞っているだけかもしれない。

 

サイラスなら怒ったはずだから、自分も同じ表情を作り、同じ調子で喋っているだけなのかもしれない。

 

そこを考え始めると、いつも分からなくなる。

 

ノアはしばらく黙っていた。

 

「じいちゃんも、こんなだった?」

 

『もっと酷かった』

 

「じゃあいいじゃん」

 

『よくない。あいつは後悔した』

 

「何を?」

 

『生きているうちに気づかなかったことを、だ』

 

ノアはもう何も言わなかった。

 

    *

 

火事が起きたのは、ノアが十五になった夏だった。

 

夜だった。

 

鐘より先に、窓が赤くなった。

 

木人形が外を見ると、三軒向こうの家から火が出ていた。

 

マグルの一家が住む家だった。

 

屋根まで燃えている。

 

通りへ飛び出した人々が叫んでいる。水を運ぶ者、助けを呼びに走る者、ただ見ている者。

 

ノアは二階から駆け下りてきた。

 

杖を持っていた。

 

『待て』

 

「中に子供がいる!」

 

外から女が泣き叫ぶ声がした。

 

娘がまだ二階にいる。

 

ノアは扉へ向かった。

 

木人形が前に立った。

 

『行くな』

 

「どいて」

 

『魔法省へ知らせた。すぐ来る』

 

「間に合わない」

 

『消防も来る』

 

「間に合わないって!」

 

ノアが横を抜けようとした。

 

木の腕で止めた。

 

十五歳の少年の方が、今では背が高い。

 

それでも木人形は人間よりずっと重かった。

 

「離して」

 

『駄目だ』

 

「中にいるんだぞ」

 

『お前まで死ぬ必要はない』

 

ノアの顔が変わった。

 

これまで何度も聞かせてきた言葉だった。

 

危険に近づくな。

 

無茶をするな。

 

生きて帰れ。

 

サイラスから受け取ったものを、そのまま渡してきた。

 

外で窓ガラスが割れた。

 

炎が吹き出した。

 

ノアが振り返る。

 

二階だった。

 

女の悲鳴が上がった。

 

「じいちゃんなら止める?」

 

突然、ノアが聞いた。

 

『止める』

 

迷わなかった。

 

「絶対?」

 

『絶対だ』

 

「じゃあ、あんたは?」

 

何を聞かれたのか、一瞬分からなかった。

 

「じいちゃんがどうするかじゃなくて」

 

ノアが木人形を見る。

 

「あなたは、どうしたい?」

 

答えはある。

 

止める。

 

サイラスはそう教えた。

 

約束した。

 

何があっても守れ。

 

目の前の少年を、この家から一歩も出さない。それが最も安全で、最も正しく、与えられた役目に忠実な行動だった。

 

なのに、ノアの顔を見ていると、別のことを思った。

 

ここで止めれば、この子はたぶん一生覚えている。

 

炎の向こうに誰かがいたことを。

 

自分なら行けたかもしれないことを。

 

行かなかったことを。

 

サイラスはどうしただろう。

 

分からない。

 

いや、分かっている。

 

止める。

 

では、自分は。

 

『……水を被れ』

 

ノアが目を瞬いた。

 

『ローブにもかけろ。口を布で塞げ。中で煙を吸うな』

 

「行っていいの?」

 

『よくない』

 

木人形は扉を開けた。

 

熱気が入り込んできた。

 

『だから私も行く』

 

「燃えるぞ」

 

『見れば分かる』

 

胡桃材でできている。

 

肖像画は油彩だった。

 

火との相性は最悪である。

 

それでも外へ出た。

 

二人で通りを渡った。

 

家の玄関は炎に塞がれていた。

 

ノアが杖を振る。

 

「アグアメンティ!」

 

水が火へぶつかった。

 

一瞬だけ道が開く。

 

二人で飛び込んだ。

 

中は煙で何も見えなかった。

 

熱で、肖像画の表面が引きつる。

 

木の脚が軋む。

 

『二階だ!』

 

階段の半分が燃えていた。

 

ノアが駆け上がる。

 

木人形も続いた。

 

火の粉が肩へ落ちた。

 

焦げた。

 

痛みはない。

 

けれど壊れていることは分かった。

 

不思議なことに、それが怖かった。

 

自分は火が怖いらしい。

 

サイラスから、そんな話を聞いた覚えはない。

 

踊り場で梁が落ちた。

 

ノアが杖を振るより先に、木人形が押した。

 

少年の体が廊下へ転がる。

 

梁が木人形の左腕に直撃した。

 

肩から先が取れた。

 

床へ落ちた腕が燃え始める。

 

「大丈夫か!」

 

『私を心配するな!』

 

言ってから、少し笑いそうになった。

 

こんな台詞をサイラスが言っただろうか。

 

たぶん言わない。

 

奥の部屋から咳が聞こえた。

 

ノアが扉を蹴った。

 

開かない。

 

杖を向ける。

 

「アロホモラ!」

 

鍵が外れた。

 

中に、小さな女の子がいた。

 

床に伏せている。

 

ノアが抱き上げた。

 

その瞬間、天井が大きく鳴った。

 

『出るぞ!』

 

三人で廊下へ戻った。

 

階段はもう使えなかった。

 

下は炎だった。

 

窓がある。

 

ノアが外を見た。

 

『飛び降りるなよ』

 

「今それ言う?」

 

『お前だから言っている』

 

ノアは少女を抱いたまま、杖を窓へ向けた。

 

ガラスが吹き飛ぶ。

 

外から誰かが叫んでいる。

 

高さは二階。

 

『娘を先に』

 

「分かってる」

 

浮遊呪文。

 

少女の体がゆっくり窓を抜けた。

 

下で大人たちが受け止める。

 

その時、背後で轟音がした。

 

火が廊下を走った。

 

『ノア!』

 

少年を押した。

 

今度は一腕しかない。

 

それでも十分だった。

 

ノアが窓から落ちる。

 

咄嗟に自分へ浮遊呪文をかけたのか、地面の少し手前で速度が落ちた。

 

下から顔を上げる。

 

「来い!」

 

木人形は窓辺へ行った。

 

右脚が動かなかった。

 

火が背中に移っている。

 

額縁の端まで熱が来ていた。

 

飛び降りればいい。

 

そう思った。

 

だが体が動かない。

 

怖かった。

 

絵が燃えれば、自分はどうなる。

 

分からない。

 

肖像画には死があるのだろうか。

 

焼けたら、それで終わりなのだろうか。

 

サイラスが死んだときとは違う。

 

自分には棺も墓もない。

 

木と絵具が灰になるだけかもしれない。

 

「飛べ!」

 

ノアが叫んでいる。

 

肖像画は窓の下を見た。

 

十五歳になった少年が、こちらへ両腕を伸ばしていた。

 

馬鹿な子だと思った。

 

自分よりずっと重い木人形を受け止める気でいる。

 

サイラスなら、間違いなく怒る。

 

肖像画は窓から落ちた。

 

    *

 

目を開けると、天井があった。

 

見慣れた自宅の天井だった。

 

『……生きてるのか』

 

「たぶん」

 

横から声がした。

 

ノアが椅子に座っていた。

 

額に包帯。腕にも包帯。

 

木人形の方はもっと酷かった。

 

左腕がない。

 

右脚も膝から先がない。

 

胴体は黒く焦げ、肖像画の額縁も右端が焼けていた。

 

「肖像画って、生きてるって言うの?」

 

『知らん』

 

「俺も」

 

ノアが笑った。

 

外では、誰かが壊れた窓を魔法で直していた。

 

火事の家の少女は無事だったらしい。

 

魔法省の職員にはひどく叱られた。

 

未成年の魔法使用についても、事情聴取がある。

 

その話を聞いて、肖像画は安心した。

 

叱られる程度で済むなら安いものだ。

 

しばらく二人とも黙っていた。

 

ノアが焦げた木の腕に触れた。

 

「心配した?」

 

『したらしい』

 

「らしい?」

 

『確信がない』

 

ノアは首を傾げた。

 

『私はお前の祖父から、そういうふうに作られた。お前を守れと言われた。危険から遠ざけろとも教えられた。だから、お前が火の中へ入るのを嫌がったのが私自身の考えなのか、あいつから受け取った考えなのか、私には区別がつかない』

 

ノアは黙って聞いていた。

 

『火が怖かったのもそうだ。お前が落ちたときに……』

 

少し言葉を探した。

 

『嫌だと思った』

 

「何が?」

 

『お前が死ぬのが』

 

ノアは何も言わない。

 

『それが命令なのか、約束なのか、愛情なのか。私は知らない』

 

「ふうん」

 

ずいぶん軽い返事だった。

 

肖像画は少し腹が立った。

 

『真面目に話しているんだぞ』

 

「いや、だってさ」

 

ノアは椅子から立った。

 

焦げた木人形の前でしゃがむ。

 

「俺には関係ないから」

 

『何が』

 

「どれなのか」

 

そう言って、残った右腕を持ち上げた。

 

木の腕は、包帯だらけの少年の背中へ回った。

 

ノアも木人形を抱いた。

 

人間を抱くには、相変わらず硬い体だった。

 

温かくもない。

 

それでも十五歳の少年は、七歳の夜と同じように顔を押しつけた。

 

「ありがとう」

 

肖像画は返事をしなかった。

 

何と答えればいいのか分からなかった。

 

ただ、その言葉を聞いて嬉しいと思った。

 

たぶん。

 

しばらくして、ノアが顔を上げた。

 

「ところでさ」

 

『なんだ』

 

「ホグワーツに戻ったら、友達と禁じられた森に——」

 

『絶対に行くな』

 

「まだ最後まで言ってない!」

 

『聞く必要がない!』

 

家の外で、修理中の窓が派手な音を立てて割れた。

 

二人ともそちらを見た。

 

少しして、ノアが吹き出した。

 

肖像画も笑った。

 

それがサイラスから教わった笑い方だったのかどうかは、もう考えなかった。




読んでいただいたどなたかへ。
心の底からの感謝を。

ありがとうございました。

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