残された七歳の孫を守るため、彼は自らの寿命を使って守りの魔法を施し、もう一つの遺産を残した。
自分自身の肖像画と、それを嵌め込んだ木の人形。
「何があっても、あの子を守れ」
友との約束を守り、少年を育てる肖像画。
けれど少年は成長するほど、亡き祖父とは正反対の人間になっていく。
これは、絵具と木でできた「誰か」が、自分に心があるのかを考える話。
ご笑覧いただけますと幸いです。
「私は、あとどれくらい生きる?」
聖マンゴ魔法疾患傷害病院の治療師は、答える前に眼鏡を外した。
それで、サイラス・マッグドソンはだいたい分かった。
「冬まで、というところです」
「今年の?」
治療師は笑わなかった。
窓の外では、箒に跨がった配達人が、五階の窓へ『日刊予言者新聞』を投げ込んでいた。配達人は投げ損ねたらしく、新聞は窓枠にぶつかってひとりでに悪態をつき、そのまま地面へ落ちていった。
サイラスはそれを見送ってから、もう一度治療師を見た。
「孫には?」
「今のところ兆候はありません。ただ、ご家族の例がありますから」
妻が死んだ。
息子が死んだ。
息子の妻も死んだ。
最初に妻が高熱を出したとき、サイラスは性質の悪い流行り病だと思っていた。息子まで同じ熱を出したところで、ようやく聖マンゴへ連れてきた。その時にはもう遅かった。
魔法は便利だ。
折れた骨なら、一晩あれば生える。傷口なら杖の一振りで塞がる。マグルなら一生残るような傷跡でも、腕のいい治療師にかかれば翌朝には探す方が難しい。
だからこそ魔法使いは、ときどき病気を侮る。
サイラスもそうだった。
三人を埋葬したあと、自分にも同じ斑点が出た。
孫のノアは七歳だった。
「分かった」
サイラスは立ち上がった。
「お世話になった」
「マッグドソンさん」
治療師が呼び止めた。
「延命を試みることはできます。保証はできませんが——」
「いや」
サイラスは杖をしまった。
「その時間は、ほかに使う」
*
最初に作ったのは、守りだった。
正確には作ったというより、古い魔法を拾い集め、継ぎ合わせ、無理やり一つにした。
家系図を三代遡り、古い呪文学の本を取り寄せ、ゴドリックの谷に住む引退した呪い破りに三度頭を下げた。途中、魔法省から「その術式は人間に使うな」という簡潔な警告状まで届いた。
サイラスは暖炉で燃やした。
代価は、自分の寿命だった。
あと半年生きるところを三か月に。三か月を一か月に。
どこまで削れば十分なのか分からなかったので、最後には全部入れた。
術式を完成させた晩、眠っているノアの額に杖を当てた。
銀色の光が、少年の髪にしみ込むように消えていく。
ノアは起きなかった。
それでよかった。
サイラスはしばらくベッドの脇に座っていた。やせ細った自分の手を、少年の胸に置いた。
規則正しい鼓動が返ってきた。
「お前は生きろ」
それだけ言って部屋を出た。
翌朝、杖を持つ手に力が入らなくなった。
残りは、長くても数週間。
予定どおりだった。
二つ目に作ったのは、肖像画だった。
こちらは予定どおりにはいかなかった。
「似てないな」
完成した自分の肖像画を見て、サイラスは言った。
『お前より男前だ』
絵の中の老人が答えた。
サイラスは画家を見た。
画家は得意そうに胸を張った。
「よく出来ているでしょう」
「口が悪い」
「そこまで似せられたということです」
額縁の中で、もう一人のサイラスが鼻を鳴らした。
『俺に言わせれば、こいつの方が口が悪い』
「私の顔で喋るな」
『お前の顔なんだから仕方ないだろう』
そこから三日ほど、二人は喧嘩をした。
四日目には、サイラスが茶を飲みながら妻の話をした。
五日目には、肖像画の方から息子のことを尋ねた。
六日目にはノアの話になった。
「朝が弱い。三度呼んでも起きない」
『お前もそうだったんじゃないのか』
「私は五時には起きる」
『嘘をつけ』
「なぜ分かる」
『お前の話を六日も聞いてる』
そうして毎日、二人は話した。
肖像画というものがどこまで物を考えるのか、サイラスは知らなかった。
普通の魔法肖像画なら、本人の口癖を真似し、好きだった物を好み、生前の人柄をそれらしく再現する。それ以上のものを求めるなら、描かれた本人が教えてやらなければならない。
だからサイラスは教えた。
自分の生まれた家。
父親。
母親。
ホグワーツで過ごした七年。
ハッフルパフに入れられたのが不満だったこと。三年目にはそれなりに気に入ったこと。五年目に天文学の試験で居眠りをしたこと。卒業後、魔法省の小さな部署に勤めたこと。
妻と出会った日のこと。
息子が生まれた日のこと。
妻を埋葬した日のこと。
話せば話すほど、額縁の中の男はサイラスに似ていった。
ただ、完全には同じにならなかった。
『それはお前が悪い』
「何が」
『息子の結婚式の話だ。お前、嫁の父親と喧嘩しただろう』
「向こうが先に言った」
『だから殴ったのか』
「杖を抜かなかっただけ褒めてほしい」
『六十を過ぎた大人の台詞じゃないな』
そんなことを言う。
ある日、サイラスはふと思った。
もし自分が同じ話を聞いていたら、そんな返しをしただろうか。
分からなかった。
その頃には、肖像画と話すのが一日の中でいちばん楽しい時間になっていた。
ノアが寝たあと、暖炉の前に額縁を置く。
サイラスは椅子に座る。
酒はもう飲めなかったので、薄い紅茶を淹れた。
『なあ』
「なんだ」
『俺は、お前なのか?』
唐突だった。
サイラスは少し考えた。
「違う」
『即答か』
「私だったら、そんなことは聞かん」
肖像画は黙ったあと、笑った。
『なるほど』
「だが、悪くない」
『何が』
「友人としては」
今度は肖像画の方が長く黙った。
『お前、友達いなかったのか』
「うるさい」
それが二人で笑った最後の夜になった。
*
木人形は、サイラスが昔使っていた義手職人に頼んだ。
等身大では大げさなので、十二歳ほどの子供と同じ背丈にした。胡桃の木で作られた胴体に、膝、肘、指まで関節があり、いくつもの呪文で人間のように動く。
頭の部分には、小さく作り直した肖像画をはめ込んだ。
完成品を見たノアは、開口一番、
「気味悪い」
と言った。
『私もそう思う』
肖像画も言った。
「じいちゃんが二人いる」
『訂正しろ。私はあの爺さんではない』
「顔同じじゃん」
『そこは私も不満だ』
サイラスはベッドの上で笑った。
もう、一人で歩くことはできなかった。
「ノア」
「なに?」
「少し外へ行ってこい。台所にチョコレート蛙がある」
「昨日食べたよ」
「もう一つある」
七歳児は簡単に買収された。
扉が閉まるのを待ってから、サイラスは木人形を呼んだ。
ぎこちない足音がして、肖像画がベッドの脇まで来た。
『何だ』
「頼みがある」
『知ってる』
「まだ言ってない」
『あの子のことだろう』
サイラスは息をついた。
「そうだ」
『嫌だと言ったら?』
「困る」
『それだけか』
「ほかに頼める者がいない」
親戚がいないわけではない。
だが遠い。ノアに会ったことすらない者もいた。
何よりサイラスは、死ぬ間際になってひどく我が儘になっていた。
知らない誰かに任せたくなかった。
『どう育てろと』
「立派な人間に」
『一番役に立たない答えだな』
「嘘をつくな。人を見下すな。借りた物は返せ。食べ物を粗末にするな」
『続けろ』
「危ないことをするな」
そこで肖像画が笑った。
『ずいぶん念を押すな』
「命より大事な物なんぞ、そうそうない」
『昔のお前なら言わなかったんじゃないか』
「昔の私は家族を三人埋めていない」
肖像画は黙った。
サイラスは天井を見た。
「あれは勇敢な子になる」
『まだ七歳だぞ』
「分かるさ」
息子もそうだった。
怪我をした猫を見つければ、噛まれても抱いて帰ってきた。箒から落ちた友達を助けようとして自分も落ちた。そういう男だった。
ノアはよく似ている。
だから怖かった。
「あれに、自分の命を安く扱わせるな」
『分かった』
「約束してくれ」
『ああ』
「何があっても守れ」
肖像画はしばらくサイラスを見ていた。
そして、
『任せろ、友よ』
と言った。
三日後、サイラス・マッグドソンは死んだ。
*
ノアは棺の前では泣かなかった。
葬儀が終わり、客が帰り、夜になってから泣いた。
寝室の隅で膝を抱え、声を殺していた。
木人形は扉のところに立っていた。
どうすればいいのか分からなかった。
サイラスなら抱きしめただろうか。
おそらくそうした。
ならば自分もそうするべきなのか。
しばらく考えたあと、木の腕を動かした。
ノアが顔を上げた。
「……じいちゃん?」
『違う』
言ってから、間違えたと思った。
少年の顔が歪んだ。
肖像画は慌てて付け加えた。
『だが、ここにはいる』
ノアは何も言わなかった。
木人形の胴に顔を押しつけた。
木には体温がない。
背中を撫でても、指は硬い。
それでもノアは、眠るまで離れなかった。
翌朝から、二人で暮らした。
*
育児は、サイラスから聞いていたより面倒だった。
朝は本当に起きない。
野菜を食べない。
靴下を片方だけ無くす。
学校へ行く前に泥だらけになる。
八歳の春には、近所の子が木から落ちそうになっているのを助けようとして、自分も枝から落ちた。
幸い下が柔らかい土だった。
『何を考えていた!』
「落ちそうだったから」
『お前まで落ちたら二人になるだろう!』
「でも受け止めた」
『そういう問題じゃない!』
九歳の夏には川に飛び込んだ。
十歳の冬には、暴れた庭小人を追って隣家の煙突へ頭から突っ込んだ。
『どうしてお前は、危険なことばかり思いつくんだ』
「思いついてないよ。起きるんだよ」
ノアは悪びれもしなかった。
サイラスの予言は当たった。
十一歳の夏、ホグワーツから手紙が来た。
厚い羊皮紙の封筒を、ノアは三度読み返した。
木人形は横から一度読んだ。
『行かなくてもいいぞ』
「行くよ」
即答だった。
『まだ何も言ってない』
「絶対行く」
『学校というところは危険だ』
「じいちゃんも行ったんだろ?」
『だから危険だと知っている』
九月一日、キングズ・クロス駅。
九と四分の三番線に停まった深紅の機関車を前にして、ノアは朝からずっと落ち着かなかった。
荷物を積み、梟の籠を載せ、三度忘れ物を確かめた。
汽笛が鳴る。
「じゃあ行ってくる」
『規則を守れ』
「うん」
『知らない呪文を勝手に使うな』
「うん」
『決闘するな』
「しないよ」
『箒から落ちるな』
「それは分かんない」
『分からなくするな』
ノアは笑って列車に乗った。
窓から顔を出した。
「クリスマスに帰るから!」
『手紙を書け!』
「分かった!」
列車が動き出した。
木人形はホームに残った。
白い蒸気に隠れて、最後尾が見えなくなるまで立っていた。
帰宅したのは昼過ぎだった。
扉を開ける。
家は静かだった。
当たり前のことなのに、少し妙に思えた。
翌朝、七時になると二階へ上がった。
階段を半分まで行ってから、起こす者がいないことに気づいた。
引き返した。
次の日には一段目で気づいた。
その次の日から、上らなくなった。
*
ノアから最初の手紙が来るまで十一日かかった。
その間、木人形は庭の手入れをした。
とはいえ、生垣は魔法鋏が勝手に刈る。
床には掃除用のブラシが走り回っている。
料理をする必要もない。
木人形は食べない。
家の中には、彼がしなければならない仕事が驚くほど少なかった。
それまで気づかなかった。
ノアの世話が、一日の大半を占めていたのだ。
十一日目の夕方、窓を梟が叩いた。
木人形は急いで開けた。
手紙は三枚あった。
組分けはグリフィンドールだった。
肖像画は額縁の中で目を閉じた。
『よりによって』
二枚目には、動く階段で迷ったことが書いてあった。
三枚目には、授業でマッチ棒を針に変えたこと、友達が二人できたこと、幽霊が本当に壁を抜けることが書かれていた。
最後に、
『箒の授業が楽しみです』
とあった。
返事には箒の危険性を羊皮紙一枚半にわたって書いた。
二通目には、飛行訓練で友人が腕を折ったと書いてあった。
三通目には、禁止されている森の入口まで行ったと書いてあった。
四通目には、
『中には入ってません』
とわざわざ付け加えられていた。
信用できなかった。
返事を書くたび、木人形はサイラスなら何と言うか考えた。
規則を守れ。
危険に近づくな。
無茶をするな。
生きて帰れ。
どれも簡単だった。
サイラスなら必ずそう言う。
だからそのとおり書いた。
何通かやり取りするうち、ある晩、羽根ペンが止まった。
ノアの手紙には、
『変身術で、今度はちゃんと針ができました』
とあった。
サイラスなら何と返すだろう。
よくやった。
授業を真面目に受けろ。
おそらく、その辺りだ。
それを書けばいい。
だが木人形は、しばらく何も書かなかった。
やがて、
『どんな針だった?』
と書いた。
銀色か。
太いのか。
細いのか。
初めて成功したとき、嬉しかったか。
書きながら、妙な気分になった。
どれもノアを守るためには必要のない質問だった。
教育にも関係がない。
サイラスから頼まれたことでもない。
ただ知りたかった。
返事が来るまで八日かかった。
その八日が、ひどく長かった。
肖像画はある夜、サイラスの寝室へ入った。
死んだ日から、部屋はほとんど変えていない。
眼鏡。
古いローブ。
止まった懐中時計。
引き出しには、ノアが赤ん坊だった頃の魔法写真があった。
写真のサイラスは、赤ん坊を抱いて困った顔をしている。
ノアが髭を引っ張った。
サイラスが顔をしかめる。
また引っ張る。
今度は笑う。
同じ動きが何度も繰り返される。
その日の話を、肖像画は知っていた。
髭を抜かれるかと思った。
痛かった。
けれど嬉しかった。
サイラスから何度も聞かされた。
言葉も、天気も、部屋の様子も知っている。
だが写真の中に自分はいなかった。
当然だった。
自分が描かれたのは、その何年もあとである。
木人形は写真を机へ戻した。
そのとき、ふと考えた。
ノアが卒業したら、自分はどうするのだろう。
結婚したら。
子を持ったら。
年老いたら。
死んだら。
サイラスはそこまで教えていない。
約束はひとつだった。
あの子を守れ。
では、守る必要がなくなったあとの自分は何なのだろう。
その晩は答えが出なかった。
次の晩も出なかった。
三日目には、考えるのをやめた。
答えのないことを考え続けるのは、人間の悪い癖だとサイラスが言っていたからである。
それを思い出してから、木人形は少し腹が立った。
腹が立ったことが、なぜか少し嬉しかった。
*
ノアは毎年帰ってきた。
少しずつ背が伸びた。
声が変わった。
木人形を持ち上げられるようになった。
そして、危険なことをする癖だけは治らなかった。
二年目には、階段から落ちた一年生を助けようとして自分も転げ落ちた。
三年目には、友人のなくした猫を探して夜の校内を歩き回り、罰則を食らった。
四年目の夏休み、屋根から落ちた近所の子供を浮遊呪文で受け止め、本人は屋根瓦を頭に食らった。
『お前はどうしてそうなんだ』
「間に合っただろ」
額に包帯を巻いたノアは、台所でパンをかじっていた。
『間に合わなかったらどうする』
「その時はその時」
『その言葉を二度と使うな』
声が思ったより強くなった。
ノアがパンを置いた。
肖像画は気づいていた。
自分は怒っている。
おそらく。
怒っているように振る舞っているだけかもしれない。
サイラスなら怒ったはずだから、自分も同じ表情を作り、同じ調子で喋っているだけなのかもしれない。
そこを考え始めると、いつも分からなくなる。
ノアはしばらく黙っていた。
「じいちゃんも、こんなだった?」
『もっと酷かった』
「じゃあいいじゃん」
『よくない。あいつは後悔した』
「何を?」
『生きているうちに気づかなかったことを、だ』
ノアはもう何も言わなかった。
*
火事が起きたのは、ノアが十五になった夏だった。
夜だった。
鐘より先に、窓が赤くなった。
木人形が外を見ると、三軒向こうの家から火が出ていた。
マグルの一家が住む家だった。
屋根まで燃えている。
通りへ飛び出した人々が叫んでいる。水を運ぶ者、助けを呼びに走る者、ただ見ている者。
ノアは二階から駆け下りてきた。
杖を持っていた。
『待て』
「中に子供がいる!」
外から女が泣き叫ぶ声がした。
娘がまだ二階にいる。
ノアは扉へ向かった。
木人形が前に立った。
『行くな』
「どいて」
『魔法省へ知らせた。すぐ来る』
「間に合わない」
『消防も来る』
「間に合わないって!」
ノアが横を抜けようとした。
木の腕で止めた。
十五歳の少年の方が、今では背が高い。
それでも木人形は人間よりずっと重かった。
「離して」
『駄目だ』
「中にいるんだぞ」
『お前まで死ぬ必要はない』
ノアの顔が変わった。
これまで何度も聞かせてきた言葉だった。
危険に近づくな。
無茶をするな。
生きて帰れ。
サイラスから受け取ったものを、そのまま渡してきた。
外で窓ガラスが割れた。
炎が吹き出した。
ノアが振り返る。
二階だった。
女の悲鳴が上がった。
「じいちゃんなら止める?」
突然、ノアが聞いた。
『止める』
迷わなかった。
「絶対?」
『絶対だ』
「じゃあ、あんたは?」
何を聞かれたのか、一瞬分からなかった。
「じいちゃんがどうするかじゃなくて」
ノアが木人形を見る。
「あなたは、どうしたい?」
答えはある。
止める。
サイラスはそう教えた。
約束した。
何があっても守れ。
目の前の少年を、この家から一歩も出さない。それが最も安全で、最も正しく、与えられた役目に忠実な行動だった。
なのに、ノアの顔を見ていると、別のことを思った。
ここで止めれば、この子はたぶん一生覚えている。
炎の向こうに誰かがいたことを。
自分なら行けたかもしれないことを。
行かなかったことを。
サイラスはどうしただろう。
分からない。
いや、分かっている。
止める。
では、自分は。
『……水を被れ』
ノアが目を瞬いた。
『ローブにもかけろ。口を布で塞げ。中で煙を吸うな』
「行っていいの?」
『よくない』
木人形は扉を開けた。
熱気が入り込んできた。
『だから私も行く』
「燃えるぞ」
『見れば分かる』
胡桃材でできている。
肖像画は油彩だった。
火との相性は最悪である。
それでも外へ出た。
二人で通りを渡った。
家の玄関は炎に塞がれていた。
ノアが杖を振る。
「アグアメンティ!」
水が火へぶつかった。
一瞬だけ道が開く。
二人で飛び込んだ。
中は煙で何も見えなかった。
熱で、肖像画の表面が引きつる。
木の脚が軋む。
『二階だ!』
階段の半分が燃えていた。
ノアが駆け上がる。
木人形も続いた。
火の粉が肩へ落ちた。
焦げた。
痛みはない。
けれど壊れていることは分かった。
不思議なことに、それが怖かった。
自分は火が怖いらしい。
サイラスから、そんな話を聞いた覚えはない。
踊り場で梁が落ちた。
ノアが杖を振るより先に、木人形が押した。
少年の体が廊下へ転がる。
梁が木人形の左腕に直撃した。
肩から先が取れた。
床へ落ちた腕が燃え始める。
「大丈夫か!」
『私を心配するな!』
言ってから、少し笑いそうになった。
こんな台詞をサイラスが言っただろうか。
たぶん言わない。
奥の部屋から咳が聞こえた。
ノアが扉を蹴った。
開かない。
杖を向ける。
「アロホモラ!」
鍵が外れた。
中に、小さな女の子がいた。
床に伏せている。
ノアが抱き上げた。
その瞬間、天井が大きく鳴った。
『出るぞ!』
三人で廊下へ戻った。
階段はもう使えなかった。
下は炎だった。
窓がある。
ノアが外を見た。
『飛び降りるなよ』
「今それ言う?」
『お前だから言っている』
ノアは少女を抱いたまま、杖を窓へ向けた。
ガラスが吹き飛ぶ。
外から誰かが叫んでいる。
高さは二階。
『娘を先に』
「分かってる」
浮遊呪文。
少女の体がゆっくり窓を抜けた。
下で大人たちが受け止める。
その時、背後で轟音がした。
火が廊下を走った。
『ノア!』
少年を押した。
今度は一腕しかない。
それでも十分だった。
ノアが窓から落ちる。
咄嗟に自分へ浮遊呪文をかけたのか、地面の少し手前で速度が落ちた。
下から顔を上げる。
「来い!」
木人形は窓辺へ行った。
右脚が動かなかった。
火が背中に移っている。
額縁の端まで熱が来ていた。
飛び降りればいい。
そう思った。
だが体が動かない。
怖かった。
絵が燃えれば、自分はどうなる。
分からない。
肖像画には死があるのだろうか。
焼けたら、それで終わりなのだろうか。
サイラスが死んだときとは違う。
自分には棺も墓もない。
木と絵具が灰になるだけかもしれない。
「飛べ!」
ノアが叫んでいる。
肖像画は窓の下を見た。
十五歳になった少年が、こちらへ両腕を伸ばしていた。
馬鹿な子だと思った。
自分よりずっと重い木人形を受け止める気でいる。
サイラスなら、間違いなく怒る。
肖像画は窓から落ちた。
*
目を開けると、天井があった。
見慣れた自宅の天井だった。
『……生きてるのか』
「たぶん」
横から声がした。
ノアが椅子に座っていた。
額に包帯。腕にも包帯。
木人形の方はもっと酷かった。
左腕がない。
右脚も膝から先がない。
胴体は黒く焦げ、肖像画の額縁も右端が焼けていた。
「肖像画って、生きてるって言うの?」
『知らん』
「俺も」
ノアが笑った。
外では、誰かが壊れた窓を魔法で直していた。
火事の家の少女は無事だったらしい。
魔法省の職員にはひどく叱られた。
未成年の魔法使用についても、事情聴取がある。
その話を聞いて、肖像画は安心した。
叱られる程度で済むなら安いものだ。
しばらく二人とも黙っていた。
ノアが焦げた木の腕に触れた。
「心配した?」
『したらしい』
「らしい?」
『確信がない』
ノアは首を傾げた。
『私はお前の祖父から、そういうふうに作られた。お前を守れと言われた。危険から遠ざけろとも教えられた。だから、お前が火の中へ入るのを嫌がったのが私自身の考えなのか、あいつから受け取った考えなのか、私には区別がつかない』
ノアは黙って聞いていた。
『火が怖かったのもそうだ。お前が落ちたときに……』
少し言葉を探した。
『嫌だと思った』
「何が?」
『お前が死ぬのが』
ノアは何も言わない。
『それが命令なのか、約束なのか、愛情なのか。私は知らない』
「ふうん」
ずいぶん軽い返事だった。
肖像画は少し腹が立った。
『真面目に話しているんだぞ』
「いや、だってさ」
ノアは椅子から立った。
焦げた木人形の前でしゃがむ。
「俺には関係ないから」
『何が』
「どれなのか」
そう言って、残った右腕を持ち上げた。
木の腕は、包帯だらけの少年の背中へ回った。
ノアも木人形を抱いた。
人間を抱くには、相変わらず硬い体だった。
温かくもない。
それでも十五歳の少年は、七歳の夜と同じように顔を押しつけた。
「ありがとう」
肖像画は返事をしなかった。
何と答えればいいのか分からなかった。
ただ、その言葉を聞いて嬉しいと思った。
たぶん。
しばらくして、ノアが顔を上げた。
「ところでさ」
『なんだ』
「ホグワーツに戻ったら、友達と禁じられた森に——」
『絶対に行くな』
「まだ最後まで言ってない!」
『聞く必要がない!』
家の外で、修理中の窓が派手な音を立てて割れた。
二人ともそちらを見た。
少しして、ノアが吹き出した。
肖像画も笑った。
それがサイラスから教わった笑い方だったのかどうかは、もう考えなかった。
読んでいただいたどなたかへ。
心の底からの感謝を。
ありがとうございました。