ご笑覧いただけると幸いです。
※ 斎藤くんの生死は明らかにされていないと思うので、生きてたことにしました。独自解釈です。
「吸っていいよ」
口に出してから、もうちょっと言い方があったなと思った。
雨の路地裏。制服姿の女子中学生。血まみれ。そこへ同じ制服を着た男子中学生が追いかけてきて、自分の腕を差し出しながら「吸っていいよ」。
事案である。
いや、もう事案は起きてるんだけど。
「…………え?」
渡我さんが僕を見た。
いつもより瞳孔が開いている気がする。気のせいかもしれない。頬にも制服にも血がついていて、口元は特にひどかった。雨で薄まった赤が、顎からぽたぽた落ちている。
たぶん斎藤くんの血だ。
僕のじゃない。
「斎藤くんは生きてる。先生が見つけた。救急も呼ばれてるし、意識もあった」
「……ほんと?」
「ほんと」
「死んでない?」
「死んでないよ」
僕がもう一度頷くと、渡我さんはその場にへたり込んだ。
笑っていた。泣いてもいた。器用だな、と思ったあとで、こういうときにそんな感想しか出てこない自分の方がおかしいのかもしれないと思い直した。
「よかったぁ……」
両手で顔を覆ったまま、渡我さんは何度も同じ言葉を繰り返した。
「よかった。よかったぁ……私、殺しちゃったかと思ったぁ……」
声が震えている。
僕は何も言わなかった。
ここで「大丈夫だよ」と言うのは違う。
全然大丈夫じゃない。
同級生を刃物で刺した。その血を飲んだ。本人もそれが分かっているから逃げた。学校から、家から、人の多い道からひたすら走って、こんなところまで来た。
そして僕も追いかけてきた。
正直、運動部でもない僕に全力疾走をさせないでほしい。さっきから肺が痛い。
「……安守くん」
「うん」
「なんで来たの?」
「渡我さんが逃げたから」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
分かっているけれど、ちょっと時間が欲しかった。
僕は彼女の前にしゃがんだ。近くで見ると本当にひどい顔だった。雨で髪はぐちゃぐちゃだし、涙も鼻水も出ている。そこに血まで混じっている。
学校で見る渡我被身子とは全然違った。
いつも笑っていた。誰にでも愛想がよくて、男子にも女子にも普通に混ざって、先生の話にはちゃんと頷く。
明るくて、ちょっと変わったところもあるけれど、まあ普通の女の子。
たぶん、みんなはそう思っていた。
僕も最初はそうだった。
渡我さんの個性は『変身』。
血液を摂取した相手の姿になれる。
そこまでは別に秘密でもなんでもない。
血を使う個性自体、世の中にはいくらでもある。自分の血を武器にする人もいれば、血液の成分を利用する人もいる。だから「血を飲んで変身する」と聞いても、昔の僕はそういう仕組みの個性なんだな、くらいにしか考えていなかった。
気になり始めたのは二年のときだったと思う。
理科の実験中、クラスの男子が指を切った。
ほんの小さな傷だった。
そいつが「いてっ」と声を上げて、隣の子が笑って、先生が保健室に行ってこいと言った。
みんな、それで終わった。
渡我さんだけが、その指を見ていた。
怖がっているわけじゃない。心配しているようにも見えなかった。ただ、じっと見ていた。それから口元を手で押さえた。
ほんの一瞬だった。
たぶん僕以外は誰も気づいていない。
次の日から少し気にするようになった。すると、いろいろ見えてきた。
誰かが怪我をすると、むしろ距離を取る。
鼻血を出した子がいると教室からいなくなる。
保健室へ怪我人を運ぶのを手伝って、と頼まれたときだけ妙に慌てる。
蚊を潰したあとの掌を見て顔を背けたこともあった。
そして、その直後にはいつも笑っている。
いつもの渡我さんに戻る。
ああ、この子は何かを我慢してるんだな。
そう思った。
そこで僕はようやく、ずっと順番を逆に考えていたんじゃないかと思い始めた。
血を飲むから変身できる。
だから血液が必要になる。
そういう個性だと思っていた。
でも、もしかしたら違う。
変身するために血を飲むんじゃなくて、血を欲しがるところまで含めて、渡我被身子の個性なんじゃないか。
考え始めたら気になった。
だから調べた。
個性と嗜好の関連性。
個性カウンセリング。
個性由来の衝動。
食欲や睡眠欲みたいな生理的欲求と個性が結びついた例。
攻撃衝動。
依存。
父さんの書斎から専門書や判例集まで借りた。勝手に持っていったら怒られたので、その後はちゃんと借りるようにした。
それなりに調べて、中学生なりに思った。
この国、こういう個性の人への対応、わりと雑じゃない?
我慢しましょう。
普通に合わせましょう。
欲求を別のものに置き換えましょう。
だいたいこの辺。
いや、それができないから困ってるんじゃないの。
しかも渡我さんは、それを実際に何年もやっていた。
誰かに言われたのか、自分で決めたのかまでは知らない。
とにかく血を欲しがっていることを見せないようにして、笑って、普通に喋って、普通の女の子として学校へ来ていた。
そして今日、とうとう破裂した。
「渡我さん」
「……なに」
「血が欲しかったんだよね」
肩が大きく揺れた。
「ちが……」
「うん」
「違うの。私、そんな、別に……」
「うん」
「普通なの」
「うん」
「私、ちゃんと普通にしてたの」
「知ってる」
顔を上げた渡我さんを見て、今のはまずかったなと思った。
案の定、表情が消えた。
「……知ってたの?」
「全部じゃないよ」
「いつから?」
「気になり始めたのは二年くらい前」
「二年」
「うん」
「ずっと?」
「まあ」
「ずっと、見てたの?」
言い方。
「ストーカーではないよ」
「…………」
「ごめん。今のなし」
こういうところで軽口が出るのは僕の悪い癖だ。
父さんにもよく言われる。
法廷でやったら殴るぞ、と。
法廷に立つ予定はない。
「気持ち悪かった?」
渡我さんがぽつりと言った。
「何が?」
「私」
「いや」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「だって血だよ?」
「血だね」
「飲みたいって思うんだよ?」
「うん」
「好きな人になると、その人の血が欲しくなるの。いっぱい欲しくなる。血まみれの人を見ると、すっごく可愛いって思うの。私もそうなりたいって思うの」
「うん」
「おかしいでしょ」
僕は少し考えた。
たぶん、この辺りが人生の分岐点だったと思う。
もう少し普通の答えをしていれば、後々あんなに苦労しなかった。
「困るね」
「…………は?」
「いや、だって他人の血は勝手に飲めないから。困るでしょ」
「そうじゃなくて!」
初めて大きな声が出た。
「気持ち悪いでしょ!?」
雨音の中に声が響いた。
僕は渡我さんを見た。
気持ち悪いか。
うーん。
僕は、彼女が血を飲みたいこと自体より、何年もそれを隠して笑っていたことの方がよほど怖かった。
人間、そんなに我慢できるものなのか。
僕なら無理だ。好きな食べ物を二年間食べるなと言われただけで性格が終わる自信がある。
まして渡我さんの場合、もっと深いところにある。
個性とくっついて、生まれたときからそこにあるものかもしれない。
それを「駄目です」「おかしいです」「普通になりなさい」で押し込め続けた。
今日の事件が許されるわけじゃない。
でも、今日だけ切り取って、
ほら、やっぱりこの子はおかしかったでしょう。
で終わらせるのも、ずいぶん雑な話だと思う。
「僕は、気持ち悪くない」
「……なんで」
「渡我さんがそう思いたくて思ってるわけじゃないから」
「でも刺したよ」
「それは駄目」
はっきり言った。
渡我さんが息を止めた。
「斎藤くんを刺したのは駄目。そこは分けよう。血が欲しいのと、人を刺していいのは別の話」
「じゃあやっぱり私……」
「だから」
僕は鞄を漁った。
ハンカチ、筆箱、折り畳み傘、財布。
それから、父さんに「お前は妙なところで怪我をするから持っとけ」と渡されている小さな救急セット。
中から消毒液とガーゼ、それからカッターナイフを取り出した。
渡我さんが目を丸くした。
「何してるの」
「実験」
「は?」
カッターを左腕に当てた。
普通に怖い。
僕、痛いの嫌いだし。
だから浅く、ほんの少しだけ刃を滑らせる。
細い赤い線が浮いた。
「あ」
渡我さんの目がそこへ向いた。
ほんの一瞬、呼吸が止まったように見えた。
やっぱり反応する。
そう思った。
僕は腕を差し出した。
「吸っていいよ」
「…………」
「僕が許可してる。これなら誰も刺さなくていい」
渡我さんは僕の腕を見た。
僕の顔を見た。
また腕を見る。
飲むと思った。
だから、続けた。
「とりあえず今はこれで落ち着くか確認して、そのあと必要な量とか頻度とか——」
「いらないです」
「うん。だから量は……え?」
「いらない」
今度ははっきり言った。
僕は腕を見た。
血は出ている。
「でも」
「安守くんの血、いらないです」
「…………」
予想外だった。
相当。
「血、欲しいんじゃないの?」
「欲しいですよ」
「じゃあ」
「斎藤くんのが欲しいです」
雨が降っている。
僕の腕からも血が出ている。
渡我さんはそれを見ている。
でも、飲もうとはしない。
「……なんで?」
聞いてから、さっき本人が答えを言っていたことを思い出した。
渡我さんは少し不思議そうに首を傾げた。
「だって私、安守くんのこと好きじゃないですもん」
刺さった。
カッターより普通に刺さった。
「そっか」
「はい」
「なるほど」
「傷つきました?」
「ちょっと」
渡我さんが、ほんの少しだけ笑った。
今日初めて、学校で見ていたのとは違う笑い方だった。
僕はガーゼを傷口に押しつけながら考えた。
仮説が外れた。
血ならいいわけじゃない。
少なくとも渡我さんにとっては。
好きな人の血が欲しい。
好きな人みたいになりたい。
血液と、個性と、好意が全部くっついている。
血液を定期的に渡せば終了、ではないらしい。
思っていたより面倒だ。
でも。
面倒だということが分かった。
それは前進だ。
「私を……治すんですか?」
渡我さんが聞いた。
「治す?」
「血が好きなの」
僕はガーゼを腕に巻きながら首を傾げた。
「それって治るの?」
「分かんないです」
「僕も分からない」
少なくとも僕が読んだ資料には、根本的に消せるとは書いていなかった。
そもそも、消す必要があるものなのかも分からない。
人を傷つけずに済む方法があるなら。
好きな人の血が欲しくなる人が、誰も刺さずにそれを手に入れられるなら。
困っている部分だけ何とかすればいい。
そう思っていた。
けれど、今ひとつ問題が増えた。
血を用意すればいいだけじゃない。
「好き」が絡んでいる。
だったら、そこも含めて考えなきゃいけない。
「治らないなら、困らない方法を作ればいい」
そう言うと、渡我さんは変な顔をした。
泣きそうでも、笑いそうでもあった。
「そんなの、できます?」
「分からない」
「分からないんですか」
「今、一個失敗したし」
僕は包帯を巻いた左腕を持ち上げた。
「無駄に切った」
「馬鹿ですね」
「二回目だね、それ」
「だって馬鹿ですもん」
少しだけ、いつもの調子に戻ってきた。
それでいい。
僕はこのとき、まだ何も分かっていなかった。
これから父さんと大喧嘩することも、行政の書類が死ぬほど面倒なことも、血液の保存が想像以上に難しいことも、好意と個性をどう扱うかで頭を抱えることも。
高校でサポート科に入って毎日のように爆発に巻き込まれることも。
渡我さんが、僕の想像の十倍くらい面倒な女の子だということも。
何一つ。
ただ、目の前で泣いている女の子が、このまま走っていけば、たぶん戻ってこられなくなる。
それだけは分かった。
ヒーローに追われるようになる。
ヴィランと呼ばれる。
何かやるたびに罪が増えて、いつか「渡我被身子」という人間より「ヴィラン・トガ」の方が大きくなる。
そうなったら、たぶん誰もこの子に「どうして血が欲しかったの」とは聞かなくなる。
それは嫌だった。
「渡我さん」
「なんです?」
「君をヴィランにはしない」
「……なんで」
「僕が嫌だから」
「なんで安守くんが嫌なんです?」
そこは、まだ上手く説明できなかった。
好きだから、と言ってしまえば簡単だった。
たぶん僕は渡我さんのことが好きだった。
まあ、向こうは僕の血はいらないらしいけど。
今それはいい。
僕は二年間、彼女が笑いながら何かを押し殺しているのを見ていた。
見ていただけだった。
今日、とうとう壊れた。
だったらここから先くらい、何かしてもいいだろう。
「とりあえず父さんに電話する」
「えっ」
僕はスマートフォンを取り出した。
「弁護士だから」
「待って」
「大丈夫。口は堅い」
「待って待って待って」
「あと怖いけど話は通じる」
「そうじゃなくて!」
電話帳から父さんを選ぶ。
三コールで出た。
『どうした』
「父さん」
『おう』
「未成年者が個性由来の衝動で傷害事件を起こした場合、ヴィラン事件として扱われる前に、医療とか保護とか、そっちの扱いに持っていく方法ってある?」
沈黙。
『……穏』
「うん」
『今どこにいる』
さすが父さん。
話が早い。
「駅裏の路地」
『一人か』
僕は渡我さんを見た。
さっきまでよりは落ち着いている。
ただ、口元にはまだ斎藤くんの血が残っていた。
「二人」
『警察には』
「まだ」
『被害者は』
「救急搬送。意識あり」
また沈黙。
今度は長かった。
『そこを動くな』
「分かった」
『あと穏』
「なに?」
『変なことするなよ』
僕は左腕を見た。
「…………」
『おい』
「早く来て」
『もうやってるな!?』
電話を切った。
渡我さんが僕を見ていた。
「怒られるんじゃないですか?」
「たぶん」
「怖い人?」
「怒ると」
「じゃあ逃げます?」
「それやると話が余計に面倒になるからやめよう」
スマートフォンをしまう。
少しして、渡我さんが僕の腕を見た。
「痛いです?」
「まあまあ」
「ごめんなさい」
「なんで渡我さんが謝るの」
「私のせいで切ったから」
「勝手にやったの僕だよ」
「ほんとに馬鹿ですね」
三回目。
僕はため息をついた。
それから、ひとつ確認したくなった。
「渡我さん」
「はい」
「好きな人の血なら欲しくなるんだよね」
「はい」
「好きじゃなくなったら?」
「分かんないです」
「好きな人が何人もいたら?」
「分かんないです」
「好きの程度で欲しい量は変わる?」
「分かんないです!」
怒られた。
「ごめん」
「今聞きます?」
「気になって」
渡我さんは頬を膨らませた。
それを見て思った。
なるほど。
血を用意するだけじゃ足りない。
この子自身を知らないと、何も作れないらしい。
それなら。
まずは聞くところから始めよう。
お読みいただきありがとうございます。
感想などいただけますと狂喜乱舞します。