父さんが来たのは、電話を切ってから十分も経っていなかった。
雨の向こうから見慣れた車が曲がってきて、路地の入口でかなり雑に止まった。運転席の扉が開く。
「穏」
名前を呼ばれただけで怒っているのが分かった。
「早かったね」
「腕を見せろ」
挨拶はなかった。
父さんは僕のところまで来ると、渡我さんを見るより先に左腕を掴んだ。自分で巻いたガーゼは雨を吸って、あまり意味のない状態になっている。
「これ、あの子にやられたのか」
「違うよ。自分で切った」
父さんが止まった。
「何で」
「血を飲めば落ち着くのか試そうと思って」
「馬鹿なのか?」
本日四回目。
「渡我さんにも言われた」
「そりゃ言われるわ」
父さんは深く息を吐いてから、ようやく渡我さんを見た。
電話では、僕はほとんど何も説明していない。
未成年が傷害事件を起こした。個性由来かもしれない。僕はその本人と一緒にいる。被害者は救急車で運ばれたけれど、学校を出た時点では意識があった。
それだけだ。
だから父さんは、目の前にいる女の子の名前も知らない。
「同じクラスの渡我被身子さん」
僕が言うと、父さんは小さく頷いた。
「渡我さん。安守の父です」
「……はい」
「今、刃物とか、人を傷つけられるものは持ってる?」
渡我さんの肩が少し強張った。
僕が何か言おうとすると、父さんの手がこっちを制した。
渡我さんはしばらく黙ってから、首を振った。
「持ってないです」
「分かった。ポケットから手を出したままにしてくれる?」
「はい」
声は小さかったけれど、渡我さんは素直に両手を見せた。
父さんはそこでスマートフォンを取り出した。
「何するの?」
「警察に現在地を伝える」
渡我さんが顔を上げた。
「警察……」
「学校から通報はされてるんだろ?」
これは僕への質問だった。
「たぶん。僕が追いかける前に先生たちが来てたから」
「たぶんじゃ分からん」
その通りだった。
僕は斎藤くんが先生に発見されて、救急車を呼ぶ声までは聞いている。でも、そのあと学校が警察へいつ連絡したのかまでは知らない。
父さんはその場で一一〇番した。
自分の名前を名乗って、未成年の息子から連絡を受けて現場へ来たこと、傷害事件を起こしたと思われる同級生の少女が一緒にいること、現在地を伝える。
電話を切るまで、渡我さんはじっと地面を見ていた。
「父さん」
「何だ」
「渡我さん逃げないよ」
「だから警察を呼ばなくていい、にはならん」
「そうじゃないけど」
「穏」
低い声だった。
「お前は一回黙れ」
久しぶりに本気で怒られている。
僕は黙った。
父さんは渡我さんの方を向いた。
「警察が来るまでここにいよう。寒いだろうけど、もう少し我慢してくれる?」
「……はい」
「怪我は?」
渡我さんは少し考えて、また首を振った。
「私のはないです」
私のは。
父さんもそこには気づいたらしい。でも何も聞かなかった。
渡我さんが僕を見る。
「斎藤くん、本当に生きてます?」
「僕が学校を出たときは意識あったよ。先生も救急の人と話してた」
父さんがこちらを見る。
「斎藤っていうのが被害者か?」
「うん。同じクラス」
父さんが斎藤くんの名前を知ったのは、このときが初めてだった。
「それ以上は?」
「知らない」
「なら、生きてると断言するな。お前が見聞きしたのはそこまでだ」
きつい言い方だった。
でも正しい。
渡我さんの顔がまた不安そうになる。
「ただ」
父さんが続けた。
「穏が学校を出た時点では意識があった。それは今、こいつが言えることだ。あとのことは病院から確認が取れるまで分からない」
渡我さんはゆっくり頷いた。
「……はい」
しばらくして、遠くから赤色灯が見えた。
そのとき初めて、渡我さんが僕の制服の袖をちょっとだけ掴んだ。
すぐに離したけれど。
僕は何も言えなかった。
*
そのあとのことは、思ったより早く、思ったより面倒だった。
警察の人が二人来た。
僕と父さん、渡我さんはまず離された。
何があったのか聞かれたけれど、僕が実際に見たのは事件のあとだけだ。
教室を出た。
騒ぎを聞いた。
廊下で先生たちが斎藤くんを囲んでいた。
その近くに渡我さんはいなかった。
窓から外を見た誰かが「渡我が走っていった」と言った。
だから追いかけた。
駅の裏で見つけた。
そこから先は、警察の人にもかなり細かく聞かれた。
「彼女が斎藤くんを刺すところは見ていません」
僕が言うと、警察の人は、
「分かりました。見たことと、人から聞いたことを分けて話してね」
と言った。
父さんと同じことを言う。
ちょっと悔しい。
渡我さんが何を話したのかは知らない。
別のところで聞かれていたからだ。
警察署へ移動したあとも別々だった。
僕には父さんがついていた。
渡我さんには、しばらく誰もいなかった。
一時間くらい経ったころだったと思う。
待合の向こうで、女の人の声がした。
「被身子?」
顔を上げる。
知らない男女が警察の人に連れられてきていた。
名字も顔も知らない。でも、「被身子」と呼んだので誰なのかは分かった。
渡我さんの両親だ。
僕は立ち上がりかけた。
父さんに肩を掴まれた。
「座ってろ」
「でも」
「家族の話だ」
少し離れた場所だったから、全部聞こえたわけじゃない。
渡我さんが何か言った。
母親らしい人が口元を押さえた。
「また、血……?」
そこだけ聞こえた。
続けて何かを言っていたけれど、警察の人が間に入って場所を移したので、それ以上は分からなかった。
僕の頭には、第一話……じゃない、ついさっき渡我さんが言ったことが残っていた。
私、ちゃんと普通にしてたの。
何となく分かったような気がした。
「父さん」
「何だ」
「やっぱり渡我さんの家って——」
「やっぱり、の続きは言うな」
遮られた。
「なんで」
「今ので何が分かった?」
「だって『また血』って」
「それだけだろ」
父さんは腕を組んだ。
「あの人たちが娘に何をしてきたかも、何をしてこなかったかも、お前は知らない。あの一言だけで親を悪者にするな」
言われてみれば、そうだった。
「……はい」
「珍しく素直だな」
「今日はだいぶ怒られてるから」
「今日だけで済むと思うなよ」
嫌な予告をされた。
その日のうちに渡我さんともう一度話すことはできなかった。
帰る前、一度だけ廊下の向こうで姿を見た。
両親と警察の人に挟まれて歩いていた。
僕に気づいた。
足が止まりかける。
でも、そのまま行った。
僕も呼び止めなかった。
呼び止めていいのか分からなかった。
*
翌日の教室は、朝から最悪だった。
みんな事件の話をしている。
当然といえば当然だ。
ただし、十分も聞けば分かる。
誰も何も知らない。
「斎藤、十回くらい刺されたらしい」
「いや首やられたって」
「渡我、前からヤバかったって」
「家から血のパック出てきたらしいよ」
最後のやつはどこから生えた。
僕が知っている範囲ですら、昨日だけでずいぶん話が大きくなっていた。
ホームルームで担任が入ってくると、教室は急に静かになった。
先生は黒板の前に立って、しばらく全員を見回した。
「昨日の件について、学校から話せる範囲だけ話します」
みんなが前を向く。
「斎藤は現在入院しています。ご家族から、命に別状はないと連絡をいただいています」
そこで初めて、僕も斎藤くんが無事だと知った。
力が抜けた。
昨日は意識があった。それしか知らなかった。
よかった。
本当に。
「渡我については、しばらく登校しません。詳しいことは学校から話せません。皆さんも憶測で話を広げたり、インターネットに書いたりしないでください」
先生の話はそれだけだった。
質問したそうな人はいっぱいいたけれど、先生は受け付けなかった。
休み時間になると、また噂が始まった。
今度は「命に別状はない」が「軽傷だった」に変わっていた。
十分前の話なのに。
人の話って怖い。
僕は昨日警察の人に言われたことを思い出した。
見たことと、人から聞いたことを分けろ。
たぶん、それだけでも結構難しい。
*
家に帰ると、父さんはもう仕事から戻っていた。
珍しい。
僕のせいだと思う。
「渡我さん、どうなるの?」
鞄を置いてすぐ聞いた。
父さんは新聞から顔を上げた。
「知らん」
「父さんでも?」
「俺はあの子の弁護士じゃない」
「でも弁護士じゃん」
「弁護士なら他人の事件が全部分かると思ってるのか」
思ってはいない。
ちょっとだけ期待していた。
「一般論なら話せる。警察が調べて、必要なら少年事件として家庭裁判所に送られる。そこで家庭環境や本人の状態なんかも調べられる。ただ、それが渡我さんにそのまま当てはまるかは今の俺には分からん」
「家に帰る?」
「知らん」
「施設?」
「それも知らん」
「学校は?」
「学校に聞け」
何も分からない。
僕はテーブルの向かいに座った。
「じゃあ僕、何したらいい?」
「何もしなくていい」
「それは嫌」
「嫌でもだ」
父さんが新聞を畳んだ。
「昨日も言っただろ。ここからは大人の仕事だ」
「でも大人に任せてきて、ああなったんじゃないの」
言ってから、父さんの顔が変わった。
怒鳴られはしなかった。
その方が嫌だった。
「穏」
「うん」
「お前、渡我さんが今までどんな治療を受けたか知ってるか」
「……知らない」
「カウンセリングの内容は?」
「知らない」
「両親が家でどう接してきたかは?」
「知らない」
「学校に何を相談していたか」
「知らない」
「だろ」
何も言えなかった。
「お前が昨日見たものから、何かおかしいと思うのは勝手だ。調べるのもいい。でも、分からないところを都合のいい話で埋めるな」
父さんは僕の左腕を顎で指した。
「特に今のお前は、あの子を助けたいって結論が先にある」
図星だった。
「悪い?」
「悪いとは言ってない。危ないって言ってる」
そこで父さんは新聞を開き直した。
話は終わりらしい。
僕としては全然終わっていない。
部屋へ戻ってパソコンを開いた。
調べた。
昨日まで調べていたのは個性と衝動の話だったけれど、今日は少年事件の方。
検索窓に思いつく言葉を入れていく。
未成年。傷害。家庭裁判所。保護観察。少年院。試験観察。
知らない言葉がいくらでも出てきた。
その中で、ひとつ引っかかった。
補導委託。
最終的な処分を決める前に、民間の家庭や施設に少年を預けて生活させ、その様子を見ることがある。
へえ。
読み進めていて、何となく昔のことを思い出した。
うちには離れがある。
小さいころ、一時期そこに知らない兄ちゃんが住んでいた。
名前は覚えていない。
母屋で何度か一緒にご飯を食べた。
僕のゲームを勝手に使って、ばあちゃんに怒られていた。
ある日突然いなくなって、そのまま忘れていた。
下へ降りる。
ばあちゃんは居間でテレビを見ていた。
「ばあちゃん」
「何だい」
「昔、離れに男の人住んでたよね」
ばあちゃんがテレビから目を離した。
「誰のことだい」
「僕が小学生くらいのとき。高校生くらいの兄ちゃん」
「ああ」
思い出したらしい。
「いたねえ」
「何でいたの?」
「急だね」
「ちょっと調べてて」
僕がスマートフォンの画面を見せる。
補導委託。
ばあちゃんは文字を読んでから、僕の顔を見た。
それから左腕の包帯を見た。
「父さんから聞いた?」
「聞いたよ。自分の腕切ったんだって?」
「そこは今関係ない」
「あるだろ」
親子だ。
言うことが同じ。
ばあちゃんはテレビを消した。
「昔ね、保護司をやってたことがあるんだよ」
「保護司?」
「それと補導委託は別だけどね。しばらく家裁の補導委託先として登録してた時期もあった」
「じゃあ、あの兄ちゃん」
「そう」
初めて知った。
僕の家で、そんなことをしていたらしい。
「何した人?」
「教えないよ」
「僕もう会わないよ?」
「そういう問題じゃない」
当然のように断られた。
「何人くらい預かったの?」
「それも今はどうでもいいだろ。それより、何で急にそんなの調べてるんだい」
隠す意味もないので話した。
渡我さんの名前。
同じクラスだったこと。
昨日、人を刺したらしいこと。
僕が事件そのものは見ていないこと。
駅裏で見つけたこと。
血の話。
僕の血はいらないと言われたこと。
ここまで話したあたりで、ばあちゃんが笑った。
「何がおかしいの」
「いや。振られてるじゃないか」
「そういう話じゃない」
「血はいらないって言われたんだろ」
「そういう話じゃないって」
横から声がした。
「何の話してる」
父さんだった。
嫌なタイミングで来た。
「穏が補導委託を調べてるんだよ」
「おい」
父さんがものすごく嫌そうな顔をした。
「話飛びすぎだろ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
昨日も似たようなことを言われた気がする。
「渡我さん、うちで——」
「無理」
最後まで言わせてもらえなかった。
「早いよ」
「早いのはお前だ」
「制度としてあるんでしょ?」
「あるから何だ。お前はあの子が家に帰れないって誰から聞いた?」
「……誰からも」
「施設に入るって決まったのか?」
「決まってない」
「補導委託が検討されてる?」
「知らない」
「だったら何の話だ」
綺麗に全部潰された。
腹が立つ。
でも今日は、昨日ほど言い返せなかった。
僕も分かり始めていた。
知らないことが多すぎる。
ばあちゃんが父さんを見た。
「まあまあ。調べるくらいはいいじゃないか」
「母さんまで煽るなよ」
「煽ってないよ。ただ、そういう道があることを知るのは悪くない」
「こいつの場合、知った五分後には連れてこようとするんだよ」
失礼な。
十分くらいは考える。
ばあちゃんは僕を見た。
「その子がここへ来るのがいいかどうかは、その子にも分からないだろうし、あんたにはもっと分からないよ」
「うん」
「それに、預かるってのは部屋を貸すことじゃない。生活ごと引き受けるんだ。学校も、病院も、家裁との話も、その子が夜中にいなくなったら探しに行くのもね」
父さんが横で頷いている。
実体験のある二人に言われると強い。
「じゃあ、無理?」
「今それを決める段階じゃないって言ってるんだよ」
ばあちゃんはそう言って、またテレビをつけた。
僕はしばらくその場に立っていた。
窓から庭が見える。
その向こうに、離れの屋根が少しだけ見えた。
今は物置みたいになっている。
渡我さんをそこへ連れてくる。
そう考えるには、知らないことが多すぎた。
渡我さん自身がどうしたいのかも知らない。
両親がどう考えているのかも知らない。
斎藤くんの家族が何を思っているのかなんて、もっと知らない。
僕が知っているのは、昨日の雨の中で渡我さんが泣いていたことと、僕の血はいらないと言ったことくらいだ。
あと。
「君をヴィランにはしない」
と僕が勝手に約束したこと。
父さんの言うとおりだった。
勝手だ。
「穏」
「何?」
「念のため言っとく」
父さんが新聞越しに言った。
「勝手にあの子を連れてくるなよ」
「連絡先知らないよ」
「そういう問題じゃない」
今日はそればっかりだった。
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