お姉は私が嫌い   作:超かぐや姫に脳を焼かれた男

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超かぐや姫!に脳焼かれすぎて、自分で書いたものにも脳を焼かれて他の作者様の書いた二次創作にも脳を焼かれて俺の脳はボロボロだ。
ここまで何かにどハマりしたことがないので沼の抜け方が分からないです助けて助けて



11話

 

side酒寄彩葉

 

 彩葉。

 

 その二文字が、耳に入ってきた瞬間は、まだ意味を持っていなかった。

 

 遅れて、音がひとつずつ頭の中で組み上がっていく。さ、か、よ、り、い、ろ、は。いや、違う。呼ばれたのは名前だ。苗字ではなく、名前。それも、「お姉」ではなく。

 

 彼方は、私の顔を見ていなかった。

 

 視線は膝のあたりに落ちたまま、声だけが他人の部屋の壁を伝ってくるみたいに、平らに、遠く届いた。怒鳴られたほうがまだよかった。泣かれたほうがまだよかった。そこに感情があれば、私はそれを受け止める場所を探せたのに。

 

 何もなかった。

 

 責めることも、拒むことも通り越して、ただ、私を「知らない人」の位置に静かに置き直す声だった。

 

「……ヒュ」

 

 喉が、変な音を立てた。

 

 息を吸おうとしたのに、空気がどこにも入っていかない。吸っても吸っても、肺の手前で止まってしまう。足に力が入らない。床がゆっくり傾いているみたいで、立っているはずの自分の位置が分からなくなった。

 

 気づけば、膝から落ちていた。

 

 フローリングが冷たかった。掌を突いた感触だけが、自分がまだここにいることを教えてくれる。

 

 お姉。

 

 あの子は、いつもそう呼んでくれていた。

 

 小さい頃も、私が家を出る前の廊下でも、あの夏の玄関でさえ。どんなときも、最後にはその呼び方に戻ってきてくれた。それがどれほど当たり前だったか、私は今、初めて思い知っている。

 

 当たり前は、壊れてからでないと、当たり前だったと分からない。

 

 昔の彼方は、廊下の向こうから走ってきて、私の背中に飛びついた。靴下のまま、床を滑りながら。「お姉、見て」と、握った手の中の小さなものを、嬉しそうに差し出した。それは石ころだったり、折れたクレヨンだったりした。私はたいてい、「あとでね」と言って、受け取らなかった。

 

 あの子の手は、あのとき、どこへ行ったのだろう。

 

 ふと、あの子が小さな両手を胸の前で重ねていた姿を思い出した。私に見せようとしていたものを受け取ってもらえず、それでも怒ることなく、落とさないように大切に握り直していた。あの頃の私は、その仕草に何の意味も見出していなかった。彼方は大人しくて、少し待っていてと言えば待ってくれる子だったから、次に声をかけてくれるまで、私は何も考えずに自分のことへ戻っていた。

 

 けれど、もしあの子が私に見せたかったのは、石ころやクレヨンそのものではなかったのだとしたら。見つけたときの嬉しさや、私なら喜んでくれるという期待を、一緒に受け取ってほしかったのだとしたら。私は何度、あの子の小さな喜びを、理由も知らずに閉じ込めさせてしまったんだろう。記憶の中の彼方は、いつも私を見上げている。その視線の先にいたはずの私は、肝心なところで、一度もあの子を見ていなかったのかもしれない。

 

 今になって、その行き先が気になって仕方がなかった。受け取られなかったものは、きっと全部、あの子の部屋のどこかに仕舞われている。私が見なかったもの。聞かなかったもの。その重さが、いまの彼方の背中に、少しずつ積み重なってしまったのだとしたら。

 

 あの子は、いつも素直だった。

 

『うん、分かった』

 

 そう言って、笑ってくれた。私が忙しいと言えば、邪魔をしないように部屋を出ていった。あとでねと言えば、いつまでも待っていてくれた。

 

 私は、それを聞き分けがいいのだと思っていた。

 

 優しい妹だから。私のことを分かってくれているから。そんな都合のいい理由を並べて、あの子が差し出してくれたものを、何度も後回しにしてきた。

 

 でも、本当にそうだったんだろうか。

 

 あの子は、本当に納得していたんだろうか。

 

 それとも、私に嫌われたくなくて、何も言えなかっただけなんだろうか。

 

 なんで。

 

 なんで、もうお姉って言ってくれないの。

 

 声にならない問いが、胸の中で空回りする。答えは分かっていた。分かっているから、苦しかった。

 

 いつからだろう。

 

 私は、いつからあの子のお姉ちゃんじゃなくなってしまったんだろう。

 

 家を出た日だろうか。あの夏、玄関で帰ってと言った日だろうか。それとも、もっとずっと前から。彼方が私を呼ぶたびに、振り返らなくなった頃から。

 

 あの子は、いつまで私のことをお姉ちゃんだと思ってくれていたんだろう。

 

 最後にそう呼んでくれたのは、いつだった?

 

 思い出せなかった。

 

 あんなに何度も呼ばれていたのに。数え切れないほど聞いてきたはずなのに。私は、あの子が最後に私をお姉ちゃんと呼んでくれた日のことさえ、覚えていなかった。

 

 そんなこと、考えたこともなかった。

 

 だって、いつでも呼んでくれると思っていたから。

 

 明日も。明後日も。何年経っても。

 

 私がどれだけ冷たくしても、あの子はきっと、私のことをお姉と呼んでくれる。

 

 どこかで、そんなふうに思っていた。

 

 どうして、そんなことを信じていられたんだろう。

 

 覚悟はあった。決意もあった。拒まれる可能性だって、ちゃんと考えてきたつもりだった。新幹線の中で何度も繰り返した。どんな彼方でも受け入れる。帰ってなんて言わない。ちゃんと、聞く。

 

 でも、「つもり」でしかなかったのだ。

 

 実際に目の前にある決定的な距離は、覚悟という言葉が想像していたものより、ずっと冷たくて、ずっと深くて、私の胸の真ん中に、音もなく刺さった。

 

 大好きな子に拒絶されるのは、こんなにも痛いことだったんだ。

 

 大切な子に背を向けられるのは、息ができなくなるほど、苦しいことだったんだ。

 

 そして私は、これを、あの子に何度もしてきた。

 

 あの日の玄関で。「帰って」と言ったときに。家にいた頃、話しかけようとしてくれたあの子に、忙しいからと背を向けたときに。聞いてほしかったはずの言葉を、ひとつずつ飲み込ませてきた。

 

 その数だけ、あの子はきっと、今の私と同じ冷たさを味わっていた。

 

 忙しかった、は理由にならない。疲れていた、も、言い訳にならない。あの子がどれだけ勇気を出して、その一言を差し出していたのか、私は一度も想像しようとしなかった。想像しなかったことを、「気づかなかった」と呼んで、自分を許していた。

 

 あの夏だって、そうだった。

 

 彼方は、私に会いに来てくれた。わざわざ、あのアパートまで。私に会うために。

 

 きっと、たくさん考えたはずだ。行ってもいいのか。迷惑じゃないだろうか。会ってくれるだろうか。

 

 それでも、来てくれた。

 

 なのに私は。

 

『なんで、いるの?』

 

 最初に、そう言った。

 

 久しぶりに会えた妹を前にして。私に会いたくて来てくれたあの子に、そんな言葉を口にした。

 

 そして。

 

『帰って』

 

 あの子を、追い返した。

 

 あのときの彼方の顔を、今でも覚えている。一瞬、何を言われたのか分からないような顔をしていた。それから、何かを飲み込むように口を閉じた。

 

 泣かなかった。怒らなかった。

 

 ただ、私の言葉を受け入れた。

 

 私は、それに甘えた。

 

 あの日、彼方が帰っていったあと、私は何をしただろう。鍵を閉めて、いつもの生活に戻ったはずだ。あの子がどんな顔で階段を下りたのか、駅までどうやって歩いたのか、帰りの電車で何を考えたのか。そんなことを想像する余裕さえ持たなかった。自分にも事情があったと、心のどこかで言い聞かせていた。けれど、事情があったことと、あの子を傷つけていいことは、まったく別の話だった。

 

 彼方は私を責めなかった。その沈黙に、私は救われていたのだと思う。怒られなければ、自分のしたことを直視しなくて済む。次に会うときまでに何とかすればいい。そんなふうに先送りにした時間のあいだ、あの子が一人で何を抱えていたのか、私は知らないままだった。あの子が何も言わなかったことを、傷ついていなかった証拠にしてしまった。今なら、それがどれほど残酷な思い違いだったか分かる。

 

 いつか、ちゃんと話せばいいと思った。いつか、また会えると思った。あの子なら、きっと分かってくれると思った。

 

 いつか。

 

 いつかって、いつ?

 

 私は、その日を自分から作ろうとしたことがあった?

 

 何もしていない。

 

 何もしないまま、あの子がまた私に話しかけてくれるのを待っていた。どれだけ傷つけても。どれだけ遠ざけても。

 

 彼方のほうから、また近づいてきてくれると思っていた。

 

 そして今日。

 

 私は、あの子に会いに来た。

 

 今度こそ、ちゃんと話そうと思って。謝ろうと思って。もう一度、やり直そうと思って。

 

 でも、あの子は。

 

『前は追い返したのに、自分が話したいときは来るんだ。都合がいいんだね、彩葉は』

 

 そう言った。

 

 何も、間違っていなかった。

 

 あの子の言うとおりだった。

 

 私は、自分が会いたくなったから会いに来た。自分が謝りたくなったから謝ろうとした。自分がやり直したくなったから、あの子にもやり直してほしいと思った。

 

 彼方がどうしたいのか。あの子が、今、何を望んでいるのか。

 

 私は、また聞いていなかった。

 

 彼方の声は少なかった。こちらの言葉を遮るときも、長々と理由を並べたりはしなかった。だからこそ、あの短い言葉にたどり着くまでに、あの子が何を飲み込んだのかを考えずにはいられなかった。話したくないと伝えることさえ、どれほど苦しかっただろう。私が聞きたいことを聞けない苦しさと、あの子が言いたくないことを聞かれる苦しさは、同じではない。私はその違いに、目の前で拒まれるまで気づけなかった。

 

 会いに来たこと自体を、間違いだったとは思いたくない。あの子がどんな状態でも受け入れようと決めた気持ちは、本物だった。けれど、本物の気持ちであっても、相手のためになるとは限らない。自分の覚悟を伝えれば、彼方も少しは安心してくれるかもしれない。そう期待した時点で、私はまた、あの子の反応を勝手に決めていたのだ。

 

 それを思った途端、涙が溢れた。

 

 私が泣く資格なんてない。そう思うのに、止まらない。止めようとして唇を噛んでも、顎を伝って、床に落ちる音がする。手の甲で拭っても拭っても、追いつかなかった。

 

 私は俯いたまま、ただ、勝手に流れてくるものを必死に押し戻そうとすることしかできなかった。

 

     * * *

 

「まだ眠たいから、部屋で寝るね」

 

 抑揚のない声が、頭の上を通り過ぎた。

 

 待って。

 

 行かないで。まだ何も話せてない。まだ、一言も届いていない。

 

 喉まで来ているのに、声にならない。唇だけが動いて、空気を食べている。

 

 床板を踏む足音が、私の横を通っていく。距離にして、わずか数十センチ。手を伸ばせば、裾に触れられる近さ。

 

 伸ばせなかった。

 

 指先が、床の上で凍りついたように動かなかった。あの日の玄関で、動けなかったあの子と同じ形で。

 

 あのときの彼方も、こんな気持ちだったんだろうか。

 

 何か言いたかったのかな。引き止めてほしかったのかな。それとも、もう何も言えなかったのかな。

 

 階段を上っていく音がする。一段、また一段。軋む板の音が、遠ざかる。その音の数を、私は無意識に数えていた。七段、八段。踊り場。

 

「彼方!」

 

 お兄ちゃんの声が、あとを追っていった。

 

 やがて、二階のほうでドアの閉まる小さな音がした。

 

 そして、リビングには、私だけが残った。

 

 壁の時計の秒針が、やけに大きく響いている。テーブルの上のコップ。置かれたままの薬の袋。ソファの窪み。そこにさっきまでいた体温が、少しずつ、冷めていく。

 

 ソファの窪みに、そっと手を置いてみる。

 

 まだ、わずかに温かい。

 

 さっきまで、あの子がここにいた。それなのに、指先から伝わってくる温度が、かえって、遠さを際立たせていく。

 

 同じ家にいる。ほんの数メートル先の階段を上れば、あの子の部屋がある。

 

 それなのに、もう二度と会えない場所へ行ってしまったような気がした。

 

 隣の部屋では、お兄ちゃんが、あの子を追っているはずだった。扉の向こうで何が話されているのか、私には分からない。分からないことが、こんなにも心細い。

 

 私は、この家の中で、一番遠い場所にいる。

 

 そう思った。

 

 絶望、という言葉が、胸の底から浮かんできた。

 

 大げさな言葉だと思っていた。ドラマの中だけの、遠い言葉だと思っていた。でも今の私の中にあるものは、どう考えても、それ以外の名前では呼べなかった。

 

 私、何がしたかったんだろう。

 

 やめて、と言われた。聞きたくない、と言われた。いらない、と言われた。それなのに私は、まだ続けようとした。無理に聞くことはしない。そう決めて来たはずなのに、結局、自分の言葉を押しつけた。

 

 謝りたかった。やり直したかった。昔みたいに。

 

 全部、私の望みだった。

 

 あの子が欲しかったものは、一度も聞かないまま。

 

 また、傷つけた。

 

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 

 頭の中で繰り返しても、届く先がない。届かない謝罪は、ただ自分の中に溜まっていくだけで、どこにも行けない。

 

 謝ることは、私にとっては、救いを求めることでもあった。許してもらえるかもしれない、という期待を、心のどこかで抱いてしまっていた。その期待ごと、あの子に拒まれた気がした。

 

 期待していた自分が、一番、恥ずかしかった。

 

 彩葉。

 

 あの子が呼んだ、私の名前だけが、何度も頭の中を回る。他人行儀な、たった二文字。

 

 お願いだから。

 

 またお姉って、呼んでよ、彼方。

 

 小さい頃、彼方はよく私のピアノの横に立っていた。バイオリンを肩にあてて、自分で拍を取るように体を揺らしながら。間違えても、笑ってやり直せばいいと、何も恐れずに。

 

 あの音を、私はいつから聞いていないだろう。

 

 聞かなくなったのは、あの子ではなく、私のほうだった。

 

 もう一度、聞きたい。

 

 あの子の声も。あの子が奏でる音も。くだらないことで笑っていた、あの頃の何でもない会話も。

 

 もう一度。

 

 そう思って、気づいた。

 

 それも、私の願いだった。

 

 彼方が、もう昔には戻りたくないと思っていたら。私と同じ時間を過ごしたくないと思っていたら。

 

 私は、どうするんだろう。

 

 もし、この先ずっと、あの子が私を彩葉と呼び続けたら。

 

 もし、二度とお姉と呼んでくれなかったら。

 

 それでも、私は。

 

 あの子のそばにいたいと思えるだろうか。

 

 答えを出すのが、怖かった。

 

 だって私は、許してほしかった。昔みたいに笑ってほしかった。もう一度、お姉と呼んでほしかった。

 

 その願いが叶わないのなら、どうすればいいのか分からなかった。

 

 自分の望みが、あまりにも身勝手で。それでも捨てられなくて。

 

 私は、また顔を覆った。

 

     * * *

 

 どれだけそうしていたのか分からない。

 

 顔を覆った指の隙間から、涙がこぼれ続けていた。

 

 鞄の中のタブレットのことなんて、すっかり頭から抜け落ちていた。この家に入ってからの私は、それほどまでに、あの子のことしか見えていなかった。

 

 それでも、肝心なところで何も見えていなかったのだと、今になってようやく思い知る。

 

 もし。

 

 もし、彼方がお隣さんだったとしたら。

 

 その考えが浮かんだ瞬間、身体の奥が冷たくなった。

 

 八千年。

 

 ヤチヨと一緒に過ごした、途方もない時間。

 

 私は、その記憶を見た。

 

 目を閉じると、ヤチヨの記憶の断片が浮かんでくる。私の知らない景色。私の知らない時代。見慣れた街も建物もなく、当たり前に使っている言葉さえ違っていた世界。その一つひとつを越えて、ヤチヨはここまで帰ってきた。ひとつの季節が終わるだけでも、人は変わる。何年も会わなければ、互いの知らないことが増える。なら、八千年という時間の向こうにいる人を、私はどんな言葉で迎えればよかったんだろう。

 

 ヤチヨが楽しそうに話してくれた旅の中には、何度もお隣さんがいた。何かを見つけたときも、困ったことが起きたときも、二人で笑ったという話の隣には、いつもその存在があった。けれど、私は知っている。あの長さの中で、楽しいことばかりが続いたはずはない。ヤチヨが語らなかった夜も、声にできなかった寂しさも、確かにあったのだと思う。そして、もしその隣にいたのが彼方なら、あの子は自分の寂しさを誰に話したんだろう。

 

 私が知っているのは、まだ幼さの残る妹だ。私を追いかけてきて、名前を呼んで、嬉しいことを真っ先に教えようとしてくれた彼方。けれど、八千年を過ごした人の中に、そのままの少女が残っていると考えるのは、私の願望なのかもしれない。あの子に昔の姿を求めることは、あの子が生きた時間をなかったことにするのと同じなのかもしれない。それでも私は、あの小さな妹を忘れられない。二つの姿をどう重ねればいいのか分からず、胸が痛んだ。

 

 ヤチヨがどんな世界を歩いてきたのか。どれほど長い時間を生きてきたのか。どんな思いで、私との再会を待っていたのか。

 

 その一端を、知っている。

 

 だからこそ、考えてしまう。

 

 もし、あの旅を共にしたお隣さんが、彼方だったのなら。

 

 あの子は、何を思っていたんだろう。

 

 私に帰ってと言われたあとで。私に会えなくなったあとで。

 

 それでも、私とかぐやを再会させるために、八千年を生きたのだとしたら。

 

 私は。

 

 私は、あの子に何をしてしまったんだろう。

 

 ヤチヨは、何度もお隣さんの話をしてくれた。いつもそばにいてくれたこと。一緒に旅をしたこと。何度も助けてくれたこと。どんなに長い時間が過ぎても、離れずにいてくれたこと。

 

 ヤチヨは、その人のことを話すとき、いつも嬉しそうだった。時々、少し寂しそうでもあった。

 

 私は、その理由を知っている。

 

 八千年を共にした人と、別れなければならなかったから。もう会えないかもしれないと思っていたから。

 

 でも。

 

 もし、その人が彼方だったのなら。

 

 あの子は、何のためにそこまでしたんだろう。

 

 私のため? かぐやのため? それとも、二人のため?

 

 分からない。

 

 分からないけれど。

 

 あの子が、私たちの幸せを願ってくれていたのだとしたら。その願いを叶えるために、八千年もの時間を費やしたのだとしたら。

 

 そんなあの子に、私は何を返した?

 

 帰ってきた彼方に。私の知らない時間を生きてきたかもしれない妹に。

 

 私は、また自分の話を聞いてほしいと頼んだ。自分の気持ちを分かってほしいと願った。

 

 あの子が何を失って、何を抱えて帰ってきたのかも知らないまま。

 

 なんて、ひどいことを。

 

「……ごめん……」

 

 声が震えた。

 

「ごめん、彼方……」

 

 何度謝っても、届かない。

 

 あの子は、もうここにはいない。目の前にいるときには言えなかった言葉を、いなくなってから繰り返している。

 

 いつも、そうだった。

 

 大切なことに気づくのは、決まって遅すぎる。

 

 あの子が差し出してくれた手を、私は何度も振り払った。そして今度は、自分から手を伸ばしている。

 

 都合がいい。

 

 本当に、都合がいい。

 

 彼方の言葉が、胸の奥で何度も響いた。

 

 ――彩葉。

 

 かすれた声が、すぐ近くで聞こえた。

 

 一瞬、幻聴かと思った。顔を上げられないまま、息を止める。

 

「……いろ……彩葉」

 

 もう一度。

 

 今度は、はっきりと分かった。鞄の中だ。ずっと、静かに息を潜めていたタブレットから、聞き慣れた声がしている。

 

 ヤチヨ。

 

 そうだ。この子は、約束を守ってくれていたんだ。一言も発さずに、私たちの隣で、あの子の言葉をずっと聞いていた。

 

 私が彼方に拒絶されたときも。泣き崩れたときも。何もできずに座り込んでいたときも。

 

 ずっと、そばにいてくれた。

 

 私は、震える手で鞄を引き寄せ、タブレットを取り出した。画面の中のヤチヨは、いつもの明るい笑顔を作ろうとしていて、そして作りきれていなかった。

 

 目の縁が赤い。

 

「ヤチヨ……」

 

 声が割れた。

 

「私、全然ダメだったよ。また、あの子を傷つけちゃった」

 

 口に出した途端、心がもう一段、重くなる。

 

「ちゃんと聞くって決めたのに。無理に話さないって決めてたのに。私、結局、自分のことばっかり……。あの子の顔、見てられなかった。ううん、あの子は、私の顔を見てくれなかった」

 

「彩葉……」

 

 ヤチヨの声は、泣き出しそうに震えていた。それでも、画面から目を逸らさなかった。

 

「彼方、私のこと……もう、お姉って呼んでくれないんだ……」

 

 口にした瞬間、涙が溢れた。

 

「ずっと……ずっと、そう呼んでくれてたのに……」

 

 ヤチヨは、何も言わなかった。

 

 私は、止まらなくなった言葉を吐き出した。

 

「私、あの子のこと、何も知らなかった……。あの子がどんな気持ちで私に会いに来てくれたのかも……。帰ってって言われて、どれだけ傷ついたのかも……」

 

 息が震える。

 

「何も知らないまま……今度は私が会いたくなったからって……勝手に来て……」

 

 私は、顔を覆った。

 

「また、傷つけちゃった……」

 

「……うん」

 

 ヤチヨが、小さく頷いた。

 

 否定しなかった。大丈夫だとも、そんなことないとも言わなかった。

 

 そのことが、少しだけありがたかった。

 

 私は、間違えた。その事実は、変わらない。誰かに慰めてもらったからといって、なかったことにはならない。

 

 画面の向こうで、ヤチヨは何度も口を開きかけては閉じていた。きっと、この子にも言いたいことがある。お隣さんのことを誰よりも知っているヤチヨなら、私に教えられることだってたくさんあるはずだ。それでも今は、私の代わりに答えを出そうとはしなかった。ヤチヨが隣で待ってくれていることに、ようやく気づいた。

 

 彼方にも、こんなふうに接することができたなら。何も話してくれなくても、すぐに結論を求めずにいられたなら。そう考えたところで、過ぎた時間は戻らない。それでも、これからの自分がどうするかは、まだ決められる。彼方が今すぐ私を許してくれなくても、私のほうが先に諦める理由にはならない。

 

「……私にはもう、あの子に会う資格、ないのかもしれない」

 

 口にした瞬間、それが本心なのか、ただ楽になりたい逃げ口なのか、自分でも分からなかった。

 

 また拒絶されるのが怖かった。

 

 また、あの子に彩葉と呼ばれるのが怖かった。

 

 もう二度と、お姉と呼んでもらえないのかもしれないと思うのが。

 

 怖くて、仕方がなかった。

 

「彩葉、聞いて」

 

 ヤチヨが、静かに、けれどはっきりと言った。

 

「彼方ちゃんは、変わってしまったのかもしれない。でも、もし彼方ちゃんがお隣さんなら、彩葉のことを嫌いになんて、絶対になってない」

 

「……どうして、そんなこと……」

 

「分かるから」

 

 ヤチヨは、迷わず答えた。

 

「ヤチヨは、ずっと一緒にいたんだもん」

 

 確信を持った声だった。八千年を生きた人の、迷いのない声。

 

「お隣さんはね、ずっと優しかったんだよ」

 

 ヤチヨが、少しだけ笑った。

 

「ヤチヨが寂しいときも、困ってるときも、いつもそばにいてくれたの。何も言わなくても、ちゃんと気づいてくれたんだ」

 

 その表情が、少しだけ寂しそうになった。

 

「でもね……優しい人ほど、自分のことは後回しにしちゃうことがあるんだよ」

 

 私は、黙って聞いていた。

 

「誰かのためなら、どんなに辛くても頑張れちゃう。でも、自分が辛いってことは、なかなか言えないの」

 

 ヤチヨの声が、少し震えた。

 

「ヤチヨも、もっと早く気づいてあげられたらよかったって、何度も思った」

 

「……ヤチヨ……」

 

「あの子も、ヤチヨも、彩葉のことが大好きだから。……大好きだから、近づけないことだって、あるの」

 

 その言葉が、冷え切った胸の奥に、小さな熱を落とした。

 

 大好きだから、近づけない。

 

 彼方は、何を怖がっていたんだろう。

 

 私に何を知られたくなかったんだろう。

 

 もし、あの子がお隣さんだったのなら。

 

 八千年を生きてきたことを。昔の彼方ではなくなってしまったことを。

 

 私に知られるのが、怖かったのだろうか。

 

 分からない。

 

 けれど、さっきの彼方の顔を思い出した。私たちを見た瞬間の、あの怯えた表情。

 

 あれは、ただ嫌がっていたわけじゃなかったのかもしれない。

 

 何かを必死に隠そうとしていたのかもしれない。

 

 私は、そんなことにも気づかなかった。

 

「ねえ、彩葉」

 

 ヤチヨが、優しく呼んだ。

 

「彩葉は、どうしたいの? このままでいいの?」

 

 ――どうしたい。

 

 問いが、ゆっくりと胸に沈んでいく。

 

 このままでいいわけがない。

 

 あの子の目を見ないまま終わりにして、いいわけがない。

 

「いいわけ……ないじゃん」

 

 声が、掠れていた。

 

「いいわけ、ないじゃん!」

 

 叫んで初めて、自分が叫んでいることに気づいた。

 

 そうだ。

 

 あの子の孤独や寂しさに比べたら、私が今味わっている痛みなんて、ほんの一部にしかならない。

 

 八千年のうち、たった一晩ぶんにも満たない。

 

 それなのに、私がここで折れたら、今度こそあの子は一人きりに戻ってしまう。

 

 あの子は、月で七十年、そして八千年、私の知らない場所で、誰にも名前を呼ばれないまま、一人で息をしてきたのかもしれない。

 

 そんなあの子が、今、「彩葉」と私を呼んだ。

 

 他人行儀な呼び方でも、冷たい声でも、その名前を、あの子はまだ覚えている。

 

 覚えていてくれている。

 

 それは、拒絶の中に残された、たった一本の細い糸のように思えた。

 

 私は、顔を上げた。

 

 涙で濡れた視界の向こうに、階段の暗がりが見える。あの子が消えていった方向。

 

 彼方に許してほしい。昔みたいに笑ってほしい。もう一度、お姉と呼んでほしい。

 

 そんな願いは、まだ消えていない。

 

 きっと、簡単には消せない。

 

 でも。

 

 それだけじゃない。

 

 私は、あの子のことを知りたい。

 

 あの子が何を抱えているのか。何に苦しんでいるのか。何を怖がっているのか。

 

 ちゃんと、知りたい。

 

 そして。

 

 もし、あの子が私を必要としてくれるなら。

 

 そばにいたい。支えたい。今度こそ、あの子の手を取ってあげたい。

 

 たとえ。

 

 もう二度と、お姉と呼んでもらえなくても。

 

 昔のように笑ってくれなくても。

 

 私のことを、許してくれなくても。

 

 それでも。

 

 私は、あの子のお姉ちゃんでいたい。

 

「私が、絶対助ける」

 

 声は、まだ震えていた。

 

「あの子が私にしてくれたみたいに。あの子が寂しそうにしてるなら、そばにいる。辛そうにしてたら、支える。泣いてるなら、その涙を止めてあげる」

 

 私は、拳を握った。

 

「でも……今度は、私の勝手な気持ちを押しつけたりしない」

 

 ヤチヨが、静かに頷いた。

 

「彼方が話したくないなら、待つ。会いたくないなら、無理に会おうとしない」

 

 ゆっくりと息を吸う。

 

「それでも、あの子が助けてって言ってくれたときには……絶対に、手を伸ばせるようにしておきたい」

 

 もう、あの子の声を聞き逃したくない。

 

 もう、あの子の小さな願いを後回しにしたくない。

 

 たとえ、私の手を取ってくれなくても。

 

 その手を差し出せる人でいたい。

 

「……だって私は、お姉ちゃんだから」

 

「うん」

 

 ヤチヨが、泣き笑いの顔で頷いた。

 

「そっちの彩葉のほうが、ヤチヨの好きな彩葉だよ」

 

 私は、袖で乱暴に顔を拭った。

 

 まだ、足は震えている。胸の痛みも、少しも消えていない。

 

 彼方に拒絶されたことも。お姉と呼んでもらえなかったことも。

 

 何ひとつ、変わっていない。

 

 それでも。

 

 もう、ここで終わりにしたくなかった。

 

 謝るために行くんじゃない。

 

 許してもらうために行くんじゃない。

 

 ただ、あの子の話を聞くために。

 

 私は、立ち上がろうとした。

 

 膝に力を入れる。立ち上がろうとするたびに、足がすとんと落ちる。二度、三度。

 

 情けない。

 

 あんなに強く決意したのに。身体は、まださっきの拒絶を覚えていた。

 

「彩葉、ゆっくりでいいよ」

 

 タブレットの中で、ヤチヨが小さく言った。

 

 急かさない声だった。八千年を生きた人は、待つことの重さを、私よりずっと知っている。

 

「……うん。でも、行かなきゃ」

 

 壁に手をついて、ようやく立ち上がる。

 

 今すぐ彼方の部屋へ押しかけるつもりはなかった。あの子が眠たいと言ったのなら、休ませてあげたい。話したくないのなら、無理に聞き出すつもりもない。

 

 ただ、もう一度、ちゃんと向き合うために。

 

 まずは、お兄ちゃんと話そうと思った。

 

 あの子が何を抱えているのか。私たちに何ができるのか。

 

 今度は、一人で決めない。

 

 彼方のためだと言いながら、また自分の願いを押しつけるようなことはしたくなかった。

 

 リビングの扉の外、あの階段の手前までは、たった数歩のはずなのに、ひどく遠かった。

 

 それでも、私は歩き出した。

 

 もう、あの子に帰ってなんて言わない。

 

 もう、あの子の居場所を奪ったりしない。

 

 今度こそ。

 

 彼方が帰ってこられる場所を、私も守りたい。

 

     * * *

 

side 酒寄朝日

 

 俺は、この前もこうして、妹の部屋の扉の前に立った。

 

 あのときは俺の家の、別の扉やった。それでも、その奥から、声を押し殺して泣いている妹の気配が漏れてくる。唾を飲み込むみたいな、浮かんでは消える、小さい小さい音。

 

 あのときは、ノックしようと上げた手を下ろせんまま、廊下に差す西日が赤から闇に変わるまで、扉の前に立ち尽くした。

 

 開けたら、あの子の一番弱いところを見てしまう気がした。見てしまったら、見なかったことにはできへん。

 

 そういう臆病な迷いを抱えたまま、やっと扉を開けた。

 

 けれど、俺にできたのは、隣に座ることだけやった。

 

『……会いたかっただけやのに』

 

 そう泣く妹に、気の利いた言葉の一つも掛けられんかった。

 

 あれでよかったわけがなかった。

 

 あの夜、扉の向こうで、彼方は何を思っていたのだろう。俺に聞こえんように泣いて、聞こえてしまったことにも気づかんまま、朝を迎えたんやろか。

 

 その朝、あの子は何事もなかった顔で俺に笑いかけた。

 

『お兄、おはよう』

 

 いつもどおりの声やった。

 

 目元が少し腫れていたことを除けば、何も変わらへんかった。

 

 俺は、それを見て、何も言えんかった。

 

 あの子が隠そうとしているものを、わざわざ暴く必要はない。そう思った。

 

 けれど、本当にそれでよかったんやろうか。

 

 あの子は、あんなふうに笑えるほどに、泣き方を練習してきたんやと思う。

 

 あれからずっと、胸のどこかに小さな棘が刺さったままだった。

 

 あのときの俺は、あの子の沈黙を尊重したつもりでおった。けれど、何も聞かへんことと、何も見ようとせえへんことは違う。俺が隣に座っとるあいだ、彼方は何度も呼吸を整えようとしていた。泣きやんだあとも、目元を隠すように俯いていた。その小さな変化を覚えとるくせに、どうしてもっと早く気づいてやれへんかったんやろう。

 

 兄貴やからといって、何でも分かるわけやない。俺には俺の生活があって、妹たちにもそれぞれの時間がある。それは分かっとる。それでも、助けを求める声が小さいから聞こえへんかった、なんて言い訳だけはしたくなかった。あの子が何も言わんときこそ、俺のほうからそばにおることを伝えなあかんかったんやと思う。

 

 リビングに残してきた彩葉のことも気になる。それでも、今は、こっちや。

 

 入院していたとき、見舞いに行った。

 

 四十度を超える熱の中で、彼方はほとんど目も開けられんかった。俺の声が耳に届いた瞬間、あの子の目尻から、涙だけが枕に流れ落ちた。

 

 言葉は、何も返ってこんかった。

 

 まともに話せたわけやない。それでも、あの涙だけは今も忘れられん。

 

 熱が下がって声が出るようになってから、あの子はお母さんと俺に、何度も頼んだ。

 

 彩葉には言わんといてほしい、と。

 

 理由は分からんかった。

 

 でも、「彩葉を心配させたくない」というよりも、もっと苦しいところから出てきたような願いやった。

 

 俺はそれを、約束として守った。

 

 病室であの子が俺を見たときの顔は、今でもはっきり覚えとる。熱のせいだけやない、ひどく疲れた目をしていた。彩葉には知らせんといてほしいと頼む声は小さかったけれど、言い直すことはなかった。理由を聞けば、話してくれたんやろうか。今でも分からん。ただ、あのときの彼方には、誰かに知られたくないことがあるのだと感じた。

 

 俺は約束を守ることで、この子を守れているつもりやった。せやけど、守った結果、彩葉が何も知らずにおったことも事実や。どちらか一方だけが悪いとは思わへん。それでも、あの子の願いを尊重することと、家族が互いを遠ざけていくのを見守ることの間には、俺が考えていたよりずっと深い溝があった。今度は、何も考えずにそこへ蓋をしたくない。

 

 彩葉には、言わへんかった。

 

 それが正しかったのかは、今でも分からん。

 

 結果として、彩葉は何も知らんままやった。彼方が苦しんでいたことも。入院していたことも。どれだけ辛い思いをしていたのかも。

 

 何も知らんかった。

 

 俺は、約束を守った。

 

 守りすぎたのかもしれん。

 

 今回は違う。

 

 彩葉とヤチヨちゃんから、あの子の話を聞いた。

 

 八千年。月。お隣さん。

 

 正直、俺には重さの見当もつかへんし、今でも半信半疑や。

 

 せやけど。

 

 もし、それが本当やったら。

 

 もし、彼方が本当に八千年もの時間を生きてきたんやったら。

 

 この子は、どれだけのものを抱えとるんやろう。

 

 何を見てきたのか。何を失ってきたのか。何を思って、ここへ帰ってきたのか。

 

 俺には、想像もつかへん。

 

 それでも、ひとつだけ分かることがある。

 

 この子は、今、泣いとる。

 

 俺の目の前で。

 

 必死に声を押し殺して。

 

 一人で抱え込もうとしとる。

 

 それだけは、確かやった。

 

 だから開ける。

 

 今度こそ。

 

 だって俺は、お兄ちゃんやから。

 

 コンコン、と軽くノックする。

 

 返事はない。でも、中で衣擦れの音がした。誰かがこちらを意識して、息を止めた音。

 

「入るで」

 

 許可を待たへんかった。待ったら、きっとこの子は「だめ」と言うから。

 

 それだけ言うて、俺は扉を開けた。

 

     * * *

 

 部屋は薄暗かった。カーテンが半分だけ開いていて、太い光の筋が床に落ちている。その端、ベッドの上で、彼方は膝を抱えていた。

 

 前と同じやった。

 

 ところが、前よりずっと小さく見えた。

 

 膝に顔を埋めて、肩だけが小刻みに震えている。声を出さへんように、あまりに上手に泣くから、なおのこと、胸が痛い。

 

 どんだけこうやって、この部屋で、一人で泣いてきたんやろ。

 

 入院してから、痩せたんやろう。手首も、足首も、前より細い。顔色も、まだあまりよくない。

 

 何より、その姿が、あまりにも頼りなかった。

 

 彩葉の泣き声は、さっきまでリビングから聞こえていた。細く、途切れ途切れの、必死に押し殺した声。

 

 あの子らは、姉妹そろって、人に聞こえんように泣くのが上手い。

 

 似んでええところが、よう似とる。

 

 どっちの涙も、俺は一人で受け止めきれる自信がない。

 

 それでも、受け止めたいと思う。

 

 俺は何も言わへんかった。

 

 ベッドの端、彼方から一人分の間を空けて、静かに腰を下ろした。マットレスが沈む。その振動で、彼方の肩がびくっと高いところで止まった。

 

 しばらく、時計の音だけがした。

 

 俺は待った。

 

 何も言わへん。話さんでもいい。ただ、逃げへんでここにいる。

 

 それだけでいいから、そこを守る。

 

 どれぐらい経ったんやろ。

 

 やがて、膝の下から、かすれた声がした。

 

「……朝日」

 

 名前やった。

 

 お兄ちゃんやなくて、お兄やなくて、朝日。

 

 どこかで、理解してたつもりやった。この子はもう、昔の呼び方には戻れへんのやと。

 

 それでも、実際に耳にすると、脇腹を薄い刃物で撫でられたみたいに縮んだ。

 

 自分でも、思ってたよりダメージを受けてる。

 

 小さい頃の彼方を思い出した。

 

『お兄』

 

 そう呼んで、俺の後ろをついて回っていた。

 

 困ったことがあれば、すぐに俺を頼った。嬉しいことがあれば、真っ先に話してくれた。

 

 それが、当たり前やった。

 

 でも、今は違う。

 

 彼方は、俺を朝日と呼んだ。

 

 昔の彼方が、遠くへ行ってしまったような気がした。

 

 もう、戻ってこないのかもしれない。

 

 そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。

 

 寂しかった。

 

 でも。

 

 それが、どうした。

 

 呼び方が変わったから、なんや。

 

 この子が俺を朝日と呼んだからって、俺が兄貴やなくなるわけやない。

 

 昔と同じように笑ってくれへんからって、妹やなくなるわけやない。

 

 俺は、彼方の兄貴や。

 

 そう思う一方で、昔の呼び方を聞きたい自分がおることも否定できへんかった。あの子が何も考えずに俺を呼んでいた頃のことを、懐かしく思う。もう一度だけ、あの声で呼んでもらえたら。そんな願いが浮かぶたびに、今の彼方にそれを背負わせたらあかんと、自分に言い聞かせた。

 

 名前で呼ばれたことが寂しいのは、俺の気持ちや。彼方がその寂しさの責任を取る必要なんてない。俺が兄貴でおりたいのなら、まずはこの子が安心できるようにせなあかん。昔と同じであることを求めるより、今のこの子が何を望んでいるのかを聞く。そのためなら、少しくらい寂しくてもかまへん。

 

 それだけは、変わらへん。

 

 それを顔に出さへんよう、俺はゆっくり息を吐いた。

 

「……おう。どうした」

 

「……朝日。なんで……なんで来たの」

 

 こちらを見へんまま、膝の間から漏れた声。

 

 拒絶するような言い方やった。でもその内側に、もう少し違う色が混ざってる。怒りやなくて、恐れやなくて、「来てしまった」という申し訳なさに近いもの。

 

 来てほしくなかったんやな。

 

 そう思うと、胸が痛い。

 

 この子にとっての俺は、もう以前の「お兄ちゃん」ではないんやろうか。

 

 でも、俺は首を横に振った。

 

 ここで引く理由にはならへん。

 

「彼方が泣いとるのが、聞こえたからや」

 

 彼方の肩が、びくっと震えた。

 

 余計に辛そうな顔をしているのが、膝の間から覗く横顔で分かった。

 

 どうして、と訊くことはしなかった。

 

 理由は、きっと彩葉達が言うてた八千年の中に隠れとる。俺にはまだ、そこに手を伸ばす資格も言葉もない。

 

 これだけは、できる。

 

「彼方、聞いといてくれ。返事はいらん」

 

 彼方は、まだ膝に顔を埋めたままやった。

 

 それでいい。

 

 耳だけ、こちらに向いとる。それだけで十分や。

 

「俺は、彩葉とヤチヨちゃんから、ある程度話は聞いた。正直、理解はあんまできとらんし、まだ納得もできてへん」

 

 嘘やない。

 

 格好つけて、分かったふりをするより、このほうがいいと思った。

 

「でも、それでも、これだけは言わせてくれ」

 

 一拍。

 

 言葉を選ぶより、心の一番奥にあるものを、そのまま出す。

 

「俺は、彼方がどんなに変わってしもても、お兄ちゃんや。彼方が俺のこと忘れてしもてても、ええ。呼び方も、何でもええ。朝日でも、アンタでも、名前を呼ばんでもええ。そこは俺にとって、なんの問題もない」

 

 変わらへんのは、俺のほうやから。

 

「俺にとって、彼方は彼方や」

 

 言い終えて、初めて自分の掌が汗ばんでいることに気づいた。

 

 いつものようにボケたり、軽口を叩いたりはできへん。この部屋の空気に、そんなもんは似合わへんから。

 

 ただ、真っ直ぐに言うた。

 

 言えた。

 

 それだけや。

 

 あの日は何もできへんかった。

 

 でも今日は、言えた。

 

 しばらくして、彼方がゆっくりと顔を上げた。

 

 目が合う。

 

 赤い目をしていた。頬に涙の跡が何本も残っている。それでも、この子は確かに、俺を見ていた。

 

 いや、見ようとしていた。

 

 焦点の合わない眩しさをこらえるみたいに、俺の顔の輪郭を、一つずつ確かめている。

 

「……私、は……もう……」

 

 言いかけて、止まる。

 

「…………」

 

 口を開いて、閉じる。何度も。言葉を探して、見つからずに、ぶつかって、砂のように崩れていく。

 

 その様を、俺は黙って見ていた。

 

 喉の奥に、何かが引っかかっているんやろう。

 

 言葉になる前の、熱くて重たいもの。

 

 それを、無理に引きずり出そうとはせえへん。

 

 待つ。

 

 ただ待つ。

 

 それが、俺にできる唯一のやり方や。

 

 聞きたい。

 

 そう思った。

 

 続きを。

 

 「もう」の先を。

 

 でも、今は聞くときやない。

 

 俺は、そう直感した。

 

「無理に話さんでええ」

 

 俺は、できるだけ穏やかに言うた。

 

「彼方が話せるようになったときでええ。明日でも、来週でも、来年でも。そのとき、お兄ちゃんに聴かせてくれ。俺は、いつでもここにおるから」

 

 彼方が膝の上で組んでいた手が、きゅっと握られた。

 

 痩せた手だった。

 

 恥じらいに似た迷いを見せるみたいに、指先が膝の上で行き場を探している。

 

 彼方は、また俯いた。

 

 しまった、何か言い過ぎたか。

 

 焦りかけたところで、小さな声が落ちてきた。

 

「……今だけ……」

 

 耳を澄ませる。

 

 空気を震わせるのも惜しいような、頭の重さを預けるみたいな声。

 

「……何も、言わないで……」

 

「……何も、聞かないで……」

 

 うん、と頷こうとしたが、喉が動かへんかった。

 

 最後の一言は、さらに小さかった。

 

「……そばに、いて……」

 

 俺の中で、何かがすとんと、ほどけた。

 

 これや。

 

 これを、あの日からずっと、この子に言うてもらいたかったんや。

 

 言うてもらえへんのやと思っとった。

 

 でもこの子は、ちゃんと、俺のところに「席」を作ってくれた。

 

 ずっと、あの子のそばにいたかった。

 

 けれど、そばにいてもいいと、許されたことが、なかった。

 

 それが今日、この子の口から、初めて許された。

 

 その許しが、どれほど脆くて、どれほど尊いものか。

 

 手のひらが、ひとりでに熱くなった。

 

 そばにいて。

 

 たった、それだけやった。

 

 何かを買ってほしいわけでもない。どこかへ連れていってほしいわけでもない。何かを解決してほしいわけでもない。

 

 ただ、ここにいてほしい。

 

 それだけのことを、この子は、こんなにも苦しそうに頼んできた。

 

 今まで、何をしてたんやろう。

 

 兄貴として、できることはしてきたつもりやった。困っていたら助ける。頼まれたら力になる。妹たちが、いつでも帰ってこられる場所を作っておく。

 

 それで十分やと思っとった。

 

 でも。

 

 違ったんやな。

 

 この子は、助けてほしいとさえ言えんかったんや。

 

 辛いときに、辛いと言えへんかった。

 

 泣きたいときに、泣いているところを見せられへんかった。

 

 誰かにそばにいてほしくても。

 

 それを口にすることさえ、できへんかった。

 

 そんなこの子が。

 

 今、俺に。

 

 そばにいてほしいと言うてくれた。

 

 それが、どれほど大きなことなのか。

 

 俺には、痛いほど分かった。

 

 考えてみれば、あの子はさっきまで誰にも触れてほしくないような顔をしとった。自分の身体を小さく折りたたんで、できるだけ目立たんようにしとった。それが今、そばにいてほしいと言うてくれた。頼むこと自体が怖かったんやろう。断られるかもしれへんと思っていたんかもしれん。それでも、俺を呼んでくれた。

 

 俺にできることは、そんなに多くない。八千年の話を全部理解することも、この子の抱えとる苦しさをすぐに消すこともできへん。けれど、そばにいてくれと言われたら、ここにおれる。何も聞かんといてと言われたら、聞かずに待てる。難しいことは分からんでも、今の願いには応えられる。それが分かっただけで、さっきまで何もできんと思っていた自分にも、少しだけできることが見えた気がした。

 

「……おう。おるで」

 

 声が、少しだけ震えた。

 

「何も聞かへん。何も言わへん」

 

 俺は、できるだけ穏やかに続けた。

 

「せやから、安心しとき」

 

 少しだけ、間を置く。

 

「お兄ちゃん、ここにおるから」

 

 彼方は、何も言わへんかった。

 

 ただ、膝を抱える手から、少しずつ力が抜けていった。

 

 俺は、そっと手を伸ばした。

 

 彼方の頭に、ゆっくりと手を乗せる。

 

 髪の下の温度が、手のひらに伝わってくる。無理に撫でるのではなく、乗せたまま、そっと。

 

 小さい頃に、泣き疲れた彼方を寝かしつけたときと同じように。

 

 こうやって触れるのは、いつぶりやろ。

 

 この子は、俺にベタベタされるのを嫌がる子やった。大きくなってからは、部屋に入るときも、ノックを忘れんようになった。

 

 それがくすぐったかったのも、少し寂しかったのも、どっちも本当やった。

 

 彼方は、嫌がらへんかった。

 

 それだけで、少し安心した。

 

 しばらく、そのままでいた。

 

「……あたたかい……」

 

 彼方が、ゆっくりと息を吐いて言った。

 

「……朝日の手、あたたかい」

 

 喜びのような、悲しみのような、不思議な響きをしていた。

 

 温度を初めて知ったというような、それでいて、ずっと前から知っていたというような。

 

「そやろ。お兄ちゃんは、体温高めやからな」

 

 無理に軽く返した。

 

 今はこれくらいがちょうどいい。

 

 しばらくすると、彼方の身体から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。緊張と拒絶で張り詰めていた糸が、一本ずつ、ゆるんでいく。

 

「……眠い……」

 

「寝とけ。ずっとおるから」

 

 彼方は、俺の肩にこめかみを預けてきた。

 

 重さが、許しのように感じられた。

 

 肩越しに、小さな震えが伝わってくる。寒いのかと思って、手を伸ばして、ベッドの足元に畳んであった毛布を引き寄せた。

 

 起こさんように、肩から足もとにかける。

 

 彼方は目を開けへんかった。

 

 けれど、毛布の端を、指の先できゅっと掴んだ。

 

 安心した子供のような、無防備な力で。

 

 寝息を立て始めるまで、そこまで長くはかからへんかった。

 

 言葉を探し出す前に、身体のほうが先に、事を決めてしまったみたいに。

 

 小さな寝息が、規則正しく耳に届く。

 

 昔、遊び疲れて俺の背中で眠ったときの重さと、少しも変わらん。

 

 いや、少し軽くなったか。

 

 そう思うと、胸のあたりがきゅうっと縮んだ。

 

 ありのままの顔で眠っとる。

 

 目尻の涙は乾きかけているが、眉間の皺は、さっきよりずっと薄くなっている。

 

 あの頃と同じやった。

 

 この部屋。この子の寝顔。同じ距離で、同じ温度。

 

 でも、決定的にあの頃とは違う。

 

 何もできへんかったあの頃とは。

 

 今の俺は、この子の言葉に応えて、ここに座っている。

 

 この子は「そばにいて」と言うた。

 

 その一言がどれだけの勇気やったか、俺は、ちゃんと分かってる。

 

 眠りにつく直前まで、この子は身体に力を入れとった。何かを言おうとして、やめて、また言おうとしていた。あの沈黙のあいだに、どれだけの言葉が行き場をなくしたんやろう。全部聞かせてほしいとは思わへん。今は、眠れるなら眠ってくれたらええ。話せる日が来たら、そのときに聞けばええ。

 

 肩に預けられた重さは、昔より少し軽い。それでも、俺にとっては何より確かなものやった。目の前におるのは、誰かの記憶の中の存在やない。名前や呼び方が変わっても、今ここで呼吸をして、俺のそばで眠っとる妹や。そのことだけは、どんな難しい話を聞かされても忘れたくなかった。

 

     * * *

 

 俺は、眠っている彼方を見つめた。

 

 昔のことを、思い出す。 小さい頃。彼方は、よく俺の後ろをついて回っとった。彩葉のことが大好きで。でも、俺のことも慕ってくれとった。 何かあれば、すぐに呼んでくれた。

 

『お兄』

 

 その声が、今でも耳に残っとる。 もう、聞けへんのかもしれん。 そう思うと、やっぱり寂しかった。

 

 でも、それでええ。

 

 この子が、俺を朝日と呼ぶなら。それでええ。昔のことを忘れてしもたなら。それでもええ。俺のことを、兄貴やと思えへんのなら。 それでも、かまへん。 俺が、この子の兄貴であることは変わらへん。 この子が何を忘れても。どれだけ変わっても。

 

 俺は、覚えとる。

 

 小さい頃の彼方も。泣き虫やった彼方も。彩葉の後ろを追いかけとった彼方も。俺の家で、声を押し殺して泣いとった彼方も。

 

 全部、覚えとる。

 

 せやから。 もし、この子が何かを忘れてしもたんやったら。 俺が、覚えとけばええ。 この子が、自分のことを分からんくなってしもたんやったら。

 

 俺が、そばにおればええ。 無理に思い出させようとはせえへん。 昔に戻れとも言わへん。 ただ、この子が、安心して眠れる場所を作ってやりたい。

 

 泣きたいときに、泣ける場所を。 辛いときに、辛いと言える場所を。 何も言わんでも、誰かがそばにおる場所を。 それくらいなら、俺にもできる。

 

 八千年。

 

 その時間を、俺は知らん。 この子が何を見てきたのかも、分からへん。 でも、これから先の時間なら。 一緒に過ごせる。

 

 明日も。明後日も。来年も。その先も。 この子が、もう一度誰かを頼れるようになるまで。 何年かかっても、待てばええ。 俺は、そう思った。

 

 彼方が、小さく身じろぎした。俺の肩に、少しだけ深く寄りかかってくる。 俺は、動かへんかった。 そのまま、静かに頭を撫でた。

 

「……大丈夫や」

 

 眠っている彼方に、小さく呟いた。

 

「お兄ちゃん、ここにおるからな」

 

 返事はない。 けれど、彼方の寝息は、穏やかやった。

 

 それだけで、十分やった。

 

     * * *

 

 ふと、下の階の気配を思う。 彩葉は、もう泣きやんどるやろうか。 あいつは、いつも一人で抑え込むから。 昔から、そうやった。

 

 辛いことがあっても、なかなか人に頼らへん。お母さんとぶつかったときも。家を出ると決めたときも。 自分で決めたことやからと、何もかも一人で抱え込もうとしとった。 あいつは、俺よりずっと不器用や。 泣きたいときほど顔を上げようとして、結局、一番深いところまで潜ってしまう。

 

 でも、今日の彩葉は違う。 あいつは、彼方に会いに来た。 自分から、向き合おうとした。 それが、どれだけ勇気のいることやったか。俺には、少し分かる。

 

 せやけど、あいつは、拒絶された。 彼方に。 自分が一番大切に思っとる妹に。 あの言葉を向けられた。

 

 どれだけ辛かったやろう。どれだけ、苦しかったやろう。 俺は、胸の奥が痛くなった。 彩葉も、俺の妹や。 彼方だけやない。

 

 あいつのことも、守ってやりたい。 でも、今は、彼方が眠っとる。 この子を起こしてまで、下へ行くわけにはいかへん。 俺は、少しだけ考えた。

 

 それから、さっき聞こえてきた声を思い出した。

 

『いいわけ、ないじゃん!』

 

 彩葉の声やった。 泣きながら、それでも強く叫んでいた。 あの声には、芯があった。 折れた人間の声やなかった。

 

 きっと、ヤチヨちゃんがそばにいてくれとる。 あの子なら、彩葉のことを支えてくれるやろう。 俺は、少しだけ安心した。 彼方には、俺がおる。

 

 彩葉には、ヤチヨちゃんがおる。 そして、俺たちは、家族や。 どれだけ離れても。どれだけ傷つけ合っても。 もう一度、向き合おうとすることはできる。

 

 もちろん、簡単なことやない。 今日、彼方は彩葉を拒絶した。その傷は、すぐには消えへん。 彩葉が謝ったからといって、全部元どおりになるわけでもない。 それでも、あいつは、きっと諦めへん。

 

 俺は、そう思った。 彩葉は、不器用や。頑固で、意地っ張りで。時々、どうしようもなく自分勝手や。 でも、一度決めたことは、最後までやり通そうとする。 そんな妹や。

 

 だから、きっと。 また、ここへ来る。 彼方に、向き合おうとする。 そのとき、俺は、二人の間に立ってやりたい。

 

 無理に仲直りさせるんやない。 どちらかに我慢を強いるんでもない。 ただ、二人がちゃんと話せるように。お互いの言葉を、聞けるように。 そのために、できることをしたい。

 

 俺は、眠っている彼方を見つめた。 この子は、今、何を夢見とるんやろう。 八千年の夢やろうか。 それとも。

 

 昔の、何も知らんかった頃の夢やろうか。

 

 分からへん。

 

 けれど、願わくば。 今だけは、穏やかな夢を見ていてほしい。 誰にも追いかけられず。何も隠さず。何も怖がらず。 ただ、安心して眠っていてほしい。

 

 俺は、そっと毛布を直した。 彼方は、目を覚まさへんかった。 小さな寝息だけが、静かに続いている。 その音を聞きながら、俺は目を閉じた。

 

 あの夜。 俺は、何もできへんかった。 泣いている妹のそばに座ることしかできへんかった。 でも、今日は違う。

 

 この子は、俺に言うてくれた。 そばにいて。 その願いに、応えることができた。 それだけで、今日、ここへ来てよかったと思えた。

 

 俺は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 守るで。

 

 何年かかっても。 お前が、どれだけ変わってしもても。 俺は、お前の兄貴や。

 

 それだけは、絶対に変わらへん。

 

 そう、心の中で誓った。 そのときだった。 階下から、小さな足音が聞こえた。 一歩。

 

 また、一歩。 ゆっくりと、けれど確かに。 誰かが、階段へ向かって歩いてくる。 俺は、目を開けた。

 

 彩葉やろう。 あいつが、立ち上がったんや。 俺は、眠っている彼方を見つめた。 この子は、まだ眠っとる。

 

 今すぐ、彩葉と話せる状態やないやろう。 せやけど、それでええ。 急ぐ必要なんて、ない。

 

 八千年。

 

 そんな途方もない時間を生きてきたかもしれんこの子に。 今すぐ、答えを出せなんて言えるわけがない。 これから、ゆっくりでええ。 少しずつ。

 

 一歩ずつ。 また、家族になっていけばええ。 俺は、そう思った。 足音が、少しずつ近づいてくる。

 

 先に扉を開けたのは俺や。

 

 でも、これから先の扉は。 あいつと、この子とで、開けていくんや。 その日が来るまで。 俺は、ここで待っとる。

 

 彼方のそばで。 あいつが、安心して眠れるように。 そして、彩葉が、もう一度この子に手を伸ばせるように。

 

 俺は、静かに息を吐いた。

 

 ――来い。彩葉。




は?朝日イケメンすぎやろ
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