身支度を整えて自室の扉を開け、階段を下りる。一階の食堂へ行くと、朝の冷たい光が浅く差し込む玄関脇で、ヴェラが自分の装備を身につけているところだった。昨夜、自室の扉の右側へ立てかけた丸盾と短槍。
左腕へ丸盾を通し、右足首には昨日〈鉄床亭〉で当て革を足してもらった革帯を巻いている。カチリと金具を留める指先に迷いはなかった。
「ヴェラさん。革帯の状態はどうですか」
「申告します。痺れ、擦れはありません。当て革にも問題ありません。階段を下りる時も、右膝の沈み込みは昨日より小さくなっています」
「分かりました」
俺が頷くと、ヴェラは装備を外さないまま食堂へ入り、厚手で表面に粗い溝の入った自分の湯呑みを卓へ置いた。そこへ厨房から大きな鍋を抱えて出てきた女将が、湯気の向こうから口を挟む。
「朝から通り道を塞ぐんじゃないよ。難しい確認が終わったなら、座って食べな」
「すみません、女将さん」
「……申し訳ありません」
ヴェラが深く頭を下げかけると、女将は鍋を置いて手巾をひらひら振った。
「いいから。仕事へ出るんだろ。朝飯が冷めるよ」
ヴェラは丸盾を外し、短槍と一緒に玄関脇の壁へ寄せてから席についた。野菜スープの入った器が俺たちの前に置かれる。湯気の立つ野菜スープと黒パンを口へ運び、いつも通りの朝食を終えて、俺とヴェラは〈鈍色亭〉を出た。
◆
ギルドの広間は朝の混雑が続き、掲示板の前には依頼票を眺める冒険者が行き交っていた。報酬だけ見て紙を剥がす者もいれば、依頼主の名前を確かめて首を振る者もいる。脇に立つエルザは帳面に何か書いていたが、俺たちを見つけると筆を収めた。
髪際では、リンが白い雫のような身体を小さく揺らしている。
「おはようございます」
挨拶を交わすと、エルザはヴェラの足元と新しい丸盾を見てから、帳面に挟んだ三枚の依頼票を取り出した。
「昨夕に決めた条件へ合いそうなものを、三件まで絞りました」
最初の依頼票は、南街道を通る商人の荷車護衛だった。紙の端には、泥のついた指跡が残っている。日帰りでき、道も整っているが、歩く距離は長い。襲撃があるなら、どこから来るかも読みづらい。
二枚目は、東側の灌漑水路に出る小型魔物の駆除だった。依頼票には簡単な地図が添えられていた。平地ではあるが、水路沿いにはぬかるみと、膝近くまで水に入る場所があるらしい。三枚目は、王都南東の放牧地周辺に出る、野犬に似た小型魔物の追い払いと安全確認。
開けた草地で高低差も少なく、狭い場所もない。退くなら南の街道へ出やすい。
「三件の違いは、おおむね以上です」
エルザが説明を終えたところで、ヴェラへ向き直った。
「ヴェラさん」
「はい」
「この三つの中で、右脚や装備の扱いに明らかな問題が出そうなものはありますか」
ヴェラは依頼票を順番に見た。
「荷車護衛は、長時間の連続歩行によって右脚への負担が蓄積します。水路の依頼は、泥濘では踏み込みが遅れ、盾を構えたまま動きにくくなります」
それから三枚目へ目を移す。
「放牧地であれば、足場が平坦で、盾で進路を塞ぐ動きと退路の確保を行いやすいと判断します」
「ヴェラさんとしても、今の三件なら放牧地が一番動きやすいという判断ですか」
「はい」
エルザがこちらを見た。
「私が考えていた条件とも一致します」
「では、今回はこれにしましょう」
放牧地の依頼票を手に取った。
◆
ミラの窓口へ向かい、依頼票を置いた。
「南東放牧地の安全確認ですね」
ミラは依頼票へ目を通し、それから俺たち三人を見た。
「ヴェラさんを含む三人での受注ですね。登録内容に変更はありませんか」
「ありません」
答えると、ミラは受諾控えに印を加え、途中でリンへ視線を上げた。
「そういえば、以前ご相談いただいた精霊の件なんですが」
「何か分かりましたか?」
エルザの問いに、ミラは首を横へ振った。
「私では、やはり食事のことまでは分かりませんでした。ただ、精霊と一緒に活動している冒険者の方に話を聞けそうです。都合が合えば、一度お引き合わせしますね」
ちりん。
リンが小さく鳴いた。
「ありがとうございます」
エルザが頭を下げた。
「日帰り圏内ですが、無理な深追いは避けてください。数や被害状況が依頼内容と違う場合は、戻って報告して構いません」
「分かりました。ありがとうございます」
控えを受け取り、ギルドを出る。建物脇の小さな広場で、俺たちは立ち位置を確認した。
「配置を復唱します」
エルザが落ち着いた声で告げた。
「中央前方にノワールさん。右側で前衛の補助と進路を塞ぐ役をヴェラさん。私は左側面を警戒します。退く場合は、南側の街道を目指します」
「了解です」
俺が応じる。ヴェラが、短槍を持ったままこちらを見た。
「質問があります」
「何でしょう」
「昨日、ドラン様から、何も言われない間に何か一つ決めるよう課されました。本依頼でも、指示のない時間を設けるのでしょうか」
声は平静でも、槍を握る指には少し力が入っている。
「いいえ」
首を横に振った。
「実戦で、こちらからわざと指示を止めることはしません。必要な時はできる限り声を出し、指示を出します」
「……実施しないのですか」
「訓練と実戦は別です。今日の目的は、ヴェラさんを試すことではありません。三人で行って、三人で無事に帰ることです」
エルザが言葉を継いだ。
「ただし、戦闘中は指示が間に合わないことがあります。その場合は、昨日と同じように声を出してください」
「……承知しました」
ヴェラは短槍を握り直した。
「それから、長く歩くので、途中で一度革帯を確認しましょう。違和感が出たら、その前でも申告してください」
「承知しました」
◆
南門を抜け、土の街道を進んだ。朝日が草地を温め、低い風が砂埃を薄くさらっていく。轍の脇を歩くたび、ヴェラの盾の金具が鳴る。道の半ばで休むと、ヴェラは自分から革帯を緩めた。
ブーツを脱いで足首の皮膚と痺れを確かめ、異常なしと申告した。少し休んで革帯を巻き直す。一時間ほど進むと、街道脇に木柵で囲まれた放牧地が見えた。丸太小屋から羊毛の作業着を着た年配の牧人が出てくる。
「ギルドの冒険者さんたちかい。助かるよ」
牧人が北の草地を指した。
「二日ほど前から、野犬みたいな魔物が二匹、奥をうろついていてね。羊はまだやられていないが、夜になると吠え声がするんだ」
俺とエルザで話を聞く。
最後に見た場所。逃げた方向。柵の傷。羊が今どこにいるか。
それから、人が残っていないか。
「北側の草地には、今は誰もいません。羊も南の囲いへ移したよ」
「分かりました」
牧人へ礼を言い、俺たちは放牧地へ入った。青い草が広がる、なだらかな平地だった。足元は乾いている。
「ここから先は警戒しましょう」
俺が言う。
「ノワールさんを中央前方、ヴェラさんは右側、私は左側を見ます」
「承知しました」
三人で北側へ進む。しばらくしたところで、ヴェラが足を止めた。
「申告します」
右斜め前の古い木柵を見ていた。
「北東側の柵が二本倒れています。あの方向へ退いた場合、盾を構えたまま通ることは困難です」
俺とエルザも、その場所を確認した。朽ちた木柵が根元から折れ、倒れた丸太が足元を塞いでいる。
「分かりました。北東側は退路に使いません」
答えると、エルザも頷いた。
「退く場合は、南の街道へ向かいましょう」
「承知しました」
ヴェラはそれ以上何も言わず、また右側へ戻った。
◆
北側の草地へ差しかかった時、エルザが足を緩めた。踏み荒らされた草の間に、土の露出した場所がある。
「足跡があります」
エルザが膝をついて爪痕を確かめる。大きさの違う跡が二種類。さらに同じ大きさの跡でも、片方だけ外側の爪が欠けていた。踏み倒された草の筋は三方向から重なっている。
「ノワールさん」
「はい」
「二体ではありません。少なくとも三体いる可能性が高いです」
剣の柄に手をかけた。
「警戒」
その声に合わせてヴェラの丸盾が胸元へ上がり、短槍の穂先が斜め下に据えられた。エルザも立って左を警戒する。風が草の先を同じ方向へ撫でていた。
「申告します」
ヴェラの声が落ちた。
「右前方の草が、風と違う動きをしています。何かが低く潜んでいる可能性があります」
目を向けると、右の草むらが大きく沈んだ。
「来ます!」
エルザの声が飛んだ。