PROJECT CRUCIBLE ―彼女たちは兵器になる―   作:炎迅無頼気

6 / 7
Case06 マンドラゴラ:土に埋もれた彼女

 

 

 最初に戻ってきたのは、痛みではなかった。

 

 鼻の奥へまとわりつく湿った土の臭いと、頬へ押しつけられた冷たさ。それから、身体のどこを動かそうとしても重たい布でも被せられているような、鈍く遠い感覚だった。自分が何かの下敷きになっていることは分かっても、それが何なのかを考えるだけの余裕はなく、マンドラゴラはしばらく、意識の底へ沈み込んでいくような奇妙な感覚に身を任せていた。

 

 やがて目を開けようとして、すぐに意味がないことに気付いた。瞼が上がっているのか閉じているのかさえ判然としないほど暗く、浅く息を吸うたび、鼻先で細かな砂が崩れる。胸郭が僅かに広がるだけで脇腹から背中へ遅れて痛みが走り、呼吸を続けるためには、できるだけ身体を動かさないようにする必要があった。

 

 自分は横たわっているらしい。背中の下には冷たく硬い地面があり、胸や腹の上には、呼吸に合わせてほんの僅かに沈み込む重たいものが載っている。その正体を確かめようと指先へ意識を集中させたところで、爪の周りへ入り込んだざらついた感触と、鼻を満たしていた臭いがようやく一つに繋がった。

 

 土だ。

 

 その事実を理解した途端、ひどく古い記憶が勝手に浮かんできた。

 

 昔にも、こんなことがあった。狭く、暗く、息苦しい場所へ押し込められ、出口のない土の中から、指先で少しずつ地面を削ったことがある。石に爪を引っ掛け、湿った泥を掻き分け、排水路へ向かってひたすら掘り進んだ。誰も助けてくれないなら自分で出るしかないと、あの頃の彼女は嫌というほど思い知らされていたし、実際、助けを待っていたところで何かが変わったとも思えない。だから指から血が出ようが構わなかったし、ようやく外の臭いがした時には、自分の手がどうなっているかなど気にもしていなかった。

 

 今回も、同じようにすればいい。

 

 そう考えて右手へ力を込めた瞬間、指先から肩にかけて、鈍い痛みがゆっくりと広がった。土の中へ埋もれた指は僅かに震えただけで、手首を返すこともできない。肩から先が他人の身体のように重く、腹へ力を入れようとすれば胸の奥が詰まり、脚に至っては伸びているのか曲がっているのかさえ曖昧だった。

 

「……っ……」

 

 声を出したつもりが、喉の奥で掠れた空気が鳴っただけだった。

 

 駄目ね、と妙に冷静な考えが浮かんだ。

 

 以前なら、ここからが本番だったはずだ。土の重さなど無視して身体を捩り、息が苦しくなればなるほど意地になって出口を探し、指先が動かなくなれば肘でも肩でも使っていたに違いない。もともと、誰かに助けてもらうことを期待して生きてきたわけではないのだから、今更こんなところで諦める理由などない。

 

 それなのに今回は、どうしても焦りが湧いてこなかった。

 

 身体が動かないことを確かめても、胸の奥から込み上げてくるはずの怒りや恐怖が、ひどく遠いところにある。呼吸が苦しいのは確かだったが、その苦しささえ、もう自分とはあまり関係のないもののように感じられた。

 

 最後に何があったのかを思い出そうとすると、血に濡れた床や紫色の炎、遠くで聞こえた誰かの声が、切れ切れに浮かんでは消えた。誰かを必死に呼んでいたような気がするし、最後には自分も地面へ倒れていたはずだった。右に誰かがいて、左にも何かがあった。どちらへ手を伸ばしたのか、その先まで辿ろうとすると、頭の奥へ鋭い痛みが差し込み、まとまりかけていた記憶がまた散らばってしまう。

 

 マンドラゴラは、それ以上思い出そうとするのをやめた。

 

「……もう……いいわよ……」

 

 誰に向けて言ったのか、自分でも分からなかった。耳元へ落ちてくる土の感触を確かめながら、再び目を閉じようとした、その直後だった。

 

 耳の先へ、ごく小さな振動が届いた。

 

 最初は地中を何かが通ったのだと思ったが、少し待っていると、振動は一定の間隔ではなく、場所を変えながら近付いてくることが分かった。硬いものが土を削る感触が断続的に伝わり、そのたびに細かな粒が耳の付け根へ落ちてくる。遠くから何かの駆動音まで混じり始め、地面の下へ埋められているという考えが、いよいよ確かなものになっていった。

 

 フェリーンの耳が反射的に動く。

 

「……何よ……」

 

 面倒そうに呟いた直後、頭上の土が大きく震えた。

 

 それまで隙間なく身体を覆っていた土が少しずつ崩れ、やがて細い裂け目から白い光が差し込んできた。完全な暗闇の中にいたせいで、その程度の明るさでも目の奥へ鋭く突き刺さり、マンドラゴラは顔を背けようとして、首がほとんど動かないことを思い出した。

 

 仕方なく目を閉じると、今度は頭上で金属が動く音がはっきり聞こえた。

 

 土を取り除いているのは、人の手ではないらしい。金属の爪のようなものが、彼女の身体へ触れないぎりぎりの位置を選んで土を掻き分け、一定の量を掬い上げるたびに、周囲の圧迫感が少しずつ軽くなっていく。胸の上を覆っていた重さが取り除かれると、急に深く息を吸えるようになったものの、今度は胸や腹の傷が強く疼き、マンドラゴラは思わず顔をしかめた。

 

 やがて、冷たい外気が頬を撫でた。

 

 薄く目を開けると、頭上には土とは違うものが見えた。

 

 誰かが、穴の縁からこちらを覗き込んでいる。

 

 少女、と最初は思った。少なくとも見た目だけなら、自分よりずっと幼く見える。けれど耳は何かの種族の特徴なのか細長く尖り、柔らかな顔立ちには、その外見と釣り合わないほど落ち着いた雰囲気があった。背後から何本もの細い管やケーブルが伸びていることにも、少し遅れて気付く。人間の腕と呼ぶには関節の多すぎる機械肢まで、その女の動きに合わせるように位置を変えており、一体どこまでが本人の身体なのか、見ただけでは判断できなかった。

 

 女は泥にまみれたマンドラゴラを眺め、何かを確かめるように顔を近付けた。

 

 そして、ひどく安心したように目元を緩める。

 

「見つけた」

 

 やはり、聞き覚えのない声だった。

 

「よかった。間に合ったわ」

 

 マンドラゴラは乾いた唇を開き、喉へ張り付いた土の味に眉を寄せた。何を勝手に喜んでいるのかと文句を言ってやりたかったが、息を吸うだけでも胸が痛み、まともな声を出すことさえ難しかった。

 

「……余計な……こと……」

 

「あら」

 

 女は少し首を傾げたが、不機嫌になるでもなく、穴の縁へ膝をついた。背後の機械肢が動き、まだ身体の周囲へ残っていた土を慎重に除いていく。

 

「喋れるのね。それなら少し安心したわ」

 

「……誰が……助けろなんて……」

 

「言われてないわ」

 

 あまりにも当然のように返されて、マンドラゴラは僅かに目を開いた。

 

 女は笑ってもいなければ、申し訳なさそうにもしていない。ただ、そこに生きているものを見つけたから触れているような、ごく自然な手つきで頬についた土を払った。手袋越しではなく、温かな指が直接肌へ触れたことが意外で、マンドラゴラは僅かに眉を動かした。

 

「でも、生きていたでしょう?」

 

「……だからって……」

 

「続きは後で聞くわ。今は動かなくていいの」

 

 そう言いながら、女は彼女の頭部をそっと支え、背後で待機していた機械へ何かを指示したらしい。身体の下へ薄い支持板が差し込まれ、全身を一度に持ち上げられる感触が伝わってきた。

 

「命令……してんじゃ……」

 

 最後まで言い切る前に、意識が沈んだ。

 

 視界が暗くなる直前、女がまだ何かを話しているのが見えたが、もう言葉までは聞き取れない。

 

 薄れゆく感覚の中で最後まで残っていたのは、額へ触れた手の温度だった。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 次に目を覚ました時、天井は白かった。

 

 眩しいほどではない。壁へ埋め込まれた照明が均一に部屋を照らしており、視線をどこへ向けても、濃い影はほとんど見当たらなかった。土の臭いも湿った冷気も消え、代わりに薬品と金属の臭いが薄く漂っている。

 身じろぎすると、身体へ巻かれた包帯や皮膚へ繋がった細い管が擦れ、その下に残る傷の存在を思い出させた。

 

 マンドラゴラはしばらく天井を眺め、自分が置かれている状況を確かめるように、右手へ意識を集中させた。

 

 指が曲がる。

 

 土の中では殆ど動かなかった手が、今は自分の意思に従っている。まだ力は入らず、肘を持ち上げようとすれば肩の奥が痛んだものの、少なくとも感覚そのものは戻っていた。左手も、両脚も同じだったため、マンドラゴラはようやく少しだけ息を吐いた。

 

「起きたのね」

 

 聞き覚えのある声がして、そちらへ顔を向けた。

 

 部屋の隅に、あの女がいた。

 

 椅子へ腰掛け、薄い板状の端末を眺めている。背中から伸びる何本もの管やケーブルのうち、いくつかは壁の設備へ直接繋がっており、端末を操作する指先とは別に、細い機械肢が時折静かに動いていた。

 

 まるで部屋そのものから生えているみたいだ、とマンドラゴラは思った。

 

 土の中で見た時には朦朧としていたため、改めて眺めると、その異様な姿がよく分かる。機械が身体へ取り付けられているというより、本人と周囲の設備との境界が曖昧になっているようで、見ているだけでも落ち着かなかった。

 

「……ずっといたの?」

 

「ええ」

 

 女は端末から顔を上げ、何でもないことのように微笑んだ。

 

 マンドラゴラはその顔を見て、真っ先に浮かんだ疑問を口にした。

 

「暇なの?」

 

「忙しいわよ」

 

「じゃあ仕事しなさいよ。こんなところで何してんの?」

 

「あら、してるわよ」

 

 女は端末を閉じて立ち上がり、ベッドの横まで来ると、包帯の端へ指を添えた。そこへ繋がっている細い管の位置を確かめ、何かを記録するように端末へ目を戻す。

 

「あなたを見るのも仕事だもの」

 

「……気持ち悪い」

 

「そう?」

 

 まるで堪えていない。

 マンドラゴラは露骨に眉をひそめたが、女の方は気にした様子もなく、包帯の下へ触れる手つきを僅かに変えただけだった。少なくとも、傷へ余計な力をかけないよう気を遣っていることは分かる。

 

 そのことが、かえって気に入らなかった。

 

「……名前」

 

 マンドラゴラが口を開くと、女は顔を上げた。

 

「なあに?」

 

「あんたのよ。いつまで『あんた』って呼ばせる気?」

 

「私は困らないけれど……そうね、《蔦王》と呼ばれているわ」

 

「何よそれ。趣味悪い名前」

 

 蔦王は少し楽しそうに笑い、背後から伸びていたケーブルを一本、指先で持ち上げて見せた。

 

「昔の人たちが付けたの。これを蔦だと思ったみたい」

 

「どう見ても管じゃない……」

 

「面白いでしょう?」

 

 からかっているのか、それとも本当に面白がっているだけなのか。どちらにしても、その妙に呑気な態度が腹立たしく、マンドラゴラは相手の手元から視線を外した。

 

「本名は?」

 

「長いから、今は蔦王でいいわ」

 

「……ほんっと変な女」

 

「あなたはマンドラゴラでしょう?」

 

 唐突に自分の名を出され、マンドラゴラの耳が僅かに立った。

 

 土の中で掘り出された時には、名前を名乗った覚えなどない。ここへ運び込まれた後も意識を失っていたはずなのだから、少なくとも相手は何らかの方法で自分について調べていることになる。

 

「どこで調べたのよ」

 

「あなたを見つけた場所と、その周辺よ。それから、持ち物を少し」

 

「……どこまで知ってる?」

 

 声に警戒を滲ませると、蔦王は確認するように端末へ目を向けた。

 

「ダブリンにいたこと。術師であること。戦うのが上手なこと」

 

 それから、少し考えて付け足す。

 

「それと、口が悪いこと」

 

「誰から聞いたのよ、それ!」

 

「今分かったわ」

 

 そのすました顔を一発殴ってやろうと思った瞬間、腹の傷が引き攣った。

 

 反射的に身体を起こそうとしたせいらしい。脇腹から背中へ鋭い痛みが走り、マンドラゴラは息を詰まらせて寝台へ沈み込んだ。

 

「痛んだ?」

 

 蔦王はすぐにベッドの角度を変え、彼女が無理に腹筋へ力を入れなくても済む位置へ上体を支え直した。

 

「……触んないで」

 

「ええ」

 

 返事だけは素直だったが、手は止まらなかった。包帯の状態を確かめ、細い管が引っ張られていないことを確認すると、最後に額へ指先を当ててくる。

 

「熱は下がってきたわね。今日は少し食べられそう?」

 

「……毒でも入ってんじゃないの?」

 

「入れてないわ」

 

 あまりにも即答され、マンドラゴラはますます不機嫌になった。

 

「そこまで迷いなく言われると、余計に怪しいんだけど」

 

「なら、先に私が食べましょうか?」

 

「っ!そういうことじゃ──」

 

 怒鳴ったせいで言葉の途中で咳き込み、胸を押さえる。蔦王は背中へ手を伸ばしかけたが、マンドラゴラが睨むと、それ以上は触れずに水だけを差し出した。

 

 飲むのも癪だったが、乾いた喉には逆らえなかった。

 

 そうして、妙な生活が始まった。

 

 朝、目を覚ます頃には蔦王が来ており、昼にも一度は顔を出した。夜も遅くなりすぎなければ現れ、傷の状態や食事の量を確かめていく。ほかにも仕事は山ほどあるらしく、時には端末を操作しながらマンドラゴラの側へ座っていることもあったが、それでも一日のうち、何度かは必ず彼女の様子を見に来ていた。

 

 最初の数日は、自力で上体を起こすことさえ難しかった。

 

 食事も薬もほとんど手伝われ、匙を口元へ運ばれるたび、マンドラゴラは自分が小さな子供にでも戻ってしまったような気分になった。自分の身体さえまともに動かせないことが悔しく、何度も腕を振り払おうとしたものの、力の入らない手では相手の動きを止めることもできない。

 

「もう自分で食べられるわよ」

 

「昨日、匙を落としたでしょう?」

 

 蔦王が皿を支えながら言うと、マンドラゴラは露骨に唇を尖らせた。

 

「一回だけじゃない!」

 

「三回よ」

 

「数えてんじゃないわよ!」

 

 結局、その日も途中から手伝われることになった。

 

 食事が終われば傷を見られ、包帯を替えられ、体温を測られる。どれだけ嫌がっても処置を中止してくれるわけではないが、痛いと言えば力を弱め、傷を引っ張られれば位置を変えてくれた。相手の都合で勝手に進められていることには変わりないのに、扱いそのものは驚くほど丁寧だった。

 

 いつもの大きな外套が見当たらないことに気付いたのも、その頃だった。

 

 聞けば、土と血で酷く汚れていたため洗っているらしい。内側の衣装についても、治療の邪魔になる部分だけは切る必要があったと聞かされ、マンドラゴラはしばらく口を利かなかった。

 

「勝手に服まで切ったの?」

 

「脱がせないと治療できなかったもの」

 

「だからって……あれ、あたしの服なのよ?」

 

「ええ。分かっているわ。残せるところは残してあるし、傷が治ればまた着られるようにしてあげる」

 

「そういう問題じゃないのよ」

 

「そうね」

 

 蔦王は反論せず、ただ頷いた。

 

 何を言っても、マンドラゴラの不満そのものは否定されないし、何も変わらない。

 

 嫌だと言っても傷の処置は続くし、薬も飲まされる。体調が悪ければ問答無用で横にされ、まだ歩けないと言われれば、どれだけ文句を言っても寝台から降ろしてもらえなかった。にもかかわらず、傷を乱暴に扱われたり、痛みを訴えても無視されたりすることは一度もない。

 

 まるで、自分が嫌がっていることと、丁寧に世話をすることが、あの女の中では最初から何の矛盾もなく並んでいるようだった。

 

 髪へ残った泥を洗われた時も、そうだった。

 

 まだ身体を起こして浴室へ行ける状態ではなかったため、寝台の脇へ専用の台を持ち込み、首へ負担をかけないよう少しずつ湯を流していく。長く土に埋もれていたせいで短い黒髪には細かな泥が絡みついており、蔦王が指を通すたび、根元の辺りで小さな抵抗が生じた。

 

「そこ、引っ張らないでよ」

 

「絡まってるの。少し待ってね」

 

「だからって痛いのは嫌なの」

 

「分かったわ。もっとゆっくりするわね」

 

 蔦王は指を止め、絡まった毛束へ少しずつ湯を含ませると、今度は毛先から丁寧に解き始めた。

 

 言った通り、それ以降は殆ど痛くなくなった。

 

 そのことが、妙に腹立たしい。

 

 怒鳴りつけるために用意していた言葉が、使い道を失ってしまうのだから仕方がない。

 

 髪の次は耳だった。

 

 土の中にいたせいで、細かな傷に泥が入り込んでいるらしい。鏡を見せられると、耳介の内側には赤く擦れた箇所がいくつか残っており、洗っただけでは落ちなかった汚れも見えた。

 

 蔦王が綿布を手に耳の根元へ触れた瞬間、マンドラゴラは反射的に頭を引いた。

 

「ちょっと!勝手に触らないでよ!」

 

「ここ、傷があるわ」

 

「見れば分かるでしょ!」

 

「だから治すの」

 

「だからって触るなって言ってるの!」

 

 蔦王は手を離さず、ただ指の力を少しだけ緩めた。耳の縁へ残っている泥を確かめるように触れ、マンドラゴラが顔を背けようとすると、それ以上引っ張られないよう後頭部を支え直す。

 

「……痛かった?」

 

「そういう問題じゃない!」

 

「そう。でも痛くはしないわ」

 

「話聞いてる!?」

 

「聞いてるわよ」

 

 確かに聞いてはいるのだろう。返事をするだけなら、余程きちんとしている。けれど、聞いた上で続けている。

 

 怒鳴り続けるのも馬鹿らしくなり、マンドラゴラは耳を伏せたまま処置が終わるのを待った。蔦王はその間も何度か痛みの有無を尋ね、汚れを取り終えると、最後に傷へ薬を塗ってくれた。

 

 終わった頃には、確かに痛みが随分軽くなっていた。

 

 鏡へ映った耳も、先ほどよりずっと綺麗になっている。

 

「……まあ、少しはましになったわね」

 

 マンドラゴラが渋々そう言うと、蔦王は嬉しそうに目を細めた。

 

「ええ。よかったわ」

 

 その顔を見ると、なぜか素直に礼を言う気にはなれなかった。

 

 時間が経つにつれ、マンドラゴラは自分で起き上がれるようになり、やがて支えなしでも短い距離なら歩けるようになった。

 

 最初は寝台から部屋の入口まで辿り着くだけで疲れていたが、少しずつ歩ける距離が伸びると、今度は部屋の外へ出たくなった。まだ脚の筋肉は頼りなく、長く歩けば太腿の奥へ疲れが溜まる。それでも、一日中白い天井を見上げているよりはずっとましだった。

 

 蔦王に頼むと、決められた範囲なら廊下へ出てもいいと言われた。

 

 その話では、今いるのは治療を行う部屋が集まっている一帯らしい。さらに奥には研究や整備に使う場所もあるとのことだったが、どこへでも好きに行けるわけではない。扉によっては目の前まで行っても開かず、別の通路へ入ろうとすれば、無言のスタッフが前へ立つ。

 

 彼らは皆、どこか奇妙だった。

 

 外見だけならただの人間のように見えるが、こちらが声をかけても、必要な時以外はほとんど反応しない。怒鳴りつけようが、皮肉を浴びせようが、決められた動作を繰り返すだけで、その表情にも殆ど変化がなかった。

 

「何なのよ、こいつら」

 

 ある日、一緒に廊下を歩いていた蔦王へ尋ねると、彼女は何でもないことのように答えた。

 

「スタッフよ」

 

「それくらい見れば分かるわよ。なんで何言っても返事しないの?」

 

「必要なことは私が話すからじゃないかしら」

 

「それで納得しろって?」

 

「しなくてもいいわ」

 

 蔦王は少しも困った顔をせず、立ち止まったスタッフの横を通り過ぎていく。

 

 マンドラゴラはその背中を睨み、返事をしない相手へもう一度だけ視線を向けた。

 

 やはり、どうにも会話が噛み合わない。

 

 ある日の午後、マンドラゴラは一人で廊下を歩いていた。

 

 長く寝かされていたせいで脚はまだ重く、歩くたびに脇腹の傷が僅かに引き攣る。それでも、以前のように数歩進んだだけで息が上がることはなくなっていた。蔦王の話では順調に回復しているらしいが、だからといって素直に感謝する気にはなれず、今はただ、自分の足で歩けるようになったことが嬉しかった。

 

 角を曲がった先で、大きな扉が開いているのが見えた。

 

 普段なら閉じている場所だった。少なくとも、マンドラゴラがこれまで通りかかった時には一度も開いておらず、内部がどうなっているのかは知らなかった。

 

 中では何人かのスタッフが作業をしていたが、こちらを止める者はいない。入ってもいい場所なのか、それとも単に気付かれていないだけなのか分からなかったものの、止められないなら見てやろうと、マンドラゴラは足を進めた。

 

 扉の向こうは、想像していた以上に広かった。

 

 天井には何本もの太いレールが走り、そこから吊り下げられた設備がゆっくりと移動している。空気は廊下より少し冷たく、機械の発する低い駆動音が床を通して伝わってきた。奥には大型の設備がいくつも並んでおり、その大半が人間を遥かに上回る大きさを持っているらしい。

 

 最初に目へ入ったのは、そのうちの一つから突き出した長大な砲身だった。

 

 太い基部から前方へ伸びる砲身の下には、低く構えた四本の機械脚がある。全体を覆う黒い装甲には幾つもの継ぎ目が設けられ、脚の関節部や砲身の支持部には、淡い光を帯びた回路らしきものが走っていた。

 

 マンドラゴラはその機体へ近付こうとして、中央部分に妙に生々しい色が混じっていることへ気付いた。

 

 黒い機械の隙間から、肌が覗いている。

 

 その位置があまりにも不自然だったため、最初は何かの人形を装飾のように取り付けているのかと思った。けれど近付くにつれ、機械の中央へ収められているものが、人間の身体そのものだと分かってきた。

 

 女性だった。

 

 胸郭と骨盤を機械の支持構造へ固定され、腕も脚も、それぞれ異なる位置へ保持されている。頭部は顔ごと黒い構造物へ収められており、目元も口元も見えない。人間の身体であることは確かだったが、立っているわけでも座っているわけでもなく、機械の中心へ無理やり形を合わせたような姿勢だった。

 

 マンドラゴラは足を止めた。

 

 その体格と髪には、見覚えがあった。

 

 まさか、と思いながら機体の側面に目を向けると、そこに設けられた小さな表示器へ、見慣れない記号とともに名前が記されていた。

 

《B2-H1 HORN》

 

 文字を読み終えた瞬間、マンドラゴラは目を見開いた。

 

 そして、堪えきれなくなったように笑い始めた。

 

「……っ、あは……!」

 

 まだ傷の残る腹へ響くのも構わず、肩を震わせる。何度か息を整えようとしたものの、目の前の光景を改めて見れば、そのたびに新しい笑いが込み上げてきた。

 

「何よ、それ……!」

 

 あのホルンが、こんな姿になっている。

 

 あれだけしつこく追い回し、何度撃っても立ち上がり、最後までヴィクトリアの何だのとくだらないことを言っていた女が、今は巨大な砲の下へ身体ごと組み込まれているのだ。

 

 散々こちらを苦しめた相手が、手足を好きな方向へ動かすことさえできず、顔まで機械へ呑み込まれている。

 これを笑わずにいられるものか。

 

「ホルン!随分立派になったじゃない?」

 

 声を張り上げてみたが、返事はなかった。

 

 マンドラゴラは笑いながらさらに一歩近付き、顔があるはずの黒い構造物へ向かって、わざとらしく首を傾げてみせた。

 

「どうしたのよ。いつもみたいに偉そうなこと言ってみなさいよ。あたしが目の前にいるんだから、少しくらい文句もあるんじゃない?」

 

 やはり反応しない。

 

 マンドラゴラはしばらく待ち、それから少し眉を寄せた。

 

 相手が自分を無視しているだけなら、腹を立てるところだった。けれど、目の前のホルンからは、こちらを意識しているような気配がまるで感じられない。

 

 死んでいるわけではない。

 

 胸は僅かに上下しているし、身体へ繋がった細い管の中にも、何かがゆっくり流れている様子が見える。少なくとも呼吸をしていることは確かだったし、すぐ傍の表示器へ流れている数値も、詳しくは分からなかったが生命活動に関するものなのだろうと推測できた。

 

 それなのに、こちらの声には反応しない。

 

「……ちょっと、ホルン?」

 

「聞こえてないわ」

 

 突然、後ろから声がした。

 

 振り返ると、いつの間にか蔦王が入口の近くへ立っていた。背後のケーブルを静かに揺らしながら、マンドラゴラが見ていた機体へ目を向けている。

 

「……聞こえない?」

 

「ええ」

 

「何で?」

 

「外の音は入れていないから」

 

 蔦王は何でもないことのように答えた。

 

 マンドラゴラの笑いが、少しずつ薄れていった。

 

 もう一度ホルンを見る。

 

 最初は、巨大な機械へ拘束されているように思えた。捕虜を動けなくするため、必要以上に大掛かりな装置を作ったのだろうと考えていた。

 

 だが、落ち着いて観察すると違和感がある。

 

 機械の中央へ人間を押し込んだにしては、それぞれの支持構造が人体の形へあまりにも正確に沿っている。胸郭を保持する部材は身体の曲線に合わせて加工され、腰の周囲には別の装置が集中していた。そこから伸びる複数の線が、装甲の内側を通って砲身や脚部へ続いている。

 

 逆なのだ。

 

 機械の中へ人間を入れたのではない。

 

 最初から、この女の身体を中央へ置くつもりで機械を作ったのではないか。

 

「……これ、あいつを乗せてるんじゃない」

 

「ええ」

 

 蔦王が頷く。

 

「中に入れてるわけでもない」

 

「そうね」

 

 マンドラゴラは返事を聞きながら、もう一度、機体全体へ目を走らせた。

 

 砲身も、四本の脚も、中央の人体を避けるように配置されているわけではない。むしろ人間の身体を中心にして、それぞれが必要な位置へ繋がれている。

 

 機械の一部に人間がいるのではなく、人間を中心に機械ができている。

 

 理解がそこまで進んだところで、マンドラゴラの耳がゆっくり後ろへ伏せた。

 

 そこで初めて、少し離れた場所にも似たようなものがあることへ気付いた。

 

 奥の機体は、左右へ大きく広がる構造物を持っていた。縦方向へ高く伸びる機械の中央には、長い金髪の女性が固定されている。顔はやはり完全に覆われており、頭部から伸びる髪だけが、黒い装甲の外へ流れていた。

 

 さらにその先には、四つの履帯を持つ低い車体がある。

 

 前方へ突き出た長大な杭が目立つその機体は、先ほどの四脚砲撃機とも、金髪の女を固定した機械とも、まるで形が違っていた。

 

 それでも、一つだけ共通しているものがある。

 

 中央下面へ仰向けに固定された、赤橙色の髪を持つ女性の身体だった。

 

「……バグパイプ」

 

 思わず名前が漏れた。

 

 ヒロック郡で食らいついてきたヴィクトリア兵。こちらの攻撃を受けながらも諦めず、最後までしつこく追ってきた、あの女だった。

 

 マンドラゴラは一度だけ機体の側へ足を向けたが、すぐに立ち止まった。

 

 呼びかけても、どうせ聞こえないのだろう。

 先ほどホルンへいくら声をかけても反応がなかった理由が分かった以上、同じことを繰り返す気にはなれなかった。

 

 代わりに、三機を順に見渡す。

 

 どれも違う機械だった。

 

 人間の身体の向きも、固定されている姿勢も、周囲へ取り付けられた装備も、何一つ同じではない。にもかかわらず、それぞれの中央には生きた人間が存在し、機械の構造そのものが、その人間を使うことを前提に組まれている。

 

 捕虜を拘束しているのではない。

 

 処刑のために機械へ縛りつけているのでもない。

 

 もっと別の目的で、人間の身体そのものを利用している。

 

 マンドラゴラには、詳しい仕組みなど分からなかったが、それでも何を見せられているのかは分かった。

 

 これは兵器だった。人間の身体まで含めて、一つの兵器として作られているのだ。

 

「……あんたが」

 

「なあに?」

 

 マンドラゴラは蔦王を見据えた。

 

「こいつらを、こうしたの?」

 

「ええ」

 

「ホルンも?」

 

 蔦王は視線を四脚の機体へ向け、静かに頷いた。

 

「ええ」

 

「……バグパイプも?」

 

「そうよ」

 

「じゃあ、あの金髪の女も?」

 

「サイラッハね。彼女もよ」

 

 名前を聞いても、マンドラゴラにはすぐ思い当たるものがなかった。

 

 だが、そんなことはもうどうでもよかった。

 

 目の前の女は、三人の人間をこんな姿にしたと認めている。それも、隠そうとも取り繕おうともせず、まるで自分が作ったものについて尋ねられたから答えているだけのように。

 

「……何なのよ、あんた」

 

「ただの研究者よ」

 

「そういう意味じゃない!」

 

 思わず声を荒らげると、広い空間へ反響した自分の声が、低い機械音に混じって消えていった。

 

 蔦王は少しも表情を変えなかった。

 

 その顔を見ているうちに、マンドラゴラの中へ、ひどく嫌な考えが浮かんできた。

 

 自分を土の中から掘り出した。

 

 死にかけていた身体を治し、毎日様子を見に来て、食事や薬の世話までした。

 

 髪を洗い、耳の傷を治し、歩けるようになったことを、まるで自分のことのように喜んでいた。

 

 その一つ一つを思い返すほど、目の前に並ぶ機械の姿が、別の意味を持って迫ってくる。

 

「……じゃあ、あたしを助けたのも」

 

 声が少し低くなった。

 

「こうするため?」

 

 蔦王は一拍だけ考えた。

 

 返事を選んでいるのか、それとも質問の意味を確かめているのか、マンドラゴラには分からなかった。やがて蔦王は、いつもと変わらない穏やかな顔で答えた。

 

「助けたかったから助けたのよ」

 

「……は?」

 

「それとは別に、あなたを繋ぎたいとも思ってるわ」

 

 言葉の意味が、一瞬理解できなかった。

 

 いや、意味そのものは分かる。ただ、どうしてそんな答えになるのかが分からない。

 

 助けたかったから助けた。

 けれど、兵器にもしたい。

 

 その二つを、目の前の女は何のためらいもなく同時に口にした。

 

「……何、それ」

 

「そのままの意味よ」

 

 蔦王は相変わらず穏やかな顔をしていた。

 

 マンドラゴラはその表情をしばらく睨み、それから視線を逸らした。先ほどまでは目の前のホルンを笑っていたというのに、今はもう、あの機体をまともに見たくなかった。

 

「……最悪」

 

 吐き捨てるように言って、踵を返す。

 

 蔦王は引き止めもしなかった。そのことに腹を立てる余裕さえ、今はなかった。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 部屋へ戻ってからも、気分は最悪だった。

 

 マンドラゴラはベッドへ腰を下ろし、しばらく壁を睨みつけていた。廊下を歩いていた時にはさほど気にならなかった脚の疲れが、今になって重くのしかかってくる。腹の傷も少し疼いていたが、横になる気にはなれず、膝の上で両手を握りながら、何度も先ほど見たものを思い返していた。

 

 ホルン、サイラッハ、バグパイプ。

 

 三人とも生きていた。

 

 生きたまま、機械へ組み込まれていた。

 頭部を完全に覆われたまま、外から何を言われても気付きもしない。

 

 考えれば考えるほど、あの光景が理解できなくなる。

 

 もし捕虜として捕まったのなら、まだ話は分かる。敵を拘束し、情報を聞き出し、必要なら利用する。戦争をしていれば珍しくもないし、マンドラゴラ自身、似たようなことをした覚えはいくらでもあった。

 

 だが、あれは違う。

 

 捕まえた人間を機械へ繋いだというより、最初からその人間の身体を使うために、周囲の兵器を作ったように見えた。

 

 そして蔦王は、自分にも同じことをするつもりだと言った。

 

「……ふざけないでよ」

 

 吐き捨てたところで、誰も返事をしない。

 

 自室として使わされているこの部屋は、いつもと変わらず静かだった。寝台の脇には飲みかけの水が置かれ、棚には蔦王が用意した薬と、すっかり使い慣れてしまった小さな食器が並んでいる。

 

 少し前まで、自分の身体が治ることだけを考えていればよかった。

 

 傷が塞がり、手足が動くようになり、ようやく歩けるようになったと思ったら、今度は機械の中へ押し込まれるという。

 

 何のために治したのか。

 

 そんな疑問が浮かんだ途端、蔦王の顔が思い出された。

 

 助けたかったから助けた。

 

 あの女は、確かにそう言っていた。

 

 しかも、その言葉を嘘だと思い切れないことが、マンドラゴラにはひどく不愉快だった。

 

 机の上には、昼間の身体計測で使ったらしい紙の束が置かれていた。

 

 身長、体重、関節可動域、脈拍。自分に関する数値ばかりが細かく書き込まれており、以前にも何度か似たものを見せられた覚えがある。

 

 それらを眺めたところで面白くもないため、普段なら触ろうとも思わなかった。

 

 だが、その日は一枚だけ、束の下から少しはみ出している紙があった。

 

 ほかの資料とは違う、太い黒線が見える。

 何かの機械を描いた図らしかった。

 

 マンドラゴラは何気なく紙を引き抜いた。

 

 上部には短い記号があり、その下には、見間違えようのない文字が並んでいた。

 

《B2-M1》

 

《MANDRAGORA》

 

「……何よ、これ」

 

 自分の名前が書かれている。

 

 眉を寄せながら紙を広げると、そこには人体と機械を組み合わせたような図面が描かれていた。

 

 中央に、人間の姿があった。

 その左右には、人体より遥かに大きな二つの機械塊が配置されていた。何枚もの装甲を重ねた分厚い構造で、後部には大きな噴射口がいくつも並んでいる。基部には可動範囲を示すらしい弧線が描かれ、左右の塊そのものが角度を変えられるようになっていた。

 

 それだけなら、変わった形の飛行機械だと思ったかもしれない。

 

 だが、問題は中央だった。人間の身体が、奇妙な姿勢で固定されている。

 

 胸を高く持ち上げ、腰を前へ押し出し、上体から骨盤にかけて大きく後方へ反らしている。両脚は左右対称に開かれ、大腿から膝、下腿、足首へ至るまで、別々の支持具が取り付けられていた。

 

 その一つ一つが、人体の動きを許さないような構造になっている。

 

 頭部に至っては、顔ごと何かの機械へ収められており、外から表情を確認することさえできない。

 

 マンドラゴラは思わず息を呑んだ。

 

 図面の端には、身体の長さや関節の位置を示す細かな数値が並んでいる。

 

 見覚えがあった。

 つい先日、蔦王に測られたばかりのものだ。

 

 足の長さも、腕の長さも、腰の位置も、自分の身体寸法と一致している。

 

 つまり、中央に描かれている人間は──。

 

「……っ」

 

 紙を持つ指に力が入った。

 

 胸の奥が冷たくなり、さっきまで頭に浮かんでいたホルンたちの姿が、今度は自分の身体へ重なって見えた。

 

 顔を塞がれ、手足を動かせなくなり、奇妙な姿勢のまま、巨大な機械の中央へ固定される。

 

 そこまで考えた時、扉が静かに開いた。

 

「まだ起きていたのね」

 

 蔦王だった。いつものように穏やかな顔をしており、片手には薄い端末を持っている。マンドラゴラが紙を握っていることへ気付くと、少しだけ視線を落とした。

 

 マンドラゴラはその場に立ち上がり、紙を持ち上げたまま、ゆっくりと振り返った。

 

「これ」

 

 蔦王は紙を見た。

 

「ああ」

 

「ああ、じゃないわよ」

 

 自分でも驚くほど低い声が出た。

 

「これ、何?」

 

「あなたの機体よ」

 

 やはり、隠す気配は一切なかった。

 

 蔦王は誤魔化そうともしないし、こちらが何を見つけたのか分かっているのかと、慌てて取り上げることもしなかった。

 

 その態度が、余計に腹立たしい。

 

「誰が作っていいって言った?」

 

「誰も」

 

「……は?」

 

「私が考えたの」

 

 蔦王は穏やかに答えた。

 

 その瞬間、マンドラゴラの掌の中で紙がくしゃりと潰れた。

 

「ふざけないで」

 

 自分の声が震えていることに気付いたが、気にする余裕はなかった。

 蔦王は黙ってこちらを見ている。

 

「勝手に埋まってたあたしを掘り出して、勝手に治して、それで今度はこれ?」

 

 握り潰した紙を床へ投げつけた。

 

 紙は軽い音を立てて床を滑り、寝台の脚に当たって止まった。

 

「四肢を固定して、頭まで塞いで、機械の中に組み込む?それの何が『好き』よ!」

 

「私はあなたが好きよ」

 

「そういうこと言ってんじゃない!」

 

 マンドラゴラは勢いよく立ち上がった。

 

 まだ身体が完全に治ったわけではないため、強く踏み込むと腹の奥へ痛みが走る。それでも止まれなかった。蔦王の方へ歩み寄り、目の前まで詰め寄ると、相手の顔を睨みつけた。

 

「毎日来て、髪まで洗って、耳まで触って……気持ち悪いくらい世話焼いて!」

 

 蔦王は一歩も下がらない。いつもと変わらない柔らかな表情を浮かべたまま、マンドラゴラが言い終えるのを待っている。

 

「それで最後はこれなの!?」

 

「ええ」

 

「……っ」

 

「あなたが嫌なのは分かってるわ」

 

 その一言で、堪えていたものが切れた。

 

 右手が動いた。考えるより先だった。

 

 マンドラゴラは身体を踏み込み、目の前にある蔦王の頬へ、思い切り掌を振り抜いた。

 

 乾いた音が部屋へ響く。

 

 細い顔が横へ向き、頬にかかっていた髪が僅かに乱れた。

 

 背後の機械肢が反射的に動いたように見えたが、それらがマンドラゴラへ伸びてくることはなかった。蔦王自身も、叩かれた姿勢のまましばらく静かにしている。

 

 マンドラゴラは肩で息をしながら、じんじんと熱を持ち始めた右手を握った。

 

「ふざけないでよ……!」

 

 怒りはまだ収まらない。

 

 むしろ、目の前の女が一切抵抗しなかったことにさえ腹が立った。

 

「勝手に助けて、勝手に好きだって言って、勝手にあたしの身体まで決めて……何なのよ、あんた!どいつもこいつも、あたしのことを何だと思ってるわけ!?」

 

 最後の言葉は、ほとんど叫ぶような声になっていた。

 

 蔦王はゆっくりと顔を戻した。

 白い頬には、マンドラゴラの掌の形に近い赤みが浮かんでいる。

 

 怒ると思った。

 

 これだけ好き勝手に罵られ、その上で頬まで叩かれたのだ。普通なら怒鳴り返すか、少なくとも相手を遠ざけようとするだろう。あの背中の機械肢を使えば、今のマンドラゴラなど簡単に押さえつけられるはずだった。

 

 だからこそ、蔦王が何をするつもりなのか見極めようと、マンドラゴラは相手の表情を凝視していた。

 

 けれど蔦王は、自分の頬へ触れるより先に、彼女の右手へ視線を向けた。

 

「手、痛くない?」

 

「……は?」

 

「結構強く叩いたでしょう。痛くない?」

 

 数秒、何を言われたのか分からなかった。

 

 蔦王の視線を追って自分の手を見ると、確かに掌が少し赤くなっている。叩いた衝撃がまだ残っているのか、指を曲げると僅かに熱を感じた。

 

 だが、だから何だというのか。

 

 痛い目を見たのは蔦王の方であり、その原因を作ったのは自分なのだ。

 

 それなのに、どうして叩かれた相手がこちらの手を心配しているのか。

 

「……あんた」

 

 マンドラゴラの耳が、呆れたように横へ倒れた。

 

「頭おかしいんじゃない?」

 

「そうかもしれないわね」

 

 蔦王はそこでようやく、自分の頬へ軽く触れた。

 

 痛みを確かめるような仕草だったが、その表情には怒りも恨みも見えなかった。少し赤くなった肌を指で撫で、それからまたマンドラゴラへ目を向ける。

 

「でも、あなたが好きなのは本当よ」

 

「……っ」

 

 今度は手が出なかった。

 

 怒りが消えたわけではない。

 むしろ、怒りを通り越して訳が分からない。

 

 目の前の女は、自分が何をしたのか理解しているはずだった。叩かれて痛かったことも、マンドラゴラが本気で怒っていることも、何一つ分かっていないようには見えない。

 

 それなのに、愛情だけは取り下げようとしない。これほど嫌われているのに、どうしてまだそんな顔ができるのだろう。

 

「……最悪」

 

「そう?」

 

「その返事やめなさいよ!」

 

 マンドラゴラが睨みつけると、蔦王は少しだけ目を細めた。

 

「分かったわ」

 

「絶対分かってないでしょ!」

 

「そうかもしれないわね」

 

「もう喋らないで!」

 

「ええ」

 

 本当に黙った。

 蔦王は口を閉じ、怒った相手を宥めようとするでもなく、その場に静かに立っている。

 

 マンドラゴラはしばらく睨みつけていたが、何を言ってもあの女の態度が変わらないことに、とうとう嫌気が差した。

 

 足元へ視線を落とす。先ほど投げ捨てた紙が、寝台の脚に引っ掛かっていた。

 

 マンドラゴラはそれを拾い上げ、皺だらけになった図面をもう一度広げた。

 

 そこに描かれているものが何なのか、改めて考える。

 

 中央の自分と、左右の巨大な機械。

 

 何枚もの装甲に覆われた推進器らしきものは、後方や下方へ向きを変えられる構造になっている。

 

 そして、その中央へ人体が固定されている。

 

「……これ、もしかして飛ぶの?」

 

 図面へ目を向けたまま尋ねると、蔦王が頷いた。

 

「ええ」

 

マンドラゴラは眉を寄せた。

 

「あたし、飛べるんだけど」

 

「知ってるわ」

 

「知っててこれ?」

 

「ええ」

 

 左右の巨大な機械を睨む。

 確かに、これだけの推進器があれば、相当な速度で飛ぶことはできるのかもしれない。機体全体をあれほど大きく作っているのだから、自分のアーツで浮くのとは、比べものにならない規模の力が必要なのだろう。

 

 だが、それが何だというのか。

 飛びたい時には自分で飛べる。行きたい方向があれば、自分の意思で移動できる。

 

 それなのに、わざわざ手足を固定し、顔を覆い、巨大な機械の中央へ組み込む必要がどこにあるというのだ。

 

「あたしが自分で飛ぶのと、こんな馬鹿でかい機械にくっつけられるのじゃ全然違うでしょうが」

 

「そうね」

 

 蔦王は、皺のついた図面を少し覗き込んだ。

 

 マンドラゴラは相手の顔を見たが、そこに困った様子はなかった。むしろ、紙に描かれた機体を見ているうちに、目元が少しだけ柔らかくなったように思えた。

 

「……ほんっと趣味悪い」

 

 吐き捨てると、蔦王は静かに微笑んだ。

 

「でも、きっと綺麗よ」

 

「何が」

 

「あなたが飛ぶところ」

 

 マンドラゴラは口を開きかけた。

 

 何よそれ。

 

 意味分かんない。

 

 気持ち悪い。

 

 馬鹿じゃないの。

 

 言おうと思えば、いくらでも悪態は出てくる。これまでだって、あの女には散々言ってきたし、今更遠慮する理由もなかった。

 

 それなのに、蔦王が図面を見つめる横顔を眺めているうちに、言葉が喉の奥へ引っ掛かったまま出てこなくなった。

 

 先ほど叩いた頬には、まだ赤みが残っている。

 

 そのことを気にしているのは、どうやら自分だけらしい。

 

 蔦王は何も言わず、ただ、まだ完成していない機体の図面を見つめていた。

 

 マンドラゴラも、しばらく黙っていた。

 

 皺だらけの紙を握る手から、少しずつ力が抜けていく。やがて、何かを言い返そうと口を動かしたものの、結局、言葉にはならなかった。

 

 代わりに動いたのは、黒い髪の上から覗く片方の耳だった。

 

 ほんの少しだけ。

 蔦王の声がした方に、向いていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。