PROJECT CRUCIBLE ―彼女たちは兵器になる―   作:炎迅無頼気

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Case07 マンドラゴラ:空に抱かれた彼女◇

 

 

 翌朝、マンドラゴラはいつもより早く目を覚ました。

 

 身体の調子が良かったわけではない。むしろ昨夜はなかなか寝付けず、ようやく眠れたと思った頃には室内の照明が朝の明るさへ切り替わっていた。枕元には飲みかけの水が残っており、机の上には一度握り潰してしまった設計図が、誰かの手によって丁寧に皺を伸ばされた状態で置かれている。

 

 あれを見つけたところから、昨日は散々だった。

 

 自分を兵器へ組み込むための図面。そのあまりにもふざけた内容に腹を立て、持ち主を問い詰め、最後には思い切り平手打ちまで食らわせてしまった。

 

 今になって後悔しているわけではない。

 

 あんなものを勝手に作られて、黙っていられるはずがなかったし、そもそも蔦王という女には一度くらい痛い目を見せてやる必要がある。それなのに、いざ叩かれても怒りもせず、こちらの手が痛くないかと心配するばかりだったのだから、考えれば考えるほど腹立たしい。

 

「……ほんっと、意味分かんない」

 

 寝台へ腰掛けたまま呟くと、廊下の向こうから規則正しい足音が聞こえてきた。

 

 何度も聞いた覚えのある足取りだった。

 

 マンドラゴラは反射的に入口へ顔を向け、すぐにそのことが癪に障って視線を逸らした。

 

「おはよう、マンドラゴラ。昨夜はよく眠れた?」

 

 開いた扉の向こうから現れた蔦王は、いつもと変わらない穏やかな顔をしていた。背後から伸びる細いケーブルを揺らしながら寝台へ近付き、手元の端末へ表示された数値を確かめると、マンドラゴラの額へそっと触れる。

 

「……見れば分かるでしょ。寝不足よ」

 

「ええ。少し眠りが浅かったみたいね。今日は無理をしなくていいわ」

 

「無理って何よ。あたし、別に何もすることないじゃない」

 

「それなら一緒にお茶でも飲みましょうか」

 

 昨日、自分の頬を叩いた相手への態度とは思えなかった。

 

 マンドラゴラは差し出された手を眺め、それから蔦王の顔へ目を移す。白い頬にはもうほとんど赤みが残っておらず、強いて言えば片側の肌が僅かに色づいている程度だった。

 

「……ねえ」

 

「なあに?」

 

「あんた、昨日のこと覚えてる?」

 

 蔦王は額から手を離し、少し考えるように目を細めた。

 

「もちろん。あなたに叩かれたことでしょう?」

 

「だったら何で平気な顔してんのよ」

 

「もう痛くないもの。それに、今日はお腹の傷も昨日より良くなっているわ」

 

 そう言いながら、蔦王は寝台の脇へ置かれていた椅子を引き寄せた。

 

 マンドラゴラは呆れた顔でその動作を眺めていたが、相手が何のためらいもなく腰掛け、いつものように包帯の交換を始めようとすると、とうとう我慢できなくなった。

 

「……あんたさ。普通、叩かれたら腹立つもんじゃないの?」

 

「そういう人もいるでしょうね」

 

「他人事みたいに言わないでよ。あたしが聞いてんのは、あんたがどう思ったかってこと!」

 

「痛かったわよ。結構強かったもの」

 

 蔦王は昨夜のことを思い出したのか、自分の頬に軽く指を添えた。しかし、その仕草にも恨みがましさはなく、次の瞬間にはマンドラゴラの腕が以前よりよく動くようになったことを確かめるように、包帯の下へ指を滑らせた。

 

「でも、あなたが怒るのは分かるわ。自分の身体をあんなふうにされると聞いて、喜ぶ人ばかりじゃないでしょう?」

 

「……分かってんなら、やめればいいじゃない」

 

「それはできないわね」

 

 返事は柔らかかった。けれど、まるで考える余地がないような言い方だった。

 

 マンドラゴラは舌打ちしかけ、すぐに口を閉じた。昨日までなら怒鳴り返していただろうが、この女に同じ話を何度繰り返しても結論が変わらないことくらい、十分に理解している。

 

 だからといって納得したわけではない。

 

「……ほんと、嫌な女」

 

「そう?」

 

「そうよ。あたしがこんなに嫌がってんのに、毎日毎日嬉しそうに来るんだもの」

 

 蔦王は包帯を固定し終えると、顔を上げた。

 

「だって、会えて嬉しいのよ」

 

「……またそれ?」

 

「ええ。今日もあなたが元気でいてくれて、嬉しいわ」

 

 マンドラゴラは何か言い返そうとしたものの、結局言葉を見つけられなかった。

 

 代わりに膝の上へ視線を落とすと、包帯を外された右手の指を何度か曲げ伸ばししてみる。昨日の平手打ちで痛めた掌は、もうほとんど痛まなかった。

 

 その手を見ていた蔦王が、小さく微笑んだ。

 

「よかった。手も治っているわね」

 

「……誰のせいで痛くなったと思ってんのよ」

 

「私を叩いたからでしょう?」

 

「分かってんなら、ちょっとは反省しなさいよ!」

 

 思わず怒鳴ると、蔦王は楽しそうに目を細めた。

 

 マンドラゴラはもう、どう反応すればいいのか分からなかった。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 それから数日が過ぎた。

 

 マンドラゴラの身体は順調に回復し、今では廊下を歩いても以前ほど疲れなくなっていた。

 もっとも、自由に外へ出られるわけではない。行ける場所は限られており、蔦王が研究しているらしい部屋にも、勝手に入ることは許されなかった。

 

 それでも、以前よりは施設の中を見て回れるようになった。

 

 そして歩ける範囲が広がるにつれ、マンドラゴラはあることに気付き始めていた。

 

 蔦王は自分だけに構っているわけではない。

 

 巨大な砲を背負わされたホルンにも、サイラッハにも、四つの履帯を持つ機体へ組み込まれたバグパイプにも、あの女は同じように世話を焼いていた。

 

 ある日、開いた扉の向こうで蔦王が作業しているのを見かけた時もそうだった。

 

 部屋の中央には、見覚えのある赤橙色の髪が覗いていた。

 

 B2-B1。

 

 バグパイプと呼ばれる女を中央へ収めた、あの低い破城機だ。

 

 蔦王はその側へ置かれた端末を見ながら、何やら数値を確認していた。スタッフが機体下面の整備口を開き、細い管の接続状態を調べている間も、蔦王は時々手を止めて、バグパイプの髪や露出した肌へ目を向けている。

 

「……まだ疲れが残っているのね。今日は入力を上げないでおきましょう」

 

 そう言って端末へ触れた後、蔦王は機体中央へ顔を寄せた。

 

「おはよう、バグパイプ。昨日は頑張ったものね。今日はゆっくり休んでいいのよ」

 

 返事があったのかどうかは分からない。

 

 バグパイプの顔は機械の内部へ収められており、外の声も聞こえないと聞いている。けれど蔦王はしばらく端末を見てから、何かを確かめたように頷き、髪の乱れを指で整えてやった。

 

 あの女が自分へするのと、ほとんど同じ仕草だった。

 

 マンドラゴラは扉の陰からその様子を眺め、やがて何も言わずに立ち去った。

 

 ホルンも、サイラッハも、バグパイプも。

 

 あんな姿にされて嬉しいはずがない。

 

 蔦王を恨んでいるに決まっている。

 

 それでも蔦王は、彼女たちのところへ毎日通っているらしかった。相手が何を思っているかも、どれだけ嫌がっているかも、別に知らないわけではないのだろう。

 

 そのくせ、嫌われたからといって距離を取る気もない。

 

「……馬鹿みたい」

 

 廊下を歩きながら、マンドラゴラは小さく呟いた。それが誰に向けた悪態なのか、自分でもよく分からなかった。

 

 その日の午後、マンドラゴラは蔦王の部屋へ呼ばれた。

 

 普段より少し雑然とした室内には、紙の資料や板状端末がいくつも並び、机の端には小さな鉢植えと菓子の皿が置かれている。窓の代わりに壁面へ埋め込まれた照明が柔らかい光を落としており、ほかの部屋より幾分暖かかった。

 

「適当に座っていていいわ。もう少しで終わるから」

 

「……自分で呼んどいて待たせるわけ?」

 

「ごめんなさい。思ったより時間がかかってしまって」

 

 蔦王は書類から顔を上げ、向かいの椅子を示した。

 

 マンドラゴラは文句を言いながら腰を下ろしたものの、目の前に置かれた茶菓子を見ると、試しに一つ摘まんで口へ入れた。

 

 思っていたより甘かった。

 しかし、不味くはない。

 

「……これ、どこの?」

 

「気に入った?」

 

「聞いてんのはそこじゃないんだけど」

 

「ラテラーノのお菓子だったと思うわ。前にあなたが食べていたものより、こっちの方が好きそうだったから」

 

 確かに、以前出された菓子は少し香辛料が強すぎた。

 その時に一度文句を言った覚えがあるが、そんなことまで覚えていたとは思わなかった。

 

「……よくそんな細かいこと覚えてるわね」

 

「あなたのことだもの」

 

 蔦王は何でもないことのように答え、再び書類に目を落とした。

 

 マンドラゴラは菓子をもう一つ摘まみながら、その横顔を眺めた。

 机へ肘をつき、片側の耳を小さく動かす。

 

「……ねえ」

 

「なあに?」

 

「あんたさ。あたしより優秀な奴が見つかったら、どうするわけ?」

 

 蔦王の筆が止まった。

 思いがけない質問だったのか、彼女は少しだけ顔を上げ、それから穏やかに微笑んだ。

 

「優秀な子?」

 

「そうよ。あたしより強くて、アーツも上手くて、もっと言うことを聞く奴。そういうのが来たら、あんたはどうするつもりなの?」

 

「素敵な子ね。ぜひ会ってみたいわ」

 

 何の迷いもない返答に、マンドラゴラの口元が引き攣る。

 

「…………」

 

「その子にも、その子に合った場所を考えてあげたいわ」

 

「だったら、そいつを使えばいいじゃない!」

 

 自分でも思った以上に大きな声が出た。

 蔦王は驚いたように瞬きしたが、怒ることはなかった。

 

「ええ。そうするかもしれないわね」

 

「……ほら」

 

 マンドラゴラは椅子の背へ身体を預け、唇を歪めた。

 

「はっ、結局そういうことでしょ。あたしより役に立つ奴が見つかれば、そっちを使うんじゃない」

 

「そうね」

 

「……だったら、あたしなんか──」

 

「どうして?」

 

 途中で言葉を遮られた。

 マンドラゴラが眉を寄せると、蔦王は本当に不思議そうな顔をしていた。

 

「その子が優秀なのと、あなたが要らなくなるのは、どういう関係があるの?」

 

「……何言ってんのよ」

 

「あなたより強い子がいたら、その子の強さも素敵でしょうね。でも、あなたにはあなたの良いところがあるわ。私はそれも大好きなのよ」

 

 マンドラゴラはすぐに言い返せなかった。

 

 蔦王は手元の書類を閉じ、今度はこちらにきちんと身体を向ける。

 

「その子にはその子の場所を作るわ。あなたには、あなたの場所があるでしょう?」

 

「……あたしが役に立たなくなっても?」

 

「そのときは休んでもらうわ」

 

「休んで、それでも駄目だったら?」

 

「その時は、別の方法を考えるわ」

 

「だから!」

 

 マンドラゴラは机へ身を乗り出しかけ、そこで自分の腹の傷がまだ完全には治っていないことを思い出して動きを止めた。

 それでも、言葉までは止まらなかった。

 

「あたしが何にもできなくなったらどうすんのよ!アーツも使えない、あんたの役にも立たない、ただ飯食って寝てるだけの奴になったら、それでもここに置いとくわけ!?」

 

「ええ」

 

 即答だった。

 

「そのときは、何もしなくていいわ」

 

「……は?」

 

「何もできないなら、何もしなくていいでしょう?身体が疲れているなら休んでもらえばいいし、また何かできるようになったら、その時に考えればいいもの」

 

 蔦王はそこで少し微笑んだ。

 

「私は、あなたがいなくなる方が嫌よ」

 

 マンドラゴラは口を開いたまま固まった。

 

 目の前の女が何を言っているのか、言葉の意味は分かる。ただ、理解できない。

 

 役に立たず、誰かより弱く、求められた仕事も果たせない──それなのに捨てられないというのは、いったいどういう理屈なのか。

 

「……あんた、馬鹿なの?」

 

「そうかもしれないわね」

 

「本当に分かってんの?あたしより優秀な奴なんていくらでもいるって言ってんのよ!」

 

「ええ。でも、あなたはマンドラゴラでしょう?」

 

 蔦王は穏やかに答えた。

 

「私はマンドラゴラが好きなの。他の誰かじゃなくて、あなたが」

 

 マンドラゴラは俯いた。

 

 膝の上で握っていた手に力が入り、指の関節が僅かに白くなる。耳はいつの間にか伏せられており、目の前の菓子へ視線を落としても、もう食べたいとは思えなかった。

 

 それから、長い沈黙が流れた。

 

 蔦王は急かさず、机へ戻ることもせず、ただ彼女が再び口を開くのを待っていた。

 

「……昔ね」

 

 マンドラゴラがようやく声を出したのは、茶の表面から湯気がほとんど消えた頃だった。

 

「……あたしを拾った奴がいたのよ」

 

「拾った……?」

 

 蔦王は、その言葉を繰り返した。

 

 マンドラゴラは顔を上げず、膝の上で組んだ指を見つめていた。何から話せばいいのか自分でも分からないし、そもそもどうしてこんな女に昔の話をしているのか、考え始めれば腹が立つばかりだった。

 

「……昔、あたしがまだ弱かった頃の話よ。ヴィクトリアの貴族って奴らは、本当にどうしようもない連中でね。ターラー人だってだけで、何をしてもいいと思ってたのよ」

 

 口に出してみると、随分昔の出来事のように感じられた。

 

 追い回されたこともある。石を投げつけられたことも、笑いながら痛めつけられたこともあった。誰も助けてくれず、墓のようなところへ押し込められた時には、結局自分で土を掘って這い出すしかなかった。

 

 それからも、まともな暮らしなどできなかった。

 

「……ある日、あたしが怪我して倒れてたら、そいつが来たのよ。逃げ道を教えてくれたわ。こんなところで死ぬくらいなら、下水道を通って生き延びなさいって」

 

「その人が助けてくれたのね」

 

「そうよ」

 

 マンドラゴラはようやく顔を上げた。

 

「あの人は強かったの。あたしが今まで見てきた連中とは、何もかも違ったわ。貴族の生まれだって聞いた時はびっくりしたけど……あの人だけは違うって思ったのよ。ターラー人が、いつまでもあんな連中に踏みつけられてる必要なんかないって、そう思わせてくれたんだから」

 

 少しだけ声に熱が戻った。

 

 ヒロック郡で戦っていた頃なら、ここからリーダーの素晴らしさをいくらでも語れただろう。あの人の強さを、正しさを、誰よりも自分が理解しているのだと、聞く相手がうんざりするまで言い続けられたはずだった。

 

 けれど、今は違う。

 

「……エブラナ。あたしは、あの人をリーダーって呼んでた」

 

 名前を口にすると、胸の奥が僅かに痛んだ。

 

 蔦王は頷いた。

 

「そう。その人のところで戦っていたのね」

 

「ええ。あたしだって、何もしてなかったわけじゃないのよ。ちゃんと戦ったし、命令だって聞いたし、あたしにできることなら何だってやってきたわ。あの人が望むなら、もっと危ない仕事だって引き受けたでしょうね」

 

 マンドラゴラはそこで唇を噛んだ。

 

「……でも、駄目だった」

 

「何が?」

 

「何がって……!」

 

 思わず声を荒らげかけ、すぐに目を伏せる。

 

「あたしより上手くやる奴なんて、いくらでもいたのよ。あたしより落ち着いてて、頭が回って、リーダーの考えをよく分かってる奴だっていた。そいつらがいれば、あたしがいなくても何とかなっちゃうんだもの」

 

 特に腹立たしかった顔が一つ浮かんだ。

 いつも余裕ぶっていて、こちらが苛立っていることまで分かっているような、嫌味な女の顔だった。

 

「……あたしはちゃんとやったのよ。ヒロックでも、ロンディニウムでも。なのに、最後にはあたしが邪魔になった。あの人にとって、あたしなんかもう必要なかったんだわ」

 

 言い終えてから、マンドラゴラは自分が酷く情けないことを口にしたような気がした。

 

 よりによって、こんな女に。

 

 自分を兵器へ組み込もうとしている相手に、何を弱音など吐いているのだろう。

 

「……何よ。そんな顔して」

 

 蔦王がこちらを見ていることに気付き、マンドラゴラは身構えた。

 

「別に慰めてほしくて話したんじゃないわよ」

 

「ええ」

 

「だったら何か言いなさいよ」

 

「その人のこと、大好きだったのね」

 

 あまりにも自然に言われたせいで、マンドラゴラは一瞬、返事ができなかった。

 

「……リーダーだったのよ」

 

 やがて、そう答えた。

 

 蔦王はそれ以上追及せず、マンドラゴラの前にあった冷めた茶を片付けると、新しいものを注いでくれた。

 

 湯気が立ち上る。その向こうで、マンドラゴラはしばらく黙っていた。

 

「……最後にね」

 

 自分でも、どうして続きを話そうと思ったのか分からなかった。

 

「あたし、古い友達を助けようとしてたのよ。昔から知ってる奴で……子供の頃、貴族の連中から逃げる時にも、あたしの手を引いてくれたことがあったわ」

 

 キリアン。

 

 その名前を思い浮かべた瞬間、忘れかけていた記憶が鮮明になった。

 

 彼の手は冷たかった。どれだけ呼んでも起き上がらず、肩を揺すっても返事をしない。それでも置いていく気にはなれなかったし、あの時は、どうして自分の言うことを聞かないのかと本気で腹を立てていた。

 

 マンドラゴラはゆっくり目を閉じた。

 

「……そいつ、死んじゃったのよ」

 

 蔦王は黙って聞いている。

 

「その時には、もうリーダーに捨てられてたって分かってた。あたしは……それでも、まだどっかで信じたかったんでしょうね。最後まで、あの人だけは違うって」

 

 胸の奥に、何かが引っ掛かった。

 

 もう随分前の出来事だと思っていたのに、思い出せば息が詰まるほど近く感じる。

 

 そして、その先。血のついた石床と、自分の身体の下へ広がっていた冷たさ。

 

 左側にあったもの。右側にあったもの。

 

「……あ」

 

マンドラゴラの耳が僅かに震えた。

 

 左には、下水道があった。

 昔、エブラナから教えられた道だった。

 

 そこへ辿り着けば、まだ生き延びられたかもしれない。

 

 けれど右側には、キリアンが倒れていた。

 もう動かない友人がいた。

 

「……あたし、あの時……」

 

 思い出した。

 

 左ではなく、右へ手を伸ばしたこと。

 

 身体を引きずって、友人の側へ行こうとしたこと。

 

 昔は何が何でも生き残ろうとして、爪を傷めながら墓から這い出したというのに、今度はその道を自分から選ばなかったこと。

 

 マンドラゴラは唇を動かしたが、すぐには声が出なかった。

 

「あたし……生きる方には、行かなかったんだ……」

 

 ようやく出てきた言葉は、自分でも驚くほど小さかった。

 

 目の前にある茶からは、まだ湯気が上がっていた。

 

 部屋は暖かい。傷も随分治った。

 

 今こうして座っていられるのは、あの女が自分を掘り出し、何日もかけて治療したからだ。

 

 けれど自分は、あの時、戻るつもりだったのだろうか。

 

 あの暗い土の中で、どうして必死に助けを求めようともしなかったのだろう。

 

 考えているうちに、膝の上へ置いた指が細かく震え始めた。

 

「……ねえ」

 

「なあに?」

 

「……何で、掘り出したのよ」

 

 顔を上げられなかった。

 

「あたし、あそこで終わるはずだったのに……何で、わざわざ……」

 

 椅子が静かに動く音がした。

 

 蔦王が立ち上がり、マンドラゴラの隣へ回ってくる。

 

「あなたが生きていたからよ」

 

「……それだけ?」

 

「ええ。生きているあなたを見つけて、私は嬉しかったもの」

 

 頭に手が触れた。短い黒髪を指で梳き、傷の治った耳の根元へ触れる。いつもなら文句の一つくらい口にするところだったが、今はそんな気になれなかった。

 

「……あたし、あんたに何にもしてないのよ」

 

「そうね」

 

「助けてなんて頼んでないし、あんたのこと嫌いだって言ったし……昨日なんか、叩いたじゃない」

 

「ええ。覚えているわ」

 

「……なのに?」

 

 蔦王は少し屈み、マンドラゴラの目を覗き込んだ。

 

「それでも、あなたが好きよ」

 

 そして、そっと抱き締めた。

 細い腕だった。その背後には無数のケーブルと機械肢があり、自分を兵器にしてしまうほど途方もないものを作る女だというのに、今マンドラゴラの背中へ回された腕は、驚くほど普通の温かさを持っていた。

 

 押し返そうと思えば、できた。蔦王は腕を振り払われても怒らないだろうし、嫌がったところで愛情を取り下げることもないのだろう。

 

 そう思いながら、マンドラゴラはしばらく身体を硬くしていた。

 

 けれど、結局その手は蔦王を押さなかった。

 

 代わりに、目の前へ垂れていた服の端を指で掴む。

 

「……馬鹿じゃないの」

 

「そうかもしれないわね」

 

「……あたしみたいなの、拾ったって面倒なだけじゃない」

 

「面倒なのは嫌いじゃないわ」

 

 蔦王は小さく笑った。

 

「それに、あなたとお喋りするのは楽しいもの」

 

 マンドラゴラは顔を伏せた。額が蔦王の肩へ触れる。

 そこから先は、しばらく何も言えなかった。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 それからの日々は、不思議なほど穏やかに過ぎていった。

 

 もちろん、マンドラゴラ自身従順になったわけではない。相変わらず気に入らないことがあれば文句を言うし、蔦王が機体設計について話し始めれば露骨に嫌な顔をした。そもそも、自分の身体を機械へ組み込むという話自体、納得した覚えなど一度もなかった。

 

 ただ、それとは別に、蔦王と一緒に過ごす時間が増えた。

 

 以前は治療や身体検査の時にしか顔を合わせなかったのに、今では何も用事がなくても、マンドラゴラの方から蔦王の部屋へ行くことがあった。

 

 蔦王は大抵、何かしらの仕事をしていた。

 

 古い書類へ目を通し、板状端末へ記録を書き込み、ときには机の上へ並べた小さな機械部品を細い工具で調整している。背後の機械肢まで別々に動いているため、最初は落ち着かなかったが、慣れてしまえば、それもこの女の身体の一部のようなものだと思えるようになった。

 

「……あんた、ほんっと仕事好きよね」

 

「そうね。面白いことがたくさんあるもの」

 

「何が面白いのよ、そんな細かい字ばっかり読んで」

 

「昔の記録なの。もうほとんど使われていない言葉が残っているのよ」

 

「ふうん……」

 

 何の興味もなさそうに返しながら、マンドラゴラは向かいの椅子へ腰を下ろした。

 

 机にはいつも茶菓子が用意されている。

 

 それも、最近は自分が気に入ったものばかりだった。

 

 蔦王がわざわざそうしているのだと気付いたのは随分後になってからで、問い詰めてみても「好きなものがあった方が嬉しいでしょう?」と当たり前のように返された。

 

 そういう細かいところは、やっぱり意味が分からない。けれど、嫌ではなかった。

 

 ある日の夕方、マンドラゴラは蔦王がいつまで経っても書類から顔を上げないことに気付き、机の向こうへ身を乗り出した。

 

「……ねえ。あんた、今日ちゃんと休んだ?」

 

「休んだわよ」

 

「嘘。あたしが昼に来た時も、ずっとそこに座ってたじゃない」

 

「そうだったかしら」

 

「そうだったのよ。人の睡眠時間だの食事だの、毎日細かく調べてるくせに、自分は適当なんだから」

 

 蔦王は少し驚いたように目を瞬かせ、それから手元の書類を閉じた。

 

「あら。心配してくれるの?」

 

「……別に。倒れられたら面倒でしょ」

 

「ふふ。ありがとう、マンドラゴラ」

 

「何よ、気持ち悪い」

 

 悪態をつきながら、マンドラゴラは自分の前にあった菓子皿を蔦王の方へ押した。

 

「ほら。あんたも食べなさいよ」

 

 蔦王は素直に一つ摘まんだ。

 

 そして、何だかとても嬉しそうな顔をした。

 

 その様子を見ていると、マンドラゴラは妙に居心地が悪くなったものの、皿を引っ込める気にはならなかった。

 

 別の日には、耳の手入れをしてもらっていた。

 

 昔の傷はすっかり塞がっていたが、蔦王は今でもときどき髪を整えるついでに耳の周りへ触れた。マンドラゴラも最初ほど嫌がらなくなり、近頃では、椅子へ座ったまま大人しく目を閉じていることさえあった。

 

 その日も、蔦王の指が耳の付け根をゆっくり撫でていた。

 

「……ねえ」

 

「なあに?」

 

「……そこ、もうちょっと」

 

 言ってから、自分が何を頼んだのかに気付いた。

 

 マンドラゴラは目を開け、慌てて蔦王の顔を見ようとする。けれど相手は何もおかしそうにはせず、ただ指の位置を少し変えた。

 

「ここ?」

 

「……もう少し上」

 

「こうかしら」

 

「……そう」

 

 そこまで答えてから、マンドラゴラは口を閉じた。

 

 蔦王の手つきは相変わらず丁寧だった。

 

 ゆっくり耳を撫でられるうちに、知らず知らず肩の力が抜けていく。今までずっと身体のどこかへ力を入れて暮らしてきたせいなのか、こうして何も警戒せず座っていること自体、妙に落ち着かなかった。

 

「……あんたさ」

 

「なあに?」

 

「ほんと、あたしのこと好きよね」

 

「ええ。大好きよ」

 

 やはり即答だった。

 マンドラゴラは少し呆れたように笑った。

 

「……何回聞いても、同じこと言うのね」

 

「だって本当のことだもの」

 

「……馬鹿みたい」

 

 蔦王が耳から手を離しかける。その時、マンドラゴラは思わず相手の袖を掴んだ。

 

「……まだいいでしょ」

 

「あら」

 

 蔦王は少しだけ目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。

 

「ええ。もちろんよ」

 

 再び、柔らかな指先が耳へ触れる。マンドラゴラは目を伏せ、しばらく黙っていた。

 

「……あたしも」

 

蔦王の指が止まる。

 

「……あんたといるの、嫌いじゃないわ」

 

 言ってから、どうしようもなく恥ずかしくなった。

 

 こんなことを口にするつもりはなかったし、何より相手がどんな顔をしているのかを見るのが嫌だった。

 けれど、黙ってしまった蔦王が気になって、結局そっと顔を上げる。

 

 蔦王は笑っていた。

 

 いつもの穏やかな微笑みとは少し違う、目元まで柔らかく緩んだ、嬉しそうな顔だった。

 

「……嬉しいわ」

 

「……何よ」

 

「あなたがそう言ってくれて、とっても嬉しい」

 

「……別に、大したこと言ってないでしょ」

 

「私には大したことよ」

 

 マンドラゴラは目を逸らしたが、それでも掴んだ袖だけは離さなかった。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 B2-M1の準備が整ったと知らされたのは、それからしばらく経った日の朝だった。

 

 マンドラゴラはいつものように蔦王の部屋を訪れ、机の上に置かれた菓子を勝手に摘まみながら、相手が仕事を終えるのを待っていた。最近では、いちいち許可を求めなくても椅子へ座るようになっていたし、蔦王もそれを咎めるどころか、彼女のために新しい菓子を用意してくれることさえあった。

 

「そういえば、マンドラゴラ」

 

「……何よ?」

 

 蔦王は手元の端末を閉じ、椅子から立ち上がった。

 

「あなたの機体が完成したわ。今日は最後の接続をしましょうね」

 

 菓子を摘まんでいた手が止まった。

 

「……は?」

 

「ずっと準備していたでしょう?身体の状態も安定してきたし、そろそろ組み込んでも大丈夫そうなの」

 

 あまりにも自然な言い方だった。

 

 まるで今日は天気がいいから散歩へ行きましょうとでも誘われたような調子で、蔦王は机の横へ置いていた資料を片付け始める。

 

 マンドラゴラはしばらくその様子を眺め、それからゆっくり菓子を皿へ戻した。

 

「……本気だったんだ」

 

「あら。今まで冗談だと思っていたの?」

 

「思ってないわよ!ただ……」

 

 言いかけて、口を閉じる。

 

 設計図を見つけた日のことは覚えている。

 

 あの異様な姿勢も、巨大な機械も、蔦王がそれを当然のように作ろうとしていたことも忘れてはいない。

 

 忘れてはいないのだが、ここ最近の暮らしがあまりに穏やかだったせいで、いつの間にか、あの話が遠い出来事のように感じられていた。

 

 蔦王と茶を飲む。

 

 くだらない話をする。

 

 仕事ばかりしている相手へ文句を言う。

 

 耳を撫でてもらう。

 

 そんな毎日が、何となくこの先も続くような気がしていた。

 

「……あたし、あれに入るの嫌なんだけど」

 

「ええ。知ってるわ」

 

「知っててやるのね」

 

「そうよ」

 

 蔦王は微笑んだ。

 

 マンドラゴラは深く息を吐き、椅子の背へ身体を預けた。

 

「……ほんっと、どうしようもない女」

 

「そう?」

 

「そうよ。あんた、あたしのこと好きだの何だの言ってるくせに、そういうところだけ絶対譲らないんだもの」

 

「あなたが嫌なのも、ちゃんと分かっているわ」

 

「だったら少しくらい考え直しなさいよ」

 

 蔦王は困ったような顔もせず、ただ穏やかに首を横へ振った。

 

 その返事を見て、マンドラゴラはもう一度ため息をついた。

 

 不思議なものだった。

 

 以前なら、ここで怒鳴っていただろう。何ならもう一度平手打ちしていたかもしれない。

 

 けれど今は、目の前の女が自分の望む答えを返さないことを知っている。

 

 それと同じくらい、自分を嫌いになることもないのだと知っていた。

 

「……ねえ」

 

「なあに?」

 

「あたしがあれに入っても、あんたはちゃんと来るんでしょうね?」

 

 蔦王は少しだけ目を丸くした。

 

 それから、嬉しそうに微笑む。

 

「もちろんよ。今まで通り、毎日会いに行くわ」

 

「……本当でしょうね」

 

「ええ。あなたに会うの、好きだもの」

 

マンドラゴラは目を逸らした。

 

「……なら、いいけど」

 

 それで納得したわけではない。けれど、あの女がもう自分に会いに来なくなることだけは、どうしても嫌だった。

 そんなことを思ったマンドラゴラは何となく恥ずかしくなり、皿へ戻した菓子をもう一度摘まんで口へ放り込んだ。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 案内された場所は、以前ホルンたちを見つけた広い部屋とは別の場所だった。

 

 高い天井には大型の移動設備が走り、床にはいくつもの太い線が埋め込まれている。遠くではスタッフらしい人影が無言で作業しており、規則的な機械音と空調の低い唸りが、広い空間へ絶えず響いていた。

 

 その中央に、黒い機械があった。

 

「……うわ」

 

 マンドラゴラは思わず足を止めた。

 

 紙で見た時にも相当大きいとは思っていたが、実物は想像していた以上に巨大だった。

 

 中央には人間一人分の細い支持構造があり、その左右へ、まるで分厚い建造物を切り取って取り付けたような機械塊が配置されている。

 

 厚い装甲に覆われた左右の塊には、幾重にも重なった可動関節と大きな噴射口があり、付け根から向きを変えるような構造になっていた。外側には短い砲口が一つずつ、内側には細長い格納部らしいものが収まっている。

 

「……馬鹿みたいにでかいじゃない」

 

「そうね。推進器には随分場所を取られたわ」

 

「これ、全部あたし一人で動かすわけ?」

 

「あなたが動かすわけじゃないわ。あなたには、機械が使うアーツ出力を変換してもらうの」

 

「……あたしが操縦するんじゃないのね」

 

「ええ」

 

 分かってはいた。

 それでも、改めて言われると腹が立つ。

 

 マンドラゴラは機体へ近付き、その中央に設けられた人体支持構造へ視線を向けた。

 

 最も目立つのは、背中を大きく反らせるように曲げられた支持フレームだった。

 

 骨盤を前へ出し、胸を持ち上げ、頭部を後方へ傾ける。大腿を支える左右対称の機械支持が開かれ、その先には膝と下腿を固定するための細長い部材が続いている。

 

 その下方には、人体の足先から延長するように二本の機械脚が備えられていた。

 

「……ちょっと待って」

 

 マンドラゴラは顔をしかめた。

 

「本当にこの格好で固定するわけ?」

 

「ええ。あなたの身体の位置は、もう調整してあるわ」

 

「調整してあるじゃないのよ!何でこんなに反らす必要があるの!」

 

「中央の支持構造と推進器の位置を合わせるためよ。腰や背中へ無理な荷重がかからないように、機械側で支えるようになっているわ」

 

 蔦王は図面を開いて説明したが、マンドラゴラは半分も聞いていなかった。

 

 そもそも、痛いか痛くないかではない。自分の身体があの形へ固定され、それを中心に巨大な機械が動くということ自体が、どうしようもなく気に入らなかった。

 

「……あたし、ただの部品じゃないんだけど」

 

「知っているわ」

 

「知っててこんなもの作るのね」

 

「ええ」

 

 蔦王は少し嬉しそうに、機体中央へ視線を向けた。

 

「あなたが入れば、きっと素敵になるわ」

 

「……だから、そういう言い方やめなさいよ」

 

 マンドラゴラは耳を伏せた。

 

 文句は山ほどある。

 けれど、蔦王がこちらへ手を差し出してくると、少し迷った後、その手を取った。

 

 組み込みは、最初に想像していたほど乱暴なものではなかった。

 

 蔦王が傍についており、身体を持ち上げる際にも、負傷していた箇所へ無理な力がかからないよう何度も確認が行われた。

 

 外套は外されたままだったが、黒い衣装の内側に残る金色の縁取りや胸元の意匠は、必要な接続部分を除いてそのまま残されている。

 

 機械支持の中央へ身体を収められた時、マンドラゴラはまず背中の感触に眉を寄せた。

 

 胸郭が後方から支持され、骨盤が前方へ保持されるにつれ、身体が自分では決して取ろうと思わない姿勢へ導かれていく。背筋へ力を入れても角度は変わらず、頭を起こそうとすれば頸部の支持がそれを妨げた。

 

「……っ、ちょっと。これ、結構きついんだけど」

 

「背中?」

 

「馬鹿!腰に決まってるでしょ!こんなに反らさなくてもいいでしょうが!」

 

 蔦王はすぐに横へ回り、支持部の角度と圧力を確かめた。

 

「確かに少し負荷が集中しているわね。そこは直しましょう」

 

 機械が低く唸り、腰部の支持位置が僅かに変わる。

 

 すると先ほどまで一点へ集中していた圧迫感が薄れ、身体全体を広い面で支えられるような感覚に変わった。

 

「……最初からそうしなさいよ」

 

「ごめんなさいね。実際に入ってもらわないと分からないところもあるの」

 

「ほんっと、あたしで試す気満々じゃない」

 

「ええ。あなたの機体だもの」

 

 マンドラゴラは天井を睨んだ。

 

 それからしばらく、身体へ次々と支持機構が取り付けられていった。

 

 骨盤周辺には細長い装置が収まり、脊柱へ沿った入力系が固定される。開かれた両脚は大腿から膝、下腿、足首の順に支えられ、指先へ力を入れても脚を閉じることはできなくなった。

 

 腕も左右対称に保持される。

 

 身体の自由が少しずつ失われていくにつれ、マンドラゴラは何度も悪態をついた。

 

「……ああもう!こんな格好、誰が考えたのよ!」

 

「私よ?」

 

「そんなの知ってるわよ!」

 

 蔦王はそのたびに身体の状態を確かめ、痛みが強ければ位置を直し、問題がなければ次の工程へ進んだ。

 

 最後に足首周辺の固定が終わる頃には、マンドラゴラは自分の身体を支えているのが筋肉ではなく機械そのものだと嫌でも理解していた。

 

 どこへ力を入れても、姿勢が変わらない。

 

 それなのに、呼吸をすることだけは驚くほど楽だった。

 

「……ねえ、蔦王」

 

「なあに?」

 

「……あんた、今どこ?」

 

「すぐ横よ」

 

 声がした方へ視線を動かす。

 

 蔦王は機体中央の傍に立ち、マンドラゴラの身体状態を確認していた。

 

 目が合うと、いつもと同じように微笑む。

 

「もう少しで終わるわ。疲れたでしょう?」

 

「……別に。まだ平気よ」

 

「そう。頑張っているのね」

 

「……そういうの、いちいち言わなくていいから」

 

 言いながらも、マンドラゴラは視線を逸らさなかった。

 

 そして、最後の工程が始まった。

 

 頭部入力インターフェース。

 

 顔面全体を覆う黒い構造物が、後頭部の支持機構へ沿うように開いている。

 

 マンドラゴラはそれを見た瞬間、顔をしかめた。あれを被れば、自分もホルンたちと同じように視界も聴覚も完全に遮断される。

 

「……これ、本当に全部塞ぐの?」

 

「ええ。顎の下まで収めるわ」

 

「……冗談でしょ。何も見えなくなるじゃない」

 

「そうね」

 

「そうねって……!」

 

 思わず言い返しかけたが、蔦王がこちらへ近付いてくると、マンドラゴラは口を閉じた。

 

 蔦王は短い黒髪を指で整え、耳の周りへ引っ掛かっていた毛束を丁寧に直している。

 

 今まで何度も繰り返してきた、見慣れた手つきだった。

 

「……ねえ」

 

「なあに?」

 

「……これ閉じても、あんたの声は聞こえるのよね?」

 

「ええ。ちゃんと聞こえるわ。通信用のチャンネルも開いてあるもの」

 

「……本当でしょうね」

 

「もちろんよ」

 

 蔦王はマンドラゴラの耳へそっと触れた。

 

「大丈夫。何かあったら、すぐに教えてちょうだい」

 

「……分かったわよ」

 

 最後にもう一度だけ、蔦王の顔を見た。

 

 微笑んでいる。

 

 いつもと同じ顔だった。

 その表情を記憶へ留めるように眺めているうちに、黒い頭部殻がゆっくりと降りてきた。

 

 視界が狭くなる。

 目元が覆われ、鼻先から口元へ影が落ち、最後には顎の下まで機械構造の内部へ収まった。

 

 小さな接続音が響く。閉鎖が完了すると、目を開いても閉じても何も変わらなくなった。

 

 暗闇だった。

 

 マンドラゴラは反射的に首を起こそうとしたが、後頭部の支持構造がそれを許さなかった。腕へ力を入れても固定具は動かず、脚を閉じようとしても膝の角度すら変わらない。

 

「……蔦王?」

 

 声を出すと、頭部殻の内側へ僅かに反響した。すぐに返事があった。

 

「なあに?」

 

「……いるのよね」

 

「ええ。ここにいるわ」

 

 いつもと同じ声だった。

 直後、マンドラゴラの耳が僅かに動く──動かせるだけの余地があった。

 

 金属の器具が何かへ触れる音。

 

 床を歩く複数の足音。

 

 遠くで稼働している機械の低い唸り。

 

 そして、すぐ近くにいる蔦王が、端末を操作する時の小さな音まで聞こえてくる。

 

「……あ」

 

 思わず声が漏れた。

 頭部入力インターフェースに空けられた穴から露出した耳が音の方へ向く。蔦王が一歩近付くと、その足音もはっきり分かった。

 

「どうしたの?」

 

「……何でもないわ」

 

 マンドラゴラは少しだけ耳を伏せた。

 

 やがて、いつも髪を梳く時と同じ指先が耳の根元へ触れた。

 

「……ここにいるわよ」

 

 声は、すぐ傍から聞こえた。

 

 マンドラゴラはそれ以上何も言わず、しばらくその温かな指先へ耳を傾けていた。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 B2-M1が初めて浮き上がった時、マンドラゴラは床から離れたことを、足元の感触が変わるより先に理解した。

 

 左右の巨大な推進ブロックが低い音を立てて起動し、その振動が中央の機械骨格を通して全身へ伝わってくる。やがて身体の奥へ何かが流れ込むような熱が生まれ、頭部から脊柱を通ったそれが、骨盤周辺で別の感覚へ変わる。

 

 自分の意思とは関係なく、アーツが動いている。

 

 マンドラゴラは思わず眉を寄せたが、顔が完全に覆われているため、外からその表情を見ることはできなかった。

 

「……何よ、これ」

 

 頭部殻の内側で声が反響する。

 蔦王の返事はすぐに届いた。

 

「最初の変換が始まったの。身体は大丈夫?」

 

「……変な感じ。あたしがアーツを使ってるみたいなのに、全然違うわ」

 

「痛みは?」

 

「……今のところは、ない」

 

「そう。それなら少しずつ上げていくわね」

 

 左右の推進音が大きくなった。足先へ繋がっていた機械脚の接地感が消え、身体全体が持ち上げられる。腰も胸も頭も固定されたままなのに、周囲の空気だけが変わり、重力に引かれる感覚が僅かに薄くなっていった。

 

 浮いた。

 

 そのこと自体は、別に珍しくなかった。

 

 マンドラゴラは元々、自分のアーツで身体を浮かせることができる。空中へ上がる感覚など、今更驚くようなものでもない。

 

 だが、これは違った。

 自分で浮いているのではない。

 

 身体を通っていくアーツの流れを感じていても、その行き先は自分が選んだものではなく、機械側が勝手に決めている。

 

 動こうと思っても動かない。

 止まろうと思っても止まらない。

 

 そのくせ、機体が浮き上がっているのは間違いなく自分の身体を通した出力のおかげだった。

 

「……ほんっと、気持ち悪い仕組みね」

 

 呟いた声は頭部殻の内側に反響した。

 

 しばらくして、推進音が一定になった。

 

「姿勢安定。良い状態ね」

 

 蔦王の声が聞こえる。

 

「次は少しだけ動かすわよ。急に身体へ力がかかるから、無理に逆らわなくていいわ」

 

「……ちょっと待って。どれくらい──」

 

 言い終わる前に、身体が横へ引かれた。

 

「きゃっ!?」

 

 胸郭と骨盤を機械支持へ押しつけられ、思わず息を呑む。

 

 どちらへ動いたのかは分からない。視界は完全に遮られているし、外の景色も見えない。ただ、身体へ加わった力の向きから、機体が横方向へ大きく移動したらしいことだけは理解できた。

 

「ちょっと!何よ今の!」

 

「横方向への偏向機動よ。大丈夫、まだ低出力だから」

 

「低出力でこれなの!?」

 

 抗議している間に、今度は逆方向へ力が加わった。

 

 さっきより短いが、鋭い。

 

 固定された身体が大きく揺れることはなかったものの、腰の奥へ重い圧迫感が伝わり、思わず歯を食いしばった。

 

「……っ、ちょっと、蔦王!」

 

「なあに?」

 

「これ、あたしが思ってたよりずっと乱暴なんだけど!」

 

「そうね。あなたの身体が動かないようにしていても、加速度そのものは感じるものね」

 

「だからそういう問題じゃ……!」

 

 言いかけて、マンドラゴラは口を閉じた。

 

 左右の推進音が変わった。

 

 さっきまでとは違う。機体が一度、静かに姿勢を整えているのが分かる。その次に来るものを、彼女は何となく予想した。

 

「……ねえ」

 

「なあに?」

 

「……次、前に飛ぶんでしょ」

 

「ええ。よく分かったわね」

 

 直後、推進音が急激に高まった。

 身体全体が後方へ押され、胸郭の支持部へ強く荷重がかかる。腰から背中へ流れていたアーツの感覚が一気に濃くなり、まるで身体の内側を熱いものが駆け抜けていくようだった。

 

「っ……!」

 

 思わず声を飲み込む。

 

 けれど、その感覚は長く続かなかった。

 

 推進音が変わり、急制動がかかる。身体を押しつけていた力が一度抜け、今度は別方向から支えられるような感覚へ切り替わった。

 

 ほんの短い時間だったはずなのに、マンドラゴラは大きく息を吐いた。

 

「……っは……もう……!」

 

 耳がぺたりと伏せる。

 

「何なのよ、あんた!こんなの飛ぶっていうより、振り回されてるだけじゃない!」

 

「でも、ちゃんと飛べたでしょう?」

 

「そういう問題じゃないって言ってんの!」

 

 蔦王の楽しそうな声が聞こえた。

 

「ふふ。とっても綺麗だったわよ」

 

「……何よ、それ」

 

「あなたの機体。思っていた以上に素敵だったわ」

 

 マンドラゴラは少し黙った。

 

 自分には見えない。

 

 どんなふうに飛んだのかも、どこまで移動したのかも分からない。

 

 ただ、蔦王が嬉しそうにしていることだけは、声を聞けば分かった。

 

「……ふん」

 

 小さく鼻を鳴らす。

 

「まあ……あたしだし。当然でしょ」

 

「ええ。あなたですものね」

 

 その返事が妙に嬉しかった。

 やがて蔦王は、生体負荷がGrade 1へ上昇したことを確認すると、試験の終了を告げた。

 

 マンドラゴラはまだ動けると文句を言ったが、蔦王はそれ以上の高負荷運転を行わず、機体をゆっくり降下させていった。

 

「今日はここまでよ。十分頑張ったわ」

 

「……まだ平気なのに」

 

「ええ。でも、あなたの身体を疲れさせすぎたくないもの」

 

 マンドラゴラは少しだけ口を尖らせた。

 

「……あんた、ほんっと過保護よね」

 

「そうかしら」

 

「そうよ」

 

 機械脚が床へ接地した感触が伝わる。やがて左右の推進音が弱まり、身体の奥を通っていたアーツの流れもゆっくり落ち着いていった。

 

 試験は終わった。

 

 B2-M1は、無事に初飛行を終えたのだった。

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 試験終了後、マンドラゴラは機体中央へ固定されたまま、しばらく休むことになった。

 

 身体は疲れていた。

 

 大きく動いたわけでも、何かを持ち上げたわけでもないというのに、全身の奥へ鈍い疲労が溜まっている。手足を動かそうとしても固定具はびくともせず、頭部殻の内部では、自分の呼吸だけが妙に近く聞こえた。

 

 けれど、周囲の音も聞こえている。

 

 遠くで工具が触れ合う音。

 

 機械の停止を知らせる低い駆動音。そして、何人かのスタッフが通り過ぎる足音。

 

 その中から、聞き慣れた足取りが近付いてきた。

 

 マンドラゴラの耳が、声をかけられるより先にそちらへ向く。

 

「……遅いじゃない」

 

「あら。もう分かったの?」

 

 蔦王だった。

 

「分かるわよ。あんたの足音くらい、もう覚えたもの」

 

「ふふ。嬉しいわ」

 

「……別に、喜ぶようなことじゃないでしょ」

 

 蔦王が機体中央へ近付き、頭部入力殻の外へ出ている耳に触れる。

 

 いつもと同じ、柔らかな指先だった。

 マンドラゴラは耳を僅かに傾け、その感触を確かめる。

 

「おかえりなさい、マンドラゴラ」

 

 蔦王の声が近くで響く。

 

「……ただいま」

 

 返事をしてから、マンドラゴラは少しだけ恥ずかしくなった。

 こんなことを言うつもりはなかった。

 

 けれど蔦王は嬉しそうに笑い、いつもと同じように耳を撫でてくれた。

 

「今日はとっても上手だったわ。ちゃんと飛べたし、推進も安定していたのよ」

 

「……そう」

 

「それに、あなたの身体も頑張ってくれたわ。負荷は少し上がったけれど、もう回復が始まっているもの」

 

 マンドラゴラは黙って聞いていた。

 それから、少し迷って口を開く。

 

「……ねえ」

 

「なあに?」

 

「……もっと褒めなさいよ」

 

 蔦王の手が一瞬止まった。

 

「……あら」

 

「何よ。あんた、さっきから綺麗だの上手だの言ってるじゃない。だったら、ちゃんと最後まで言いなさいよ」

 

 顔を見られていなくてよかった。

 今の自分がどんな表情をしているか、想像するだけでも恥ずかしい。

 

 蔦王は小さく笑った。

 

「ええ。とっても上手だったわ。初めてなのに、あんなに綺麗に飛べたもの。あなたは本当に素敵な子ね」

 

「……ふん」

 

 マンドラゴラの耳がゆっくり緩んだ。

 

「まあ、あたしだからね」

 

「ええ。あなたですもの」

 

 その言葉を聞いていると、不思議なくらい落ち着いた。

 

 昔は、誰かに認めてもらいたくて仕方がなかった。

 

 自分がどれだけ強いか、どれだけ役に立つか、何を成し遂げたか。そんなものを一つずつ積み上げて、ようやく居場所を得られるような気がしていた。

 

 けれど、目の前の女は違う。

 

 何もできない時にも同じことを言った。

 怒鳴っても、叩いても、役に立たなくなったらどうするのかと問い詰めても、最後には必ず同じ答えが返ってきた。

 

 そして今日、実際に機体として飛んだ後でさえ、その態度は何一つ変わっていなかった。

 

「……ねえ、蔦王」

 

「なあに?」

 

「……あたしさ」

 

 少しだけ言葉を探した。

 

「……ここに来てから、随分いろんなこと言ったわよね」

 

「そうね」

 

「気持ち悪いとか、頭おかしいとか……まあ、実際そうなんだけど」

 

「ふふ。そうかもしれないわね」

 

 マンドラゴラは小さく笑った。

 

「……でも、あんたがあたしのこと好きなのは、もう分かったわ」

 

 蔦王は何も言わず、耳へ触れていた手を少しだけ動かした。

 

 マンドラゴラはその指先へ耳を傾ける。

 

「……だから、その……」

 

 言いかけて、やっぱり恥ずかしくなった。

 

「……何でもない」

 

「そう?」

 

「そうよ。忘れなさいよ」

 

「ええ」

 

 蔦王はそれ以上追及しなかった。

 代わりに、いつものように身体の状態を確認し、疲労が強くなっている箇所へ余計な負担がかからないよう調整してくれる。

 

 その作業は丁寧だった。

 今までと、何一つ変わらない。

 

 しばらくして、蔦王が次の作業に向かおうとした時だった。

 

「それじゃあ、少し席を外すわね。後でまた来るから、ゆっくり休んでいてちょうだい」

 

 指先が耳から離れる。

 

 足音が少し遠ざかった。マンドラゴラは暗闇の中で、その音を聞いていた。

 

「……ねえ」

 

 蔦王の足音が止まる。

 

「何かしら?」

 

 少しの沈黙。

 それから、マンドラゴラは自分でも驚くほど自然に、その言葉を口にしていた。

 

「……リーダー」

 

 呼んだ瞬間、胸の奥で何かが動いた。

 

 昔、自分を救ってくれた人へ使っていた呼び名だった。

 

 ずっと追いかけ、認めてもらいたくて、最後にはもう必要ないと手放したはずの言葉。

 

 それを今、自分から別の誰かへ向けている。

 

 マンドラゴラは一瞬だけ息を呑んだ。

 けれど、言い直そうとは思わなかった。

 

 蔦王は驚いたように少し黙ってから、いつもと同じ柔らかな声で答えた。

 

「……なあに?」

 

マンドラゴラは僅かに耳を伏せた。

 

「……早く戻ってきなさいよ。あたし、暇なんだから」

 

「ええ。約束するわ」

 

 足音が再び近付いてくる。

 

 蔦王は機体中央に戻り、黒い頭部殻から出ている耳へ、もう一度そっと触れた。

 

「大好きよ、マンドラゴラ」

 

 マンドラゴラはしばらく黙っていた。

 

 頭は動かない。腕も伸ばせない。

 目を開いても、蔦王の顔は見えない。

 

 それでも、耳へ触れる指先の温度だけははっきりと分かった。

 

「……あたしもよ」

 

 小さな声だった。

 けれど蔦王には、ちゃんと届いたらしい。

 

 すぐ傍で、嬉しそうな笑い声が聞こえた。

 

 マンドラゴラはそれを聞きながら、耳をゆっくりと指先へ傾けた。

 

 いつかまた、あの女が自分のことを好きだと言ったら──今度は、もう少し上手く答えられるかもしれない。

 

 そう考えているうちに、蔦王の手が再び耳を撫で始めた。

 

 機械の中央へ固定された身体は、もう自分ではどこへも行けない。けれど、マンドラゴラは今、早くどこかへ行きたいとは思わなかった。

 

 聞き慣れた足音が傍にある。

 

 大好きだと言ってくれる声があって、その声が今度は自分の返事を待ってくれている。

 

 マンドラゴラはそっと耳を伏せ、蔦王の指先へ身を任せた。

 





【挿絵表示】

B2-M1《MANDRAGORA》
PROJECT CRUCIBLE第一世代応用機4号機。
マンドラゴラ本人を《生体アーツユニット》として組み込み、瞬間的な高出力を全方向偏向推進へ集中させる生体融合型高機動飛行ユニット。
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