高校二年生になった菜々子は、こどもの頃に誘拐された記憶があいまいなまま過ごしていた。
同居する悠が、家から離れるかもしれないという話を聞いて、菜々子の心揺れる。
しばらく手をつないでいないな。
お兄ちゃんと……。
桜は見頃を過ぎて、ささやかな風にはらはらと花びらを散らしている。
「いや~いい結婚式だったな」
花村さんがネクタイをゆるめながら言った。
「直斗さん、すっごい綺麗だった。りせちゃんもちょっとだけどお祝いに来てくれて良かったね」
私が言うと、隣でお兄ちゃんがにこりと微笑んだ。眼鏡の奥の眼が優しい。
「天城の旅館が雰囲気にあっていたな」
お兄ちゃんが言った。うん、それにお料理も美味しかった。
「あまり人は呼ばないって言ってたけど、凄い顔ぶれだったね。直斗くんの関係で警察のお偉方来てたし。おんなじ警察組織にいても実物見るの初めて。完二くんの関係で大手出版社の人まで来てたし」
タイトな若草色のワンピースにふわりとしたショールをした千枝ちゃんが感心したように言う。
「完二の作るぬいぐるみが大人気なんだって? それでカルチャースクールの講師やら本の出版やら…・・・あいつ何気に出世頭!?」
「ぬいぐるみじゃなくて、編みぐるみ。巽さんのウサギキャラ、大人気だよ。うちのクラスの子も持ってた」
へーと花村さんが感心している。
「でもさ、最後の新郎挨拶・・・・・・完二が号泣して結局は直斗が挨拶って」
「あそこのカップルの力関係が見えちゃったね。完二くんらしいって言えば完二くんらしいけど」
花村さんと千枝ちゃんが笑いをこらえながら話した。
「そういえば菜々子ちゃん、春から八十神の一年生? 通ってた沖奈の女子校って中高一貫だよね。なのに、わざわざ八十神受けたの?」
千枝ちゃんからシトラスの香りがかすかにした。
「だって……みんなの後輩になりたかったんだもん」
それを聞いたとたん花村さんがニヤリと笑った。
「策士策に溺れる、だな。相棒!」
「だよね~悪い虫がつかないように女子校にいれたのにね~」
「なんつーの? 菜々子ちゃんのことになると全力で空回るよな、悠は」
お兄ちゃんが無言で花村さんを蹴飛ばした。
「陽介と里中はさっさと結婚しろ」
「はあ!? なんで花村と?」
「そうだよ、こんなじゃじゃ馬!!」
お兄ちゃんいわく、二人はくっついたり離れりを繰り返しているそうだけど。
「結婚してくれたらいいな。わたし、ふたりとも大好きだから」
「えー!? 菜々子ちゃんまで。それより菜々子ちゃん、悠のことどうすんの?」
「どう……って?」
「大人になったら、お兄ちゃんと結婚する! って言ってたじゃない」
「またそれ!? 子どもの頃の話しでしょう?」
いまだに言われる小学生のときのこと。もう耳にタコだし、今となっては恥ずかしいしだけ。
「じゃあ、お兄ちゃんが他の人と結婚してもいいの?」
「それは……」
つい口ごもる。それはイヤだけど。
「二人ともからかうなよ。高校生になったら、菜々子にも彼氏くらいできるだろう」
お兄ちゃんが助け船を出したけど、どんな言葉や態度が正解なのか分からない。
「じゃあ、おれたちは二次会に行くから。先に帰っていなさい。叔父さんもお偉方を送ったらじきに帰るだろう。戸締まりしっかりして」
「うん」
「天城は?」
「一通り終わってから来るって。小腹空いたとき用にっておにぎり渡されたよ」
「さすが若女将は気が利く。見習え、里中」
花村さんと千枝ちゃん、多分ずっと前からこんな感じなんだろうな。
お兄ちゃんたちは高校のときの仲間と二次会だって。
普段は一緒だけど、こんなときはいつも仲間外れ。
小学生のころは、淋しいなんて思わなかったんだけどな…お兄ちゃんたちの背中を見送るときに。
桜色のワンピースの自分がひどく子どもに感じた。
そんな出来事があったのは一年と少し前。
堂島菜々子、高校二年生。いまだに彼氏はおりません。
高二の夏休み、補習と部活で終わりそう……です。
思わずため息が出た。
はあ……と。
食材をカートに入れながら、食品売り場をやる気なく歩く。夕方が近いジュネスの食品売り場は混み始めている。
考えが甘かったな…八十神は通っていた私立中学から進学するにはレベルが高かった。
なんとか頑張って入学したけど、八十神は県下でも五本の指に入る進学校だから。
お兄ちゃんたちの時代はそうでもなかったと聞いたけど、ここ数年でぐんと偏差値が上がったんだって。
『お兄ちゃん一番取ってスゴい!!』なんて無邪気にしていたけど、ホンとにスゴかったんだって分かるのは同じ立場になってから。
ありえないでしょ? 八十神にいたのは一年間だけ。その間の成績はずっと一番なんだよ!?
自分の記憶の中では、お兄ちゃんは部活もしてたし夜もアルバイトに出たりしてた。いったいいつ勉強してたんだろう? 不思議でならない。
近所に部屋を借りてるお兄ちゃんが久しぶりに夕飯食べに来るから、ご馳走用意しようと思うんだけど、成績の話題がでたら黙るしかない……。
とはいえ、塾の秀先生はお兄ちゃんの元教え子だから情報は筒抜けだろうけど。
塾を紹介してくれたお兄ちゃんには悪いけど、なんか始終監視されてる気分になる。
そんなことに頭を悩ませてもしょうがない。
やっぱりお鮨くらいは用意したほうがいいよね、お寿司のコーナーに行くと花村さんがいた。
「よう、菜々子ちゃん。今帰り? 制服なの? 夏休みだよね」
「補習の帰りです」
むっつりと答えると、花村さんはどこか嬉しそうに笑った。
「懐かしいな、オレも受けたよ、補習。科目なに? 赤点取ったの? ヘイキ、ヘイキ大丈夫、学生時代に勉強できなくてもちゃんと社会人になれるから安心しな。オレも里中も勉強はさっぱりだったけど、きちんと働いてるだろ?」
と、妙に生き生き話し出す花村さん。
「千枝ちゃんも勉強苦手だったの?」
「うん。天城と悠はいつも上位だったけどね。だから悠は市役所に楽勝で入ったんだろうけどさ」
へへっと花村さんは笑った。
「里中は運動能力生かして警察官になったんだ。菜々子ちゃんも得意なことを生かせばいいよ。ピアノ、ずっとやってるって聞いてるよ」
これもまた、ため息。
「音大に進んで、ピアニストになれるくらい上手くもないです。同じ吹奏楽部のなかにだってわたしより上手な子もいる……わたしなんてただ続けてるだけ。それでも特技はピアノですって言うしかない」
「やさぐれてるね、菜々子ちゃん…去年のミス八高が台無しだよ」
「しばらくの間、下駄箱にブスとかバカって手紙がギッシリ入ってた」
「こわっ、オンナこわっ。下駄箱に入ってるのはラブレターだろ。……彼氏いないの?」
「学校に迎えに来たお兄ちゃんを見られたら、誰も声かけてこない」
花村さんは、うーん、と腕組みをした。
「ただでさえ父親が刑事で、お嬢様でもないのに従兄がわざわざ送り迎えって女子に声かける男子がいる?」
「ガードがガッチガチだねぇ……オレだったらパス。悠が彼氏だって周りに思われると、菜々子ちゃん的には迷惑?」
「迷惑とか迷惑じゃないとかじゃなくて、わたしとお兄ちゃんが並んでても、知らない人から見たら年の離れた兄妹でしょ」
だいいち、彼氏だなんて、不釣合いもはなはだしいよ。花村さんはわたしの落ち込みを持て余したようだ。
「じゃあそんな菜々子ちゃんに、オレがスペシャルプライスでお鮨を提供しよう」
と、四人前上生鮨に半額のシールを貼ってくれた。
「え、いいの!?」
「いいよ。でもレジはオレがする。それは悠へのお祝い。一次合格したって聞いたから」
「なに? 一次合格って……もしかして何かのオーディション!? お兄ちゃん芸能界に入るの!?」
「はぁ!? まさか。おれたち27だぜ。菜々子ちゃんのなかで悠はその位置づけなんだ。違うよ。教員採用試験の一次」
「……市役所辞めるの?」
花村さんはカートをわたしから引き取ると、レジに向かった。
「それはちょっと分からないけどさ」
「市役所とは違うの?」
違いがよく分からない。
「違うのは、県内の学校を回るから転勤があること。市役所はそんなことはないだろ?」
「じゃ、稲羽から他所に行くの?」
花村さんは困った顔をした。
「そういうこともあるだろうね」
「だってそんな話し聞いてない!」
つい声が大きくなる。周りの人が驚いて振り返った。慌てて声をひそめた。
「お兄ちゃんは……」
「どこにも行くはずない? 残念だけど、それはないよ。ずっと一緒はない。オレの同級生だっておおかたは稲羽からいなくなってるよ」
「嘘! みんないるじゃない。雪ちゃんも千枝ちゃんも巽さんも直斗さんも、お兄ちゃんも!」
はははって花村さんは笑った。完二と直斗は後輩、と訂正された。
「覚えてない? オレ一昨年までこっちにいなかったよ。里中だって今の赴任地がたまたま稲羽ってだけ。何年かしたら異動する。それに菜々子ちゃんだって、高校卒業して進学するなら稲羽を出るだろう?」
あっ、と思わず口元に手を当てた。
確かにそうだ……。
たとえお兄ちゃんたちが稲羽にいてもわたし自身がここからいなくなる……。
「状況は変わっていく。永遠だって思っていたことが後から考えればほんの一瞬だったってことが多いよ」
花村さんは遠い目をして何かを思い出しているようだった。
「あ、買うものはこれだけ?」
うん、とうなずくと手早くレジを通してくれた。
「悠に聞いてごらん。どうして大学卒業してからわざわざこっちの市役所に就職したのか」
「みんながいるからでしょう?」
「そうとばかりも言い切れない。一つ言えるのは、奴はいつでも真剣だってことだな」
なんのことか分からない。お鮨を受け取りちょっと考えて……まさかね、と思う。
「勉強頑張りな。出来ないよりは出来たほうがいいからさ」
「うん。花村さんも、頑張って。早いとこ千枝ちゃんにプロポーズしないと他の人に取られちゃうよ。お父さん言ってた。千枝ちゃんはスッゴくモテるんだって!」
「このタイミングで言う?だから里中とは……」
顔を赤くしていい募る花村さんに手を振ってジュネスを出た。
家までの道のりは、自転車を押してゆっくり歩いた。
お兄ちゃん、学校の先生になるのかな?家庭教師のアルバイトしてたくらいだから、ほんとうは先生になりたかったのかな……秀先生、今でも言うもん。お兄ちゃんの教え方は上手だったし、いろいろ相談にものってもらったって。
先生になったら、モテモテだよね、きっと。
優しいし、かっこいいし、スポーツ得意だし非の打ち所がないもの。
学生時代から何でも出来たお兄ちゃん、それに比べて自分の平凡さって……。
子どもの頃は何にでもなれると思ってた。
ピアニストにも、それこそお兄ちゃんのお嫁さんにも……。
でもそんな未来はなかったんだ。
花村さんのいうとおり、一個一個消えて無くなっていった。
今の自分はもしかして平凡以下? 中途半端だな、勉強もピアノも。
お兄ちゃんの完璧さが眩しいよ。
市役所に就職した理由……さっきの思いつきは、ホントにただの思いつきでしかない。まさかね、って笑いとばしちゃう。
そのうち、彼女とか紹介されるのかな? 結婚するんだ……とか言われたらどうしよう。
じょうずに笑って「おめでとう」って言えるかな。
そんなことを思うと胸が苦しくなる。泣きたくなる。
落ち込んで下ばかり向いてしまう……と、頭に大粒の雨が当たった。
当たった、と思うと一気に雨が降りだした。
夕立!!
雨は嫌い!!
すぐ近くにシャッターをおろしたままのお店があったから、その軒下に駆け込んだ。
荷物が濡れないように自転車もしっかり入れて空を見上げると、真っ黒な雲が居座ってる。
通り雨だろうけれど、一人で我慢するしかない。
雨は苦手…
一人で雨の音を聞くのはもっと苦手……。
何かを…怖いことを思いだしそうで……。
耳をふさいで目を閉じる。シャッターの前に小さくなってうずくまる。
早く雨があがればいい……。
『記憶を消したり、すり替えたりするんですよ。あまりに過酷な経験をすると……』
どこかの白い部屋だ。
『あれはわたしが体験したことではない、と』
髪を二つに結んでいる。まだ小さいわたし。隣にいるのはお父さん。
『無理に思い出さなくてもいいんですから』
思い出さなくても…いいんですから……。
ざんねんだなおまえのことはかぞくだとおもっていたのにきょうこそあらいざらいはなしてもらおうかしんぱいしなくていいよすぐかえるからちょっとお父さんといっしょにいくだけナナコはまっていてどうじまさんおとどけものです
おとどけものです……。
「菜々子?」
はっと顔をあげると心配そうにわたしを見つめるお兄ちゃんがいた。
「大丈夫か? 陽介から連絡があったから……雨が降ってきたし」
お兄ちゃんは手を差し出した。
「雨が降ってた?」
「ん?」
「誘拐された日……わたしが」
お兄ちゃんはしゃがんでわたしと目線を同じくした。
「そう……何か思いだした?」
「ううん。腕を捕まれたとき、その手がとても冷たかったことだけ」
ああ、胸のつかえが消える。欠けていたジグソーパズルの一片がはまった感じがする。
でも、それだけ。欠けた部分はまだまだ大きい。
わたしは一人で立ち上がってスカートの埃を払った。
お兄ちゃんはRVのハッチバックを開けると、荷物と自転車を積んだ。
こんなふうに迎えに来てもらったこと、今までに何度もあった。学校に、ピアノ教室に、急な雨や雪で。
「お兄ちゃんの車、自転車積むためにこれにしたの? ……わたしのため?」
「それだけじゃないよ。スキーにも行くからね。大きめの車にしたんだ」
助手席に座ってシートベルトを締めた。
「花村さんがお鮨安くしてくれた」
「そうか。後でお礼を言わなきゃな」
「……雲丹だけ先に食べちゃうの」
「……?」
「雲丹、先に食べちゃってお父さんとケンカ。靴下に穴があいてたり、いつもネクタイがちょっと曲がってて、髪の毛には寝癖。手品が上手で宿題に花丸つけてくれた……」
お兄ちゃんのハンドルを握る指が白く見えた。
「教えて……足立さんは何をしたの?」
お兄ちゃんはまっすぐ前を見たまま答えなかった。
フロントガラスを叩きつける大粒の雨とせわしなく左右に動くワイパーの音だけが車内に響く。
「むかしの新聞とか読んだけど、何があったのか、足立さんが何をしたのかよくわからないの。どうしてわたしが誘拐されたのかも」
長い間の疑問を初めてお兄ちゃんに尋ねた。お兄ちゃんもまた、当事者だったはずだから。
「事件があったとき……おれたちは高校二年生だった。菜々子もちょうど二年生だな。それで足立さんは今のおれの年齢だ」
配役が入れ代わったみたいだ、とお兄ちゃんがつぶやいた。
「足立さんは、自分自身の影に捕まったんだ」
お兄ちゃんはしばらく間を開けた。
「あのころ足立さんに、さんざんガキだコドモだって言われたけど、今ならわかるよ。あの頃のおれたちは本当に子どもだったんだ」
それきり黙ってしまった。欠けた部分は埋まらない。
『心因性の記憶障害があるのかも知れませんね』
春先にカウンセラーの先生に言われた。
『子どもの頃の……出来事がトラウマになって、記憶したり思い出したりということが苦手に……』
先生はわたしのカルテを見ながら言った。きっと誘拐事件の被害者という記載があるのだろう。言葉を選んで話す。
幼い頃には、自分の身に起きたことの意味が分からなかった。
でも今なら理解できると思う……知りたい。けど知ってしまうのも怖い……。
足立さんが、人を殺したってことを。
「教えてくれないの?」
「教えられない」
普段の優しいお兄ちゃんからは想像できないほど冷たい言葉だった。
「秘密ばっかりだよね、お兄ちゃんは」
「教員採用試験のことか?」
きっと花村さんが伝えたんだ、わたしに話したこと。
いつも、こう。わたしの行動はみんなお兄ちゃんに筒抜け。いつも監視されているみたいで息が詰まる。
「どうして黙ってたの? わたしやお父さんは家族じゃないから?」
「……叔父さんには言ってある」
喉がかっと熱くなる。
「そっか、わたしには言わないんだ。わたしが子どもだから?」
言い出したら止まらなくなった。
「勉強も駄目で、ピアノもさぼってばかりだから?」
ちがう、と小さく聞こえた。
「わたしが……わたしのこと、面倒くさくなったから!?」
「ちがう!!」
ひどい音を立てて車が止まった。反動で飛び出す体をシートベルトが押さえつけた。
「っ!!」
お兄ちゃんはハンドルに突っ伏していた。肩が大きく上下している。
……怒らせた?
今まで一度も怒らせたことなんかないのに……。
指が細かく震えた。
「……ごめん、驚かせた。怒ってないから。落ち着いて順を追って話をさせてくれないか」
お兄ちゃんは眼鏡を外すと赤くなった眉間をさすった。ハンドルに少しぶつけたらしい。
「稲羽が嫌になったわけでも、菜々子たちがキライになったわけでもない。まず、これだけはわかって欲しい」
「うん……」
雨が小降りになってきた。
「少しドライブするか」
お兄ちゃんは鮫川のほうへ車を走らせた。
「稲羽に来るまでのおれは、友だちの一人もいない暗いヤツだった」
「え?」
「小学生の頃から転校ばかりで、友だちになってもすぐに別れが来る。それの繰り返しで気持ちがすっかり冷えていたんだな。稲羽もどうせ一年間だけだ、って思ってた」
信じられない。だって、お兄ちゃんは人気者だったって花村さんたちが言ってたのに?
「でも違った。ここには叔父さんと菜々子がいたから……家があったから」
体がぽうっと温かくなる。
「おれの両親は仕事最優先だから、家族らしいことをした記憶がないんだ。立派な家に住んでいても空っぽ……子ども心に自分が家にいていいのかどうか分からなかった」
「うちは違った?」
うん、とお兄ちゃんは返事をした。
「一緒に食事したりテレビ見たり、お帰りなさいって言う人がいて……当たり前のことだろうけど嬉しかった。そのうち陽介や里中たちとも友だちになって、世界がどんどん広がっていくような気がした」
嬉しかった、と言うお兄ちゃんの横顔は泣くのを我慢しているように見えてどきりとした。
「でも、ここの居心地のよさに甘えていたと思う」
「逆でしょ? わたし、さんざんお兄ちゃんに甘えてきたよ」
「おれが菜々子に必要とされたかったんだよ」
お兄ちゃんは車を鮫川の遊歩道手前で停めた。
「小さい菜々子を守ることで、堂島の家の役にたっていると思いたかったんだ。だから大学卒業して稲羽で就職するのに迷いはなかった」
エンジンを切ってお兄ちゃんは空を見た。
「菜々子の送り迎えしたり、受験勉強手伝ったりして楽しかった。でも、いつまでもかまって貰うのが嬉しい歳でもないだろ? 今の堂島家はまるで父親が二人いるみたいだ。菜々子だってイヤじゃないか?」
それは正直ある。
雨がやんだようだ。お兄ちゃんはわたしを河原に誘った。
雨に洗われたアスファルトを歩いて河原に降りた。
「長い間、稲羽にいてようやく空っぽだったところが満タンになったみたいだ。だから試験を受けてみた。今なら一歩踏み出せそうだから。でもそんなこと言ってもスケールが小さいよな。まだここの県から出ないんだから」
鮫川。むかしの思い出がよみがえる。
小学生の頃、お休みでお兄ちゃんが帰省すると、お父さんと三人でよくここに来た。お弁当作って、釣りをしたりした。
「おれは菜々子の役にたてたかな?」
お弁当を一緒に作った。学校の宿題を手伝ってくれた。風邪をひいたとき看病してくれた……。我が儘なわたしをいつも励まして見守ってくれた。
子どもの頃からのなにげない日々が一気に思い出された。
いままで変わりばえしないと思っていた毎日が、過ぎさった毎日が宝石のように輝いて見えた。
「菜々子、虹だ」
うつむいていた顔をあげると山のむこう虹がかかっていた。
黒い雲が切れて青空が見えた。
雲間から光の筋が降りてくる。まるで天国のようだ……。
「お兄ちゃん……手つないで……」
いつの間にかわたしは泣いていた。お兄ちゃんはわたしの手を取った。わたしの手はお兄ちゃんの手のひらにすっぽりと包み込まれた。冷えた指先に体温が伝わってくる。
涙をぬぐってお兄ちゃんの目を見た。
「まだお礼を言ってなかった。わたしを助けてくれてありがとう……あの天国みたいにきれいな場所から」
お兄ちゃんの顔が強ばった。
「菜々子……」
「天国みたいだけど、とても淋しい場所だった」
思い出した。わたしが拐われて連れていかれた場所をはっきりと。
冷たい手に腕をつかまれて、天国の回廊を引きずられるように歩いた。淋しくて、怖くて何度もお父さんとお兄ちゃんの名前を呼んだ。
何度も呼んで。そうしたらお兄ちゃんが助けに来てくれた。
「ありがとう……お兄ちゃん」
涙が止まらない。
「礼を言うのはおれの方だよ。おれは菜々子のおかげで犯罪者にならずにすんだ」
「?」
「驚かないで聞いてくれ。菜々子は一度死亡したんだ。おれはその時、菜々子を手にかけた男を殺そうとした……本気で……殺しかけた……」
わたしは目を見開いてお兄ちゃんを見た。いままでにいくらいに真剣で怖い顔をしている。
「でも思いとどまった。そんなことをしても菜々子は喜ばないと思ったから」
手を握るお兄ちゃんの大きな手がわずかに汗ばんできた。
「そして菜々子は足立さんも救ったんだよ」
ぽかんとするわたしに優しく微笑んでお兄ちゃんは続けた。
「足立さんも菜々子のことを思って、あれ以上の罪を重ねるのをやめた」
わたしは何もしていない。ただ首をかしげるだけだ。
「いつか全部を話すよ、菜々子に。おれたちの過ごした一年間のこと……でも、まだ今は冷静に伝える自信がない」
わたしはうなずいた。
「足立さんが来ると家が賑やかになったよね」
二人して消えていく虹を見つめた。
「ふだんは無口なお父さんがお兄ちゃんと三人でおしゃべりしてた。わたしは足立さんが来てくれるのが楽しみだった」
「そんなふうに菜々子が覚えているなら、足立さんも嬉しいと思うよ」
うん、とわたしは答えた。
「先生になるの?」
「合格できたらね。そしたら多分小規模な学校からスタートだと思う。県境の山あいか海側か。不合格なら東北の被災地の役場に派遣してもらう予定。いずれにしろ春には」
やっぱり出て行くんだ。また涙があふれてくる。
いつでも、いつまでも隣にいてくれると思っていた。それでもいつかサヨナラの日は来る。
「ピアノ、もう一度始めるから。勉強も頑張るから……」
だから、離れないで。いつもそばにいて、なんて言えない。
お兄ちゃん自身が決めたことなんだから。
「わたしもちゃんと一人でも大丈夫なように頑張る」
何度も涙を手の甲でぬぐった。
「おれの見送り……あのときの菜々子の言葉を信じて待っている、おれはとんだ馬鹿だろうか?」
「……」
それって、もしかして、あれのこと……だよね。
信じて待っているって……。
顔が熱くなる。夕陽がさしてきたからってわけじゃなく。心臓が信じられない早さで鼓動を打っている。
つないだ手はお兄ちゃんがしっかり掴んで離しそうもない。
きっと震えているのが伝わっているよね!?
「菜々子が自分にとってどれほどかけがえがないか、おれは一度思い知っている……」
お兄ちゃんがわたしを見つめた。いままで見たことのない真剣な眼差し。
「あと何年かしたら、迎えに行ってもいいか? どこにいても必ず行くから」
「わ、わたしまだ子どもで、お兄ちゃんの隣にいられるほど自信もなくて……」
心臓の音がうるさすぎて、うまく話せない。それでも言わなくちゃ。
「だ、だからまだ時間がかかるよ。でも、でもいつかお兄ちゃんにふさわしい人になりたい」
今の自分はあまりに子どもで、例えば千枝ちゃんみたいに強く、雪子ちゃんみたいに優しい人になりたい。そうなりたい。
「イエス……なのかな」
不安げな声のお兄ちゃんが可笑しくて吹き出してしまった。
「変なの、お兄ちゃん大人なのに」
「大人子ども関係ない。告白には一世一代の勇気が……」
ー奴はいつだって真剣ー花村さんの言葉を思い出した。そうか、そうなんだ。
「ところで、おれはいつまでお兄ちゃん?」
「え?」
「陽介は花村さん、完二は巽さん。おれは?」
お兄ちゃんにじっと見つめられてまた体が熱くなる。
「ゆ……」
喉につかえる、お兄ちゃんの名前。
「悠……さん」
小さくしか言えなかった。言い慣れない言葉に自分自身戸惑うけれど、お兄ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。
「好きだよ、菜々子」
お兄ちゃんは、そのままわたしの額に軽く口づけた。
「あっ、汗だくなのに!!」
思わず手を振りほどいて額を両手で隠す。
恥ずかしさのあまり、川原にしゃがんでしまった。
その隣にお兄ちゃんも静かに腰をおろす。
「菜々子、焦らなくていいよ。菜々子の望むように生きてごらん」
「うん」
「待っているから。菜々子が大人になるのを」
「うん」
「足立さんは、時間を止めたかったんだ。この世界は無意味だから壊してやる、そう言ってた。おれたちは辛くても進むほうがいいと思った」
「世界?」
「大袈裟かな。人は一つの世界だと思うよ。その世界を抱いて未来へ進む。足立さんはそれを人から奪った」
そう話すお兄ちゃんの横顔は、悲しそうだった。
「菜々子が生きていてよかった」
その命を救ってくれたのはお兄ちゃんだ。
「いつから、わたしのこと……す……」
言えない、あまりに図々しくて。
「菜々子がおれをお兄ちゃんって呼んだときからだよ」
言ってからお兄ちゃんは盛大に赤くなった。
「察してくれ。陽介にずっと『それは変』って言われ続けたんだ」
「ほんとにずっと待っててくれたんだね」
「気の長さと忍耐力は筋金入りだ。さ、帰ろう。帰って叔父さんに報告しよう」
お兄ちゃんは覚悟を決めたような顔つきで言った。
「報告って、お父さんに言うの!?」
「当然です」
お兄ちゃんはわたしの手を自然に握ると車へと歩き出した。
ー堂島さんがお義父さんになるわけでしょ?ないわー…それはないわ……。
不意に足立さんのからかうような笑顔と声をはっきり思い出した。
ああ、自分のなかの足立さんは、やっばり明るくてちょっとイジワルで。
でもお父さんと一緒に帰ってきてくれると嬉しかった、足立さんなんだ。
そう分かったら、涙がにじんだ。
いつか足立さんが犯した罪をすべて理解できるほど大人になる。
でもこの思い出は大切にしておこう。
涙を指でぬぐったら、心の霧が晴れていくようだった。
「何笑ってるの?」
お兄ちゃんが不思議そうにわたしを見た。
「別のこと思い出したの。でも秘密」
「あいこかな?」
「うん、わたしもいつか話すね」
足立さん、
わたしの世界は未来に向かって進むから。
おわり