ドリームイーター   作:わしう

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第3R『目指せテイオー!』

 トレセン学園の応接室は飾り気が少ない。ソファなどはある程度の物が用意されているが、実務的すぎて、座って話せればいいだろうという部屋になっている。名家の者も出入りする所だというのに、もう少しハイセンスな家具を置いたほうがいいだろうとサンゼウスは思う。

 

 サンゼウスは学園に家のお抱えトレーナーを呼び付けた。ポニーのころから指導を受けている相手だ。本当ならトレセンの設備を使ってこのトレーナーから指導を受けたいぐらいだが、学園は彼を部外者だと言って受け入れない。仕方がないので応接室で面会しているのだ。名家が不利になるシステムはどうかと思う。

 

 対面のソファに座っているトレーナーはテーラードジャケットを着た、ガタイのよい中年男性だ。ウマ娘だったらなかなかに走りそうな体である。トレーナーが貧弱ではウマ娘に指導などできるわけないので、ゼウスは彼を評価している。

 

 ゼウスはスクールバッグから書類を取り出し、テーブルに広げる。トレセン学園のコースが書かれた大きな図面だ。距離、幅員、コーナー半径、素人にはよく分からない何かの表記などが見て取れる。それを見たトレーナーは少し顔をしかめる。

 

「ゼウス様、これは部外秘の資料では?」

「お前も元トレセン勤めなんだ。構わないだろう」

「私に見せることは誰にも言ってませんね?」

「心配するな。祖父の息がかかっているんだ」

 

 トレーナーはようやく納得したようだ。図体の割に細かいことを気にする奴だ。

 

「選抜レースのシミュレーションをしろ」

 

 ゼウスは選抜レースに関する情報をトレーナーに伝える。内側の芝コースを使うこと、距離、走ってみたバ場の感触、何人立てか、出走するウマ娘が誰になるか、シロガネモルフェが唯一最大の敵であること……。

 

「選抜レースまでまだ日があるはずですが、もう出走ウマ娘が公表されているんですか?」

 

 このトレーナーは少し鈍いところがあるのが欠点だ。ゼウスの話しっぷりから察して欲しいものだ。

 

「公表はされていない。だがそうなるだろう。意味は分かるな?」

「……分かりました」

 

 ゼウスはトレーナーの返事を確認すると、さっさと話を戻す。モルフェとクラス練習でぶつかったときに知った、彼女の姑息な走りっぷりを語って聞かせる。そして最後に、勝つための作戦を立てろと指示する。

 

 トレーナーはしばし考え込む。妙に不安そうな表情がゼウスは気にかかる。特に難しいことは要求していないはずだが。

 

「まず、このコースはかなり小回りです。外を回るとロスが大きい。内ラチ沿いを走るべきです。そして、直線も短い。そこで追い上げるには長さが足りない。先行で行くべきです」

「なるほどな。まあそれくらいはオレ様も考えてはいたが」

「さすがですね。しかしそれだけではありません。二つ追加させてください。まず、必ず脚をためてください。ライバルに早めに前に出られると、短い直線で逃げ切られる恐れがあります。差せる脚を残さないといけません」

 

 トレーナーはゼウスが脚をためることもできないと思っているのだろうか? バカらしくてモノを言う気も起きない。続けろと顎で促す。

 

「そして、シロガネモルフェより前の位置を取らなければいけません」

「おい、オレ様がモルフェより遅いと言いたいのか? だから前を取っておけと?」

「そうではありません。コースの不利によるものです。トップスピードではゼウス様のほうが速く、加速ではモルフェのほうがスムーズということでしたね? 短い直線ではゼウス様が不利です。モルフェより前を取ることで、不利を克服できます」

 

 コースの不利! そういえば、1ハロンダッシュでもコースの不利で負けたのだった。しかし選抜レースではコースの不利を跳ね除けられる。目の前の男は、ようやくトレーナーらしいことを言ったじゃないか。

 

「よし、それで行こう。よくやった。これでオレ様の勝ちは盤石だろう」

「それが……ここが一番難しいところです」

「あぁ? モルフェより前を取るだけだ。簡単だろ?」

「モルフェはスタートがうまいということですから、位置争いも強いということになります」

 

 そういうことか。それは問題ないとゼウスは知っている。トレーナーに伝えていない情報によるものだ。自分だけが問題を解決できているという喜びが顔に出てしまう。トレーナーより先回りしてしまうとは、自分の才能によるものだろうか。

 

「もし、モルフェが大外枠の端っこになり、オレ様が1枠1番になったら?」

「は?」

「それで考えてみろ、位置争いはどうなる?」

「モルフェは圧倒的に不利になりますが……まさか」

「心配するなと言ったろ? 祖父の息がかかっている」

 

 ゼウスはトレーナーを安心させてやろうとして言ったのだが、トレーナーは絶句してしまい、顔を青くしている。ちょっと心配性すぎる。前はこんなじゃなかったのに。

 

 まあいい。ゼウスの勝ちが盤石であることは変わりない。モルフェより前を楽に取って、脚をためるだけ。あとは自分の真の末脚がモルフェを打ち負かすだろう。

 

 もうすぐゼウスとモルフェの評価が逆転するときがやってくる。それを考えると、ゼウスは何でもできるような感覚が湧いてくる。選抜レースの勝利からダービーの勝利まで、思い描く栄光に沿って走っていくことができる。溢れるような賞賛を手に入れるだろう。生まれやバ体に相応しい賞賛を。

 

   Ψ

 

 トレセン学園も学校なので、普通の学校にあるような施設も一通り揃っている。それらのうちの一つ、図書室は他の学校と少し違う。一つはレースやスポーツに関する本がかなり多いということだ。スポーツ新聞すら置いてある。もう一つはトレーナーが利用していることがよくあるということだ。トレーナーは月刊トゥインクルのバックナンバーで情報収集したりする。トレセン学園の図書室はレースのための実用的な施設なのである。

 

 しかし、図書室の机の一つを使っている二人のウマ娘、シロガネモルフェとナイスネイチャはスポーツにまるで関係ない物を机に広げている。学園周辺の地図だ。二人はりんごコロッケを賭けたオグリとの勝負のために、学園から商店街までのコースを調べているのだ。

 

 オグリと勝負をすることが決まった日から、モルフェたちは何度かオグリに挑戦したが、一度も勝てていない。オグリは厳しいロードワークを小学生のころから日課にしているらしく、道路でもスイスイ走るのだ。駅伝の選手になれるだろう。

 

 モルフェは行き詰っていたが、ネイチャがいいアイデアを思い付いたと言うのだ。彼女が意外と積極的なので、モルフェは助かっている。ネイチャは仕方なく勝負に付き合っているように見せて、隠しきれない闘争心を見せている。

 

「今までアタシたちは近道を探してた。それこそが間違いだったの」

「近道が間違い?」

 

 ネイチャの言う通り、モルフェたちは近道を選んでいた。オグリが遠回りをしているからだ。彼女は最短ルートから大きく外れた大通りを選んでいる。大通りは速度制限が緩いため、そのほうが早いと判断してのことだろう。モルフェたちは近道を使うことで、距離を縮めて勝とうとしていた。

 

「近道は障害が多すぎ。歩行者はいるし、速度制限はあるし、見通しは悪いし、結局は遠回りが早いってこと」

「たしかに、走りづらいことがありましたね」

 

 ウマ娘はある程度の速度を出すと、道路交通法で歩行者扱いされなくなる。人間にぶつかったりすれば罪に問われることもあるので、生活道路では気を付けないといけない。

 

「そこでアタシたちも遠回りするってわけ。使うのは……ここ!」

 

 ネイチャが指で示した場所は田んぼの真ん中の道路だ。商店街に行くには大回りすぎて、考えてもいなかった道だ。

 

「なるほど。人はいない、速度制限もない、見通しはいい、おまけに信号もありませんね」

「その通り。ここなら60キロでぶっ飛ばしたって白バイに見つかることもないし」

 

 白バイに違反切符を切られる生徒が毎年1人はいるのである。

 

   Ψ

 

 モルフェとネイチャは商店街を速歩で進んでいる。速歩といっても歩いているわけではない。ウマ娘の「はやあし」なので、人間でいうところのジョギングのような走りだ。道路交通法で歩行者と認められる速度である。

 

 二人はたっぷりの汗をかいている。田んぼの真ん中の道路は見晴らしが効いて、あまりに走り心地がよかった。思わずバクシンしていまい、汗まみれになってしまったのだ。だがその分、時計は出ている。オグリより早く肉屋に着きそうである。

 

 肉屋が視界に入ると、店の前に一人のウマ娘がいて、何か食べているのが見える。芦毛なのでオグリかと思ったが、バ体が小さい。別ウマ娘だ。オグリはまだ来ていない。珍しくもネイチャが勝利を喜ぶ声を上げる。モルフェも喜びが口から零れ出る。もうすぐオグリのささやかな夢が食べられる。口の中がリンゴ味になってきたようだ。モルフェは肉屋に急ぐ。といってもこれ以上速度を出せないので、心だけ急ぐ。

 

 モルフェたちが肉屋に近づくと、肉屋を挟んで道の向こうに別の芦毛ウマ娘が現れる。今度こそオグリだ。オグリは二人とは反対方向に遠回りするルートを使っているので、反対側から現れたのである。あの距離では間に合うまい。

 

 モルフェとネイチャが肉屋に辿り着く。モルフェは立ち止まって息を整え始める。その5秒後、オグリが着く。タイムオーバーだ。モルフェたちの圧勝、着差は大差である。あのオグリにこれだけの差を付けられるとは。惨敗したオグリは良い味がするだろう。眺めながらりんごコロッケを食べよう。

 

「あーっ! りんごコロッケが! ない!」

 

 ネイチャが突然に声を上げる。こんなことが前にもあったような。モルフェが店のショーケースにあるりんごコロッケのトレーを見ると、空だ。オグリよりも早く来たのに、売り切れている。これではオグリの目の前でコロッケを食べて絶望させることができないではないか。

 

「すまん。ウチが最後の一個を買うてしもた」

 

 そう言ったのは先に店に来ていた芦毛のウマ娘だ。空の小さな袋を持っている。コロッケが入っていたんだろう。小柄なバ体で、真っ赤なイヤーネットを着けている。レース中継で見たことがある。

 

「タマモクロスさんですね。こんにちは。シロガネモルフェです」

「おう、タマモクロスや、こんにちは」

 

 タマモクロスは88年に引退したウマ娘で、オグリの中央移籍後の最初のライバルだ。天皇賞(秋)でオグリに勝利し、ジャパンカップ、有マ記念とオグリと対決した。オグリに負けず劣らずの生ける伝説である。

 

 それにしても、コロッケが最後の一個だったとは。いつもはもっと在庫があるのだが、今日は売れ行きがよかったのかもしれない。もしタマモより先に着いたとしてもネイチャと半分こすることになっていたわけだ。メインディッシュはオグリの夢なので、コロッケが半分でも構わないといえば構わないが、それでも一つ丸ごと食べたかった。いや、ネイチャと仲良く半分こする姿を見せ付けて、オグリには分けてあげないという手も……むなしい空想はやめよう。コロッケはないんだ。

 

「タマ、いたのか」

「さっきから目の前におったやろ! オグリもりんごコロッケか? すまんなぁ」

「なんで……勝ったのに」

 

 オグリとタマモが話し、ネイチャはショックのせいか誰に話すともなく口を開いている。言っていることには納得だ。勝ったのに勝った気がしない。

 

「その格好、ロードワークか? まさか復帰するのか!?」

「んなわけないやろ。ウチも引退して一年やろ? 体がなまってなぁ、食も細ぉなるし。せやからロードワーク始めたんや。おかげで食が進んでるわ」

「コロッケ……りんご……」

 

 うわ言のように繰り返すネイチャを見ているとかわいそうになってくる。モルフェは負かした相手が壊れていくのを眺めるのは楽しいが、勝ったのに報酬がもらえなくて壊れていくウマ娘を見るのは忍びない。

 

「ネイチャさん、オグリさん、勝負は無効ということにしませんか? 報酬がない勝利なんてむなしいですし」

「そうだった! モルフェとネイチャが勝ったのにコロッケを食べられないんだ。酷いぞタマ」

「すまん言うとるやろ。勝ったとかなんの話しやねん」

「はぁ……もう何でもいいわ。やる気ゼロ」

 

 ネイチャはすっかり闘争心がなくなった声を出している。これ以上付き合わせるのは無理だろう。

 

「勝負は今日で終わりにして、最後にその辺で買い食いでもしましょう」

「そうか。買い食いなら付き合う」

「こうなりゃヤケよ! ヤケ買い食いよ!」

 

 ネイチャはともかくとして、オグリもあっけなく勝負の終わりを受け入れる。無効とはいえオグリは負けていたのだが、もう一勝負とは言ってこない。もっと勝ちに拘るタイプかと思っていたのだが。コロッケの代わりの何かを買い食いできるので、食べられれば何でもいいのかもしれない。

 

   Ψ

 

 モルフェはオグリを買い食いに誘ってしまったことを後悔している。彼女が大食ウマ娘であることを忘れていた。彼女は次から次へと店を訪れては、目に付く物をすべて食べていった。しかもモルフェとネイチャにも勧めてきたのだ。やんわりと断ってもオグリにはまったく通じず、強引に押し切られてしまった。そんなに食べるのは世界でオグリだけだということを彼女は分かっていないようなのだ。

 

 商店街の端に辿り着くころにはモルフェとネイチャはお腹がパンパンになっていた。三人は同じ量を食べたはずなのだが、なぜかオグリだけお腹が大して膨れていない。まだ余裕があるらしく、たい焼きをむさぼっている。体内にブラックホールがあるのかもしれない。

 

「ふぅ、あまり食べすぎるとキタハラに怒られてしまう。これくらいにしておこう」

 

 たい焼きの最後の一口を飲み込んだオグリが言う。これくらい? キタハラ? モルフェはお腹が重くて聞く気も起きない。ネイチャも似たような状況だろう。

 

「腹ごなしに学園まで速歩しよう」

 

 オグリがとんでもないことを言い出す。今のモルフェは少しでも走ったら吐く。

 

「あの……私とネイチャさんはここに来るときに相当無理をして走ったので、脚に負担がかかっているんです。選抜レースも近いですし、少し休んでから帰ろうかと」

「大丈夫なのか? 学園まで付き添うぞ。キタハラに診てもらうか?」

 

 キタハラとは誰なんだろう。サブトレーナーだろうか?

 

「いえ、そこまでじゃありませんから。本当に少し休むだけです。オグリさんはトレーニングもあるでしょうから先に帰ってもらっても大丈夫です」

 

 押し問答の末、オグリは心配そうにしながらも、ようやく去っていく。本当に速歩で。

 

「アタシ、もう一生買い食いしたくない」

 

 ネイチャは大げさに言っているが、真に迫るものがある。

 

   Ψ

 

 商店街の近くにある公園のベンチにモルフェとネイチャは体を崩して腰掛けている。競走ウマ娘たるもの姿勢を正しくしなければレースに支障が出る。でも今ばかりは膨れ上がったお腹が正しい姿勢を取ることを許してくれない。

 

 モルフェは目の前に開けた広場を眺める。そこは芝が植えてあるのだが、ろくに手入れされていない。人が通りそうな部分が剥げていて、いびつな芝生になっている。モルフェはそれを観察しながら、お腹が治まるのを待っている。

 

 コロッケ勝負は勝ったのにトロフィーがないという、なんとも消化不良な結果だった。しかも、買い大食いしたせいで、本当に消化不良になっている。現実の食べ物は夢の代わりにはならない。夢の代わりは夢だ。オグリの小さな夢を食べ損ねた代わりは、選抜レースでゼウスの大きな夢を食べることだろう。三女神様も呆れているかもしれない。夢を用意してやったのに、なぜ食べ物なんか食べているのかと。

 

「アタシさ、選抜レース、芝1000mにしたんだ」

「一番短い距離にしたんですね」

 

 ネイチャはテイオーがどの距離に出るか調べると言っていた。ネイチャが1000を選んだということは、テイオーは1200か1400に出るんだろう。

 

「強敵を避けたの。主人公たちのレース漫画は1400でやってて。アタシは1000でどんぐりの背比べしてるから」

「ネイチャさんは同期の中でかなり上のほうだと思いますよ」

「しょせん『かなり』、でしょ。上の上にいる主人公のモルフェさんから見て」

 

 ネイチャがモルフェを「さん」付けで呼ぶときは、卑屈モードに入っているときである。

 

「私は主人公じゃありませんよ。主人公というのは、生まれつきの才能が溢れ出しているようなウマ娘のことを言うんです」

「モルフェだってそうじゃん」

「ネイチャさんは私の走りを見てどう思いましたか? 才能があるって思いました? 教科書通りだって思いませんでしたか?」

「それは……基本がバッチリだって思ったけど」

「私の走りはまさにそれです。基本は完璧に身に付けている。しかしそれ以上がない。まるで主人公に負けるために用意された当てウマみたいです」

 

 モルフェはドリームイーターを才能に含めていない。それは三女神様からの贈り物なので、自分の才能ではないからだ。

 

「じゃあ、モルフェもテイオーには勝てないって思ってるわけ?」

「フフフフ……いいえ」

「主人公じゃないんでしょ?」

「これは漫画じゃないんですよ。レースなんです。だから、当てウマの私が勝っても構わない。そして主人公は諦めてしまい、世界は続いていくんです」

 

 モルフェの言葉をネイチャは消化しかねているようだ。

 

「よく分かんないけど……バッドエンドってこと?」

「テイオーさんが主人公の漫画があるとすれば、バッドエンドですね」

「モルフェはバッドエンドが見たいの?」

「ネイチャさんもそうなんじゃありませんか?」

「へ?」

「だから私たちは気が合うんじゃありませんか? 私たちは、主人公を倒したがっている」

 

 ネイチャは視線を下げて、悩んでいるように見える。自分の願望に気付いていないのだろうか。

 

「アタシには無理だよ」

 

 倒したいが、倒せない。ネイチャの声にはそんなジレンマが滲んでいる。

 

   Ψ

 

 選抜レースは平日に行われる。休日のトレーナーはトゥインクルシリーズで忙しいので、平日にやるしかない。大勢をレースに出走させるとなると、まる1日かかる。だからその日は選抜レースに出走する学年は授業が休みになる。

 

 選抜レース当日、ホームストレッチ沿いは人とウマ娘で溢れ返っている。トレーニングスタンドも観戦席もいっぱいで、コース沿いに立っている者もいる。ウマ娘はほとんどがジャージを着た1年度だ。自分が出走しないレースも見ていくのが普通だ。制服を着た上級生の姿もちらほら見える。彼女たちは授業があるはずなのだが、サボっているようだ。

 

 朝日の下でダート1000mから始まった選抜レースは順調に進んでいき、芝1400mが始まるころには西日になっていた。

 

 モルフェとライバルたちは内側の芝コースのホームストレッチで返しウマをしている。このコースは1周が1400mと少しなので、スタートとゴールの位置が両方ともホームストレッチになる。外側の芝コースは1周が1800mなので、内側のコースがいかに小回りか分かる。小回りは外枠が不利である。外を回る距離の比率が、内を回る距離に対して大きくなってしまうのだ。小さいコーナーほど外を回るとキツイということだ。

 

 モルフェはそんなコースで大外である5枠10番を引いてしまった。8枠20番などと比べればそんなに大外ではないと感じるかもしれない。しかしトレセンのコースはレース場などとは違う。幅員が狭くて5枠10人立てまでしかできないので、10番でも大外なのだ。さらに、レース場より小回りなので、5枠でも距離のロスは大きい。

 

 選抜レースの前日に発表された出バ表をモルフェが見たとき、これはサンゼウスの仕業だとすぐに分かった。ゼウスが1枠1番になっていたからだ。2人が同じレースになるよう手を回したのはゼウスなのだから、ついでとばかりに枠順も操作したんだろう。ネイチャや他のクラスメートはもうモルフェが負けたようなムードだった。

 

 モルフェはホームストレッチで軽く体を温めながら、出走ウマ娘たちを観察する。返しウマでそうするのが習慣だ。ドリームイーターを授かってからというもの、相手の強さを感じられるようになった。強い夢を感じるなら、その相手は強いのである。

 

 ゼウスと、2番、それが注意すべき相手だ。

 

 まずゼウス。彼女は返しウマをしながら、ときどきモルフェをうかがっては、ニヤついている。枠順操作がうまくいったことで、ずいぶんご機嫌のようだ。夢が近づいてくることが待ち遠しくて我慢できない、そんな気配がする。夢を強く求めれば強くなる。強敵だ。

 

 次に2番。情報はない。ネイチャも情報を持っていなかった。返しウマを見る限り、脚の回転が速くて素早くスピードに乗っている。たぶん逃げウマだ。夢への静かな熱意を感じる。ゼウスの次ぐらいには強そうだ。捕まえておかないと逃げ切られるかもしれない。2番の後ろが絶好の位置だろう。

 

 返しウマの終了を知らせる音声案内が流れる。モルフェたちはいっせいに発走線へ集まり始める。

 

 ――第X回選抜レース・90年1月X日・1回トレセン1日目・1年度・10人・芝1400m・右・晴・良――

 

 選抜レースにゲートはない。ゲート練習はトレーナーと契約してから行うものだからだ。もし選抜レースにゲートを持ち込んだりしたら、発走のトラブルが多発してレースにならないだろう。ゲートの代わりに「14」のハロン棒のある所が発走線になる。決勝線から1コーナー側へ少し離れた地点だ。

 

 全員が発走線に並び、構えを取る。スターターを務めるトレセンのスタッフが「位置に付いて」「用意」と声を上げていく。すべてのウマ娘が「用意」の声より前に体勢を整え終えている。「パン!」というスターターピストルの音が響く瞬間、10人が飛び出す。

 

 大外は不利になり良い位置が取れないと言われている。発走直後にキレを見せるウマ娘は限られているからだ。モルフェがクラス練習の1ハロンダッシュで見せた発走も、キレを見せたものではなかった。だが彼女は焦ってもいない。一種類の加速しかできないような不器用なウマ娘ではないのだ。

 

 モルフェは普段の発走では速度に合わせてストライドを広げていく。速度ごとにもっとも効率的なストライドが存在するからだ。ギア付き自転車のギアを替えるようなものだ。これは意図的なものである。つまり、ギアを替えないこともできるのだ。低いギアで粘れば、疲れはするが加速力は増えるのである。

 

 発走したモルフェはストライドを広げるタイミングをいつもより後ろへずらし、小さいストライドで加速する時間を長く取る。脚を使ってしまうが仕方ない。良い位置が取れないと勝てないので、負けるぐらいなら脚を使う。

 

 モルフェは横並びのウマ娘たちからグッと飛び出す。そして内へ入っていく。後ろと距離を開きながらの進路変更であれば、まず斜行を取られることはない。

 

 モルフェが内へ入りながら内側の動きを見極めていると、最内にも飛び出しているウマ娘を発見する。2番だ。やはり逃げウマだ。2番がこちらへ顔を向け、目が合う。すると彼女はさらに前へ出ようとする。モルフェにハナを取られまいとしているのか。ちょうど良い。2番と後ろの間に隙間が空くだろう。そこへ入ってしまおう。

 

 モルフェは後ろの動きに気を付けながら内へ入っていき、いるはずのウマ娘がいないことに気付く。ゼウスは? バ群の表面には姿が見えない。いた。今にもバ群に呑まれそうになっている。何をやっているんだろう? わざわざ枠順を操作して1枠1番になったのではないのか?

 

 首尾よく2番の後ろの内ラチ沿いに入り込みながら、モルフェはゼウスに起きたことに気付く。ゼウスの隣から発走した2番が、スタートダッシュを決めて内へ入り、ゼウスの前を取ってしまったのだ。そして2番がいなくなったレーンに外からウマ娘がなだれ込んできて、ゼウスを封じ込めつつある。スタートダッシュが苦手なウマ娘に内枠はキツイという基本を、モルフェは思い出す。

 

 2番が速度を落とす。スローペースだ。望み通りの展開である。モルフェも速度を落とす。このレースのペースが決まる。位置とペース、レースの半分はもう終わったようなものだ。前目のスローペースはモルフェがもっとも得意とする展開だ。

 

 それにしても、ゼウスにはモルフェの後ろぐらいには付けて欲しかった。あまり後ろにいられると夢を食べられない。ドリームイーターは相手が近くにいないと働かないのだ。ゼウスには4コーナーまでにはモルフェの位置まで上がってきて欲しいものだ。

 

 ウマ娘たちは1コーナーへ突入していく。2番は内ラチ沿いを器用にコーナリングしていく。この娘は逃げに慣れているようだ。やはり注意すべき相手だ。

 

 モルフェが2番を追ってスムーズにコーナーを走っていると、後ろから聞いた覚えのある脚音が聞こえてくる。大味なストライドの重い音、ゼウスだ。バ群に埋もれかけていたはずの彼女が1コーナーで上がってくるとは。モルフェは横目で後ろを見る。バ群は思ったより縦長になっている。飛び出した2番とモルフェを後ろが追って、縦長になったのかもしれない。それでゼウスは埋もれずに済んだんだろう。

 

 ゼウスが外からモルフェを抜こうとして、斜め後ろまで来ている。モルフェの前を取るつもりのようだ。そうはさせない。

 

 1コーナーが終わって2コーナーに移る辺りで、ゼウスがちょうどモルフェの真横まで追い上げてくる。モルフェは素早く位置を押し上げ、2番との差を縮める。ここは入れないぞ、というアピールだ。

 

 ゼウスは苦々しげに2番とモルフェの小さな隙間を見たが、諦めずにモルフェを抜いていく。入れるような安全距離はないが、どうするつもりなんだろう?

 

 なんと、ゼウスはさらに前へ出ていく。2番を抜くつもりのようだ。ハナを取る気なのである。ゼウスに逃げの心得があるとは思えないのだが。

 

 それにしても、ゼウスの走りはかなり不格好だ。速度を上げようとして大味なストライドにしてしまい、そのせいで小さいコーナーをうまく回れていない。冷静さを失うとこの手のミスをやりがちになる。どう見てもゼウスはかかっている。

 

 ゼウスは力任せに走る。もう2コーナーも残り短い。ゼウスが2番に迫ると、2番はゼウスを見て困惑したようだ。今さらハナを取りに来られるとは思っていなかったのだろう。2番は何もしないことを選んだ。かかっている相手に付き合うことはないと判断したらしい。

 

 先頭集団が向正面へ入る。ゼウスは2番と並んでいる。ここでさらに前へ出るのかと思ったら、2番と同じスローペースに落としてしまった。訳が分からない。向正面で息を入れるのは分かるが、状況が変だ。なんとしてでもハナを取ろうとしていたのではないのか? そこでやめてしまっては骨折り損だ。モルフェがゼウスをよく見てみると、上半身が上がってしまっている。ゼウスは疲れているのだ。フォームを崩してでも楽になりたいらしい。

 

 向正面ではゆったりしたペースが全体を覆う。逃げウマがスローペースを維持して、後ろもそれに付き合う。ゼウスは2番に感謝すべきだろう。スローのおかげでゼウスは休むことができて、フォームがまともなものに戻っている。

 

 先頭集団は3コーナーに入る。モルフェは位置を押し上げ始め、先頭に圧力をかける。敏感に反応したのは2番だ。向こうもこちらが手強いと分かっているんだろう。モルフェを寄せ付けないとばかりに逃げ始める。遅れて反応したのはゼウスだ。油断していたのか、慌てて速度を上げる。ゼウスが先頭から少し遅れたので、三人は三角形のような配置になる。ゼウスはせっかくモルフェの前を取っていたのに、もう無意味だ。

 

 もうじき4コーナーだ。獲物はすぐそこにいて、いつでも飛びかかれる間合いだ。そう、狩りの時間だ。

 

 モルフェは自らが体を動かすイメージを捨て去っていき、三女神様が自分の体を動かす様をイメージしていく。モルフェは体の主人でなくなっていき、三女神様が体を支配していく。体が三女神様と一体になっていくのだ。時間が引き伸ばされていき、現実がスローモーションになっていく。肉体を明け渡し終えたとき、もはやモルフェの体は三女神様の意思を実現するための器になる。

 

 〈ドリームイーター〉

 

 4コーナーに突入すると同時に、モルフェは夢の世界に突入する。現実と夢があいまいになっていく。1秒が無限のように長くなった現実で、ドリームイーターはゼウスの夢の世界に踏み入っていき、彼女の精神世界の模様をモルフェに見せ始める。

 

   Ψ

 

 ゼウスの一族はとても優秀な競走ウマ娘の名門だ。一族から皐月賞ウマ娘を輩出したことがその証明だ。クラシックウマ娘が存在することは最高の栄誉なのだ。ただし、最高の栄誉にも格がある。ダービーか、それ以外か。ゼウスは幼いうちに格の違いによる屈辱を味わうことになった。

 

 あるときに名家のポニーが集まる社交の場で、自らの一族がどのレースを制したかという自慢合戦が行われた。それはダービーであると、すべてのポニーが誇らしげに言った。ゼウスだけがダービーと言えなかった。あまりのショックのせいで、そのときに自分が何を言って何をしたのか、ほとんど思い出せない。自分が自分でなくなったような強烈な喪失だけが残った。

 

 どれだけ褒められても満たされなくなった。それが分かっているのに褒められたくてたまらなくなった。血統を、バ体を、毛並を、走りを、欧州での滞在経験を褒められても、足りない。褒めてくる奴らが、腹の底ではゼウスを見下している。ダービーを取っていないんだろうと。

 

 ダービーを勝って、すべての者にゼウスという存在を賞賛させたい。

 

   Ψ

 

 ゼウスの夢を覗き込んだモルフェが感じたものは、飢えである。ダービーを勝って真の賞賛を得なければ、自分になれない。実現できなければ自分が死ぬも同然。生きるために必要な夢。だからこその飢え。飢えを満たすために代わりの何かを得ても満足できず、さらに飢える。

 

 ゼウスの夢を食べ物に例えるなら、フワフワの白パンだろう。本能に訴えてくるような見た目と匂い。口に入れれば幸福で満たされるが、あっという間に溶けてなくなってしまう。食べ終わって満足しても、時間が経つと急激な空腹に襲われて、また食べたくなる。

 

 先頭集団は4コーナーを駆けるにつれ、遠心力で徐々に横に広がっていく。それと共にモルフェは2番とゼウスの間に入っていく。

 

 三人は勢いよく最後の直線に脚を踏み入れる。内側先頭から2番、モルフェ、ゼウスと、外側が後ろに少しだけ傾いている線を描く。

 

 モルフェの視界は、現実を見ながら夢の世界をも見るような二重視界になっている。モルフェは夢の世界を見ているほうの目で、ゼウスの夢を物色し始める。

 

 ゼウスの実家の彼女の部屋に、血統表が額に入れて飾ってある。ゼウスが名血であることを示す、権威ある書類だ。突然、書類の文字が滲んでいく。紙がふやけていく。血統表は溶けながら消えていく。空の額縁が残る。

 

 見慣れない芝コースをゼウスが走っている。どこかの練習コースのようだ。洋芝が深く茂り、異国のデザインのスタンドが立ち、コース周辺には欧州を思わせる建物がある。周りには欧州系のウマ娘がたくさんいる。奇妙なことに、ゼウスの顔立ちが欧州人のようになっている。これが理想の自己イメージだろうか。理想に異変が起こり始める。ゼウスの顔が波打ち始め、目や耳や口が顔の中に埋まっていく。周囲の景色が変わっていく。洋芝は野芝に変わり、スタンドは見慣れたトレセンの物に変わり、周辺の建物はトレセン学園の校舎に変わる。のっぺらぼうになったウマ娘がトレセンのコースを走っている。

 

 トレセン学園の教室にゼウスとクラスメートがいる。ゼウスだけが巨人のように大きく、クラスメートは小人のように小さい。小人の中にはモルフェもいる。小人の学校に巨人が訪れたかのようだ。小人たちはゼウスを見上げ、その大きさを羨ましがっている。きっとクラスメートからこんな扱いを受けたいのだろう。しかしゼウスよりもさらに大きな超巨人モルフェが現れる。超巨人モルフェはゼウスを掴んで、一飲みにする。

 

 モルフェは次から次へとゼウスの夢を食べていく。まるで皿から溢れるように盛られた白パンを次から次へと貪るかのようだ。舌の上で夢が溶けていくのが病み付きになる。

 

 現実の世界を見ているほうのモルフェの目が、レースの状況を追う。最後の直線で、モルフェとゼウスは集団から抜け出す。2番は付いてこれず、やや後ろだ。モルフェはゼウスを観察する。ゼウスもここらが限界だろう。夢を食べられたことによって、彼女はだいぶ弱っている。普段のゼウスから想像できないほど表情が切羽詰まっている。止めを刺すときだ。

 

 モルフェは食べた夢を自分のエネルギーとして燃やし始める。ゼウスの夢を、機関車のボイラーに石炭をくべるように消費する。他人の夢に触発されて自分に力が湧いてくることがあるだろう。それと似ている。ただし、相手の夢をむりやり奪い、使い捨てるのだが。

 

 残り100mで、モルフェは限界を超えて脚を回転させ、ゼウスを引き離し始める。それと同時にゼウスの夢の最後の一品に手を出す。

 

 東京レース場のホームストレッチで観客に向けて高らかに拳を掲げるゼウス。掲示板の1着にはゼウスの番号が載っている。観客たちは一人の例外もなしにゼウスに賞賛の声を送っている。ゼウス! ゼウス! ダービーに勝って、すべての者に賞賛されている。ゼウスはいつの間にか隣にモルフェがいることに気付く。そして観客の声が減り始める。観客たちは液体のように形を変えながら、モルフェにどんどん吸い込まれているのだ。ゼウスにはどうすることもできない。この夢はモルフェに支配されている。ゼウスは観客が消えていくのをなすすべもなく傍観している。瞬く間にスタンドから観客がいなくなっていく。

 

 夢の世界で観客の最後の一人が吸い込まれたとき、現実の世界でモルフェは1着でゴールする。掲示板の1着からゼウスの番号が消え、彼女を褒める者はもういない。

 

   Ψ

 

 モルフェがホームストレッチで立ち止まり、息を整えながら現実世界に戻ってくると、歓声とどよめきが聞こえてくる。歓声を上げているのは多くのウマ娘たちとトレーナーたち、どよめきを発しているのはモルフェのクラスメートたちだ。彼女たちにドリームイーターを使った走りを見せたことはなかった。おそらく、モルフェがゼウスを完封したことが驚きなのだろう。クラスメートは枠順のせいでモルフェが負けると思っているフシがあった。

 

 モルフェは振り返ってゼウスを見る。彼女は息も絶え絶えに芝を見つめている。モルフェはゼウスにごく近い所までゆっくり迫っていく。

 

「ゼウスさん、あなたはダービーを諦めました」

 

 モルフェは食後の満足を声に込めて言う。本当なら「ごちそうさまでした」と言いたいぐらいである。ゼウスは驚いて顔を上げる。

 

「な、なにを……言ってる?」

「フフフフ……勝負の条件ですよ。ゼウスさんが夢を諦めたんです。だからあなたはダービーで勝つことも、褒められることもない」

 

 ゼウスがちゃんと理解できるよう、モルフェは一言一言を丁寧に言ってあげようとしたが、喜びが溢れて笑いながら言ってしまう。

 

「なぜ……なんでお前がそんなことを知ってる! 誰から聞いた!?」

 

 ゼウスはパニックになりながら喚く。前にモルフェが言ったことをすべて忘れてしまったらしい。

 

「言ったでしょう。ゼウスさんが自分で知っていれば十分だと」

 

 ゼウスは口をパクパクさせる。モルフェに夢を読まれたのだから、驚きは相当のものだろう。

 

「こんなものはペテンだ! そんな夢は知らない!」

 

 たった今、なぜモルフェが知っているのかと尋ねたばかりなのに。どんなに口で強がろうが、ゼウスの夢はなくなったのだ。レース前のゼウスの強い夢はもう感じない。感じるのは空っぽになった皿だけだ。自分が平らげて空になった皿を見ていると、食後の満足感が高まる。表情が崩れ切ってしまう。

 

 モルフェの顔が気に入らなかったのか、ゼウスは罵り言葉を一つ吐き捨てると、慌てたように振り向いて、早歩きで去っていく。その背中には、立派なバ体も、綺麗な鹿毛の艶も、見る影もない。

 

   Ψ

 

 モルフェと、同じレースを走ったウマ娘たちがコースから引き揚げてくると、トレーナーの大群が待ち構えている。スカウトだ。ほとんどのトレーナーがモルフェに殺到する。何事か勧誘の文句を並べ立てているが、いっせいに話してくるせいでモルフェには聞き取れない。何人かは2番のほうに行っている。彼女は3着を守ったので、それが評価されたようだ。先に去っていったゼウスを追うトレーナーはいない。2着なのに0人とは。トレーナーに嫌われているのだろうか。

 

「みなさん、お誘いいただきありがとうございます。評価してくださるのはとても嬉しいのですが、実は、先約があるんです」

 

 モルフェはしばらくの間、トレーナーの話を聞いているフリをしていたが、適当なところで口を挟む。トレーナーたちから溜息のような声が漏れる。「噂」や「六平」などの言葉が聞こえてくる。どうやら六平トレーナーがモルフェを確保していることは噂になっていたようだ。

 

「そういうわけですから、すみませんが、失礼しますね」

 

   Ψ

 

 六平トレーナーが観戦席から降りてくるのが見える。ゴーグル型のサングラスとステッキの組み合わせは遠くからでもよく分かる。中年男性と一緒だ。モルフェは六平のほうへ歩いていく。

 

 モルフェの視界の隅に観戦席から走って降りてくるウマ娘が映る。なんとなくそちらを見ると、知ってはいるが知り合いでない相手だ。同期のすべてが意識して止まない天才、トウカイテイオーである。入学式での新入生代表挨拶で、その特徴的な容姿を誰もが記憶した。小さなバ体、鹿毛のポニーテール、シンボリルドルフを思わせる前髪の「くの字」の白抜け。しかも、テイオーはモルフェを見ながらこちらに向かってくるではないか。

 

「ねぇ! キミ! シロガネモルフェでしょ! 今のレース見てたよ! やるじゃん!」

 

 テイオーはモルフェの所に辿り着く前から大きな声で話し始め、まくし立てながら目の前までやってくる。なんという元気な娘だろう。新入生代表挨拶で聞いた、鼻を抜けるような癖のある声は健在だ。

 

「ありがとうございます。トウカイテイオーさん」

「ボクのこと知ってるんだね! キミのことはナイスネイチャから聞いて知ってたんだ。ボクの次ぐらいに強いってね!」

 

 テイオーを知らない娘はいないだろうに。それにしても、ネイチャは情報を収集するだけでなく、モルフェの情報を広めてもいたらしい。テイオーの次に強いとは、ずいぶん高く評価してくれている。

 

「私もネイチャさんから聞いてますよ。テイオーさんは世代最強だとか」

「もっちろん! 最強だからクラスにライバルがいなくてつまんなかったんだよね~。だからモルフェをワガハイのライバルにしてあげよう!」

「併せウマでいつも圧勝しているテイオーさんのライバルとは、すいぶん高く買ってくれてるんですね」

「さっきのレース、キミ、全力じゃなかったでしょ?」

 

 確かに全力でないタイミングもあった。ドリームイーターを使ったという点では本気だが、直線でゼウスに競り合いを仕掛けるために末脚を加減した。なぜ気付いた? いや、噂通りにテイオーがモルフェより格上なら、モルフェのやったことを見抜いてもおかしくはないか。

 

「買い被りですよ」

「またまた~。ねぇ、ボクの選抜レースも見てってよ。このあとだからさ」

「えぇ、必ず見ます」

「無敗の三冠の走りを見せてあげよう!」

 

 無敗の三冠! それを目指していると噂になってはいたが、本当だったのか。ドリームイーターが彼女の強さを感じ取る。ゼウスなど比較にならない。今まで感じてきたどんな夢とも違う。古典絵画に描かれた古代の神々を見たときのような、人知を超えた力を感じる。

 

 この獲物は狩人より強い。

 

   Ψ

 

「約束通り、力を見せました」

 

 観戦席を降りた所、コースの外側で、モルフェは六平トレーナーに報告する。一緒に降りてきた中年男性も六平の隣に立っている。見たことがない顔だが、バッジを付けているのでトレーナーだろう。

 

「お前は、直線でわざと1番と速度を合わせたな。お前を抜けないと1番に分からせるために。しかも、1番が限界速度に達したら、お前はさらに速度を上げた。最高速度の違いを見せ付けるためにだ」

 

 六平はモルフェのやったことを分析してみせる。テイオーに続いて、モルフェの加減を見抜いた2人目だ。さすが名トレーナーである。モルフェが何のためにそれをやったかを正確に言うなら、すべては夢を食べるためだったのだが、ここでそれを説明しても混乱させるだけだろう。

 

「だいたいそんなところです」

「えげつねぇことしやがる。1番にはさぞ効いただろうな」

「効果を認めてくださって、ありがとうございます」

 

 トレーナーが褒めるほどドリームイーターには効果があるということだ。力を見せたかいがあった。

 

「なぜそうした?」

「はい?」

「お前の地力ならあれをやらんでも勝っただろ? なぜあれをやった?」

 

 六平はモルフェとゼウスの地力の差が大きいと思ったようだ。レースを見ればそう思うのも無理ない。彼はドリームイーターの働きを知らないのだから。

 

「そうとは限りません。私がゼウスさん……1番と正面から地力をぶつけ合えば、どちらが勝つか分からなかった。私が1番を潰しにいったからこそ、1番は地力を出せなかったんです。そして私は優位に立ったからこそ、いつも以上に力を出せたんです」

「……それがお前の力ってやつか?」

「はい。これこそまさに三女神様から授かった力です」

 

 モルフェが自信を込めて答えると、六平はモルフェを見つめる。サングラスのせいで視線が分からないが、たぶん見つめている。まだ何か知りたいことがあるんだろうか。モルフェが「使い物になる」ことは完全に示したと思う。

 

「いいだろう。お前をチームに入れよう。チームシリウスへようこそ」

「ありがとうございます」

「ああそれと、こいつは北原ジョー、今月から入ったサブトレーナーだ」

 

 六平が隣の男性を紹介する。オグリが言っていたキタハラというのはこの人のことだったのか。セーターとジャケットとスラックスに、ハンチング帽を被っている。帽子の縁から茶色に染められた髪がハネている。全身の柄と配色がとてもおじさんっぽい。セーターに並んでいる三角の模様はチェスみたいな配色だ。

 

「北原穣、中央に合格したばかりの新米トレーナーだ! 前はカサマツでトレーナーをしてた」

「カサマツの……オグリさんもカサマツでしたね」

「オグリのカサマツ時代のトレーナーだ。今月からオグリの面倒を見ることになってるが、チームのサブトレーナーとしての仕事もする。よろしく!」

「よろしくおねがいします」

 

 北原トレーナーはカサマツにいたのか。どうりで見たことがないわけである。オグリを任されるなら優秀なのかもしれない。

 

「モルフェ、何か目標はあるか?」

 

 六平から尋ねられて、モルフェはとっておきの答えを見せられるかもしれないと喜ぶ。

 

「次のレースを見たら、目標が決まるかもしれません」

 

   Ψ

 

 10人のウマ娘が発走線に並んでいる様子を、モルフェ、六平、北原は観戦席から見ている。テイオーの小さなバ体は並びの中で逆に目立つ。周りの観戦者たちの空気は今までと違って、みんな重賞でも始まるかのようにレースに注目している。

 

 ウマ娘たちが発走する。すぐにテイオーが他と違うことが分かる。軽やかに走っている。ウマ娘はドドドドと力強く地を叩くように走るものだが、テイオーにはそれが見られない。なのになぜか早い。あっという間に一番前に出てしまう。前に出ることは想定外だったのか、わざと減速までして逃げウマに前を譲る。

 

 テイオーのフォームを観察していたモルフェは秘密に気付く。体が極端に柔らかいようだ。体をしならせて地を蹴ることで進んでいる。それであんなに軽く走れるのだ。こんな走法は見たことも聞いたこともない。

 

 向正面を走るテイオーのフォームは粗削りだ。明らかにフォームの練習をしていないのが分かる。しかし……楽しそうだ。活き活きとしている。活発な性格が走りにも出ているかのようだ。観察を放り出して見とれてしまう。走っている姿だけで魅了するウマ娘などいるだろうか。

 

 4コーナーで一気にテイオーが押し上げて逃げウマを抜き去ると、観戦席から驚きと歓声が上がる。そのままの勢いで最後の直線へ入ると、もう後ろに1バ身差を付けている。歓声は跳ね上がり、もはや興奮と言えるレベルになる。

 

 直線でテイオーのフォームが変わる。爪先を信じられないほど深く折り曲げ、バネを伸ばすかのように地を蹴り、膝を胸に付くほど高く上げている。走るというより、跳ねている。爪先の一踏み一踏みがロケットのような推進力を生み出し、脚の一振り一振りが幅跳びのようなストライドを描く。まるで別の生き物だ。

 

 テイオーはどんどん後ろとの差を広げていく。広げれば広げるほど、観戦席の騒ぎも大きくなっていく。差を縮めることができるウマ娘の気配すらない。

 

 テイオーが決勝線を通過するとき、着差は4バ身にもなる。会場の熱気は頂点に達し、今ここでダービーが行われているかのようだ。ドリームイーターを持つモルフェは確かに感じる。会場にいる者たちがテイオーにクラシック三冠の夢を見たことを。

 

 素晴らしい! シンボリルドルフの血縁という超名血、まるで洗練されていない粗削りのフォーム、誰にも真似できない生まれつきの走法、無敗の三冠という大きすぎる夢、見ている者にさえ夢を見せる魅力。才能と夢が勝負服を着て走っているようなウマ娘だ。

 

 テイオーは地上の食べ物には例えられない。天上の食べ物でなければ。古代ギリシャの神々の食物アムブロシアは蜜の9倍の甘さを持ち、人間の味覚を超えるほどの美味しさだという。テイオーはまさにそれ、神話のごちそうだ。

 

 三女神様はモルフェにドリームイーターを授けて、トゥインクルシリーズへ行くよう導いた。それはテイオーと出会わせるためだったのだ。彼女は三女神様がモルフェのために用意した究極のごちそうなのだ。

 

「六平トレーナー、目標が決まりました」

「あ、ああ」

 

 モルフェに話しかけられて六平は夢から覚めたような返事をする。テイオーは六平さえも魅了していたようだ。

 

「クラシックでテイオーさんを倒して、無敗の三冠を阻止します」

 

 モルフェの宣言を聞くと、六平は急激に現実に戻ってきたようで、険しい表情になる。

 

「俺は実現可能な範囲までしか指導しねぇ。テイオーに勝たせることまでは約束できねぇ」

「どこまでなら実現可能だと思っていますか?」

「……テイオーの2着までなら」

「それは差のある2着ですか? それともわずかな差の2着ですか?」

「できる限り差を縮めてやるつもりではいるが」

「それで構いません。元々トレーナーにそれを期待していますから」

 

 六平はますます表情を険しくしていく。モルフェの言ったことは、1着にしてもらうようトレーナーに期待しないということだ。勝利を目指していないと誤解させたのかもしれない。

 

「なら誰に1着にしてもらうつもりだ? お前自身か?」

「フフフ……三女神様に決まってるじゃありませんか。人間とウマ娘が限界まで努力して1着のハナ差まで辿り着く。そして三女神様が1着にしてくださるんです」

 

 六平の表情は少し和らいだ。1着は神の領域なので、トレーナーに責任がないということが分かってもらえたようだ。

 

「限界まで努力して、実現できなきゃ、心が壊れちまうかもしれんぞ?」

「レースはそういうものでしょう」

「なんだと?」

「負けた者は夢を失って壊れる。勝った者は夢を得て満足する。だからトゥインクルシリーズは素晴らしいんです」

 

 六平は努めて真顔を作っているような表情になる。何か腹をくくったような感じだ。すべてを失うか、すべてを得るか、トゥインクルシリーズの本質をベテランの六平トレーナーは理解しているんだろう。

 

「覚悟してるってんなら、付き合ってやる。お前を限界まで育ててやるよ」

「クラシックが楽しみです。フフフ……」

 

――第1章『ごちそう』完

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