ここにはキヴォトスがない。
生徒も、銃も、ヘイローも、シャーレもない。
東京近郊の小都市。
古びたクジラマンション。
目を覚ました理由は分からない。
夢を見た記憶もなかった。ベッドに横たわって天井を眺めているあいだ、誰かがはるか遠くで何かを話していたような感覚だけが残っていた。
声というより、息だった。
誰かが息を呑む音。
それは水の中から聞こえてくるようにかすかだった。確かに耳には届いたのに、意味になる前に砕けてしまった。
目を閉じ、もう一度開けた。
天井には何もない。
部屋にも誰もいなかった。
スマートフォンの画面を点けると、午前六時四十一分と表示された。
アラームより四分早い。
しばらく画面を眺めた。
「……おはよう」
誰に向けた挨拶なのか、自分でも分からなかった。
返事はない。代わりに、窓の外を始発電車が通り過ぎる振動がかすかに伝わってきた。
布団を押しのけ、起き上がる。
部屋は狭かった。ベッドと低い机、壁に掛けたハンガー、それに古い冷蔵庫。それだけだ。
物が少ないから、片づけなくても散らからない。だからといって、きれいな部屋とも言えなかった。
机の端にはレシートと郵便物が積まれ、椅子の背には昨日着たシャツが掛かっている。
シャツを手に取り、また戻した。今日は別のものを着る。昨日こぼしたコーヒーの染みを袖に見つけたからだ。
そのことは覚えていた。
覚えていることに、ほっとした。
ごくありふれた記憶だ。コーヒーをこぼし、洗濯を後回しにして、今日は別のシャツを着る。そうしてつながる記憶を疑う理由はなかった。
冷蔵庫には卵が二つと、半分ほど残ったいちごミルク、それに昨日コンビニで買った三角おにぎりが入っていた。
三角おにぎりの包みを外して電子レンジに入れる。温めているあいだに、洗面台で顔を洗った。
鏡の中の男は疲れて見えた。
目の下が少し窪み、髪は片側に押しつぶされている。どこにでもいるような顔だった。
手のひらで顔を拭き、鏡に映る目をしばらく見つめる。
「大丈夫」
今度も、誰に言ったのかは分からなかった。
電子レンジが鳴った。
タオルを掛けて部屋へ戻る。机の郵便物を片づけようとして、名前の分からない広告チラシの前で手が止まった。
チラシには、青い海と白いクジラが描かれていた。
海には陽の光が降り注いでいる。クジラの背は波間から半分ほど浮かび、その向こうには小さな島がぼんやり見えた。
裏返してみる。表とは違い、裏にはありふれた広告文句が並んでいた。近くの水族館の割引と、週末の入場券の案内だ。
青を見つめていると、胸の真ん中がほんの少し痛んだ。
手で押さえてみる。痛いところはない。深く息を吸えば消える程度の違和感だった。
「水族館……」
声に出してみても、思い浮かぶ場所はなかった。
チラシを折りたたみ、机の隅に置いた。
朝食をとり、シャツを着て、財布とスマートフォンを確かめる。財布には現金と交通系ICカード。スマートフォンには会社のメール、天気予報の通知、未読の広告メッセージがいくつか残っていた。
玄関を出る前に、部屋を一度振り返った。
何かを忘れている気がした。
ベッドの脇、机の下、冷蔵庫の上を見たが、変わったものはない。鍵はポケットに入っていた。
マンションの廊下は静かだった。隣の玄関前には分別ごみの袋が置かれ、階段の手すりには昨日と同じ埃が積もっている。
外に出ると、朝の空気は冷たかった。
マンション前の花壇には、誰かの足が当たったような割れた植木鉢があり、電柱の下には自転車が三台、重なるように停められている。角のコンビニの看板が青く光っていた。
店員は彼を見ると、頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
今日は家でコーヒーを飲んだ。そう思い、そのまま通り過ぎた。
店内では店員が棚を整えている。冷蔵ケースの扉が開くたび、冷気が一瞬、外へ流れた。通勤のたびに見る光景だった。角を曲がり、駅へ向かう。
駅までの道で、手にした缶コーヒーがいつもより重く感じた。家を出るとき、鞄の脇ポケットに入れたものだ。
店員の挨拶はおかしくない。おかしいと感じる自分のほうがおかしい。
駅の入口には、通勤客が集まっていた。似たような顔で階段を下りていく。
交通系ICカードを改札にかざし、ホームへ向かった。
向かいの広告板には、青い海が広がった。
今度はクジラはいない。陽の下に、小さな島だけが浮かんでいた。広告文句は水族館の催しに関するものだったが、画面の青は家で見たチラシと妙に似ていた。
広告板から目を離せなかった。
胸の真ん中がまた少し痛む。チラシを見たときと同じ痛みだ。
画面の下では波の音が低く繰り返され、小島の縁で白い線が砕けていた。
名前は浮かばない。ただ、誰かを長く待っていた人のように、手を伸ばしたくなる感覚だけが残った。
つり革を握る手に力が入る。
車内の人々は誰も広告板を見ていなかった。広告が切り替わったあとも、青い光の残像がしばらく目の奥に残った。
電車がホームに滑り込んできた。風が起こり、広告板の画面が一瞬揺れた。小さな島は波の下に消え、また現れた。
電車に乗り込みながら、首を振る。
知っている名前じゃない。
そう結論づけた。
朝の車内は混んでいた。
つり革につかまり、窓に映る人々を眺める。黒いスーツの男、イヤホンをした女、眠っている学生、スマートフォンを素早くスクロールする人。
その中にいれば、何もおかしくはなかった。
次の駅で電車が止まる。誰かの鞄が腕に触れ、身体を横にずらした。
「すみません」
「大丈夫ですよ」
考えるより先に返事をしていた。
大丈夫、という言葉は今日だけでも何度も出ていた。朝、鏡の前でも。コンビニでも。今も。
電車は再び動き出した。
会社に着いたのは、いつもと変わらない時間だった。
建物に入ると、空調の音とプリンターの音が同時に聞こえた。軽く挨拶を交わして、自分の席に着く。
午前の会議まで、あと二十分。
席に着いて鞄を机の下に置き、自分のカップに水を注ぐ。
モニターが立ち上がるあいだにメモ帳を開き、今日やることを順に書き出した。
昨日終わらなかった報告書の確認、午前の会議、後輩が持ってくる資料のチェック。予定はいつもどおり少し詰まっていたが、優先順位をつければ一つずつ片づけられる。
隣の同僚がコーヒーを買いに行くついでに何かいるかと尋ね、礼を言って断った。何事もない午前だった。
パソコンを起動してメールを確認する。
業務指示が三件、会議室の予約変更が一件、広告メールが七件。最後に、昨日書いていた報告書を開いた。
資料を確認していると、後輩が席のそばに来た。
「先輩、少しいいですか?」
「どうしました?」
後輩が手にしていたノートパソコンを差し出す。
「午前の会議資料をまとめていたら、数字が一つ変わっていたみたいで」
「どこですか?」
「ここです。元は三十六だったのに、最終ファイルだと六十三になっています」
画面を見る。
数字が一つ入れ替わっている。それだけで報告書全体の結論が揺らぎかねなかった。
「誰が確認したんだ?」
責任者の鋭い声が、会議室のほうから飛んできた。後輩の肩がびくりと動く。
「私が……すみません。もう一度……」
「やり直せば済む話じゃないだろう。会議まで時間がないんだぞ」
後輩の顔がこわばった。
ノートパソコンを開く。
「まず直しましょう」
「先輩、私が……」
「誰のミスかはあとで確認すればいいです。どのファイルで数字が変わったのか、先に探しましょう」
後輩の席には座らなかった。自分の画面で共有フォルダを開き、更新日時を一つずつ確かめる。数字が変わったのは、三つある版のうち二番目のファイルだった。
「ここから見直してみてください。このファイルは、最後に更新された時刻が違います」
後輩がマウスを受け取る。
「私が直します」
「こちらでやります」
言葉が先に出た。
後輩の手が止まる。
自分が何を言ったのか、そこで気づいた。後輩は自分でやると言ったのに、先に引き取ってしまった。
「……いえ」
マウスを後輩のほうへ押し戻す。
「自分で直してみてください。隣で確認します」
後輩は少し彼を見てから、うなずいた。
「はい」
数字を直し、報告書の計算式をつなぎ直す。責任者の表情は相変わらず険しかったが、会議の資料は間に合った。
会議が終わると、後輩が席のそばに立って言った。
「人に教えるのが上手ですね」
返事ができなかった。
褒め言葉というより、ずっと昔から聞いてきた評価の一部のようで、妙に馴染みがあった。同じことを誰かに言われた気がする。けれど、顔は思い出せなかった。
「そうですか?」
「はい。普通なら、代わりに直して終わりにするじゃないですか。先輩は……私にやらせてくれたので」
「次に同じところで困ると大変ですから」
そう答えたものの、本当の理由は分からなかった。答えを代わりに渡さず、待ってくれた誰かの記憶があるような気がした。
昼休みを過ぎても、報告書は仕上がらなかった。
後輩が修正しているあいだに空いた分を埋め、別のチームの資料まで見てほしいと頼まれた。
「これは私でもできますよ」
後輩が言ったが、首を振った。
「大丈夫です。こちらでやります」
また同じ言葉が出た。
後輩は何か言いかけ、口を閉じた。
モニターを見ながら、こめかみを指で押さえる。
疲れていた。誰にも、疲れたとは言わなかった。
退勤する頃、会社の窓ガラスに夕空が映っていた。雲の間に青が残っている。
窓に映る自分を見て、朝の広告板を思い出した。
スマートフォンを取り出し、検索欄を開いた。何を探すつもりだったのか分からず、そのまま画面を閉じる。朝の広告板を思い出しても、浮かぶのは青と小さな島だけだった。
帰り道、コンビニの前で幼い生徒がしゃがみ込んでいた。小銭が何枚か地面に散らばり、そのうち一枚が排水溝のほうへ転がっていく。
考えるより先に、身体がかがんでいた。
指先で小銭を引き寄せると、子どもが顔を上げた。
「はい」
「ありがとうございます」
子どもは受け取ると、明るく笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の片隅に理由の分からない温かさが広がった。
その温かさがどこから来たのかは分からない。
過去の場面と呼べるほど、顔も場所も浮かばなかった。
誰かが礼を言って笑うと、ほっとするような感覚。そんなものがほんの一瞬よぎっただけだ。
まばたきをする。感覚はすぐに薄れた。
「おじさん、大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫だよ」
子どもは何度か頭を下げ、コンビニの中へ駆けていった。
しばらくその場で動かなかった。指先には、小銭の冷たさが残っていた。
子どもが店に入ってから、ようやく身体を起こした。
膝についた埃を払い、落ちている小銭がほかにないか一度確かめる。
子どもはもうレジの前で店員に話しかけていた。代わりに何かをしてやる必要はない。
ただ落としたものを拾って渡しただけだ。そう思っても、笑顔を見たときにかすめた顔のない記憶は、家に着くまでなかなか消えなかった。
夜になって帰宅した。
朝、折りたたんだチラシをもう一度広げた。青い海と白いクジラ、遠くに浮かぶ小さな島。朝はなぜ気になったのか分からなかった。今も答えは浮かばない。
検索欄に「水族館」と入力し、すぐに消した。何を探しているのか、まだ分からない。スマートフォンを置き、明日のアラームを設定する。いつもどおり充電器につなぎ、朝着るシャツを椅子に掛けた。
一日は、いつもと変わらない順序で終わるはずだった。明かりを消してベッドに横になると、後輩の言葉と子どもの笑顔が順に浮かんだ。どちらも、一つの記憶にはつながらなかった。
眠りに落ちる直前、自分を呼ぶような声がかすかに耳をかすめた。
言葉は聞き取れない。それでも、目は開けなかった。
その名前は知らない。それでも、誰かが自分を呼んでいるという感覚だけは、ずっと待ち望んでいたもののようにはっきりしていた。
恋しさが先に来た。理由は後からだった。
アロナ。