受信ウィンドウは閉じ、東京へ向かう道は生まれなかった。
電車の案内音とコンビニの扉の音、短い声は隔離された記録に残った。
位置を示す座標も、発信者の名前もなかった。
リオは同じ接続を繰り返せないよう、試験結果を封印した。
『大丈夫。ゆっくりでいいよ。』
その言葉は命令でも、こちらへの返答でもなかった。
調査室の空気は変わっていた。
サオリは口数が減り、マルクトは音声の意味ではなく保存手順だけを確認した。
繰り返し受信することは承認範囲外だった。
プラナは隔離した複製を呼び出し直さず、別の画面を開いた。
長く応答のないシッテムの箱の内部、アロナの権限が封印された区域に関する記録だった。
昨日聞いた声を追うためではなく、強制射出時に取得した記録と、自分が保有する命令区域の残存インデックスを限定的に照合する、別の作業だった。
「昨日の受信試験につながる経路ですか?」
ユウカが尋ねた。
「いいえ。昨日の資料は、外部から入った音の断片です。封印領域と同じ経路だという証拠はありません」
「では、今から何を?」
「箱の内部に残るアロナ先輩の命令区域へ、限定的な接続を試みます。位置情報や外部経路を探す作業ではありません」
リオは画面を確認した。
表面上は箱の中の権限を復元する試みに見えたが、接続がどこまで伸びるかは確信できなかった。
シッテムの箱は単なる端末ではなかった。内部権限の一部が損傷しているなら、種がその痕跡をたどって入る通路にした可能性もあった。
「種が接続を待っているかもしれない」
リオが言った。
「私たちが先に触れるのを待って、プラナの接続を逆にたどってくるかもしれないわ。内部から応答が来たら、あなたが判断する前に隔離される可能性もある」
プラナは画面の危険項目を一つずつ確認した。
自分から接続を始めても、接続を制御下に保てる保証はなかった。
分離手順が働かないかもしれず、分析権限がかえって相手にアクセス経路を開く可能性もあった。失敗すれば、接続が遮断されたあとも、箱の内部の封印がさらに強まる可能性があった。
「危険度は高いです」
安全だと言える根拠はなかった。待つのと直接接続するのと、どちらが安全か比較する資料も足りなかった。
ユウカが絶縁装置を作業台の外側に置いた。
プラナが選んだのは箱全体ではなかった。強制射出時の記録と残存インデックスを照合し、命令文字列を一件だけ読む場所を残した。
リオは補助チャンネルを開いた。接続が切れれば、見られるのは最後の保存状態だけだった。プラナの接続を元に戻す機能はなかった。
「切断したあと、プラナが戻らなかったら?」
ユウカは装置に手を置いたまま尋ねた。
「復旧は保証できないわ」
リオは答えてから、画面をプラナに向けた。権限要求が範囲を超えるか、未承認の信号が隔離境界の内側へ入れば終了する。自動再接続は切ってあった。
リンは一度だけの試験を承認した。プラナは承認された区域を固定した。応答がない時に次の区域を開く機能も選ばなかった。
ユウカは装置を押す手を替えた。手のひらが湿っていた。プラナには外から切ってくれる人ができたが、その手の届かないところもあった。
リオは補助画面の保存状態を確認し、手を離した。
「準備できたわ」
プラナはすぐに実行表示を押さなかった。閉じた区域の中の名前を見た。
アロナの命令を確かめたい気持ちには、先生を捜す手がかりを得たいという判断と、応答のない先輩に届きたいという感情が、ともにあった。
プラナはその二つを区別した。
個人的な感情だけで始める作業ではなかった。だが、感情があるからといって、自分の判断まで否定する必要はなかった。
どんな情報が復元されても、それを根拠にアロナの状態や意思を代わりに定義しないと決めた。
アロナなら、この静かな画面の前でも先に挨拶をしただろう。
そう考えながら、プラナは空の命令欄へ目を戻した。まだ読めた文はなかった。聞き慣れた話し方を待つあまり、ほかの断片を見落とすわけにはいかなかった。
損傷したインデックスの最初の区切りを選んだ。名前を呼ぶ代わりに、作業を始めた。
「実行します」
プラナは承認された区域だけを選んだ。
箱全体を開いたり、封印構造を解除したりはしなかった。接続要求は既存の命令区域の端で止まった。
しばらく何も変わらなかった。画面には応答待ちの表示だけが残った。
プラナにとって、時間の流れは待機表示と受信周期だけで示された。
応答がないたびに次の段階へ進む選択肢が画面に出たが、設定した範囲は超えなかった。
画面の外のリオは、いつ絶縁装置を押すか計算しているはずだった。その計算を代わってほしいとは求められない。自分から始めた接続なのだから、いつ止めるかも自分で判断する必要があった。
「応答なし」
ユウカが言った。
「そのまま待って」
リオが答えた。
「まだ予定した時間内よ」
表示窓には、損傷した命令と途切れた権限文字列だけが残った。
プラナは承認範囲を超えず、応答を待った。数秒後、境界線に小さな変化が生じた。
プラナはすぐに文を探さなかった。まず、変化がどちらから来たのか、接続範囲が動いたのかを確かめた。
数値が一つ変わり、波形の端が揺れた。
画面の外ではリオの手が中止装置の近くにあったが、プラナはその手を見なかった。今、判断を担っているのは自分だった。
箱の中から、接続を拒む信号が返った。
プラナはすぐには後退命令を実行しなかった。単なる遮断反応なのか、種の作った誘導なのかを見分ける必要があった。だからといって、応答をたどって内部に入るわけにもいかなかった。
接続範囲を固定したまま、信号が繰り返すか観察した。
「接続境界で、外部からのアクセス試行を検知しました」
プラナが言った。
「発信元は判別できません」
リオが絶縁装置の横に手を移した。
プラナは接続範囲を広げず、境界の内側の表示を確認した。外部アクセスはまだその線を越えていなかった。
ユウカはリオの手に重ならないよう腕を引いた。画面の受信周期が一つ進んだ。
波形がもう一度揺れた。
今度は正体不明の外部信号が、封印境界に触れた。
その瞬間、箱の内側のアロナのローカル領域が、自ら境界を閉じた。プラナが実行した終了命令ではなかった。
信号は内側に入れず、接続経路も広がらなかった。
システムはその動作を、アロナの残存権限区域で発生した遮断として記録した。ただし、信号の発信主体と遮断動作の正確な時点は検証できなかった。
外部信号が遮断される間、承認された領域の記録に別の変化が現れた。
画面に残る権限文字列は不完全で、命令の始まりと終わりを判別する標識もなかった。だが、アロナのローカル命令区域に保存された断片の間から、復元できる優先順位が一つ現れた。
二つの現象が同時に観測されたというだけで、互いを引き起こしたとは断定しなかった。
『先生を探してください。』
プラナはその文を別に実行しなかった。
この命令はアロナのローカル区域に保存された記録から復元されたものだった。作成時点と伝達経路は損傷していたが、ほかの権限区域から流入した文ではなかった。
確かめようとしたのは、アロナがこの指示を残した文脈だった。その時、新たなアクセス信号が再び境界に触れた。
「未承認のアクセスが繰り返されています。封印区域の外部境界で止まっています」
「もう一度来たら終了して」
リオが言った。
プラナは指示を待たず、自分が設定した基準と照合した。
次の信号は境界の内側へ押し入ってこなかった。復元した命令文字列を保存し、接続を切った。さらに権限を得ようと接続を引き延ばさなかった。
絶縁装置の表示灯が消えた。シッテムの箱は再び応答しなくなった。画面には復元した一行だけが残った。
「接続の終了を確認しました」
プラナが言った。
「隔離は?」
「維持されています。外部アクセスは境界の内側に入れませんでした。ただ、意図された誘導かどうかは確認できません」
リオは手を引いた。プラナの判断を尊重したが、危険が去ったとは宣言しなかった。復元されたのは命令文字列一つで、封印区域は閉じたままだった。
「プラナ?」
リオが尋ねた。
「この指示が今も有効かは確認できません」
プラナは少し画面から目を離し、言葉を続けた。
「それでも、私はアロナ先輩を置いて、先生だけを探しに行くことはできません」
プラナは復元された文の下に、別の項目を開いた。
『先生を探してください』には触れなかった。その文にはアロナ自身を回収せよという言葉はなかった。
カーソルが次の行で止まった。応答のない区域に、先輩の名前が残っていた。
自分の提案を入力した。アロナの指示とは書かなかった。
リオは文の横に提案者の名前を付けた。そのあとには、封印状態と最後の保存記録を並べた。
ユウカは絶縁装置を作業台の内側に押し戻した。使わずに終わった装置だった。それだけで、プラナが今引き受けた危険が小さくなるわけではなかった。
プラナは終了した接続画面をもう一度見た。
先輩の挨拶も、返答も得られなかった。命令が保存された行には触れず、その下に自分の提案を残した。
出動もバルクへの進入も、まだ待機状態だった。
画面には三つの項目が並んで残った。
先生の位置:未確認。
復元された命令:先生を探してください。
アロナの状態:未確認。
「アロナ先輩の回収を、最優先目標に追加します」