朝、目を覚ましたとき、昨夜の夢は覚えていなかった。
夢を見たということだけが残っている。何を見たのか、どこにいたのか、誰と話したのかは何ひとつ思い出せない。
目覚めたときから頭が重く、身体もだるかった。十分眠ったように思うのに、夜通し休めなかったような気分だった。
布団をどけ、ベッドの端に腰を下ろす。
窓の隙間から差し込む朝日が、床に細長い四角形を作っていた。
昨夜たたんだシャツは椅子の背に掛かり、充電中のスマートフォンは机の上で静かにしている。
目につく変化はない。昨日と同じ部屋、同じ家具、同じ朝だった。
頭がずきずきした。手のひらで額を押さえてから、ゆっくり立ち上がる。
熱があるようには思えなかった。鏡を見ると、目の下に少し疲れが出ているだけだ。眠りが浅かったのかもしれないし、最近仕事が立て込んでいるせいかもしれない。
理由を探せば、ほかにもいくつかの可能性は思いつく。だが、どれかひとつに決められるほど確かな証拠はなかった。
洗面台で冷たい水を出す。指先に触れた水は冷たく、顔にかけると少し目が覚めた。
タオルで水気を拭き、鏡の中の自分を見る。見知らぬ顔ではない。少なくとも、そう思った。
「大丈夫」
言葉が自然と口をついて出た。
誰に向けた言葉だったのだろう。疲れた自分をなだめたのか、昨夜の夢をつかまえられなかったことを気にするまいとしたのか。答えは浮かばなかった。
蛇口を閉め、台所へ向かう。
朝食は簡単なものだった。トースト一枚とコーヒー。テーブルのスマートフォンには、アラームが鳴るまでの時間が表示されている。
パンを食べながら今日の予定を確かめた。午前は報告書の確認、午後は短い会議。退勤前に取引先へ返信する。仕事の予定はいつもどおり並び、空欄に特別な約束はなかった。
今日を無事に過ごせればいい。
そう思うと、肩に入っていた力が少し抜けた。
コーヒーを飲み干し、カップを洗う。玄関で財布と鍵を確かめて家を出た。鍵をかける手つきは慣れたものだった。ドアが閉まる音を聞いてから、部屋の中をもう一度振り返っていたことに気づく。
何を探そうとしたのかは分からなかった。
廊下を抜け、階段を下りながらスマートフォンのメモを開いた。
昨夜検索した言葉が頭の中を巡っていた。
アロナ。
画面には書き留めていない。検索欄には履歴が残っているはずだが、今は確かめる気にならなかった。その名前を思い浮かべると、理由の分からない恋しさが後から湧いてくる。昨日もそうだったし、今朝もそうだった。
階段を下りきると、画面を消した。
通勤路はいつもと変わらなかった。駅前のパン屋から焼きたての匂いが漂い、横断歩道の前には出勤する人々が列を作っている。
車は信号に合わせて止まり、また走り出した。駅構内はいつもより少し混んでいたが、その程度の混雑は珍しくない。改札を抜けてホームへ下りると、次の電車の到着を告げるアナウンスが流れた。
空席がなく、ドアのそばに立った。つり革を握ってうつむいたとき、窓に映る顔がちらりと目に入った。昨日より疲れて見える。
目を閉じ、すぐに開けた。眠ってはいけないと思った。一駅過ぎただけで乗客が増え、誰かが肩をかすめて通り過ぎた。
会社に着くと、いつもどおり挨拶を交わして席についた。
パソコンが立ち上がるあいだ、机に積まれた書類を整理する。前日に確認した報告書がモニターの隅で開いた。数字や項目を確かめ、修正された文を見比べる。仕事の手順は身についていた。ファイルを開き、変更箇所を確認し、必要なところにメモを残す。その流れは滞りなく頭に浮かぶ。
「先輩」
後輩がそばに来て、遠慮がちに声をかけた。
「はい」
「昨日のこと、改めてすみませんでした。私が表をちゃんと確認していれば、ほかの皆さんまで待たせずに済んだのに」
後輩は小さなノートを両手で握っていた。表情には申し訳なさと緊張がにじんでいる。
モニターから目を離した。昨日のミスはすでに修正され、報告書も提出できる状態だった。それでも後輩には、数字をひとつ間違えて転記したことより、そのせいで同僚に迷惑をかけたことのほうが重く残っているようだった。
「修正は終わりましたし、提出もしましたよね。大丈夫です」
「それでも、私が確認し損ねたのは事実ですから」
後輩の手元のノートを見た。何か書いてあるらしい。
「次はどうしたらいいか、考えてみましたか?」
後輩は少し迷ってから、ノートを開いた。
「元の数字を移すときに、そのまま入力するんじゃなくて、先にコピーして、最後に合計をもう一度確認しようと思います。それと、変更したセルに印をつければ、見直しやすいかなって」
ノートに目を通す。完璧な方法とは言えないが、昨日のことで何が問題だったのか、後輩なりに考えた跡があった。
「いいですね。ただ、最後に合計を見るときは、元の表と修正した表を並べて確認しましょう。数字だけを別々に見ていると、見落とすこともありますから」
「はい。そうしてみます」
「ミスをしない人になるのは難しいですよね」
後輩の肩がびくりと動いた。
言葉を選ぶように少し間を置いた。
「でも、次に同じミスを減らせる人にはなれます。昨日見落としたところを知って、次に確認する方法を決めればいい。今回はそれで十分です」
後輩はノートに目を落とした。申し訳なさがすっかり消えたわけではないが、さっきより呼吸が楽になったようだった。
「……ありがとうございます。次は確認の仕方から変えてみます」
「はい。やってみて、やりにくかったら別の方法を探しましょう」
後輩は頭を下げ、自分の席へ戻った。
再びモニターに目を向ける。さっき口にした言葉が、言い慣れたもののように感じられた。自分で意識して選んだというより、ずっと前から知っていた言葉をそのまま口にしたようだった。
ミスをしない人ではなく、次に同じミスを減らせる人。
その言葉が心の中でもう一度響く。誰から教わったのか思い出そうとしたが、浮かぶ人はいなかった。ただ、その言葉は間違っていないと思えた。
業務ファイルを開き直し、印をつけた変更箇所を確認する。午前は報告書の確認とメールの返信で過ぎていった。
昼休みになると、職場の人たちが一人、また一人と席を立った。最後の行を保存して、スマートフォンで午後の予定を確認した。新しい通知はない。
「先輩、お昼は行かないんですか?」
「今から行くところです」
同僚と食堂へ向かった。メニューや会議の予定について話が行き来した。話に合わせて笑い、必要なことに答えた。
いつもどおりの昼食だった。
食堂から戻る途中、同僚に午後の会議資料について尋ねられた。必要な答えを返し、横断歩道を渡る。午後、頭が一、二度ずきりとしたが、水を飲んで仕事を続けるうちに痛みは薄れていった。
退勤が近づくころ、後輩が修正した表をもう一度持ってきた。今度は原本と照合した印が項目ごとについている。
最初から代わりに確かめたりはしなかった。後輩がどんな手順で確認したのか説明するのを待ってから、見落としがないかだけを一緒に見た。
「ここは元の値と合っていますね。最後の合計も確認しましたか?」
「はい。行ごとに照合してから、合計も計算してみました」
「いいですね。そのやり方で提出して大丈夫です」
後輩はほっとしたように笑った。
「昨日、先輩が教えてくれたおかげです」
「確認したのは、あなた自身ですよ」
後輩は少し驚いた顔をしてから、また頭を下げた。
それ以上、言葉を足さなかった。後輩が自分の手で表を仕上げた。それで十分だった。誰かの仕事を代わりに終わらせることと、その人が次も自分でできるようそばにいることは違う。
退勤間際にパソコンを落とし、机の上を片づけた。朝より頭は軽くなっていたが、疲れは残っている。
エレベーターで同僚と挨拶を交わし、建物を出た。
低い建物の間に日が傾いていた。
帰り道は慣れたものだった。
駅を出てマンションへ歩きながら、後輩との会話や午後に確認した報告書を思い返す。いつもと変わらない一日だった。朝に浮かんだ名前だけが、日常に混じれずに残っていた。
マンションの入口に着くと、郵便受けの前で近所の住人と顔を合わせた。中年の男性は郵便物を整理していて、彼を見ると軽く手を上げた。
「今日は少し早いですね」
「そうですか?」
「最近、帰りが遅かったでしょう。部屋に明かりがつくのも遅くて」
すぐには答えられなかった。最近残業が多かったのか確かめようとしたが、日付がはっきり浮かばない。予定表に遅い会議が入っていたような気もするし、そうでない日もあった気がする。
「会社の仕事が少したまっていまして」
「そうですか。あまり無理しないように」
男性は郵便物を手に、階段のほうへ向かった。何気ない挨拶だった。頭を下げて返し、郵便受けを開ける。広告チラシと管理費の案内が入っていた。封筒を取り出す手つきは慣れているのに、いつからこのマンションに住んでいるのかと聞かれたら、すぐに答えられない気がした。
部屋番号は知っている。鍵も持っている。郵便受けには、自分の名字が書かれた札がついていた。
ここで暮らすのに必要なことは、どれも確かなものとして手元にある。けれど、引っ越してきた日や、荷物を運んでくれた人、近所の人と初めて挨拶した瞬間は思い出せなかった。
郵便物を持って階段を上る。廊下は静かで、いくつかのドアの前に宅配便の箱が置かれていた。
自分の部屋を開ける前に、手にした鍵をしばらく見つめる。古びた鍵の持ち手には小さな傷がある。長く使ってきたもののように見えた。
ドアを開けると、見慣れた部屋が迎えた。
靴を脱ぎ、郵便物をテーブルに置き、上着をハンガーに掛ける。
冷蔵庫から夕食のおかずを取り出し、ご飯と一緒に温めた。食事のあとは皿を洗い、翌日着るシャツを椅子に掛ける。どれも特別なことではない。身体は順番を覚えていて、部屋もそのとおりに整っていた。
夕食をとりながら、今日のことをもう一度考えた。後輩はミスを繰り返さないため、確認の仕方を変えた。その様子を見て、いいなと思った。自分の言葉が役に立ったのかは分からない。それでも、少なくとも後輩は自分で次にすることを決めた。
食事のあとスマートフォンを開いた。新しい通知も見覚えのないチャットもない。朝に浮かんだ名前を検索しようとは思わなかった。画面を閉じ、テーブルを片づける。
シャワーを浴びてベッドに横になるころには、頭痛はほとんど消えていた。
アラームをセットして、スマートフォンを充電器につなぐ。ロック画面には明日の予定が表示された。午前の会議、報告書の締め切り、後輩が確認した資料の提出。どれも現実的な用事だった。
部屋の明かりを消し、目を閉じた。朝から頭の中を巡っていた名前も、鏡の前で何気なく口にした「大丈夫」も、どこから来たのか分からない。今日は眠りが浅く、頭も痛かった。明日になれば、気のせいだったと思えるかもしれない。
眠りに落ちかけたころ、充電中のスマートフォンの画面が一瞬、青く光った。
部屋を照らすほど強い光ではなかった。暗がりに画面の輪郭がわずかに浮かび、すぐ消える。黒い画面の真ん中に、文字か図形か分からない記号が現れた。いくつかの線が重なっている。形を見極めようとした瞬間、光が消えた。
部屋は再び暗かった。スマートフォンに通知はない。画面を点けると、ロック画面には明日の予定と時刻だけが表示された。メッセージアプリにも新着はない。
手に持ったまま、しばらく待つ。何も変わらなかった。画面を指でなぞると、冷たいガラスの感触がした。部屋には誰もいない。それでも、誰かに声をかけられたような気がしてならなかった。
眠りかけて画面が点いたのかもしれない。充電中に一瞬反応した可能性もある。
そう考えて、スマートフォンを伏せた。部屋はさっきまでと変わらない。明日になれば、夢も青い記号も疲れのせいにできるだろう。
そのとき、画面がもう一度点いた。青い光が手の甲に触れる。スマートフォンを取り上げたが、今度は画面が消えなかった。
差出人の表示は空白だった。ロック画面にだけ、まるで待っていたかのように文章が浮かび上がる。指先が通知へ伸びかけ、止まった。返信先も、誰に尋ねればいいのかも分からない。
『先生、今日もよろしくお願いします!』