帰り道、コンビニではなくマンションの近くにあるスーパーへ向かった。
その日、会社で後輩が前日に修正した報告書の最終版を見せてくれた。変更したセルと再計算した合計を確認し、別の社員にも見てもらったという。彼はファイルを受け取るよりも先に、後輩が確認した手順を聞いた。
「昨日話したやり方、試してみたんですか?」
「はい。まず元の数値をコピーして、変更したセルに印をつけてから合計を計算し直しました。最後に、ほかの方にも確認をお願いして」
変更された数値はすべて合っていた。昨日決めたやり方が、後輩自身の作業手順になりつつある。
「いいですね。どのやり方が自分に合っていたかも覚えておいてください。次に別の資料を扱うとき、工夫できますから」
後輩はうなずき、最終版を共有フォルダにアップロードした。
彼はその様子を見届けてから、自分の仕事に戻った。ミスを減らす方法は、一度助言しただけで身につくものではない。自分で試し、自分に合ったやり方にしていくものだ。
牛乳が切れていた。冷蔵庫にあったパックは、朝、最後の一杯を注いで空になった。帰りに買ってこようと思った。それだけの理由だった。
特別に買い物をするつもりはなかったが、家にない日用品を思い出すうち、買い物かごにいくつか品物が増えていた。
何を買うのか確認するために、わざわざ記録を残す必要はなかった。いつもの帰り道に、今日はスーパーへ寄るだけだ。
スーパーの自動ドアが開き、なじみのある冷蔵庫の匂いが流れてきた。
彼はここへ何度も来たことがあるかのように自然に買い物かごを手に取り、そこで動きを止めた。自分ではこのスーパーは初めてだと思っていた。それなのに、入口の右手にある割引品の棚も、牛乳が通路の奥にあることも、迷わずわかっていた。
かごの持ち手を握ったまま、しばらく立ち尽くした。
「お客様、かごをお使いになりますか?」
店員に声をかけられ、ようやくうなずいた。
「あ、はい。ありがとうございます」
店内は仕事帰りの客で混み合っていた。
冷蔵コーナーの前では夫婦が夕食の献立を相談し、ベビーカーを押す人は子どものためにお菓子を選んでいた。レジではバーコードを読み取る音が短く続いていた。ありふれた夕方だった。
彼はこういう光景を知っているような気がしたが、いつから知っていたのかは思い出せなかった。
いちごミルクと缶コーヒー、割引シールの貼られた三角おにぎりを買い物かごに入れた。品物を選ぶ順番まで手になじんでいた。
彼は商品を見下ろし、なぜ缶コーヒーを選んだのか考えた。飲んだ記憶はない。それでも手は、すでに見慣れたブランドを選んでいた。
レジに並ぼうとしたとき、横から困ったような声が聞こえた。
「一つだけ買ったって言っただろ。なんで二つ分になってるんだ?」
買い物かごを持った中年の男性が、レジの上に置かれたレシートを指で叩いていた。レジの内側には、制服の上にエプロンを着けた女子生徒が立っていた。少女はレシートと商品を見比べ、落ち着いて説明しようとしたが、男性は言葉をさえぎった。
「お客様、会計の内容をもう一度確認いたします。同じ商品が二回入力されているようです」
「確認すれば終わりか? 一つだって何度も言ったのに」
周りの客が何人か振り返った。少女は肩を縮めたが、引き下がりはしなかった。レシートと決済画面をもう一度確かめる。
「確認したところ、同じ商品を二回計上していました。私のミスです。申し訳ありません」
「最初からちゃんとやっていれば、こんなことにはならなかっただろ」
男性はレジの内側へ身を乗り出した。少女は一歩下がったものの、決済画面から目を離さなかった。
「店長を呼んで、一緒に確認いたします。少々お待ちください」
男性が手を伸ばした。その動きがレジの中の商品を指そうとしたのか、少女を突き飛ばそうとしたのか、最初はわからなかった。
列を離れ、二人の間に立った。
「少しお待ちください。店長も来るとのことですので、待っていただけますか」
「お前は何なんだよ。口を挟むな」
「客です。今のやり取りを見ていました」
男性の手が彼の頬を打った。頬骨から痛みが広がり、彼は半歩下がった。少女はレジの外へ出ようとしたが、彼は手のひらを上げ、その行く手を遮ることなく、店長のほうを指した。
「店長を呼んでください。ここにいて大丈夫です」
少女は隣のレジの店員に助けを求めた。別の客が警備員を呼び、男性はそれ以上近づかなかった。
彼は男性を押さえつけたり、殴り返したりはしなかった。店員が安全な場所へ下がり、会計の誤りを確認できるよう、距離を保った。
店長が到着すると、少女はレシートと決済画面を一緒に確認した。重複入力は実際にあり、取消しと返金の手続きが済んだ。男性は不満そうな顔で警備員と話したあと、店を出ていった。
客がいなくなってから、少女はようやく長く息を吐いた。
レジの内側にあるフックに掛けていた鞄から、透明なプラスチックの飾りが落ちた。飾りはカウンターの下へ滑り込んだ。二人とも、小さな音に気づかなかった。
「助けてくださって、ありがとうございました」
「会計の内容は、ご自分で確認していましたよね」
「それでも、説明する時間を作ってくれました」
彼女はレジの上を片づけながら、小さく笑った。緊張は残っていたが、言葉に詰まってはいなかった。
後ろに並んでいた客が一歩ずつ前へ進んだ。少女は次の客に謝ってから、会計を続けた。
彼はそれ以上声をかけず、別のレジで買い物かごの品を精算した。レシートを折ってポケットにしまい、店の外へ出たが、雨脚が強くなっていたため、軒下で傘を開くのを少し待った。
仕事を終えた少女が従業員口から出てきたとき、彼はまだ軒下にいた。雨は少し弱まっていた。彼女はエプロンを外して鞄にしまい、自分から近づいてきた。
「さっきはありがとうございました。私一人だったら、謝り続けて終わっていたと思います」
「大したことはしていません。会計を確認して、少し説明する時間を作っただけです」
「それが必要だったんです。ミスしたのは私のせいですけど、わざとじゃないのにずっと叱られていると、どう話せばいいかわからなくなって」
「まず分かったことを伝える。間違いは認めて、解決方法も一緒に伝える。さっきのあなたは、そうしていましたよ」
「それでよかったんでしょうか?」
「少なくとも、問題を解決する助けにはなっていました」
彼女は少し首をかしげた。
「先生みたいですね」
その言葉を聞いた途端、携帯に表示されたメッセージを思い出した。
『先生、今日もよろしくお願いします!』
記憶の中では初めて聞く呼び方なのに、なぜか違和感がなかった。
どうしてそう呼ばれるのかを考えかけ、先に返事の言葉を探していた。
「そう言われることはよくあります」
口にしてから、おかしいことに気づいた。誰に、いつ、そんなことを言われたのだろう。
しばらく口をつぐんだ。
少女は彼の表情をうかがったが、あえて尋ねなかった。
「私、お客さんの顔を覚えるほうなんです」
彼女は少しためらってから言った。
「お客さんも、よくここへ来ますよね?」
「私が?」
「はい。割引のお弁当が残っているか先に見て、いちごミルクと缶コーヒーを買っていくんです。レシートも必ず折ってポケットにしまって。クジラマンションのほうへ歩いていくのも、何度か見ました」
彼は手にした袋を見下ろした。いちごミルク、缶コーヒー、三角おにぎり。さっき買った品が、彼女の説明と重なった。
「今日が初めてだと思っていたんですが」
「今日初めて来た人の顔じゃなかったですよ」
彼女は言い過ぎたと思ったのか、すぐに付け加えた。
「あ、ごめんなさい。変な意味じゃなくて。なんだか見慣れている感じがしただけです」
「私は、よく覚えていないことがあって」
彼は自分が覚えていないことを説明しながら、大丈夫だと付け加えそうになり、飲み込んだ。少女はそれ以上謝らなかった。
「覚えていないのって、疲れているからですか?」
「そうかもしれませんね」
確かでないことを、確かなようには言わないようにした。だが、本当に疲れのせいなのか、ほかの理由があるのかはわからなかった。
「もしかして……」
少女は声を落とした。
「私のことを覚えていないのも、疲れているからですか?」
答えを見つけられなかった。
「私たち、会ったことがあるんですか?」
「……はい。何度かいらしています。少なくとも、私の覚えている限りは」
彼女の顔には、少しだけいたずらっぽさがあった。完全な冗談だとは言い切れなかった。
「じゃあ、もしかしてストーカーじゃないですよね?」
「私がですか?」
「はい。毎回同じ時間に来て、同じものを買って、私が出勤している日まで覚えているとか」
彼女はわざと疑わしそうな目をした。語尾には笑いがにじんでいた。
「それ、私が言う台詞みたいですね」
彼がそう返すと、少女は吹き出した。
「冗談です。お客さんがいつも同じくらいの時間に来るから、覚えているだけですよ。私もここで長く働いているので」
「それならよかった。通報されるところでした」
「本当にストーカーだったら、私が先に気づきますから」
「それは安心していい言葉ですか?」
「たぶん」
彼女の冗談は少し大げさだったが、おかげで二人の間の空気が軽くなった。
笑い、手にした袋を持ち直した。
レシートには商品が三つ記されていた。いちごミルクが一本。缶コーヒーが一本。三角おにぎりが一個。
会計の済んだ画面を写真に撮ろうかと考えた。だが、彼は携帯をポケットに戻した。何もかも記録しようとすれば、目の前の人との会話まで証拠集めに変わってしまいそうだった。
「今日はありがとうございました」
「大したことはしていません」
「それでもです。私一人だったら、ずっと謝って終わっていたと思います」
彼女は鞄からソーダ味のアイスバーを取り出した。帰りに買ってきたらしく、包装には濡れたレシートが貼りついていた。
「これ、どうぞ。さっき助けてもらったお礼です。頬も叩かれたし、冷やせば少しは楽になるかもしれません」
「大丈夫です。こんなものをいただくようなことでは」
「私が渡したいんです。それに、さっきも大丈夫だって言ったじゃないですか」
「そうでしたっけ?」
「はい。一度くらい、大丈夫じゃなくてもいいんですよ」
彼女はアイスバーを差し出した。
包装の青が、スーパーの明かりの下で冷たく光っていた。
彼は手の甲で頬に触れた。熱を持ったように、少し疼いていた。少し迷ってから、それを受け取った。
「ありがとうございます」
「ゆっくり食べてくださいね。急いで食べると頭が痛くなりますよ」
「それはよく知っています」
「本当ですか? 経験者なんですね」
「たぶん」
二人は短く笑った。
彼はアイスバーを持って自動ドアの外へ出た。雨は弱まっていたが、地面は濡れている。傘を開こうとして、手の中の青い包みを見下ろした。
その瞬間、スーパーの蛍光灯の音と街の雨音が遠のいた。
目の前に長い廊下が現れた。病院特有の消毒液の匂いが鼻先をかすめる。廊下の突き当たりの椅子には、小さな子どもが座っていた。足が床につかないほど幼い子だった。子どもは両手を膝に置いて、閉ざされたドアを見つめていた。
向かいの椅子には、誰かが折りたたんだ新聞が置かれていた。開いた面には事故の記事が載っていたが、見出しも日付も水ににじんだように読めなかった。写真の救急車だけがぼんやり見分けられた。子どもは新聞を見ていない。ドアだけを見つめていた。
「兄が、その件を担当した」
誰かの声が聞こえた。低く、疲れた声だった。誰の声なのかはわからない。
彼は子どもに近づこうとしたが、手に持ったアイスバーが溶け、指の間を冷たい水が伝った。
彼は目を閉じた。スーパーの前の雨音が戻ってきた。自動ドアが開いて閉じる音、遠くを走る車の音。手には溶けていないアイスバーがあった。包みの内側に小さな水滴がついている。
「大丈夫ですか?」
店の前に出てきた少女が尋ねた。レジにいたときよりも、心配そうな顔をしていた。
彼は大丈夫だと言いかけて、やめた。
「少しめまいがしました。すぐに落ち着くと思います」
「本当ですか?」
「はい。ありがとうございます」
彼女はそれ以上引き止めなかった。その代わり、エプロンのポケットからハンカチを出して差し出した。
手についたアイスバーの水を拭いた。
「じゃあ、気をつけて帰ってくださいね。道が滑りやすいので」
「そうします」
家に帰るあいだ、病院の廊下の幻が頭に残っていた。記憶というより、昔見た写真を夢の中でもう一度見たようにぼんやりしていた。子どもの顔も、事故の記事の内容も思い出せない。ただ、閉じたドアの前で待つ姿勢だけが鮮明だった。
マンションに着くと、彼はいちごミルクを冷蔵庫に入れた。今日買った牛乳は一本だけだった。レシートも折って財布にしまった。今度は品物と金額が記憶と一致していた。その小さな事実に安堵した。
携帯を開き、メモ帳に書き込んだ。
スーパー。いちごミルク1本。缶コーヒー1本。三角おにぎり1個。レシート保管。
さらに一行書こうとして、手を止めた。
少女は私を覚えていると言った。
その文が事実なのか、彼女はただ常連客だと思っていただけなのかは、はっきりしなかった。彼は二行目を消し、代わりにこう書いた。
彼女は、私がよく来る客だと言った。
正確に覚えていることと、事実を確かめることは違う。彼はその違いを忘れないようにした。
夕食を済ませてからも、彼はスーパーで聞いた言葉を思い返した。
彼女は自分の会計ミスを認めていた。解決方法もあった。彼がしたのは、会話が続く隙間を作っただけだった。それでも彼女は、その隙間が必要だったと言った。
「一度くらい、大丈夫じゃなくてもいいんですよ」
彼はその言葉を心の中で繰り返した。誰かに言われた言葉なのか、自分が彼女に言った言葉なのか、一瞬わからなくなった。今日の会話を順にたどれば、彼女が言ったのだ。それなのに、ずっと前から自分にも必要だった言葉のように感じられた。
彼はまたスーパーへ行ってみようかと考えた。少女のことが気になったし、幻に現れた子どもについて尋ねたかった。だが、何を聞けばいいのかわからなかった。
彼女は自分を覚えていたが、彼は彼女の名前さえ知らない。
次に会ったら、まず名前を聞こうと思った。
彼はレシートを財布にしまった。その手は、レシートの折り方を覚えていた。