朝は前日と変わらなかった。
アラームが鳴る前に目を覚ました。窓の外では、夜の雨が細く降り続いている。
ベッドを出て水を飲む。冷蔵庫には昨日買ったいちごミルクが一本。レシートは財布の中に折ってしまってある。
スマートフォンのメモには、スーパーで買った品物と、少女が口にした言葉を分けて記録していた。
画面を長く見ることなく、スマートフォンを置いた。
今日は出勤して書類を確認し、帰りにスーパーへ寄るつもりだった。あの少女のことは気になったが、いきなり探し出して問い詰める気はない。また会えたら、まず様子を尋ねて、名前を聞こうと思っていた。
駅までの道は、すっかり身体に馴染んでいた。マンションを出て大通りへ向かい、横断歩道を渡り、細い路地を抜けて駅の入口へ下りていく。
階段の途中でスマートフォンの画面を点けた。八時十一分。いつもより少し早い。
電車は混んでいた。
つり革を握って立ちながら、窓に映る人々の顔を眺める。疲れた顔、寝足りない顔、イヤホンをつけたまま目を閉じている人。誰もがそれぞれの一日を始めようとしていた。
降りる駅に着いた。ドアが開き、人の流れに混じってホームへ出る。出口の案内に従って階段を上り、改札を抜けた。交通系ICカードの残額が表示される。何も問題はなかった。
改札を出て数歩進んだところで、再びアナウンスが聞こえた。
「電車がまいります。黄色い線の内側までお下がりください」
足を止めた。
右手にはホームの柱がある。左手には、たった今通ったのと同じ改札が見えた。上の電光掲示板には、さっきと同じ広告が映っている。画面の隅に表示された時刻は、八時十九分だった。
腕時計を確かめる。八時十九分。
「今、出たばかりなのに……」
小さく声が漏れた。
誰かはホームへ下り、誰かは改札を抜けていく。その流れの中で、彼は自分が通ったはずの改札を見つめた。
別の出口から出てしまったのだろうか。駅の構造を勘違いしたのかもしれない。
改札を通って、もう一度外へ出る。交通系ICカードから運賃が引かれ、駅員のいる窓口の前も通り過ぎた。駅の外には、雨に濡れた朝の景色が続いていた。
案内板をたどって駅へ戻り、別の階段から下りる。改札の向こうには、またホームと同じ広告、そして八時十九分が待っていた。
「そんなはずないだろ……」
スマートフォンを取り出して地図アプリを開いた。現在地は駅の中央を示している。移動履歴には、駅を出てから戻るまでの短い線が記録されていた。地図が正しいなら、今のことは道を間違えたせいではない。反対に、地図のほうが間違っている可能性もある。
ホームにある駅員室のほうへ歩き出したところで、電車が入ってきた。ドアが開き、人々が降りる。
すぐには乗らなかった。人の流れが落ち着くまで待ち、ホームの端にある別の階段を上った。
今度は駅の外へ出た。
いつも通る路地とコンビニが見えた。彼は息を吐く。一度の勘違いだったのだと思おうとした。コンビニの前を通りかかると、自動ドアが開いた。まだ敷居をまたいでもいないのに、中から店員が声をかけた。
「今日も遅かったですね」
彼は足を止めた。
「私がですか?」
「はい。いつもこのくらいの時間に来るでしょう」
壁の時計は八時三十四分を指していた。
今日はいつもより早く家を出たはずだ。少なくとも、自分の記憶ではそうだった。
「今日はいつもより早く出たと思うんですが」
「そうなんですか?」
店員はレジで品物を整理しながら、何気なく尋ねた。
彼の言葉を無視しているわけでも、わざと嘘をついているわけでもない。自分の記憶を話しているだけの顔だった。
彼はしばらく店員の顔を見てから、店内に入った。冷蔵庫から水を一本取り、会計を済ませるとレシートを受け取った。印字された時刻は八時三十四分。レシートを折り、財布にしまう。
会社に着いたのは九時を少し過ぎたころだった。会議まではまだ時間がある。
鞄を机に置き、社内メッセージと書類を開いた。後輩が遠慮がちに近づいてきた。
「先輩、昨日直した表で、また同じ数字の間違いが出てしまいました」
彼は後輩の表情を見た。不安そうだったが、画面の該当箇所を指している。
合計表の一マスに「63」と入力されていた。前日に一緒に確認し、「36」に直した、あのセルだった。
「昨日直した値が、また変わったんですか?」
「いえ。今度は私が元の数字を入力し直すときに、間違えました。昨日と同じです」
画面に身を乗り出す。
ファイルの更新時刻は今朝になっていた。変更履歴にも、後輩が入力した数字が残っている。今回はファイルが前の状態に戻ったわけではない。同じ間違いが同じ場所で繰り返されていた。
「元の資料をもう一度確認しましょう」
「はい。元は36です。私が写すときに63と入力しました」
「大丈夫ですよ」と反射的に言いかけて、口を閉じた。
前日も同じ数字の間違いを一緒に直した。今日は後輩が元の数字を書き写すときに、また同じ失敗をした。まずは話を最後まで聞くべきだった。
「私が先に確認してみます」
後輩の肩が落ちた。その反応を見て、彼は言い直す。
「いや、私が代わりにやるわけじゃありません。元の資料から一緒に確認しましょう。直すのは自分でやってみてください」
後輩は少し迷ってから、自分の覚えている手順を説明した。元のファイルをコピーし、間違った値を直し、変更履歴を残してから共有フォルダに上げたという。
彼はメモを取りながら聞いた。前のように、先回りして答えを決めつけないようにした。
元のファイルと報告書の数字を並べて見比べた。後輩は、どのセルを間違えて転記したのか自分で見つけた。値を一つ直せば済むことだった。前日と同じミスではあったが、今日は後輩が先に原因を見つけた。
「今回は、私の転記ミスですね」
後輩が言った。
「そうですね。同じ間違いでも、原因を確かめて直せばいい。昨日より早く見つけられました」
「次も同じミスをしたら、すぐに言ってください。慣れたからって見過ごしたくないんです」
彼は後輩の言葉を聞き、うなずいた。
「分かりました。同じ間違いだからといって、原因まで同じだと決めつける必要はありません。今回はどこで変わったのか、確認できましたから」
後輩は自分で「63」を「36」に直した。保存したあと、元のファイルと最終版をもう一度照合する。彼は隣で結果を確かめた。数字もファイル名も合っていた。
「ひとまず、このファイルを上司に送ります」
後輩が言った。
「いいですね。保存したあと、もう一度開いて値が変わっていないかも確認してください」
後輩はうなずいて席に戻った。
彼は自分の画面を見ようとしたが、文字が一瞬ぼやけた。何度か瞬きをして水を飲む。後頭部が鈍くうずいた。
「先輩、大丈夫ですか?」
後輩が自分の席から尋ねた。
「少し疲れたみたいです。ちょっと休めば大丈夫ですよ」
彼は「大丈夫」の一言でごまかさず、もう一口水を飲んだ。後輩もそれ以上は尋ねなかった。
昼休み、朝コンビニでもらったレシートを取り出し、時刻を確認した。
八時三十四分。スマートフォンの位置情報には、駅を出てから再び入ったことが記録されている。地図の履歴もレシートも、彼に起きたことを説明してはくれない。ただ、記録された事実を示しているだけだった。
彼は手帳を開いて、三行書いた。
駅:改札を出たのに、同じホームにいた。
コンビニの店員:今日も遅かったと言った。
会社のファイル:前日に直した数値と同じ入力ミスが再び起きた。
最後の行には、まだ答えを書かなかった。三つの出来事がつながっているのか、それぞれ別の理由があるのかは分からない。
確かめられていないことを、ひとつの話にまとめないことにした。
退勤するころ、後輩が修正したファイルをもう一度開いて確認したと知らせに来た。今度は内容が保たれていた。
彼は褒めたり、安心させたりする言葉を口にしかけ、後輩の表情を見てやめた。
「確認してくれて、ありがとうございます」
「私がやるべきことですから」
後輩は少し疲れた顔で笑った。彼はその言葉にうなずいた。人を助けることと、その人が自分でやるべき分まで奪うことは違う。そのことを、今日もかろうじて忘れずにいられた。
夕方には雨が上がっていた。
彼はスーパーへ向かった。昨日会った少女が働いているか、確かめたかった。心配が先に立つが、自分が彼女のことをどれほど知っているのかははっきりしない。
名前も聞いていない。自分を覚えている客だと言っていたが、その記憶がどこまで正確なのかも分からなかった。
スーパーへ入ると、レジには別の店員が立っていた。牛乳売り場へ歩きながら、あたりを見回す。エプロン姿の少女は見当たらなかった。従業員用の休憩室につながるドアが開いて閉じたが、中の声は聞き取れない。
レジに並び、順番が来ると店員におそるおそる尋ねた。
「昨日、この時間に働いていた学生さんがいたんですが。今日はお休みですか?」
店員は会計を止め、彼を見た。
「どの学生さんでしょうか?」
「制服の上にエプロンを着けていました。会計を間違えて、お客さんに怒られていて……」
少女の特徴を説明しようとするほど、記憶が具体的な顔ではなく、場面に頼っていることに気づく。エプロンの色も、髪型も、声も、どれひとつ十分にはっきりしていなかった。
「当店には学生のアルバイトはいません。少なくとも、おっしゃっているような学生さんをここで見た覚えはありませんね」
「名前は知りません。ソーダ味のアイスバーを渡してくれました」
「お客様、別のお店と勘違いされているのではありませんか?」
口調は丁寧だった。店員は彼を疑ったり、笑ったりしているわけではない。むしろ、困っている客を気遣うような顔をしていた。その表情のほうが落ち着かなかった。
「昨日、ここで会計をしました。レシートもあります」
財布からレシートを取り出した。日付と商品、会計時刻が印字されている。店員は目を通したが、そこに少女の名前も勤務記録もない。
「これだけでは、どの従業員か分かりませんね。店長に確認しましょうか?」
彼は「お願いします」と言ってうなずいた。
しばらくして店長が出てきた。
彼は昨日の二重計上と返金のことを説明した。店長は当日のシフトを確かめ、隣のレジの店員にも尋ねた。
二人とも、そんな少女を覚えていない。交代記録にも、その時間に学生のアルバイトが入った形跡はなかった。
「申し訳ありません。お話しの状況は、こちらの記録にはありません」
「でも、確かに私は……」
彼は言葉を止めた。
確かだと言えば言うほど、記憶と記録が別々の方向を指していることだけが鮮明になる。自分の記憶違いという可能性もあった。
疲れていて、別の日のことを昨日だと思い込んだのかもしれない。その可能性を受け入れるには、あとひとつだけ確かめたいものがあった。
彼はレジの下を見た。
「あそこに、何か落ちています」
店員が身をかがめた。カウンターの奥まった下、埃の積もった床に透明なプラスチックの飾りが落ちていた。片方の輪には、鞄のストラップの繊維が少し残っている。昨日、少女の鞄についていた飾りだ。
「それは……」
店長に断ってから、手を伸ばした。飾りはカウンターの奥に引っかかっており、指を目いっぱい伸ばさなければ届かない。ようやく拾うと、プラスチックが冷たく手のひらに触れた。
スーパーの音が遠のいた。
冷蔵庫のモーターが止まり、レジの読み取り音が途切れる。天井の照明が一本ずつ消えていった。
店長が何かを言っているのが見えたが、声は聞こえなかった。
飾りを握った手を見下ろす。透明な表面の内側に、青い光がゆっくり広がっていた。
大きなガラス窓の向こうの通りも暗くなる。まず看板が消え、街灯が一つずつ光を失った。マンションの廊下、地下鉄の改札、コンビニの看板、路地が互いに重なっていく。別々の場所の壁と床がずれたまま噛み合い、ひとつの巨大な構造を作り上げていた。
飾りをポケットにしまい、出入口へ向かった。
自動ドアが開くと、マンションの廊下が現れた。見慣れたドアが両側に並んでいる。自分の部屋のドアもあった。部屋番号を確かめて取っ手を握ったが、開かなかった。
背後から、電車の到着を知らせるチャイムが鳴った。
振り返る。廊下の突き当たりに改札があり、その向こうではコンビニの蛍光看板が斜めに傾いていた。スーパーの白いタイルとマンションの壁紙が、床の上で互いに食い込んでいる。
出口の案内を追って走った。
最初のドアの向こうはスーパーのレジで、非常口の先にはまたマンションの廊下があった。
息を切らして別のドアを開けても、同じ郵便受けと玄関マットが現れる。
見慣れた景色は、家ではなく閉じた道のように見えた。
手の中の飾りは冷たく、表面の青い光がかすかに明滅している。
「いったい、これは……」
言い終える前に床が傾いた。廊下の壁が、さらに深く内側へ折れ込む。改札と郵便受け、スーパーの棚が重なり、構造物が狭まっていった。街の音は方向を失った。遠くを走る電車の音と、マンションのドアが閉まる音が同時に響く。
彼は走った。どこへ向かっているのか分からない。ただ、そこに立ち止まっていたら、見慣れた景色が完全に閉じてしまう気がした。
ポケットからスマートフォンを取り出す。画面は点いたが、通信の表示は消えていた。
地図アプリの現在地がマンションと駅、スーパーの間をせわしなく行き来する。カメラを起動すると、画面が一瞬黒くにじみ、手にした飾りだけが青い点となって残った。
さらに確かめようとしたが、画面を消して出口を探し直した。
三つ目のドアの向こうには、スーパーのレジがあった。店員も店長も視界に入らない。天井の照明だけが明滅し、床には彼が拾った飾りの跡のように青い点が続いていた。
二人が立ち去ったのか、折り重なった空間が視界を遮っているのかは分からなかった。
彼は手の中の飾りをさらに強く握った。角が手のひらに食い込む。痛みがあった。その痛みが、少なくとも今この瞬間が夢ではないという証拠のように感じられた。
廊下の先から、誰かが呼んだ。
「先生」
その声は、ずっと前から彼を知っていて、彼が返事をするのを待っていたように聞こえた。
彼は足を止めた。
「……誰だ?」
声は答えなかった。その代わり、廊下の先にあるドアが、ほんの少し開いた。隙間の向こうには、青い光のにじむ闇があった。
彼はそのドアへ一歩踏み出した。
背後で玄関のドアが閉まる音がした。それが自分の部屋のドアなのか、どちらから聞こえた音なのかは分からなかった。
帰る場所だと思っていた所は、もうどこにも開かれていなかった。