ミレニアムの整備棟の奥。使用申請書が貼られているはずの作業台には、何の表示もなかった。その前には、新型アバンギャルド君の上半身が固定されている。
既存の機体より肩幅が狭く、装甲もまだ半分しか取り付けられていない。
電源は切り離されていた。
作業台の脇には、デカグラマトンの調査時に預言者の残骸から回収した非活性の破片と、当時の調査記録が、封印ケースに入ったまま置かれていた。
リオはケースを開けず、破片の外形と調査記録を、新型機の補助演算構造と照合していた。
残骸を動力源にするつもりではない。あの時に確保した不定形の信号を再調査できるよう、記録を読み取り専用で保存する別モジュールを試作機に組み込もうとしていたのだ。
だが、試作機の設計も、部品の発注も、残骸の一時持ち出しも、セミナーの正式な承認を得ていなかった。
「リオ会長!」
戸口から声がして、リオの手が止まった。
ユウカはタブレットを手に、作業台と開かれた帳簿を見比べていた。
「この作業台の使用申請は?」
「まだ提出していないわ」
「部品の発注承認書は?」
「ないわ」
ユウカの視線が帳簿の金額欄に落ちた。
整備予算で処理されたセンサーと補助演算モジュールの合計は、既存のアバンギャルド君の修理費を大きく上回っていた。領収書には新型機の番号ではなく、「予備部品」と記されている。
「予備部品なのに、どうして新型一機分もあるんですか?」
「既存の機体には、そのまま取り付けられない規格なの」
「つまり、新型を作っていたんですね」
「試験用の試作機よ」
「承認なしで整備予算を回して、調査資料まで作業室に持ち込んで?」
ユウカは帳簿を机に置いた。
「リオ会長、これって横領ですか?」
「個人的に持ち出したお金はないわ」
「横領じゃないって言い張れば、帳簿が勝手に合うんですか?」
「予算はすべて機体と分析モジュールに使ったの」
「それが、承認を得ていない予算の流用だって言ってるんです。研究に使うからって、手続きがなくなるわけじゃないでしょう」
リオは反論しかけて、ケースに貼られた封印番号を見た。番号は一致している。だが、持ち出し承認を示す欄は空白だった。
「預言者の残骸は非活性よ。ケースも開けていない。モジュールも、記録を読み取るだけの設計にしてあるわ」
「その安全性を確認したのは誰ですか?」
「まだ私が確認しているところよ」
「それが問題なんです。会長一人で確認して、一人で大丈夫だと判断して、あとからセミナーに説明するつもりだったんでしょう」
ユウカは声を荒らげなかった。その代わり、帳簿の承認欄を指で示した。
「ここに私の署名はありません。保管品の持ち出し記録にも、担当部署の確認がない。危険な資料と予算を一人で動かしてはいけません」
リオはしばらく黙った。
停止した機体の横に、持ち出し承認書が置かれていた。リオは空欄の署名欄をユウカのほうへ向けた。
「……中止するわ。破片は封印した状態に戻して、費用の内訳と設計目的をすべて提出する」
「中止だけで終わりじゃありません。正式な安全審査と予算の再承認が済むまで、電源はつながないでください」
「分かったわ」
ユウカは返事を聞いても、すぐには帳簿を閉じなかった。
「次からは、部品が届く前に言ってください。完成してから見せられたって、私に何ができるんですか」
「……その点は認めるわ」
「よし。じゃあ、まず部品の一覧を照合しましょう。承認するかどうかは、確認資料を見てから決めます」
「全部?」
「全部です。今回は『予備』って名前まで確認しますから」
ユウカは支出の明細を一つずつ照合し始めた。
リオは破片のケースを封印し、持ち出し記録を作成する。
廊下からは部員同士の言い争いや、会議資料を探す声が聞こえてきた。
ミレニアムの午前は、いつも通りに過ぎていた。整備棟の奥にある機体へ、説明のつかない電源が入るまでは。
その時、リオの端末が短く震えた。
メッセージの通知だった。送信者はシャーレ。本文は一行だけ。
『今日の予定は少し遅れそうです。確認でき次第、また連絡します。』
受信時刻は、通信が途切れる前だった。シャーレから正常に届いた最後のメッセージだった。
「先生からですか?」
ユウカが尋ねた。
「ええ。返信するわ」
午後の整備は予定通り進めること、急ぎなら連絡してほしいと、リオは返事を送った。送信表示は数秒たっても変わらない。研究棟の間で通信が遅れることは珍しくなかったので、彼女は少し待つことにした。
「メッセージ、確認できました?」
ユウカに聞かれ、リオは端末の画面を見せた。送信完了の表示はまだ出ていない。
「保留中ね」
「シャーレ側の回線に問題があるんでしょうか?」
「今は分からない。もう少し待とう」
言い終えると同時に、ユウカのタブレット右上にあった通信表示が灰色に変わった。
画面は止まっていない。開いていた文書もそのままだ。ただ、セミナーの内部ネットワークにつながるアイコンの一つが、切断を示していた。
ユウカが更新すると、接続表示は一瞬戻り、また灰色に沈んだ。内部ネットワークも整備区画の電力も、アバンギャルド君のローカル制御も正常だった。応答しないのは、シャーレにつながる通信画面だけだ。
「先生側の回線が切れたのかしら?」
「その可能性もあります。中継装置の問題かもしれません。原因はまだ特定できません」
ユウカは内部ネットワークの別のアドレスと管理端末を確認した。要求は正常に届いているのに、シャーレへの返信だけが保留中だった。
リオは最後のメッセージと送信待ちの表示を並べて見つめた。
ユウカが時刻と状態を書き留めた。その時、研究棟の壁面スピーカーから短い雑音が鳴った。館内放送が流れかけて止まったような、低い電子音だけが響く。
リオは顔を上げた。
「今のは放送設備も切れたの?」
「いいえ。緊急放送の回線は別です。内部ネットワークの点検応答も、引き続き届いています」
「なら、シャーレにつながる側だけね」
「現時点で確認できているのは、そこまでです」
リオはシャーレの通信画面を閉じなかった。接続が戻ればすぐ確認できるよう、そのまま残しておく。
同じ頃、整備区画の奥にあるアバンギャルド君たちが、一機ずつ起動した。
新型の試作機は電源が切り離されているはずだった。点検待ちの機体も、制御スイッチは落としてある。どの機体にも起動命令が送られた形跡はない。それでも表示灯が点き、停止していた診断パネルが一斉に立ち上がった。
モーターは回らない。武装の取り付け部も動かない。機体はすべて所定の位置に留まったまま、消えていた目と胸部のランプだけが青く光っていた。
ユウカはタブレットで電力記録を開いた。入力電流の形跡はある。だが、開始点も命令の発信元も空欄だった。
「電源はつながないでって言いましたよね」
「つないでいないわ」
「分かっています。だから聞いているんです。誰が起動したのか、記録がないんです」
新型試作機の胸部から短いノイズが走った。少し遅れて、整備区画の複数の機体から同じ雑音が重なって響く。最も近い作業台のスピーカーから、声がはっきりと聞こえた。
「リオさん。ユウカさん。私の声が聞こえていますか?」
二人は顔を見合わせた。リオは機体に近づかず、手のひらを上げてユウカを制した。
ユウカも画面に記録を残しながら応じる。
「聞こえています。あなたは誰ですか?」
「私はプラナです。現在、シッテムの箱とは接続されていません」
「それなら、先生は?」
リオが尋ねた。
短い沈黙のあと、プラナは答えた。
「先生の状態と居場所を確認できません。シッテムの箱から正常な応答を確認できていません」
ユウカの指がタブレットの上で止まった。彼女は言葉を置き換えず、そのまま記録した。
「先生との接続が切れた、ということですか?」
「現在、私が確認できる範囲ではその通りです。原因と時刻は判定できません。先生がどこにいるのかも分かりません」
「どうしてアバンギャルド君の中にいるの?」
「起動前の記録の一部が損傷しています。現在の場所に到達した経路は確認できません」
「この機体を通じて、外部に出られる?」
「確認できません。外部との接続を制限してください。今は、この機体の駆動部を動かす意図はありません」
ユウカは外部回線を遮断対象に加え、整備区画の共通電源を落とした。
他の機体の表示灯は一つずつ消えたが、新型試作機の胸部に残った光は消えなかった。リオは電源を完全に落とす前に、記録が保存できるか確かめた。プラナを起動させた原因も、すべての機体が同時に起動した理由も、まだ分かっていない。
「安全のため、機体から外部へ出る接続を切り離します。内部の状態は保存します」
「同意するわ」
遮断処理が実行されると、表示灯が一度点滅した。声は続いているが、経路の切り離しとともに外部への要求は止まった。発信者も目的も、記録には残っていない。
「接続経路が変更されました」
「どの経路?」
「外部演算体との接続です」
リオは手を上げた。整備室の奥にある観察窓から様子をうかがっていた生徒たちを、それ以上近づけないようにする仕草だった。
「今は質問を増やすのはやめよう。まず、この演算部が何につながっているのか確かめる必要がある」
ユウカは整備室の入退室ロックを確認した。整備担当の生徒たちは、すでに試験区画の外に出ている。彼女は外部端末に試験中止と立ち入り制限だけを表示し、原因や室内で聞こえた声は記録に加えなかった。確認されていない話が、廊下に先に広がらないようにするためだ。
整備室に残ったのは、リオとユウカ、そしてアバンギャルド君の内側から目覚めた声だけだった。
「現在の状態と起動時刻を報告して」
リオが言った。
「起動状態を維持しています。外部演算体と接続しています。シッテムの箱には接続できません」
ユウカはプラナという名前と、彼女が報告した内容の範囲を別々の項目に分けて記録した。それ以上のことは、まだ分からない。
リオはシャーレの通信画面を見た。返信はまだ保留中だった。
「ミレニアムの内部通信は正常です。応答がないのはシャーレとシッテムの箱だけです」
ユウカが言った。
リオは試験区画の外を見た。生徒たちはまだ待っていた。
「外には、通信異常で試験を中止したと伝えて。プラナの記録は担当者にだけ共有するように」
ユウカは整備室だけを立ち入り制限のままにした。他の作業台まで止めることはしなかった。
自分の端末を取り出すと、先生とのやり取りが開いた。
ユウカは短い文を打って送信した。返事はなかった。画面をもう一度確かめてから、受信時刻と送信状態を記録する。
リオはユウカにシャーレの管理用チャンネルを開かせた。二人は連絡が途絶えた時刻と、最後に受信したメッセージだけを抜き出してリンに送った。プラナとシッテムの箱に関する情報は含めない。今必要なのは、先生と連絡が取れない事実を行政責任者に伝え、出入りの記録を保存することだった。
整備室の専用通信画面に信号が入った。
発信元はシャーレの事務局だった。
リンは最後の入退室記録と通信記録を照合し、説明のつかない空白をそのまま残したうえで、原本と複製を分けて封印していた。原因が分からないまま記録を広く回せば、推測まで事実のように固まるおそれがある。
リンのセキュリティキーが付いた限定通信は、ミレニアムのリオとユウカだけに届いた。
生徒全員に向けた告知ではない。送信時刻と最後に確認された連絡記録、そして失踪の原因も居場所もまだ判断できないという短い文が含まれていた。
「代行からみたいですね」
ユウカが言った。
「開いて」
画面には、シャーレとの連絡が途絶えたことと、原因が確認できるまでは公開範囲を広げないでほしいという要請が表示された。
リオはその文章を二度読んだ。先生がどこにいるのか、何が起きたのか、戻ってこられるのか。どれについても、答えはなかった。
「他の学園にも知らせないんですか?」
「今はまだ。確認できていない状態で全生徒に知らせれば、それぞれの学園が別々に動き出すかもしれない。でも、ずっと隠しておくという意味ではないわ。誰がどの事実を知る必要があるのか確かめて、範囲を広げる」
ユウカは次の確認時刻を決めた。その時点で情報が増えていなくても、公開範囲を改めて検討することにした。
リオはその時刻を自分の画面にも表示した。
リオはシャーレに送った個別の返信をもう一度開いた。画面も時計も正常なのに、返事だけが届かない。
『今日の予定は少し遅れそうです。確認でき次第、また連絡します。』
その後は、何も届かなかった。