シャーレの事務室には明かりがついていた。
机の上の書類も、洗い場の脇にあるマグカップも、持ち主が少し席を外しただけのようにそのまま残っている。ありふれた光景が、空いた場所をいっそう際立たせていた。
「先生、確認をお願いします」
返事はなかった。
誰もいない事務室で、ユウカは画面を見ていた。メッセージは送信待ちになっている。
もう一度確認してから、携帯電話を机に置いた。画面を消しても、待機中の表示は記憶に残った。
リンはシャーレの入退室記録を前にしていた。原本は閲覧制限をかけて封印され、閲覧許可を得た複製だけがテーブルに広げられている。
記録は日付と時刻順に並んでいた。出入りした人の名前と訪問目的。どの項目も特別には見えない。
「外部から侵入された形跡は確認されていません」
リンが言った。
「入退室の認証記録は正常です。強制開錠やセキュリティ装置を迂回した記録もありません」
「だからといって、自分から出ていったとも判断できませんよね」
ユウカが答えた。
「はい。現段階では、どちらとも結論づけられません」
リンはそれ以上の解釈を加えなかった。
閲覧制限付きの記録には、「先生と連絡が途絶えた」という事実と、原因・居場所は確認できていないことだけが残されている。
対外告知は保留中だった。
シャーレの記録もシッテムの箱も応答しない状況で、誘拐とも自発的な離脱とも発表する根拠はなかった。
「今は対外告知を出しません。ただし、先生からの返信を直接待っている人や、業務を引き継ぐ必要がある担当者には、返答が遅れているため確認中だとだけ伝えます。原因や居場所はまだ分かりません」
「仕方ありませんね。今はそれ以上知らせられることもありませんから」
ユウカは端末を再び点けた。昨夜送った確認のメッセージも含め、先生への連絡はすべて送信待ちのままだった。
扉が開き、書類を持った生徒が一人入ってきた。業務の引き継ぎに来た生徒だった。室内に入ると、まず机の方を見る。いつもなら先生が座っている場所には、椅子だけが引かれていた。
「あの、昨日提出した書類にまだ返事がなくて。先生は今日もいらっしゃらないんですか?」
リンは一瞬その生徒を見た。彼女が知っている情報の範囲を超えて説明することはなかった。
「まだ返信を受け取っていません。急ぎの業務であれば、担当者が先に確認します」
「どこへ行かれたのかだけでも……」
「まだ確認できていません」
生徒は書類をテーブルに置き、それ以上は尋ねなかった。
事務室を出る前に、机の上のマグカップを一度振り返った。中は空だったが、水垢の跡が残っている。毎日使っていた物だった。
テーブルに置かれた書類の一枚目には、小さな付箋が貼られていた。『確認をお願いします』と書かれた文は、先生に送るつもりのものだった。
生徒は付箋を剥がさず、書類をユウカの方へ押しやった。
「今日中に確認が必要な箇所ですか?」
「いえ。急ぎではありません。ただ、いつも先生に先に相談していたので……」
生徒は言い切れなかった。ユウカは書類を受け取った。
「先に私が確認します。先生にしていた質問に、全部代わりに答えられるわけではありませんが、この件なら私が見ても大丈夫です」
「はい。ありがとうございます」
ユウカは数字と添付資料を照合した。決裁そのものは簡単だったが、生徒は変更の理由や、ほかの部活の予算に及ぼす影響まで尋ねていた。ユウカは根拠を一緒に確認してから、生徒自身に判断の理由を報告書へ書かせた。
生徒はしばらく空欄を見つめ、それからキーボードに手を置いた。最初に書いた文を消し、添付資料をもう一度見直した。
ユウカは直してやろうとした言葉を飲み込んだ。生徒が書いた理由は少したどたどしかったが、どの部活の取り分を気にかけているのかは読み取れた。
ユウカは数字をもう一度合わせ、書類を机の上に置いた。生徒が挨拶をして出ていったあとも、付箋は貼られたままだった。
ユウカはその端に指先を触れてから離し、別の業務を開いた。
今日対応できるのは目の前の書類だけで、相談の依頼はまだ待機中だった。質問が残っている以上、誰かが答えられることと答えられないことを分けなければならない。
扉が閉まったあと、ユウカは席を立った。カップを片づけようとして、手を止める。
「そのままにしておくんですか?」
「記録を確認している間は」
「誰かが見たら、先生がすぐ戻ってくると思うかもしれませんね」
「そうかもしれません。でも、片づける理由もまだありません」
リンはカップを見ずに書類をめくった。
感情を抑えるためなのか、仕事を優先するためなのか、ユウカは尋ねなかった。カップを片づけるのは、整理にも見えるし、戻らない可能性を認めることにも見える。
どちらに解釈するにしても、今決める必要はなかった。
廊下では生徒たちがいつも通り行き来していた。二人は扉の前で少し足を緩め、別の生徒は急ぎではない相談を習慣のように送信した。
相談一覧には、実験報告書への署名、部活予算の調整、対立している生徒との話し合いといった、ありふれた問い合わせが積み重なっていた。先生がいれば、一緒に考えていたことだった。
リンは対応できる業務だけを担当部署に回し、先生が受け持っていた相談は勝手に終了させなかった。
連絡が途絶えたことは、業務の引き継ぎ完了を意味しない。問い合わせた生徒にも、作り話はしなかった。
「先生がいなくても、シャーレの業務は続きます」
リンが言った。
「生徒たちが不必要に動揺しないよう、業務を維持しなければなりません」
「だからといって、何もなかったみたいにはできません」
「そうしようという意味ではありません」
リンは書類から目を上げた。
「業務を続けることと、不在を否定することは別です。混同しません」
ユウカは小さく息を吐いた。
二人の間に、短く気まずい沈黙が流れた。シャーレの時計の秒針だけが、規則正しく動いていた。
「リオが来たら、面談記録を共有する約束でしたよね?」
「はい。承認された資料だけ受け取ることになっています」
「あの人がまた一人で結論を出し始めたら、教えてください」
「ユウカさんが直接確かめた方が早いのでは?」
「そうするつもりです。ただ、今回は私が先に結論を出さないようにします」
扉の外で足音が止まった。リオが到着したのだった。書類の束とセキュリティ端末を手にしている。ユウカは席を立ち、扉を開けた。
「面談の結果を持ってきたんですか?」
「承認された記録だけよ」
「何と言っていましたか?」
リオは書類をテーブルに置き、ロックを解除した。
カヤが最後に先生と会った時刻と、その時の会話の範囲が記録されている。
発言は「直接観察」と「解釈」に分けられていた。
カヤは先生が自分と会ったあと、いつも通り判断の根拠と結果を尋ねたと言った。急いで席を立ったり、会話を避けたり、周囲を警戒したりする様子は見なかったと証言していた。
「彼女は、先生が生徒を見捨てていなくなる人ではないと推測していたわ。でも、直接見た事実ではなく、解釈だと明確にしていた」
「それと、先生が自分で危険を引き受ける可能性は排除できないとも言ったんですね」
リオはうなずいた。
「そこも解釈よ。記録にはそう表示した」
ユウカは資料を最初から読んだ。カヤが見たのは、普段通りに質問する先生だった。そのあとどこへ行ったのかは、カヤも知らなかった。
彼女は自分の端末を隣に置いた。返事のないメッセージと面談記録の間には、埋まらない時間があった。
「そのあとの入退室記録も確認しないといけませんね」
リオはうなずいた。リンは面談内容を閲覧制限付きの資料に残した。カヤの解釈を対外発表や出動の根拠に移すことはしなかった。
その時、セキュリティ端末に閲覧申請の返答が届いた。
リオはシャーレの入退室ログと生活記録を照合できるよう、すでに申請していた。許可された範囲は限られている。入退室時刻、業務システムへのアクセス記録、予定の登録内容。個人メッセージの内容も、保管資料の全体も閲覧権限には含まれていなかった。
「私が承認した範囲内で、閲覧が許可されました」
リンが言った。
「入退室時刻と業務予定の登録、それに文書の閲覧・修正記録だけです。個人メッセージや保管資料は含まれていません」
ユウカは画面を自分の方へ引き寄せた。
最後の入退室記録は単純だった。先生がいつシャーレに入り、いつ出たか。その日の業務予定とシステムへのアクセス時刻も、その周辺にまとめられている。一見したところ、特別な点は見当たらなかった。
リオは予定表と入退室ログを並べて表示した。一つのアカウント、一枚の職員証、一つの時間表。数字は互いに合っているように見えた。
ユウカはまず自動生成された業務記録を除外した。定期バックアップ、予約済みの通知、システム点検は、人の生活パターンのように見えることがある。そうした項目を除いてもログが残るか確認する必要があった。リンは封印時に記録した原本のハッシュ値と、許可された複製のハッシュ値を照合した。原本を直接開かずに複製の完全性を確認してから、ようやく分析を続けた。
「自動処理は除外しました。こちらは人が直接操作した記録です」
「入力したアカウントは?」
「先生のアカウントと紐づいていますが、同じ時刻の入退室記録がありません。アカウントが同じだからといって、同じ人が残した記録だと断定してはいけません」
リオは該当行に出所未確認の印を付けた。
使用履歴は先生のアカウントに属しているが、入退室記録はその時刻を裏づけていない。どちらかが誤っているのかもしれないし、両方とも正確で、別の事情があったのかもしれない。
どちらにしても、原本を直したり、片方を消したりしてはいけなかった。
だが、生活記録の末尾で小さな差異が見つかった。先生の入退室記録とは一致しない時間帯に、同じ生活パターンがもう一度残っていた。
「待って」
リオが拡大表示を押した。画面には、一つの入退室記録と別のアクセス痕跡が並んで浮かび上がった。
時刻は重なっていない。同じ人が二つの場所にいたとは断定できない。それでも、記録は二つの一日が続いているかのように読めた。
「これが先生の記録だとは断定できません」
ユウカが言った。
「分かっているわ。まず、このパターンが何を基準に生成されたのか確認する必要がある」
二つ目の痕跡は、一度きりのアクセスエラーではなかった。
数日にわたって、予定の登録、文書の閲覧、修正が似た順序で繰り返されている。間隔は少しずつ違うが、自動バックアップや単純な入力ミスでは説明しにくい数の行が残っていた。
「人の一日のように見える繰り返しはあります。でも、その時刻のシャーレの入退室記録は空白です」
「生活パターンに似た記録はありますが、入退室記録とは一致しません」
「それ以上は決めないでおこう」
リオは原本に触れず、説明できない不一致として封印された調査資料に加えた。
シャーレの椅子とマグカップは、そのまま残っていた。だが、残されたのは物だけではない。記録は、先生がいない間も、その人の一日をまねていた。
リオはその痕跡を「先生」とは呼ばなかった。誰のものなのか、まだ確認されていなかったからだ。