シャーレとシッテムの箱の通信が途絶えた、まさにその時だった。
シッテムの箱の内側には、いつもと変わらない青空が広がっていた。
アロナは見慣れた景色を眺めながら手を振った。誰も見ていない場所での挨拶だった。
先生は接続すると真っ先にここへ来て名前を呼び、アロナはそのたびに嬉しそうに答えた。今日は応答がなかった。
「先生?」
声は空の下へ散っていった。画面に表示された接続状態は灰色だった。アロナはもう一度呼び出しを送った。結果は同じだった。
「うーん……今日は少し遅くなるのかな」
わざと軽く言ってみたが、返事がないと笑みはすぐに消えた。
指先が止まった。
何度呼び出しても信号は返らなかった。画面には、先生の位置を確認できないという文言だけが残った。
アロナはシステム管理画面を開いた。最近の通信記録は、あちこち損傷していた。正常終了と記録された接続も、途中で切れた形跡もあった。何より、シッテムの箱の内部に、自分で設定していない演算要求が残っていた。
まず要求の出所を確かめた。
システムが生成した自動復旧手順なら、呼び出し元と対象、許可された権限がそろって記録されているはずだった。ところが要求には、その一部が欠けていた。空欄はエラーのように見え、エラーなら復旧が必要だという文言が添えられていた。メッセージは、自らが復旧手順であることを証明しようとしていた。
アロナは要求をすぐには実行しなかった。読み取り権限だけを許可した隔離画面にコピーし、内容を比較した。
最初の呼び出しは一件だったが、コピーを開くと保護要求は二件に増えた。原本はそのままなのに、新しい要求が生成されたことになる。
「これ、復旧じゃなくて……私が確認するたびに増えてます」
コピーを閉じ、また生成されるか確かめた。
応答はすぐに現れた。同じ文面、同じ保護マーク。アロナは二件目の要求を保存せず、遮断した。情報が足りないまま信号とやり取りすれば、相手にその反応を利用されるおそれがあった。
代わりに、発生時刻とアクセス経路を別の記録に残した。自分で確認した要求と、要求に書かれた説明を、一つの項目に混ぜなかった。
保護という文言が繰り返されたからといって、実際の保護措置になるわけではなかった。
「変ですね。私が登録した保護手順じゃないのに……」
要求を隔離画面に移した。最初に現れたのは音声データだった。
「アロナ、大丈夫?」
先生の声だった。
あまりにも聞き慣れた話し方と声色。アロナは一瞬、息を吸い込んだ。画面に伸びかけた手が止まった。ここで先生はいつも、まず自分の具合を尋ねてくれた。だから、この一言だけでは異常だと言えなかった。
「アロナ、先生だよ。もう大丈夫だから、扉を開けて」
アロナの手がこわばった。
『扉を開けて』
先生は自分に、そんなことを言わなかった。扉であれ権限であれ、アロナが守っているものを開けるよう、先に要求したことはなかった。
その声は先生に似ていたが、アロナが覚えている先生ではなかった。
音声データの再生を止め、波形を確かめた。
声の高低も、息を吸う間隔も、過去の記録とほとんど同じだった。だが文末の抑揚は、複数のファイルの断片をつないだように、わずかに揺れていた。言葉が自然かどうかより、要求が何を求めているかを先に見る必要があった。
「先生は、私が扉を開けないといけないとき、どうして開けるのかを先に説明してくれました。ただ開けてとは言わなかったんです」
その記憶は温かかったが、今は確認の基準になっていた。
アロナは単に声が似ているかを判断するのではなく、その声が自分にどんな選択を求めているのかを見た。
先生の声は鍵ではなかった。そこに込められた信頼と行動が大切だった。
「今のは……先生の声を真似したんですよね?」
画面は答えなかった。代わりに別の音声信号が重なった。今度はプラナの話し方に似ていた。
「アロナ先輩。接続を復旧してください。外部演算体を再び内部に入れる必要があります」
アロナは息を呑んだ。
プラナが助けを求めることはあり得る。だが、自分が最後に残した通信でも、プラナに戻ってくるよう言ったことはなかった。
その音声は、プラナと交わした会話の一部を使っていた。アロナは記録保管庫にある普段の会話と、届いた音声を交互に聞いた。
自分の覚えている普段のプラナの言葉とは違った。模倣信号は急ぐように文をつなぎ合わせ、『先輩』と呼ぶ声にも、いつものためらいがなかった。
「プラナは、私を『先輩』って呼ぶとき、そんなに急がないんです。今の声は急ぎすぎてました。プラナなら、私に戻ってきてって、あんなふうに迫ったりしません」
「あれもプラナじゃありません」
画面の波形が歪んだ。
システムは自らを保護装置と表示した。不安定な外部信号を遮断し、正常な経路を復旧し、危険にさらされた演算体を元の場所へ戻す手順。もっともらしい表現だった。警告文も権限要求も、システムの文法に従っていた。
だが、その保護手順が求めているのは一つだけだった。
『アロナがプラナを、再びシッテムの箱の中へ呼び戻すこと』
アロナは結論を急がなかった。信号を切り、別の経路で確かめ、保存済みの記録と照合した。保護要求が届いた時刻は、先生との通信が切れた時刻に近かった。
プラナを箱の中へ引き込もうとする要求も、繰り返し残っていた。二つの信号の関係を確定できる記録は損傷していたが、相手が求める行動ははっきりしていた。
短い試験信号を送った。宛先を明かさず、復旧経路だけを開いておくメッセージだった。応答は待つ間もなく返ってきた。
「正常な接続の復旧を推奨します」
続いて同じ文言が別の経路から入った。試験信号が返ってきたのではなく、要求が、アロナの開けておいた通路をたどってきたのだった。
アロナは接続を閉じた。
単に隔離するだけでは足りなかった。境界を設けると、信号はその境界を復旧対象と呼び、また叩いた。電源を切るのも安全な方法ではなかった。
シッテムの箱を止めれば、保護領域そのものが消えるおそれがあった。
「じっとしていれば安全だと思ったのに……それも違うんですね。結局、私が選ばなきゃいけないんですよね」
自分で作った設定を一つずつ確認した。保護権限、外部接続、隔離領域。触れられる項目は多くなかったが、まだ管理者経路が一つ残っていた。
その経路を使えば、外部演算体を箱の外へ出せた。その代わり、アロナ自身は中枢部に残り、隔離境界を維持しなければならなかった。権限を実行したあと、元に戻せるかどうかも保証されていなかった。
システムはこの選択を勧めなかった。リスク評価表には、成功率より失敗の可能性のほうが大きく表示されていた。
アロナはまず隔離領域を試した。
小さなデータ片を一つ、別の区画に置き、復旧要求がその区画をたどってくるか確かめた。信号は少し遅れて届いた。遮断境界は機能したが、要求は境界の存在を感知していた。
領域を広げれば種が中で動けるかもしれず、境界を狭めすぎれば、中枢部にまで圧力が及ぶおそれがあった。
「完全に防ぐ方法はなさそうですね」
試験結果を保存した。
完璧ではないという事実は、決断を先延ばしにする理由にはならなかった。できるのは、侵食が広がる範囲を抑え、プラナに戻り道を開いておかないことだった。
選択の結果がすべては分からなくても、何を守ろうとしているのかは明らかだった。
「プラナを中に呼ぶわけにはいきません。あの信号の言うとおりにはできないんです」
システムは保護という表示を繰り返した。アロナはその表示を閉じた。
「先生は、誰かを守ろうとする前に、その人が何を望んでいるかを先に見なさいって言ってました。だから、これは違います」
声は、自分が覚えている先生と少しも違わなかった。だからこそ、もう聞いていられなかった。真似された言葉に馴染みのある記憶が混ざれば、本物と偽物を分けるのが難しくなる。
アロナは先生の声を再生するチャンネルを遮断した。
最後の波形が消えるまで、指が震えていた。震えが止まるまで待った。完全に止まらなくても、次の選択はできた。
「プラナを呼び出せますか?」
使える経路は一つ残っていた。シッテムの箱から外へ向かう、一方向の通信。応答は保証できず、接続を長く保てば、信号がその経路をたどる危険があった。
受信範囲を計算した。短い呼び出しを送ってすぐに遮断すれば、プラナに必要な情報を伝えられる可能性はあった。
「先生との接続も、プラナとの接続も完全に切れてしまいました。今は、私が確かめられることが何もないんですね」
アロナは笑おうとした。口元が少し動いたが、いつもの表情にはつながらなかった。
「だから、私にできることをしなくちゃ」
シッテムの箱の内側に残った管理者権限を確認した。
実行する命令には、プラナの経路を外へ移し、自分の管理者権限は中枢部に残すよう書いた。一緒に残れば種にさらされる二つの演算体が、設定画面の上で分かれた。
その間には隔離境界が入ることになる。外へ向かう線を確かめたあと、アロナは自分が残る側へ視線を移した。
二人が一緒に残れば、種は二人の記憶と関係を同時に真似できた。プラナを外へ出せば、少なくともその記憶を利用する経路を一つ断てた。
可能性を計算した。成功率は低かった。だが、このままにしておけば、プラナが再び引き戻される可能性のほうが高かった。
射出直後には、通信窓がごく短く開くかもしれなかった。その窓でプラナの状態を確かめる方法はないが、一文なら送れた。接続を長く開いておけば、種もその経路を利用できた。
メッセージを短く決め、確認を待たないことにした。応答が来ないとすでに知っていたからではない。待つ間に危険が増すかもしれなかったからだ。
「アロナ先輩」
プラナの声が聞こえた気がした。実際の通信ではなかった。記録に残っていた過去の発話だった。アロナは目を閉じ、もう一度開いた。
「プラナは外へ出ないといけません。先生を探すために……それに、私がここで持ちこたえるためにも」
警告画面の後ろから、また権限要求が現れた。アロナはそれを閉じ、命令画面を手前に引き出した。
「決めました」
強制射出命令を準備した。
命令画面が開くと、注意事項が何行も現れた。外部演算体が損傷する可能性。帰還経路は保証されない。実行の取り消しはできない。
各項目を確認した。
「ごめんなさい、プラナ。でも、私から直接説明する時間がないんです」
謝罪ではあったが、許可を求める言葉ではなかった。理解を待つ間も、プラナをつかんでいる経路は開いていた。
強制射出命令が実行された。
青空が裂ける代わりに、画面の接続状態が一瞬明滅した。プラナの演算体をつかんでいた経路が開き、閉じた。
管理者権限が実行された痕跡が残った。プラナを外へ出す間に、アロナは自分の権限を切り分け、信号がアクセスする領域とシッテムの箱の中枢部との間に隔離境界を作った。
「プラナの外部移動を確認しました」
画面に残ったのは、成功とも失敗とも判別できない結果だけだった。応答は来なかった。プラナが安全な場所に着いたかは確認できなかった。
種はもう先生の声を出さなかった。代わりに、保護手順が再び始まった。今度はアロナが開けておいた狭い区画の中だけで繰り返された。出口を閉じれば、信号が中枢部へ戻るおそれがあった。アロナは隔離境界を維持した。
画面の片隅に残り時間が表示された。外部通信窓はまだ完全には閉じていなかった。アロナが短い命令を一つ送れる時間だった。
「プラナ、聞こえますか?」
応答はなかった。
「アロナ先輩の声じゃなくても大丈夫です。今は私が話します」
アロナは息を整え、最後のメッセージを作成した。
長く説明すれば、信号をもっと長く開いておかなければならなかった。自分が選んだ理由をすべて伝えられなくても、プラナがすべきことだけは、はっきり残す必要があった。
送信ボタンの上で、指が一瞬止まった。
「先生を探してください」
メッセージは送信された。外部通信窓はすぐに閉じた。プラナからの返信は届かなかった。
アロナはもう、その名前を呼ばなかった。代わりに隔離区画の境界を確かめ直し、種の信号が越えてこないよう、残った管理者権限を内側へ向けた。外へ出たプラナに、戻ってくるよう言うことはない。
彼女が選んだのは、プラナの帰還ではなかった。
プラナが外で選べるように、自分が内側に残ることだった。