英雄の条件   作:ごろうまるし

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はじめまして、またはいつもありがとうございます。

新作『英雄の条件』の第一話です。
先に一話だけ置かせてください。

現在連載中の『温泉恐竜は家に帰る』が完結するまでは、そちらを優先します。
本作の続きは、その後に始める予定です。

結末までのプロットはできていますので、間は空きますが戻ってきます。

感想や気になった点をいただけましたら、続きを書くときの参考にさせていただきます。


第1話 灰色の日々

 公園の時計が、午後一時を指していた。

 

 砂場の向こうで、景色が歪んでいる。陽炎に似ていたが、十月の薄曇りの空の下で陽炎が立つはずはなかった。歪みは見る間に厚みを持ち、ビルの三階ほどの高さがある何かになって、ブランコの支柱を踏み潰した。

 

 悲鳴が上がった。

 

 駆けつけた警察官が拳銃を抜き、三発撃った。弾は確かに当たった。それは振り向きもしなかった。

 人が逃げていく。ベビーカーを押す母親が、犬を抱えた老人が、手をつないだ子供たちが、公園の出口へ殺到する。

 その流れに逆らって、男が二人立っていた。

 どちらも三十代半ばで、どこにでもいる格好をしている。一人は黙って怪物を見上げ、もう一人は自分のスマートフォンを見ていた。

 

「岳人」

「ああ」

「これ、本当にやるのか」

「他に誰がやる」

 

 一本だけ立つ欅の根元に、女の子がしゃがみ込んでいた。足がすくんで動けないのだろう。怪物の影が、ゆっくりとそちらへ伸びていく。

 岳人と呼ばれた男が、画面に触れた。

 足元から炎が上がった。熱はない。赤い光が脚を、胴を、腕を覆い、狼の顔をした装甲になって閉じる。隣では水が渦を巻いて立ち上がり、青い竜の輪郭を作っていた。

 

 《火狼》

 《水竜》

 

 二つの画面に、同じ書体でそう表示されていた。

 赤い狼が一歩踏み出し、低く呟いた。

 

「今度こそ」

 

 青い竜は何も訊かず、隣に並んだ。

 

「行くぞ」

「おう」

 

 二人は同時に地面を蹴った。

 

◇

 

 ――時は、少し遡る。

 

 午後十時を回るころになると、コンビニを訪れる客の顔ぶれは少しずつ変わっていく。

 夕食の弁当を買って帰る会社員や、塾帰りらしい学生の姿が減り、その代わりに酒を求める客が増えてくる。缶ビールを二本だけ買って足早に帰る男もいれば、籠いっぱいに缶チューハイを放り込み、つまみの棚の前で長々と悩む若者もいる。駅から住宅街へ抜ける道沿いにあるこの店では、終電が近づく時間になっても客足が完全に途切れることはなく、自動ドアが開くたびに冷え始めた十月の夜気が店内へ流れ込んできた。

 

「六百八十七円です」

 

 火神岳人は弁当とペットボトルの茶をレジ袋へ収め、端末に表示された金額を読み上げた。目の前にいるのは五十代くらいの会社員で、ワイシャツの襟元には一日働いた人間特有のくたびれ方があり、緩められたネクタイもわずかに曲がっている。男は無言でカードを端末へかざし、会計が終わると袋を受け取りながら、ようやく小さく「ありがとう」と言った。

 

「ありがとうございました」

 

 自動ドアが開き、男の背中が暗い歩道へ消えていく。岳人はその姿を見送ってからレジ横の時計へ目をやったが、時刻はまだ二十二時十二分だった。退勤まで三時間近くあり、やることも残っている。レジ前の菓子を補充して、宅配便の伝票を整理し、日付が変わる前には廃棄商品の確認もしなければならない。

 

「岳人」

 

 隣から、妙に深刻そうな声がした。

 何事かと思って振り向くと、水城遼がホットスナックケースを覗き込み、眉間に皺を寄せていた。

 

「肉まんが一個死んでる」

「勝手に殺すな」

「いや、これはもう駄目だろ。見てみろよ。皮カッピカピじゃん。何時間ここにいるんだ、こいつ」

「廃棄時間を見ろ」

「見たよ。あと八分」

「じゃあまだ商品だ」

「余命八分だぞ」

 

 遼は今年三十六歳になるが、実際の年齢よりいくらか若く見られることが多い。染めているわけではないのに少し茶色がかった髪と、よく動く表情のせいだろう。黙って立っていればそれなりに整った顔をしているのだが、本人に黙っているという習慣がほとんどないため、その利点が生かされる機会はあまりなかった。

 

「商品に感情移入するな」

「冷たい男だな。八分後には廃棄される命だぞ」

「お前が食えばいいだろ」

「なるほど」

 

 遼は妙に納得した顔で手を叩いた。

 

「俺が救えばいいのか」

「金は払えよ」

「ヒーローから金取るの?」

「誰がヒーローだ」

「俺」

 

 即答だった。

 岳人は何も言わず、レジ脇に積まれていた宅配便の伝票へ視線を落とした。そういう冗談は珍しくない。遼自身、笑い話として使うことに慣れているし、岳人も普段なら適当に流す。

 しかし、その日は遼が少し間を置いてから付け加えた。

 

「……元、だけどな」

 

 岳人の手が、ほんの一瞬だけ止まった。

 遼がそれに気づいたかどうかは分からない。ちょうど自動ドアが開き、二人連れの大学生らしい客が入ってきたからだ。遼はすぐにいつもの表情へ戻り、「いらっしゃいませー」とよく通る声を店内へ響かせた。

 岳人も続けて挨拶をする。

 勤務の時間は、そうやって過ぎていく。商品の補充をして、レジを打ち、公共料金の支払いを受け付け、宅配便を預かり、コーヒーマシンの周囲を掃除する。誰かが飲料棚から一本抜けば奥から一本押し出し、弁当が売れれば空いた場所を詰める。仕事量は決して少なくないし、覚えることも多い。客の流れを見ながら複数の作業を並行して処理するには、それなりの要領も必要だった。

 

 岳人はこの仕事を嫌ってはいなかった。真面目に働けば給料が出るし、誰かに迷惑をかけるわけでもない。商品を探している老人がいれば案内し、コピー機の使い方が分からない客がいれば教える。酔客の吐瀉物を片づけなければならない夜もあれば、子供が落とした財布を預かって親が取りに来るまで保管する日もある。どんな仕事にも必要とする人間がいて、やる以上はきちんとやるべきだと岳人は思っている。

 ただ、明日もおそらく同じことをする。来週も、来月も、大きくは変わらない。そのことを考え始めると、胸の奥に何とも名前を付けにくい重さが残った。

 

 二十三時を少し回ったころ、酒の匂いをまとった二人組の男が店へ入ってきた。

 自動ドアが開いた瞬間、岳人はレジから顔を上げた。二人とも二十代後半くらいで、一人は黒いパーカー、もう一人は紺色のスーツ姿だった。駅前でかなり飲んできたらしく、店内へ入った時点ですでに声が大きい。

 

「だから、お前が悪いって言ってんだろ」

「うるせえな。知らねえよ」

「知らねえじゃねえよ。お前が余計なこと言ったからだろうが」

 

 言い争いをしながら酒の棚へ向かっていく。

 品出しをしていた遼も気づき、少し離れた場所から岳人を見た。岳人は目を合わせると、わずかに首を横へ振る。声が大きいというだけなら、まだ店員が介入する必要はない。酒の入った客同士が口論することなど、この時間帯には珍しくなかった。

 岳人が見ていたのは別のところだった。

 

 黒いパーカーの男は、数秒おきに右手を握っている。強く拳を作っては開き、また握る。その一方でスーツ姿の男は相手と目を合わせる時間が短く、何度も出口へ視線を送っていた。肩も少しずつ相手から離れる方向へ向いている。

 一人は喧嘩をしたい。もう一人は帰りたい。

 

「だから謝れって言ってんだよ!」

 

 予想したほど長くはもたなかった。

 黒いパーカーの男がスーツ姿の男の肩を強く突き、押された男の背中が菓子棚へぶつかった。吊り下げられていた袋菓子がいくつか外れ、軽い音を立てて床へ散らばる。

 岳人はその時点でレジを出た。

 

「お客様」

「あ?」

「店内での揉め事は困ります。続けるなら外へ出てください」

「関係ねえだろ」

「店内なので関係あります」

 

 岳人は声を荒らげなかった。怒鳴れば相手も興奮するだけだと知っているし、酔った人間に理屈を長々と説明しても意味はない。必要なのは、こちらが怯えていないことと、これ以上は許さないという線だけを伝えることだった。

 男が岳人へ向き直る。

 岳人は正面には立たず、わずかに身体をずらした。

 利き手は右。肩だけが前へ出ている。腰は引けている。酔いで重心が高く、足元も安定していない。喧嘩慣れした人間の立ち方ではなかったが、それで安全というわけではない。むしろ酒の入った素人の方が、自分でも予想していない動きをすることがある。

 

「おい、店員」

 

 男が距離を詰めてくる。

 岳人は動かない。

 

「警察呼ぶぞ」

 

 少し後ろから遼の声がした。

 いつの間にか岳人の背後から斜めに離れた位置へ移動し、スマートフォンを手にしている。もし男が岳人へ向かえば遼は巻き込まれず、逆に遼へ向かえば岳人が間へ入れる。昔から遼は、こういう場面で人の邪魔になる位置には立たなかった。

 

「呼べよ!」

「じゃ、呼びますね」

 

 遼は本当に画面を操作し始めた。

 

「待てって」

 

 慌てたのはスーツ姿の男だった。そのまま出口へ向かおうとするが、黒いパーカーの男はそれを見てさらに頭へ血が上ったらしい。

 

「おい!」

 

 追いかけようとした男の進路へ、岳人が身体を入れた。

 

「どけ!」

 

 右腕が伸びてくる。

 岳人には、その肩が動いた時点で分かっていた。

 半身になって腕をかわし、手首を取る。ただし強く引かない。関節を極めることもしない。伸びてきた腕の方向を少しだけ変え、自分の身体を入れ替えながら、相手の重心が崩れる方へ誘導する。

 

「うわっ……!」

 

 男の足がもつれた。

 岳人は転倒させないよう肘の辺りを支え、そのまま床へ座らせる。投げたわけではない。叩きつけてもいない。本人が前へ出した勢いと酔った足で立てなくなり、岳人は転ばないよう手を添えただけに近かった。

 

「な、何すんだよ!」

「何もしてません」

「してんだろ!」

「立てますか」

 

 岳人が手を離すと、男は怒りに任せて勢いよく立とうとした。岳人は一歩下がっただけだったが、男は自分の足に引っかかり、今度は床へ片手をついた。

 

「危ないですよ」

「てめえ……!」

「警察、呼びます?」

 

 遼の声から、さっきまでの軽さが消えていた。

 男が振り向く。

 

「防犯カメラ、全部映ってますよ。最初に連れの人の肩を押したところから、店員に手を出したところまで。今なら帰ってもらうだけで済むと思いますけど、続けるなら本当に呼びます」

 

 黒いパーカーの男が反射的に天井を見た。

 監視カメラがある。

 自分が何をしていたか、酔った頭でも少しずつ理解し始めたのだろう。さっきまでの勢いがわずかに削がれた。

 岳人はその変化を見逃さなかった。

 

「今日は帰ってください。今なら、友達と一緒に帰ってもらうだけで済みます」

 

 数秒の沈黙があった。

 男は何か言い返そうとして口を開いたものの、結局は舌打ちしただけだった。スーツ姿の男が何度も頭を下げ、床へ落ちた菓子まで拾おうとするのを岳人が止める。

 

「すみません。本当に」

「大丈夫です。こちらでやります」

「こいつ、普段はこんなんじゃなくて……」

「分かりました。今日はもう飲ませない方がいいですよ」

「はい……すみません」

 

 二人が店を出ていく。

 自動ドアが閉じ、外へ出た二人の声も遠ざかっていくと、店内には冷蔵ケースの低い駆動音と、店内放送だけが残った。

 岳人は何事もなかったようにしゃがみ込み、床へ散らばった菓子を拾い始めた。遼も隣へしゃがみ、破損していない袋を選んで棚へ戻していく。

 

「相変わらずだな」

「何が」

「今のだよ。普通のコンビニ店員は、酔っ払いが手を出してきたらあんな綺麗に座らせない」

「殴りかかってきてない。押そうとしただけだ」

「三秒で無力化しておいて、そこ訂正する?」

「勝手にバランスを崩しただけだ」

「はいはい」

 

 遼はポテトチップスの袋を棚へ戻しながら、閉じた自動ドアの向こうをちらりと見た。

 

「あいつ、半分芝居だったろ」

「芝居?」

「連れが見てるときだけ声でかくなってた。悪態つくたびに相手の顔見てただろ。で、カメラ見た瞬間に素に戻った」

 

 岳人は、男が天井を見上げたときの顔を思い返した。勢いが削がれたことには気づいたが、それ以前から何をしていたかまでは見ていなかった。

 

「……気づかなかった」

「観客が変わると続けらんないんだよ、ああいうの」

 

 遼は軽く自分の胸を指した。

 

「元プロだぞ」

「元俳優がコンビニで役に立ったな」

「お前、もうちょっと言い方ない?」

「褒めてる」

「絶対嘘だろ」

 

 遼は呆れたように笑い、最後の菓子を棚へ戻した。

 

「警察辞めて何年だっけ」

「四年」

「四年か。それでも身体は覚えてるんだな」

「忘れるようなもんじゃない」

「俺なんて一年アクションやらなかっただけでガチガチになったぞ。昔は開脚百八十度いけたのに、今じゃ前屈しても床に指が届くか怪しい」

 

 遼は立ち上がりながら腰を伸ばし、本当に少し顔をしかめた。

 

「歳だろ」

「お前、この前の幸田先生と同じこと言うなよ。先生にも『お前も歳だな』って言われたんだから」

「三十六なら言われるだろ」

「お前、来年同じだからな」

「知ってる」

「夢がねえなあ」

 

 遼は笑ったが、整えられた棚を眺めているうちに少しだけ表情を変えた。

 

「……もったいないよな」

「何が」

「お前だよ。今みたいなの見るとさ、やっぱ警察向いてたんじゃねえのって思うよ。誰も怪我させず、あの酔っ払いも逮捕されずに済ませた。俺だったら最初から一一〇番して終わりだ」

「それでいいんだよ」

「でも、お前はできるじゃん」

「できることと、向いてることは違う」

 

 岳人の声がわずかに硬くなる。

 遼はそこで止めた。

 

「そっか」

 

 それだけ言ってから、すぐに口元を緩める。

 

「じゃあ俺も、俳優に向いてなかったから辞めたってことにしとくか」

「勝手にしろ」

「冷てえな」

 

 岳人は答えなかったが、そのまま話題を変えてくれたことには内心で感謝していた。

 

◇

 

 休憩室は、男二人が向かい合って座ればそれだけで狭く感じる。

 二人掛けのテーブルと椅子、壁際のロッカー、小さな冷蔵庫と電子レンジ。壁には来月分のシフト希望表が貼られ、誰かが置いていった菓子の箱が冷蔵庫の上に積まれている。華やかさとは縁のない、どこのコンビニにもありそうな従業員用の空間だった。

 午前零時前。

 遼が先に休憩へ入り、岳人は十分ほど遅れて交代した。

 

「お疲れ」

 

 ドアを開けると、遼はスマートフォンを眺めながら肉まんを食べていた。

 岳人は一度それを見てから椅子を引く。

 

「救ったのか」

「何を?」

「肉まん」

「ああ、あいつか」

 

 遼は手元を見て、少し悲しそうな顔を作った。

 

「救えなかったよ」

「食ってるだろ」

「これは供養だ」

「そうか」

「もっと早く気づいてやればな。まだ温かいうちに……」

「廃棄品にドラマを作るな」

 

 岳人は向かいの椅子へ腰を下ろし、買っておいた水の蓋を開けた。

 遼のスマートフォンから、小さな拍手とフラッシュ音が聞こえてくる。

 

『――来年公開予定の映画で初主演を務めることが発表されました』

 

 芸能ニュースだった。

 若い男が大勢の報道陣を前に笑っている。

 岳人にも見覚えがあった。名前までは思い出せないが、以前に遼が話していた俳優だったはずだ。

 

「知り合いか」

「昔な」

 

 遼は肉まんを食べながら答えた。

 

「アルディオンの次の番組でサブやってた奴。俺より七つ下だったかな。昔はよく一緒に飯食ったよ」

 

 画面の中の俳優は、何十台ものカメラへ囲まれていた。主演映画への意気込みを尋ねられ、少し緊張した笑顔で『ようやくスタートラインに立てた気持ちです』と答えている。

 

「スタートラインだってよ」

 

 遼が笑った。

 

「三十過ぎて映画主演して、そこをスタートラインって言えるんだからすげえよな」

「売れてるんだろ」

「売れてるねえ。去年ドラマ三本。CM四本だったかな。海外の映画祭にも行ってるし、今度これで主演だろ。事務所も相当押してる」

「詳しいな」

 

 何気なく言ったつもりだった。

 しかし遼の指が一瞬止まる。

 

「……まあな」

 

 すぐに動画を閉じた。

 岳人は何も言わず、自分のスマートフォンを取り出した。

 通知欄の上に、普段はほとんど開かないグループの新着が表示されていた。

 警察学校の同期で作ったグループだった。

 退職してから通知を切っている。抜けようと思ったことは何度かあったが、結局そのまま残していた。

 未読が二十件ほど増えている。

 岳人は何気なく開いた。

 

『昇任おめでとう!』

『ついにか!』

『今度集まったとき奢れよ』

 

 祝いの言葉が並び、その間に一枚の写真が貼られていた。

 見覚えのある男が、照れくさそうに笑っている。

 同期だった。

 同じ年に採用され、同じ警察学校で学び、一時期は同じ所轄にもいた。若いころは勤務が終われば一緒に飯を食い、どちらが先に昇任するかと冗談を言い合ったこともある。

 岳人は画面を少しだけスクロールした。

 

『火神どうしてる?』

 

 途中に、自分の名字があった。

 その問いには誰も答えていない。

 岳人も答えなかった。

 画面を閉じる。

 

「知り合い?」

 

 遼が訊いた。

 

「同期」

「出世?」

「まあ」

「そっか」

 

 遼はそれ以上訊かなかった。

 岳人は水を一口飲んだ。テーブルの端には、遼が食べかけた肉まんが置かれている。電子レンジの時計は午前零時三分を示していた。

 

「なあ」

 

 しばらくして、遼が口を開いた。

 

「俺ら、結構すごくない?」

「何の話だ」

「元警察官と元ヒーロー俳優が、深夜のコンビニで向かい合って肉まん食ってんだぞ。設定だけ聞いたらドラマ一本作れるだろ」

「俺は食ってない」

「そこ重要?」

「お前しか食ってない」

「じゃあタイトルは『元警官と肉まん』」

「絶対見ない」

「俺も見ないわ」

 

 遼が吹き出した。

 岳人も、ほんの少し口元を緩める。

 やがて遼は最後の一口を食べ、空になった袋を丸めた。

 

「俺さ」

「ん?」

「たまに検索すんだよ」

「何を」

 

 遼は少し言いづらそうにしたあと、苦笑した。

 

「自分の名前」

 

 岳人は黙って続きを待った。

 

「『水城遼 現在』とか、『水城遼 引退』とか。たまに検索候補に『水城遼 死亡』まで出てくる」

「死んでるじゃないか」

「ネット上では三回くらい死んでる」

「忙しいな」

「だろ? 一回なんか『海外移住』って書かれてたぞ。俺、その日ここでおでん売ってたのに」

 

 遼は笑った。

 

「それでも、たまにいるんだよ。覚えてる奴。『アルディオン好きだった』とか、『今でも一番好きなヒーローです』とか。昔の映像を切り抜いて上げてる奴もいる。中には『水城遼もっと売れると思ってた』とか書いてる奴もいてさ」

「いいじゃないか」

「うん。嬉しいよ」

 

 遼は丸めた袋を指先で転がした。

 

「嬉しいから、余計にな」

 

 岳人の脳裏に、古い表彰状が浮かんだ。

 上司に肩を叩かれた感触も覚えている。助けた人間から届いた礼状を、母親が何度も読み返していたことも。

 それより後に起きたことを思い出しかけて、岳人は水のボトルをテーブルへ置いた。

 

「戻るぞ」

「現実に?」

「レジに」

「もっと嫌だな」

「給料出るぞ」

「じゃあ戻るか」

 

 二人は休憩室を出た。

 

◇

 

 午前一時過ぎ。

 勤務を終えた二人は店を出た。

 十月の夜は、昼間よりずっと季節の進みが早く感じられた。制服の上に薄手の上着を羽織っていても、店内の暖かさに慣れた身体には空気が少し冷たい。

 駅とは反対方向へ、二人は並んで歩く。

 昼間なら人通りの多い道も、この時間には静まり返っている。時折タクシーやトラックが通り過ぎ、そのたびに街灯の下で二人の影が伸び、また縮んだ。遠くから電車の走る音が聞こえたが、それも建物の向こうへ消えると、あとは靴底が舗装路を踏む音だけが残った。

 

「明日何時?」

 

 遼が訊く。

 

「十七時」

「俺も」

「知ってる」

「俺のシフト見てんの?」

「店長が貼ってるだろ」

「俺のこと好きなんじゃない?」

「気持ち悪いこと言うな」

「そこまで言う?」

 

 いつもの調子で話しながら歩いているうちに、二人がそれぞれの家へ向かう道が分かれる交差点が見えてきた。

 信号は赤だった。

 道路の向こうには閉店したクリーニング店があり、シャッターに残された古いポスターの端が夜風でかすかに揺れている。

 遼がふと口を開いた。

 

「さっきの話だけど」

「どれだ」

「警察」

 

 岳人は前を向いたまま、続きを待った。

 

「戻りたいと思わないの?」

「戻れない」

「戻れるかじゃなくてさ。戻りたいか」

 

 岳人はすぐには答えなかった。

 制服を着て街を歩いていたころのことは、今でも覚えている。困った人間がいれば声をかけられ、事件が起きれば現場へ向かった。名前も知らない相手から「お巡りさん」と呼ばれ、自分が行けば何とかしてくれると期待される。その重さを苦しいと思ったこともあったが、誇らしく思っていた時期の方が長かった。

 そして、最後に救えなかった一人のことも覚えている。

 判断は間違っていなかった。

 規則にも反していなかった。

 後の検証でも、大きな過失は認められなかった。

 それでも、一人死んだ。

 

「……分からん」

 

 岳人はそれだけ答えた。

 

「そっちは?」

「俺?」

「俳優。戻りたいのか」

「戻れるなら戻りたいよ」

 

 遼の答えは早かった。

 やがて信号が青へ変わり、二人は横断歩道へ踏み出した。何本か白線を越えたところで、遼が「ああ、でも」と小さく声を漏らした。

 

「違うな」

「何が」

「俳優に戻りたいっていうのとは、ちょっと違う」

 遼は歩きながら、ゆっくりと言葉を探した。

「売れたいのかって言われたら、そりゃ売れたいよ。金も欲しいし、主演映画とか一回くらいやってみたかったし、街歩いてて気づかれたら嬉しい。そういうの全部ある。でも、それだけじゃないんだよな」

「じゃあ何だ」

「撮影所に行くとさ、俺を待ってる人がいたんだよ。衣装さんが俺のサイズに合わせた衣装を用意して、メイクさんが待ってて、監督が今日の段取り説明してくれて、アクション監督が『遼、ここ頼むぞ』って言う。イベントに出れば子供が名前呼んでくれて、握手しただけで泣くくらい喜んでくれる子もいた」

 

 遼はそこで少し笑った。

 

「俺がいないと撮影が始まらない日があったんだよ。まあ、本当は代役なんていくらでもいたんだけどさ」

「今だって店長がお前を必要としてるだろ」

「それ言われると思った」

「明日十七時」

「分かってるって」

 

 遼は笑い、それから少しだけ前を見たまま黙った。

 

「……もう一回、必要とされたいのかもしれないな」

 

 岳人は何も言わなかった。

 信号が点滅し始めたので、二人は少しだけ歩調を速めて横断歩道を渡り切った。

 そこで道が分かれる。

 

「じゃあな」

「ああ。また明日」

 

 岳人が右へ曲がり、遼が左へ向かう。

 数歩進んだところで、背後から声が飛んできた。

 

「なあ、岳人」

 

 振り返る。

 遼は交差点の街灯の下に立っていた。

 今度は笑っていなかった。

 

「俺たち、どこで間違えたんだろうな」

 

 岳人はすぐには答えられなかった。

 警察を辞めた日なのかもしれない。あの現場へ向かった日なのかもしれないし、もっと前なのかもしれない。もしあの日、別の判断をしていれば。もし別の場所に立っていれば。もしあと数秒早ければ。考え始めれば、分岐点はいくらでも作ることができた。

 

「知らん」

 

 結局、そう答えた。

 遼は少しだけ目を細めた。

 

「だよな」

「ああ」

「じゃ、明日」

「また明日」

 

 二人は今度こそ、それぞれの家へ向かって歩き始めた。

 岳人は振り返らなかった。

 十月の冷たい風が住宅街を抜け、街路樹の葉を揺らしている。少し離れた道路を一台の車が走り去り、その音が消えると、街はまた何事もなかったような静けさを取り戻した。

 岳人は歩きながら、先ほど遼に訊かれたことを考えていた。

 戻りたいか。

 分からないと答えた。それは嘘ではない。警察官へ戻りたいのかと訊かれれば、本当に分からなかった。

 ただ、もし警察官だったころへではなく、もっと正確に、あの日の少し前へ戻れるのなら。

 何が起こるのか知ったうえで、もう一度あの場所に立てるのなら。

 今度は違う結果にできるのではないか。

 そんな考えが頭をよぎった。

 岳人はすぐに打ち消した。

 過去には戻れない。

 だから考えても仕方がない。

 

 数分後には、その思考自体を忘れていた。

 

 

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