筋肉無双~みんなはいつも俺に笑顔を向ける~ 作:ビスケッチュⅡ世
もはや、それは、一つの終着点だった。
一切の雑念が消え、すべてを忘れ、ただ身体を沈め、持ち上げ続ける。
ジョーも、ムーンも、お互いのことなどとうに忘れていた。
腕立て伏せサドンデス。
起き上がれなくなれば、その時点で負け。
肉体レベルが同等で固定され、純粋に精神のみが勝敗をわかつこの戦いで、
カウントが10000を超えるころ。
そこまでともに戦ってきた二人の身体が、完全に動きを止めた。
「……!!」
パイジィも、山賊たちも、息を呑む。
表情はまだ薄暗い森の中でよく見えないが、それでも眼だけはまっすぐ前を見つめている。
唇が真っ白になるほど歯を食いしばっているのがわかる。
ついた手の周りには既に血が滲んでいる。
始まる前に乾いていた地面は、ずいぶんと前に出尽くした汗が結晶化した塩と、血でぬかるんでいた。
腕の形もおかしい。骨などとうに折れているのだ。
いつの間にか夜は明けて、差し込む朝日に照らされる。
最後の一回。
相手が止まった以上、先にあと一回を出した方が勝つ。
デインが思わず叫ぶ。
「ムーンさん……!!あと一回で勝てる……勝ってくれ……!!!」
つられて、山賊たちも口々に叫ぶ。
みんな、地に伏したまま涙を流している。
それでも、ジョーの精神は強靭だった。
形のおかしい腕、動く道理のない腕。
既に疲労しきり、電気信号を受け付けない筋肉を、強大な意志で沈み込ませていく。
ギリギリまで沈み込んで、それでもなお、上り始めた。
「嘘だろ……このままじゃムーンさんが……負ける……」
それでもなお、ムーンは微動だにしない。
「……あ……!」
ジョーが、最後の一回を登り切るにつれて、朝日が射し込んでいく。
そうして、ムーンの顔が朝日に照らされたとき、みんなが理解した。
そこには、前を向いて不敵に笑う、ムーンがいた。
腕立て伏せの、起き上がった姿勢。
腕の骨ではなく、筋肉が硬直して身体を支えているだけの無様な姿。
そんな姿で、瞳孔の開ききった眼だけが、朝の光で煌々と輝いていた。
同時に、ジョーの腕が嫌な音を立てた。
その身体がついに支えを失い、地面に沈む。
「……ムーンさんの……負け……?」
うつむくデインに、ジョーが掠れ声で声をかける。
しかし、あまりにもか細いその声は、デインたちには届かない。
パイジィは駆け寄り、ジョーの口元に耳を寄せた。
それを、デインたちに伝える。
デインのひげ面の前に正面から立ち、堂々と顔を見て宣言した。
「ジョーさんが言ってる。この勝負は、相手より多く腕立て伏せをできた方の勝ちじゃない。先に沈んだ方の負けなんだと。最後までしぼりつくしてなお、立ち続けられた奴の勝利なんだと、最初に言っていた。」
「俺は最後の最後で沈んだ。だから、この勝負は、ムーンの勝ちだ、って」
デインはそれを聞き、驚いた顔をすると、
ややあって優しげな顔になり、ムーンに言った。
「勝ちましたね、ムーンさん」
全く意識のないムーンの口角が、誇らしそうに少しだけゆがんだ。
そうして、しばらく。
あまり嗅いだことのない匂いでムーンが目を覚ます。
固くなったパンをかじったとき、時折かすかに感じていた、香ばしく甘い本当のパンの香り。
貧民街で上から流れてきていた、体を包むように温かく食欲をそそるスープの匂い。
周りは簡易テントのようになっているようで、外からは談笑の声が聞こえる。
「良い匂い……」
起き上がろうとして腕をついたとき、鋭い痛みが身体を襲う。
バランスを崩したムーンは、そのまま倒れこんだ。
その音を聞きつけたのか、ひょいとパイジィが顔を出した。
「あ、起きたんですね。」
「お前……俺は……」
「まだ安静にしててください。ムーンさんはまだ動ける状態じゃないですよ」
「あの人……ジョーさんは?」
「ジョーさんの方はあの後30秒くらいで回復しました。ドン引きですね」
「そうか……じゃあ俺は、負けたんだな」
「いいえ、あなたは勝ちましたよ。」
「え?」
「”先に沈んだ方の負け”。ムーンさん、意識飛ばしても身体を起こしてたんです。」
パイジィはジョーの理屈を説明した。
ムーンはそれを黙って聞いていたが、ふと視線を落としたとき、重要な事実に気づいてしまった。
「……え」
「あ、そうですね、ごめんなさい。服を脱がせるのは私がやりましたから、心配しないでくださいね。」
「え、え、え」
「でも驚きましたよ、まさかムーンさんが――」
「――女性だったなんて。……まあ、お仲間の方はうすうす気づかれていたみたいですけど……」
「……終わりだ……俺……」
思わず敷いてある木の葉と草を集めたベッドに突っ伏してしまう。
……貧民街で生きるのは厳しい。
男でも力を持たなければ死ぬ世界で、女ならもっと舐められる。
だから、ムーンはこの秘密を仲間にすらずっと隠してきた。
幸い、スレンダーで隠し通せるくらいの体型だったのも大きかったが。
それが、それが、こんなところで露見するとは……
しばらくそうしていると、聞きなれた声がする。
「……パイジィさん、入ってもいいですか?リーダーの様子は……」
「ダメ。ムーンさんは女性ですよ、デインさん!心配なのはわかりますけど、あっち行っててください」
「うう……すみません……」
ぴしりと言い放つパイジィと、情けない声を出して引き下がるデイン。
ムーンが寝ている間にすっかり状況は変わってしまったらしい。
「すっかり仲良しになってるんだな」
「……あなたたちを許したわけじゃないです。でも……」
ぐう、とムーンのおなかが鳴る音。
「……私は、料理人ですからね。おなかがすいた人にご飯を作るのが仕事です。……ほら、冷めちゃいますよ」
ま、簡単なものしかできませんでしたけど、と言いつつ、
ずいずいと食器を押し付けるパイジィ。
木の器のスープからは香ばしい湯気が出ており、早く飲んでくれと身体がせがむのがわかる。
ムーンの腕は動かないので、パイジィがパンをちぎって口元にはこぶ。
もっちりとした焼きたてパンをちぎり、スープに浸す。
一口。パンの柔らかな甘味を、スープの塩気が引き立てている。
嚙みきるまでもなくほろほろと崩れるそれは、味をしっかり味わう前につい飲み込んでしまった。
二口、三口。
黙って食べ進める。
「……美味しいですか?」
優しく聞いてくるパイジィの声。
パンを飲み込む。
頬を伝う涙の理由はなんだろう。
返事をしたくて声を出そうとしたが、何も詰まっていないはずの喉からは、嗚咽のような音が漏れてくるだけだった。
「……ごめん、な……さい……」
それだけ言うと、ムーンは泣き始めてしまう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
パイジィは、ただ、それを黙って聞いていた。
と。
外からそんな空気をぶち壊す会話が聞こえてくる。
「スゲェ……!!ジョーさん!!!何やってんすか!?」
「トレーニングだ」
「に、人間の動きじゃねえ……アンタ、タコかなんかなのか……!?」
「柔軟性はケガをしないようにするのに必須だからな」
「そういうことを言ってんじゃねえんだけど……うわ!!!なんだその動き!!気持ちわりぃ!!」
焚火の火で影がテントに映るが、明らかにその影の動きはモンスターである。
ぎゃあという悲鳴に、笑い声。
ムーンとパイジィは思わず顔を見合わせて、笑い合った。