××年三月十日
チャールズフォード地区
それは、リアムが宝飾店に訪れた時と同じ頃。
ドアノブ。絨毯。窓ガラス。カーテン。照明。絵画。水差し。花瓶。
(たかが花を入れとくだけのもんに、随分とまあ……)
コンソールに置かれた花瓶を眺めて、エリオットは口の端で笑った。ブランドのロゴを押し当てただけで、ただの花瓶は途方もない価値を持つ。それは、美術的な価値とイコールではないが。
「奥様! 奥様、どうぞこちらを」
背中越しに聞こえてくるのは、メイド達が慌てふためく声。それに続いて小さく呻くような声がすると、それは段々とボリュームを上げ、そして悲痛さを増していった。
「おかしい……おかしいのよ……。うちの子じゃない! あんなの、うちの子じゃない!」
「奥様!」
メイド長の宥める声を聞きながら、エリオットは我慢できずに息を深く吐き出した。ヒステリックな女の声は、大嫌いだ。
エリオットがレッド議員の自宅に潜入したのは、二十分ほど前のこと。彼は警備のために自宅に派遣されていた刑事の中から手頃な人間を誘い出して拘束し、身ぐるみを剥いで変装した。
そして今、エリオットは、レッド議員の妻であるマレーナの部屋の前に居る。
(こりゃあ、思っていたよりヘヴィ~な……)
ドアを背に母親の悲痛な叫びを聞きながら、エリオットは廊下を隅々まで飾る美術品の数々を眺めて心を落ち着けようとしている。
母親のマレーナは娘のキャサリンが別人であることに気付いており、エリオットが到着した時には既に大荒れの状態だった。部屋にはメイドと母親だけで、レッド議員と娘の姿は別の場所にある。
(一先ず、娘の居場所は確認しとかねぇとな)
今もリアムの事務所に居るであろうキャサリンの事を思い出しながら、エリオットは胸に不快感を覚えた。中身が少女であると分かっていても、人形が動き回る様子は不気味だ。
やがて部屋の中の悲鳴が啜り泣きに変わった事に気付くと、エリオットはマレーナの部屋を離れて屋敷の奥へと向かった。
屋敷の廊下は、何処も美術品で埋め尽くされている。節操もなく、ただ置かれているだけのその様は、家主の性格を表しているようだ。
(まあ、つまり、見栄っ張りさんってことね)
壁を隙間無く埋める絵画を眺めて、エリオットはそれらに同情を覚えた。テーマもテイストもバラバラ。それに加えて、絵の表面は陽に焼けてしまっている。
レッド議員にとって、美術品そのものの価値は二の次なのだ。それに気付いた時、エリオットは同時に別の事にも気付いたが、彼は自分に嘘を吐いた。気付かなかったフリをしたのだ。
レッド議員と娘を探しながら、エリオットは屋敷の中を移動していく。その途中、彼はすれ違った警官から議員がダイニングに居ることを聞き出した。議員は、ムーア警部と一緒だという。
(なんか臭いんだよなぁ。あのオッサン)
ニュース映像で見たムーア警部の姿を思い出しながら、エリオットは無意識にスーツの胸ポケットを探る。だが彼が変装している刑事は喫煙者ではないらしく、胸には身分証と安物のペンだけ。
(そろそろ、どっかでヤニ入れないと持たな……)
廊下の角を曲がったところで、エリオットは驚きのあまり息を飲んだ。目の前には、見覚えのある金髪の美女が立っている。
(まあ、そうだわな。いるよな)
現れたセリアに軽く挨拶して、エリオットは何食わぬ顔で横を通り過ぎた。
「――ジェフリー・ゴールドストーン刑事」
暫く歩いたところで呼び止められて、エリオットは慌てて振り返る。彼は一瞬、今の自分の役名を忘れそうになっていた。
「なにかご用でしょうか?」
エリオットが声色を変えて返すと、セリアがヒールをカツカツと鳴らしながら歩み寄ってきた。
「あなた、夫人の部屋の警護を担当されていたのではなくて?」
「はい。所用を頼まれまして」
「所用? 夫人から?」
「いえ。メイド長です。夫人は、あのご様子ですからね……」
エリオットが視線を落として言葉を濁すと、セリアは急に何かを察した様子をみせた。刑事として優秀な勘の良さが、今は完全に裏目に出ている。
エリオットはさらに足をさりげなく動かして、急いでいる素振りを見せた。「ごめんなさいね。行って良いわ」というセリアの次の台詞が、彼の脳裏には既に浮かんでいる。
「そう。呼び止めてごめんなさいね。行って良いわ。ジェフ」
「では、失礼します」
胸を撫で下ろし、エリオットはクルリとセリアに背を向ける。
「――やっぱり、ダメ」
ガチャリという音。その直後にエリオットは違和感を覚えた。左手に、冷たい輪が掛けられている。
目を合わせると、セリアはニコリと笑った。
それから抵抗する間もなく、エリオットは傍にあった部屋に押し込まれていく。
「け、警部。こんなことは……!」
「もう無駄よ。フェイスレス。鼻につくから演技しないで」
「演技? なにを仰って」
「いい加減にして。引っ掻くわよ」
「ああ! ダメです! そんな! そんなあぁっ!」
ズルズルと引きずられていき、エリオットはバスルームに放り込まれた。
「――あ~。あれか、呼び名ね~。基本だわな」
トイレの便座の蓋に座って、エリオットはセリアの口にしていた「ジェフ」という愛称を思い出していた。最初に呼び止められた時はフルネームで呼んでいたことを思えば、いささか不自然だ。
エリオットの左手は手錠でトイレのパイプと繋がれていて、彼の顔は既に変装を解かれている。
「しかし、よく分かったね。俺って、そんなに下手かい?」
「おかしいと思ったの。目を見て話すから。ゴールドストーンはね、いつも私の『胸』に向かって話すのよ」
「あら~。あんたも苦労してんねえ~」
「おかげさまで」
笑顔で嫌味を言った後、セリアは僅かに眉を顰める。最後の言葉は八つ当たりでしかないという自覚があるのだ。
目を閉じて、髪を掻き上げる。その動作が完了するまでに、セリアは既に思考を切り替えていた。
「とにかく、帰宅したキャサリン・レッドが偽物である証拠が欲しいわ。そのためには、娘に会わないと」
「相変わらず、勘が良いな」
「あの様子では、ね。あれでは、まるで人形だわ。……ところで、本物の方はもう見つけているんでしょう? 当然に。そうよね?」
セリアの言葉に圧を感じながら、エリオットは目を逸らした。まさか本当に娘が人形になっているとは、セリアも考えていないだろう。それに、エリオットには迷いがあった。
娘が人形になっていることを知れば、セリアは此処につれてくるように求めるだろう。しかし、この家には、錯乱状態の母親がいる。人形が万が一にでも母親の目に触れれば、どうなることか――。
「その様子じゃ、見つかっているみたいね。今は、リアム君と一緒なのかしら?」
セリアは胸元からコンパクトを取り出す。それは化粧道具ではなく通信機器だ。
リアムからの着信が無いことを確認し、コンパクトを戻してから、セリアはゆっくりとエリオットに視線を向けた。
その視線の意味に気付かないエリオットではない。しかし、今の彼は、分からないフリをするのが得策だということにも気付いている。
「私が連絡をした時、彼は議員の娘について何も言わなかったの。今も、連絡がないわ」
「へえ~。嫌われちゃったんじゃな~い?」
セリアはムッとして、エリオットの鼻を摘まむ。
「いいから、居場所を、言いなさい!」
ぎゅうっと力を入れて鼻を摘まみ上げながら、セリアはエリオットに顔を近づけていく。
「こ~は。ほんらにちはづいはら、ひスしちゃうほ」
(訳:こ~ら。そんなに近付いたら、キスしちゃうぞ)
「したら殺すわ」
(こりゃあマジだな)
視界一杯に美女の顰めっ面が広がるのを心地よく感じながら、エリオットは笑った。それから彼は左腕の手錠をサッと外すと、目を合わせたままセリアの手首を捕まえる。
そうして、瞬きする間に攻守は逆転した。
「忘れちゃったかな~? 俺ってば、超~器用なのよ」
「覚えたく無いこともあるわ。覚える気がないこともね」
便座の上に座らされて、セリアは苛立ちを隠さずに吐き捨てる。彼女の右手首はトイレの脇にあるパイプに繋がれて、ほとんど動かすことが出来ない状態だ。
「悪いね。俺にも仕事があるのさ」
「それは、私が依頼した仕事ではなくて?」
「いや~。俺に仕事を振ってんのは、リアムだからなあ~」
「だから、その仕事を依頼しているのが、私なんだけど?」
「ん~。でも俺、お馬鹿さんなのよねえ」
「本当にね!」
セリアが警察組織外の人間に仕事を依頼する意味。エリオットはそれを理解できないのではなく、そもそも真面目に話をするつもりがなかった。
「まあ、安心して頂戴よ。助けくらいは呼んどいてあげますよっと」
「ちょっと!」
セリアのコンパクトを胸元から拝借すると、エリオットは通話履歴からアラン・シモンズの名を探して発信し始めた。
セリアは勝手に使用されていることよりも、認証がパスされた事に驚いている。端末に保存されているパスキーを使用するためには、顔認証が必要なのだが。
「女装趣味まであるのね」
とても直視できず、視線を逸らしてセリアは嫌味を口にする。
「あら。酷い言い草ね」
セリアの声色を真似て、エリオットは笑って見せた。今、彼の顔はセリアになっていて、それはスーツを着た男性のボディからは酷く浮いて見えている。
アランは、珍しく応答に時間が掛かっていた。コール音が五回ほど繰り返された後で、ようやく電話は繋がった。
「警部! どうなさいました?」
アランは、エリオットの変装には気付いていない。髪型が違っていても気付かないところをみると、彼は色々と鈍感なようだ。
「遅いわ。今、どちら?」
「は……? い、いえ。ヘリオス宝飾店の傍です。ご指示の通り待機していたところ、ネズミが現れましたので」
「ネズミ?」
「は! 奴ですよ。リアム・マーシャル。あの男は、やはり信用できないかと!」
アランの言葉を聞いて、エリオットとセリアは目を合わせる。
褒めてあげるわと、セリアが呟いた。