××年三月十日
地下水道
MWの心許ないライトを頼りに、リアムは暗がりの中をトウマとの合流地点に向かって急いでいた。キャサリンはコートの内側から顔を出して、静かな地下世界をキョロキョロと見回している。
「凄いわ……。ジュール・ヴェルヌみたいよ。本当に地底まで繋がっていたら良いのに」
キャサリンは、リアムが小さな水たまりに足を取られて水しぶきを上げる度、天井から水滴が落ちる度に、冒険心を擽られては目を輝かせている。
「冒険小説が好きなの?」
「冒険が好きなのよ」
言葉を返せず、リアムはそっと笑った。彼の住む旧市街と比べて、この辺りの地下水道は大分整備されている。冒険というよりは、点検に訪れた作業員の気分だ。
リアムの足下からは、歩く度にグチャグチャと不快な音がした。足先は冷え切っていて、寒さは痛みに変わっている。
指先で湿った壁を辿りながら進むうち、やがてリアムの前方には明かりが見えるようになった。下水道の出口が近いのだ。
キャサリンに現在地を訪ねられて、リアムはジョンソンパークの近くだと答えた。
キャサリンは公園の名前を小さく繰り返すだけで、ピンと来ていない様子だ。ベイチェスターコモンやパブリックパークに比べれば小さな公園なので、知らなくても無理はない。
「このまま行けば、公園脇の用水路に合流するんだよ。そこから上がればMベーカー通りだ」
「詳しいのね。いつも通るの?」
「まさか」
リアムは冗談だと思って笑ったが、キャサリンの反応を見るうちに、彼女が本気で訪ねたのだと気付いた。
勿論、キャサリンに悪気はない。彼女は、リアムのような仕事をする若者が、地下水道を秘密の裏道として使っていると考えたのだ。そしてそこには、多少の憧れが含まれていた。
リアムは、キャサリンが学校まで車で送迎されていた事を思い出す。もしかすると、キャサリンは自分の足で街中を自由に歩き回る機会は少なかったのかもしれない。
「学校では、どんなことを?」
「なあに、それ? モテない質問ね。おじさんみたい」
容赦無い言葉に、リアムは笑うしかない。
キャサリンはリアムが笑うのにつられて顔を上げ、自分にはない喉仏や薄い下唇を見つめた。
「……まあ、いいわ。これでも、経済学専攻よ。それなりに成績も良いんだから」
「凄いなあ。ベイチェスター大だっけ?」
「違う。BITよ」
BITとは、ベイチェスター工科大学の略称だ。
会話をしながら、リアムはふと思い出す。キャサリンが誘拐された現場は、ノースエンドのCM通りだ。だがBITは、チャールズフォード川を挟んだ対岸にある。
キャサリンの自宅がチャールズフォードタウンにあることを考えると、誘拐を企てた犯人は、普段の通学ルートではなく橋を越えた先のCM通りまで移動して犯行に及んだということになる。
誘拐事件が計画的なものであるなら、何故、沿岸警備隊の基地の目の前を選んだのだろう。人も多く、カメラも多いあの場所では、計画が失敗する可能性の方が高いはずだ。
「――ぇ。ねえ、聞いてる?」
リアムが我に返って返事すると、キャサリンは少し拗ねていた。自分が話している間、リアムが上の空だった事に気付いたのだ。
足下が難なく視認出来るようになってきたところで、リアムはMWのライトを消した。ライトは通話に比べてバッテリーを消費する。薄暗い中で確認した限りでは、残量は半分まで減っていた。
「誰かいるわ」
キャサリンはそう言うと、リアムの上着の陰に隠れる。
通路の先には、影があった。出口には、誰かがいる。用水路の傍にある街灯の明かりをバックに、影は細く長く伸びていた。
トウマだろうかと考えて、リアムは立ち止まる。合流地点は、用水路の真上のはずだ。
リアムは、トウマが警察の目を考えて降りてきたのだろうかと思い直す。彼なら、それもあり得る。だが、影は一つだけ。
人物の顔は見えない。影も動かない。しかし、リアムには、相手には自分の存在が分かっているだろうという予感があった。
身を屈めて、リアムは静かに片足を後退させる。靴底に伝わる悪路の感覚。天井から落ちる水滴。小さな生き物の気配。
そうして周囲に気を配りながらリアムがもう一歩後ろに下がった時、彼の耳が後方から響く別の音を捉えた。堅い革靴で石畳を叩くように歩く音だ。
トウマやレイのブーツでも、エリオットの古くさいローファーでもない。地下道に響く音を注意深く聞くうち、リアムは聞き覚えのあるそれがアランのものだと確信した。
(本当、しつっこいな。だから相手にされないんだよ)
脳裏には、小憎たらしい表情のアランに続いてセリアの顔が浮かぶ。セリアの目は、リアムを撃ち抜く。
自分の言葉に胸を刺されて、リアムは唇の端を噛んだ。何もしていない自分に、他人をどうこう言う資格はない。
近付いてくる足音に意識を引き戻されて、リアムは交互に視線を送った。前方の影は変わらずそこにあり、後ろからは革靴の音が迫っている。横道はなく、身を隠せる場所もない。
コートを押さえる様にして内側に隠れているキャサリンを強く抱くと、リアムは決意して前方の影に向かって駆けだした。そんな彼に引きずられるようにして、後方の音も大きく早くなっていく。
前方の影が動いた。光線銃のように明るく伸びるライト。下水道の出口には、ひょろりとした体型の警察官が立っている。
(ごめんよ!)
キャサリンを抱いていない右半身を前に、リアムは警官の腰の辺り目がけて突進する。
警官は避けようとして身を捻ったが巧くいかず、尻餅をついた。
リアムは無意識に衝突の直前に身を引いていて、狙ったようには突き飛ばせなかったのだ。
警官が座り込む横を走り抜けて、リアムは用水路から上の通りに繋がる階段を駆け上がる。
「止まれ! マーシャル!」
後ろからは、アランの声。やはり、地下道から追ってきたのは彼だった。
地上まであと数段というところで、リアムは足を止めた。階段の上には、別の警官が待ち構えて居る。恐らく彼らは、随分前から張っていたのだろう。
アランの声を聞きつけてか、後ろからも複数の足音が響き始めた。宝飾店の時よりも、警官の数が増えている。どうやらアランは、本気で怒ってリアムを確保しにきたようだ。
前進も後退も出来ず、横目で活路を模索する。キャサリンを抱くリアムの腕には、自然と力が籠もっていく。
「――おそいよ。リアム」
空から、レイの声。
リアムが顔を上げた時、レイは既に着地して彼の隣に立っていた。
ナイトメアだと、警官たちが口にする。それはレイの通り名だ。
「ほら。うえ」
レイに右腕を掴まれたかと思うと、リアムの体は宙を舞っていた。言葉にならない悲鳴とともに、リアムは通りの真ん中目がけて落下していく。
石畳に体が叩き付けられる直前で、リアムの体はフワリと浮かび、今度は僅か数センチの高さからドサッと地面に転がされた。
「よう。リアム」
寝転んだままのリアムの視界には、愛車のバスカヴィルに跨がるトウマの姿。レイはいつの間にかリアムから手を離して、トウマに頭を撫でられている。
「トーマ。最高のお迎えだね」
「だろ?」
「だろー?」
ニッと笑うと、レイはトウマから離れて柵を跳び越え、用水路へと戻っていく。
「ほら。乗れよ」
「え? レイは? いいの?」
「おいおい。レイだぜ? 心配すんな」
チラリと見もせずに、トウマはリアムの手首に軽く触れて手錠をドロドロに溶かした。
驚いているリアムを急かして後ろに乗せると、トウマは目的地を訪ねる。リアムとキャサリン、トウマの三人は、同時に同じ言葉――レッド議員宅を口にした。
「オーケイ。それじゃ、掴まってな」
ニイっと笑うと、トウマはレイを追うようにして柵を跳び越えていく。
用水路の脇にはアランを初めとした警官たちが集合して、レイを取り囲んでいる。緊迫した状況だが、レイだけは笑顔だ。
「ちょっと待った! まさかだけど……!」
「そのまさかだ」
「いってらっしゃーい。だぜ?」
リアムの視界の端で、レイがケラケラ笑いながら手を振り上げる。するとそれに応えるように、用水路を満たしていた水が集まり大きく体をもたげた。まるで大蛇だ。
退避しろと、アランの叫び。
警官たちの悲鳴を置き去りにして、バイクは加速しながら地下水道に飛び込んで行く。
迫ってくる轟音を耳にして振り向けば、後ろからは津波のような大量の水が追いかけてきている。警官たちは全員逃げ出したようで、一人として追ってはこない。
「ちょ……っと! 無理無理無理っ!」
リアムの叫びが地下道に吸い込まれていき、その直ぐ後を大量の水が洗い流していく。まるでウォータースライダーだ。
トウマは愉快なテンションで声を上げ、バイクは地下に張り巡らされた道を縦横無尽に我が物顔で走り去る。
水は、地下水道の出口を彼らに教えていた。だが、リアムとキャサリンがそれに気付くことはなかった。
脳みそが揺れ、体中が振り回されるような感覚。強い風と水しぶきでリアムは目を開ける事すらできず、体が縦になっているのか、横になっているのかも分からない。まるで洗濯機にでも放り込まれたようだ。
「――ケイト!」
ハッとして、リアムはコートの内側を覗き込んだ。体は固い地面の上にあって、周囲の景色は揺れている。ここは、もう地下水道ではない。いつの間にか地上に出ていたのだ。
キャサリンは、コートの中で目を回して伸びていた。怪我――破損といった方が正しいだろうか――は無いようだ。
「起きたか。リアム。最高の近道だったろ?」
「近道?」
ふらつきながらヨロヨロと立ち上がって、リアムはトウマの指さす方を見る。一目で地区を移動したと分かる街並み。一ブロックほど先には、目的地であるレッド議員宅がある。彼らは地下水道を使って、街の中を最短距離で駆け抜けてきたのだ。
「確かに。ナイスな……」
そこまで言って、リアムは体の奥から込み上げてくるものを覚えて膝をつく。彼の口からは、ランチの成れの果てが地面に向かって滝を作っていた。