××年三月二十二日
ベイチェスター港
海に落ちた夕日が、どこまでも長く伸びている。波はチラチラと目映く輝いて、遠くの空には黒曜石のような海鳥の姿。
停泊する船の前で、リアムとマーシーに抱えられたキャサリンは海を眺めていた。彼らの後方には、仲間達とマレーナ・レッド、そして年配のメイドの姿がある。
「良かったね、空きがあって。飛行機じゃなくて良かったの?」
先に沈黙を破ったのはリアムだ。だが彼は、その先の言葉を考えていなかった。
「……やっぱり、モテない質問ね」
キャサリンが、呆れも愛情も籠もった声で言う。比較的警備の緩い船を利用するのは、リアムの仲間の案だ。
リアムは少し困って視線を落とし、それからまた海を眺めた。
キャサリンは、夕日に輝くブラウンの瞳を眺めている。
事件から二週間近く経っても、キャサリンは元の体に戻れていない。それは、レッド議員とムーア警部も同じだ。もっとも、彼らの場合は、精神疾患を疑われて一時的に入院となってしまったが。
この状況を、リアム達も黙って見ていただけではなかった。入れ替わっている最中に人形が破損した場合、キャサリンの命にも関わる。だから彼らは幾つかの仮定を立て、戻る方法を検証した。
だが彼らの努力も空しく、キャサリンとマーシーは元に戻らず、その気配すらない。父親の入院や逮捕間際というリークもあって、母親の生まれ故郷に戻る話が出たのは自然な流れともいえた。
「あー。もう! 止めてよね。辛気くさいったらありゃしないわ!」
大きな声でリアムの気を引くと、キャサリンは精一杯短い腕を伸ばす。意図を組んだマーシーがキャサリンの体をリアムに近付けると、彼女は小さな手でリアムの頬をペチペチと叩いた。
「お祝いして! 私の旅立ちなのよ? 私、向こうの大学を受けるの。また、マーシーと一緒に通うのよ」
キャサリンを抱き上げているマーシーは、表情一つ変えず、コクリと頷く。入れ替わってからの二週間で、動き自体はスムーズになった。それでもマーシーは、人間には成れない。
リアムはキャサリンに笑顔を向けて、それから次の大学でも経済学を専攻するつもりなのかと尋ねた。
「それは、もういいの。パパが喜ぶから選んだだけだもの。……でもね、次は自分で決めるのよ。凄いでしょ? 医学部も良いし、考古学だって選べちゃう」
「いいね。きっと最高の冒険になるよ」
リアムは「挑戦」と言うつもりで、無意識に「冒険」という言葉を口にしていた。キャサリンが発した考古学という単語と、地下水道での一件が彼にそうさせたのかもしれない。
キャサリンは、リアムがこれからの人生を冒険と表現したのだと思い、それを気に入って何度も頷いた。生まれ育った街を離れる事は、彼女にとって確かに冒険だったからだ。
後ろから、マレーナがキャサリンを呼ぶ声。乗船の時間だ。
キャサリンとマーシーは手を振って応えたが、直ぐにはリアムから離れようとしない。
「あの、ね。元に戻れたら、あの……手紙を書いてもいい?」
「勿論。元に戻らなくても書いてよ」
「だめ。自分で書きたいの。……分からない? 大体、戻れなくてもなんて言っちゃダメよ。こういう時は、戻れるって言い切らなきゃ。もう。これだから……」
キャサリンはまた呆れてみせたが、彼女の声は別の感情を隠そうと必死だ。
先程リアムの頬を叩いていた手は、今はもう離れている。少し背伸びをして伸ばせば、また届く。マーシーはキャサリンの意図をくんで、彼女を抱き上げてくれるだろう。
それでも、キャサリンは手を下げた。その理由は、彼女自身がよく理解している。
俯くキャサリンを不思議そうに眺めるうち、リアムは、彼女が本当はこの街を離れる事が不安なのだと考えた。きっと、新しい人生のスタートが少し怖いのだと。
「ケイト。僕、実は、超能力者なんだよ」
「なによ、それ」
キャサリンは、別れ間際に何を言うのかと呆れた。本当に欲しい言葉は、もっと別のものだ。
リアムは右手の手袋を外すと、キャサリンの頭にポンポンと軽く触れる。その瞬間に、彼の頭の中には鮮やかな映像が浮かび上がった。
「ケイト。大丈夫だよ。君は将来、世間をあっと言わせるような大発見をするんだ。素晴らしい人生が待ってる。本当だよ?」
「あのねえ。リアム。そんな子供騙し……」
キャサリンは、リアムが片方だけ手袋を外している事に気付く。目を合わせると、リアムは唇の前で指を立てて、彼女に秘密だと伝えた。
リアムは能力者なのだと、キャサリンは理解する。きっと、彼の言葉は本当なのだと。しかしそれ以上に、二人の間に生まれた小さな秘密の存在が彼女には特別に思えていた。
「……もう。仕方ないから、騙されてあげるわ」
柔らかい声。キャサリンは少し俯く。
「もう行くわ。ママが呼んでる」
「荷物は?」
「ママの所」
「意外と少ないね」
「手荷物以外は預けてあるの。……ねえ。此処でお別れ。だから、こういう時って、なにか言うべきじゃない?」
「そうだね。良い旅を!」
「ありがとう。……そう。きっと、今は、それが正解ね」
そう言って小さく笑うと、キャサリンとマーシーは母親の元に向かって歩き出す。その後ろ姿に、もう迷いはない。
リアムは仲間の元に合流すると、船に乗り込んでいくキャサリン達の背中を見守った。母親とメイドは一度振り返ると、リアム達を見つめる。その目は、感謝を伝えていた。
キャサリンは一度も振り返らず、やがて人の中に埋もれて見えなくなる。
「珍しいな。普段は嫌がる」
リアムが右手に手袋をはめ直すのを見て、トウマが言う。レイの目も、同じ事を言っているようだ。
仲間達は、リアムの能力の全てを知っている訳ではなかった。ギフトの全てを晒すことは、誰にとってもリスクだ。そしてそのリスクは、知りすぎる事にも含まれている。
リアムの左手は過去を、右手は未来を見ることが出来た。左手は物や場所に残る残留思念を読み取り、過去の出来事を彼に知らせる。右手は、それよりも遙かに多くの事が可能だった。
過去と違って未来は不確実だ。些細な出来事を切っ掛けにして、全てが変わってしまうこともある。だから、「絶対」という言葉を未来に対して使うのは、正しくないように思えるものだ。本来は。
リアムは、右手の能力が嫌いだった。彼の右手が見せるのは、絶対的な未来だからだ。巨木の根のように幾本も枝分かれした全ての運命の分岐点が、彼には見える。
あまりにも強力で、危険な力。それには、相応の反動もある。
「おいおい。平気か」
地面にへたり込むリアムを、トウマが支える。
「……無理。吐く……」
左手を使った後とは比べものにならない副作用に襲われて、既にリアムの視界はブラックアウトしている。全ての音が遠く、体の感覚も朧気だ。彼は、自分が座り込んでいる事も分かっていない。
エリオットはリアムを見て、チラリと船の方を確認してから、もう一度リアムを見た。それはキャサリンの視線を気にしての行動だったが、彼女の姿はもう甲板の何処にもなかった。
モゴモゴと、リアムの口が何か言葉を紡ごうとしている。それは音にすらならず、やがて彼は気を失ってしまった。
「お疲れさん」
リアムがキャサリンのために無理をしたのだろうと察して、エリオットは彼に優しい眼差しを向けている。
「だな」
「だなー」
呼吸が安定している事を確かめてから、トウマはリアムを肩に担ぎ上げた。背中側にだらんと垂れたリアムの腕を、レイがチョイと突く。彼女なりに、リアムを心配している。
帰るかと、エリオットが言う。
トウマは頷き、レイは振り返って船に小さく手を振る。
そして、汽笛が鳴った。