××年三月二十三日
ベイチェスターコモン
「報告書を読んだよ」
公園の駐車場。薄暗い車の中。リアムの前に投影されたアシュケナージは、長い銀髪を耳にかけながらティーカップを口元に運んだ。彼の傍には、エリザというアンドロイドの姿もある。
キャサリン・レッドの誘拐事件は解決した。表向きは。
今でも入れ替わったキャサリンとマーシーは元に戻らず、彼女は今後の波乱を避けるために国外への移住を余儀なくされた。彼女達がまたこの街に戻ってこられるのかは、誰にも分かる事ではない。
「無生物に命を与える『ヒトガタ』と、人格を入れ替える『スイッチ』。非常に興味深い。ギフトは神秘だ。そうだね?」
アシュケナージの言葉は同意を求めておらず、リアムにもそうするつもりはなかった。ギフトが神秘だと思ったことなど、彼には一度としてない。ギフトは、悪魔の力だとさえ思う。
能力者は、二人いた。人格入れ替えはマーシーの能力で、キャサリンは人形に命を与えた張本人だったのだ。そして彼女達の力は、あの日以降、発現することはなかった。
あれから、ジェームズ・レッドとトマス・ムーアの姿は病院のベッドの上にある。彼らにとっては混乱の中で精神を磨り減らし続ける地獄の日々が始まったわけだが、それは当然の報いとも言えた。
調査により、ジェームズ・レッドが虚偽の誘拐事件を画策し、娘の殺害を企てた事が明らかになっている。計画は彼の側近とムーア、その部下の一部のみに共有され、妻には何も知らされていなかった。
アシュケナージが視線を送ると、傍に待機していたエリザがミルクポッドを手にする。
エリザが慣れた様子で紅茶にミルクを注ぐのを眺めながら、リアムは苛立ちを募らせていた。ミルクは先に入れるものだとか、カップの形が気に食わないだとか、そういった小さな事が怒りを増幅させていくようにすら思えるのだ。
やがて耐えきれなくなって、リアムは言い放った。
「随分、人形遊びが好きなんだな」
「というと?」
アシュケナージは余裕たっぷりの表情で、小さな匙でカップの中に渦を作っている。
表情を見た瞬間に、リアムは顔が一瞬で熱くなるのを覚えた。目の前で優雅に紅茶を楽しむ男は、リアムが真実を知ることも、こうして追及することも分かっていたのだ。
「マーシー……レッド議員の娘が持っていた人形。あれを贈ったのは、あんただ」
「そうだね。素敵な人形だろう?」
悪びれもしない顔。
リアムは、無意識に椅子の上で拳を握りしめる。
地下水道で人形の体に触れた時、リアムが見た過去。それは、マーシーがキャサリンに熱心に話しかける幼少期の姿や、人形が彼女の手に渡るまでの経緯だった。
「実に可愛らしく、実に役に立つ。素敵な、素敵な人形だ」
ねっとりと耳にこびり付くような声。
リアムが無意識に口の端を噛むのを見て、アシュケナージは目を細める。彼にとっては、リアムすらも思い通りに動く人形の一つでしかない。
「ケイトのギフトも、あんたがやったんだろ。子供を犠牲にして、人生を滅茶苦茶にして……最低だよ、あんたさ」
努めて深く静かに息を吐きながら、リアムは左手で目元を覆う。右手はシートに張り付いたように重く、小刻みに震え続けている。
自分にとって都合の悪い政治家を失脚させるためだけの計画。そこに巻き込まれた少女達の事を思うと、リアムには言葉がなかった。
「レッド議員は優性法の支持者であり、差別的危険思想の持ち主だ」
「だからって……!」
「誰かが手を汚してゴミを拾えば、街は綺麗になる。簡単な話だよ。それが少数であるうちは異端扱いだ。常識を変えよう。リアム。この街には、ゴミが多すぎる」
くだらない説法だと、リアムは聞こえても構わないという気持ちで舌打ちした。アシュケナージが何を言っても、今のリアムにはキャサリンの不幸を正当化する事は出来ないように思える。
「リアム。顔を上げておくれ。さあ。アルゴスの目。ムネーモシュネーの加護を受けし者よ。私は、君が大切だ」
酷い吐き気に耐えきれず、リアムは車のドアを思い切り開いて顔を出し嘔吐いた。
後部座席の反対側のドアが開くと、外で待機していたセリアが何事かと慌てた様子で乗り込んでくる。
「君の探し物が見つかる事を祈っているよ」
そう言葉を残すと、アシュケナージは一方的に通信を切った。
静かになった車内には、怒りに肩を震わすリアムとその背中を見つめるセリアの姿だけ。
セリアは静かにドアを閉じると脚を揃えて座り、座席の間に置かれていたコンパクトを回収して胸元に収めた。
声を掛けようとしても言葉が見つからず、手を差し伸べることも出来ず、セリアは視線を落とす。彼女の視界に映るのは、自由を与えてくれた素敵な靴。それは今、彼女を街に縛り付けている。
「――ああ。すみません! 急に具合が。でも、もう大丈夫です」
リアムは笑顔で振り向くと、ドアを閉めてアシュケナージが投影されていた方へ目をやる。まるでたった今映像が切れた事に気付いた様な素振りを見せたが、それはあまり上手くなかった。
「色々とありがとうございます。セリアさん。僕からの報告も終わりました」
リアムは何時ものように笑顔を見せて、セリアも何時ものように微笑みを返す。何時もと違うのは、セリアが、リアムの掌に濃く残った爪の跡に気付いているということだ。
「実は、預かっているものがあるの。キャサリン・レッドからよ」
セリアはコートのポケットから小さな包みを取り出すと、それを二人の座席の間に置いた。
セリアが手を引くのを待ってから、リアムは包みに手を伸ばす。相手に触れないようにするのは、彼の癖になっている。
「あなたの好きにして良いそうよ。『報酬』ですって」
セリアは言いながら、窓ガラスをコンコンと叩いて外のアランに指示を出している。
リアムはセリアが何処かに向かうのだと察して、小包をコートの内ポケットにしまい込みドアに手を掛けた。
「ねえ」
「そうだ」
二人同時に口を開いて、それから彼らは二人同時に黙り込む。彼らはお互いに次の言葉を譲り合おうとしたが、それは長く続かなかった。時間が無いことは、分かっている。
「豆、買いました」
フロントガラスを横切るアランの姿を見て焦りながら、リアムは早口で言う。アランのギラギラした目が気になって、彼はコーヒーの話だと説明することを忘れている。
「だから、あの、いつでもどうぞ。それじゃ」
返答を待たずに、リアムは急いで車を飛び出す。
アランは車の脇に立って、無言でリアムを睨み続けながら運転席へと消えていった。地下水道の一件以来、彼は以前にも増してリアムを嫌っているのだ。
セリアを乗せた車が、リアムに砂煙を掛けて走り去って行く。彼女の姿は、もう見えない。
リアムは公園の中を抜けてCF通りを横断し、スワンボートのあるガーデンに向かった。途中、トウマから川沿いの遊歩道に居ると連絡が入り、ガーデンをさらに突っ切って仲間の元へと急ぐ。
街は、何時もと何も変わらない。噴水の傍では観光客が写真撮影を楽しみ、散歩中の犬は挨拶代わりに尻尾を振る。空に浮かぶ歯磨き粉の広告は、今日も不自然に人間の歯を白く塗りたくっていた。
「よう。早かったな」
「トーマ。二人は?」
遊歩道で再会したトウマは、川の方を指さした。その先にはエリオットとレイが遊歩道の端に座り込んで、柵の隙間から木に括り付けた頼りない糸を水に垂らしている。
「釣れる?」
「夢があるよな」
トウマが肩を竦めるのを見て、リアムは笑った。
「釣りの極意は、待つ事なり」
「なり」
二人が傍へ行くと、エリオットがレイに講釈を垂れているところだった。実のところ彼は適当な事を言っていて、そもそも釣れるとは思ってもいないのだが。
「こうして釣り糸を垂らしてる間はな、嬢ちゃん。釣れる未来と、釣れない未来とが同時に存在している訳よ」
「つれたー」
「んあ?」
レイが持ち上げた竿の先では、大人の掌サイズの魚が激しく左右にビチビチ暴れている。辺りには沢山の水滴が飛んで、それは太陽を受けてキラキラと光った。
やがて、ボチャンッという音とともに魚は水に戻っていく。それは僅かな時間の事だった。
エリオットはぽかんと口を開けて煙草を落とし、彼の隣ではレイがトウマに頭を撫でられている。
彼らの傍の手すりに体を預けて、リアムはコートの内側から包みを出した。報酬と言っていた事を思い出して、リアムは中身を確認せずに受け取った事を後悔する。子供から現金は受け取れない。
「これ……ペンダントだ」
中から出てきた大粒の石は、太陽にも蜂蜜のようにも見える。
「お。見せてみ?」
エリオットは上着から取り出したハンカチ越しにペンダントを受け取ると、小さなルーペで石を調べる。
「お父さんから貰ったんだってさ。パーティ用に少し変えたけど、もう必要ないって。好きにしてって書いてある。今回の『報酬』だって」
包みの内側に同封されていたメッセージカードの最後には、母親が代筆した事も記されていた。
「デカいのがシトリン。天然物は珍しいな。周りのダイヤも質が良いし、地金もタップリ。リッチだね~。それなりに値が付くな。んーで? どうするよ?」
家賃にでもするかと笑いながら、エリオットはリアムにペンダントを戻した。彼の見立てでは、向こう一年の家賃を払ってもお釣りがくるらしい。
「受け取れないよ」
リアムは受け取ったペンダントを、そのままトウマへ。
「欲しいか? レイ」
「んーん。トウマがいい」
「だよな。俺もだ」
そうしてペンダントは、エリオットの手に。
「もうこんな時間だ。昼、どうする?」
「この辺りだと、クラムチャウダーの美味い店があるな。少し歩けるなら、ロブスターも。案内出来るぜ」
「いいね。セリアさんからの報酬も入ったしさ。ビールも欲しいな」
昼食の相談をしながら、リアムとトウマ、レイは歩き出す。
「物の価値が分からん奴らだねえ。勿体ねぇな~」
エリオットは格好付けて大きく振りかぶると、ペンダントを川の中へと放り込む。
弧を描いて、輝きながら空を行く甘い思い出。初恋の味。
彼らの中でシトリンの石言葉を知っているのは、エリオットだけ。そして、キャサリンがそこに込めた思いに気付いたのも、また同じ。
音も、水しぶきも殆ど上げず、ペンダントはチャールズフォード川の流れに飲まれていく。その水面を少し眺めてから、エリオットは腰を摩りながら皆の後を追った。
「お兄様はワインが飲みてぇなあ」
「お前は、まず僕に飲み代を払えよ」
「俺は、宵越しの金は持たない主義なのよ」
「今あるだろ? 今、払えよ」
「あ~。ワインが飲みてぇなあ~」
誤魔化すエリオットと、呆れるリアム。レイは覚え立ての魚釣りの極意を語っていて、トウマは穏やかな顔でそれに耳を傾けている。
空はよく晴れて、陽の光は暖かい。何処にでもある、何でもない時間。それは、久方振りに享受する平和だ。
そして、鳴り出すMWの音――。
嫌な予感がして、皆は立ち止まった。彼らの視線は、振動音の出所であるリアムの手首に向けられている。
「――アロー? ご機嫌いかが? 早速だけれど、仕事のお時間よ」
MWから投影されたセリアは、書類の束を手にウインクしている。つい先程までとは別人のように、彼女はもう頭を次の仕事へと切り替えていた。
こういう時、気の合う仲間がいることは幸せだ。真っ先に逃げようとしたエリオットをレイが捕まえて、トウマがそれを褒めている。
引き受けて貰えるかしらと、セリアの声。依頼という名目だが、実質拒否権がないということは皆が分かっている。
「勿論。喜んで」
空を見上げながら、リアムは笑った。
1 Welcome to the Paradise City 完