2-1 美しき師弟関係
2 Learn to Fly
街は、混沌を飲み込んで存在している。常識という言葉でコーティングした嘘を吐き出しながら、誰にでも平等にチャンスを与える素振をするのだ。
この街で人生を変えたいと思うなら、飛び方を覚えるしかない。嘘に傷ついて、うんざりした気持ちで空を眺めているだけでは、何も変わらない。
飛び方を覚えれば、何処にでも行ける。
飛び方を覚えれば。
2-1 美しき師弟関係
××年四月十一日
ダウンタウン地区 モンキーレンチ通り
グロール修理工場
その修理工場は、ダウンタウンの中でも奥まった場所に位置していた。
バイクから降りると、リアムとトウマはガレージの入り口で壊れかけのシャッターをガンガンと叩く。二人が待っていると、タップリ十五分は時間を掛けて、ようやく反応があった。
「悪いな。トーマ。奥に居た」
半開きになったシャッターの下から白髪交じりの長髪を肩に垂らした老人が顔を出すと、彼は右腕――年期の入った義手だ――でシャッターをグイと持ち上げる。
顔中に刻まれた皺と、口元を覆う髭。日焼けした肌に汚れたタンクトップ姿のその老人は、名をデイヴィッド・M・グロールといった。
「デイヴ。あんたらしくないな。調子でも悪いのか?」
「飲み過ぎただけだ。……あの黒猫はどうした?」
「レイか? 今日は置いてきたよ」
「それがいい。油まみれだ」
笑いながら、デイヴは二人をガレージの奥へと誘う。彼の呼吸音には、僅かなザラつきが混じっている。
ガレージの奥では、一台の小さな車がシザーリフトの上で持ち主の到着を待っていた。年代物の、日焼けしたボディ。ミラーの端には錆が発生して、ガラスは薄く曇っている。
「うわあ~。会いたかったー!」
リアムが大げさに喜ぶのを聞きながら、デイヴは髭で隠れた口を小さく持ち上げて笑う。
「相変わらず、面白い形だ」
トウマは、地面に下ろされた車をまじまじと眺めた。四角くて丸いような、独特のフォルム。まん丸のライトに、ちょこんと付いた控えめなミラー。マフラーは二本出しに変更されている。
「可愛らしいな」
「だろ~? 愛してるよ~。僕のジューン」
「ジューン?」
「言ってなかったっけ? 六月に貰ったんだよ」
「そうか。……いい名前だ」
愛おしそうに車に話しかけるリアムの様子に困惑し、トウマはデイヴに助けを求める。以前から大切にしていた事は知っているが、名前まで付けていたとは初耳だ。
デイヴは静かに、「そういう奴もいるさ」とだけ答えた。
それから、デイヴは壁際の作業台に放られていたバインダーの書類を捲って、修理箇所の説明を始めた。
「一通り、直せるところは全部やった。こんな骨董品、純正パーツなんか、とっくにねぇからな。こっちで適当に見繕って交換したぞ。あとな、そこのオイル……」
「大丈夫。オイル漏れは、諦めてるよ」
「そうかい。悪いな」
「悪くないよ。個性さ。僕は、そういう所も含めて全部愛するって決めてるんだ」
「……そうかい」
うっとりした表情のリアムを見て、デイヴはトウマに助けを求めた。
トウマは何も言えず、デイヴの視線から逃げるように天井から垂れ下がるクレーンを眺めている。
リアムがこの工場に車を持ち込んだのは、一月以上前のこと。仕事中に道端に駐めていたところを前方不注意の車に追突され、自走出来なくなっていたのだ。
幸いにも、事故の当時、リアムは別の場所に居て無事だった。仕事を終えた彼が車の元に戻った時、愛車のあまりの姿に声を上げて泣いたのは仲間達の中で密かな笑い話となっている。
「請求の話なんだが」
デイヴはバインダーの書類を忙しく捲りながら、頭の中で数字を積み重ねている。
「予算オーバー?」
「普通なら、そうなる。……が、トーマの紹介だからな。修理に関しては、こんなもんだ。相談したい事もあるが」
デイヴに提示された金額を見て、リアムは直ぐに了承した。元々、諦め半分だったのだ。それが走行可能な状態にまで修理されたのだから、料金に文句などある筈がなかった。
「助かるよ。デイヴ」
「お前の頼みだからな」
車に張り付いて喜ぶリアムの後ろで、トウマとデイヴは堅く手を握り合う。
「ところで、こいつに相談したい事っていうのは?」
トウマが尋ねると、デイヴは困った様子でガリガリと頭を掻いた。
空気が変化したことを感じ取って、リアムも二人の方へ視線を送る。
デイヴは暫く迷っていたが、やがて決心した様子で口を開いた。
「弟子が居る」
「そりゃ良いな。随分、探してただろ」
トウマは喜んでデイヴの肩を叩いたが、デイヴの表情は暗い。
元々、デイヴには、後継者となる子供が居なかった。正確には、居なくなってしまったのだ。だから、彼は工場の行く末を案じていたし、自らの持つ技術の伝承が途絶える事を嘆いていた。
「塗装をな、弟子に任せて貰いたいんだが。了承してくれるなら、その分の代金は不要だ」
「え? いいの? 代金が浮くなら、僕だって助かるよ」
「そうかい。あんがとよ。俺も見るから、とんでもねぇ見た目になる事はないが……。まあ……。ない、が……」
腕を組んで悩み出したデイヴを不思議に思って、リアムとトウマは顔を見合わせる。弟子の話が出てから、デイヴは急に老け込んだ様にすら見えていた。
「デイヴ。要は、弟子に塗装の練習をさせたいって事だろ?」
「そうだ」
「弟子は、経験が積める。こいつは、塗装の修理代が浮く。良い話だ。一体、何を悩んでる?」
何を悩んでいるのか。そう尋ねられて、デイヴは初めて自分が悩んでいる事を自覚した。彼は、今まで心を重苦しくしていたものの正体が悩みだとは思っていなかったのだ。
「あいつはな……あいつは……あいつ……うっ……」
俯くデイヴ。
リアムは心配になって、彼の傍へ寄ろうと足を踏み出す。しかし、一足先に何かを察したトウマが、リアムを留まらせた。
「あいつは、全っ然、ならねぇ!」
悩みを自覚した途端、飲み込んでいた怒りを抑えきれなくなったのか、デイヴが地面をダンッと踏みつけた。
空気がビリビリと震えて、リアムは思わずトウマの後ろに隠れる。
「なぁにが、『親方は時代遅れ』だ! ばっきゃろうが! こちとらなぁ! これで! 半世紀! 食ってんだ!」
叫んだ後、ギギギと歯を噛みしめて、デイヴは溢れ出す怒りを必死に抑え付けようとする。彼の顔は既に真っ赤で、右腕の義手すらも熱を帯びて見えた。
うううっと、デイヴの歯の間からは呻き声が漏れている。客人の手前、怒りを抑えなくてはという気持ちと、どうにもならない苦しさとで彼は更に老けて見えた。
「あんたが時代遅れとは思わない。デイヴ。あんたが居なきゃ、バスカヴィルは走れなかった。こいつのミニだってそうさ」
言いながら、トウマはデイヴが繰り返し義手を摩っている事に気付く。年代物の義手。弟子に時代遅れと言われたのは、義手の事なのだろう。
「あんたの修理の腕は、皆が知ってるさ」
トウマの言葉で冷静さを取り戻したのか、デイヴはまだ肉と骨が残っている左手で顔を拭った。
「だけど、あんたが弟子にするくらいだ。そいつも、それなりに腕が良いんだろ?」
「……そうだ。FFは、腕が良い。飛びきりだ。あいつの悪いところは、跳ねっ返りが強いとこぐらいだ……。そんぐらいだ」
深くため息を漏らすと、デイヴは傍にあった木製の椅子をガリガリと引き摺ってきて腰を下ろした。彼はもう疲れ切っていて、立ち続けて居られなかったのだ。
腹の上で両手を重ねて、デイヴは脚を放り出す。呼吸を整えながら見上げる先には、自分と一緒に歳を重ねてきた工場の赤茶けた天井がある。昔は、全く違う色をしていたのだが。
「何色がいいんだ?」
デイヴに尋ねられて、リアムは戸惑う。勿論、デイヴが話題を変えようとしている事はリアムにも理解出来たし、明るく返したいと思う気持ちもあった。
デイヴは、シートの色等から察するに、元々はグレーだったのだろうと言った。前の持ち主が、それを白に塗り直したのだろうと。
「そうなんだ。前の事は、全然、聞いてないんだよ。色かあ……いや、でも、今の色……」
「黄色はどうだ? リアム。赤もいい」
空気を読んだトウマが、助けに入る。
「うん。黄色か赤なら、赤の方が好きだな」
「だよな」
「でも、この白が好きなんだよな~」
リアムは車に寄って、若干クリームがかった白いボディを撫でている。
リペイントを考えた事は、これまでにもあった。塗装が所々剥げている上に、元のカラーは錆が目立つ。それでも塗り直さなかったのは、愛着が勝ったからだ。
デイヴは車にベッタリのリアムを眺めて、僅かに目尻を下げた。大切にされている、相棒のような存在。それを思って、デイヴは義手を愛おしそうに摩る。
「……帰ったよ」
入り口の方から、小さな声。
皆が視線を向けた先には、ヒョロッとしたボサボサ頭の青年が立っていた。ジッパーの壊れた前開きのパーカーに、メタルバンドのシャツ。足下はサンダルで、ボトムスの裾は引きずっている。
「遅いぞ、FF。もう、帰ってこねぇかと思ったぞ!」
「……その方が良いんだろ」
デイヴとは目も合わせず、ファビオ・フォレロ――通称FFは、肩に掛けていた帆布生地の鞄を工場の奥のロッカーに向けて放る。
「配達は?」
「……終わった。だから、帰ったんだ」
FFの受け答えに、デイヴはイライラを募らせている。
言い方は悪いが、デイヴがFFを気に掛けている事はリアムやトウマにも伝わっていた。ただ、肝心のFFには、それが届いていない。
「……ねえ。外の黒いの、あんたの?」
外を指しながら、FFはトウマに尋ねた。
客に向かって失礼だぞと、デイヴが口を挟む。
「ああ。デイヴには、時々、修理を手伝って貰ってる」
「……ふーん。……動くんだ。凄いね」
凄いねと、もう一度、FFは口にする。
「おい。FF。このクーパー、お前に塗らせるからな」
FFに向かって怒鳴るように言った後、デイヴはリアムと目を合わせた。本当に良いかと、彼の目は尋ねている。
リアムは頷いて、それからFFの方に歩み寄り握手を求めた。
「リアム・マーシャル。よろしく。お願い出来る?」
「……ファビオ。……呼び方は何でもいいよ。仕事はする。……そんなことよりさ、あのオイル漏れ……」
「ありゃあ、無理だって言ったろうが」
FFの言葉を遮って、デイヴがため息を漏らす。彼らの間では、何度も同じ話がされてきたのだ。構造上、オイル漏れは持病のようなもの。ガスケットを交換しても、根本的な解決にはならない。
FFは何も言わず、デイヴとは目も合わせず、パーカーのフードを深く被ると奥へと続くドアの向こうに消えていった。
デイヴがFFの名を呼ぶが、返事は帰ってこない。部屋を満たす無音は、二人の関係が冷え切っている事を知らせるだけだ。
簡単に挨拶を済ませると、リアムとトウマはガレージを出た。あのまま居続けるには、あまりに気まずい空気だ。
そうして、来た時と同じようにトウマのバイクの後ろに跨がろうとして、リアムは地面に落ちている小さな鍵に気付く。電子キーが一般的となった今では、珍しい代物だ。
拾い上げて、リアムは直ぐに後悔した。掌サイズの小さな鍵。そこに付着している赤茶色の液体は、オイルではなく血だ。
嫌な予感を覚えて、リアムとトウマはガレージを見つめた。