××年四月十一日
ウェトランド地区 バンビーノ通り
ウェトランド・パーク
青い空の下で眺める野球は最高だ。グラウンドの土と緑の芝生の対比は美しいし、そこで行われる試合はいつもドラマに満ちている。
席は、一塁側のポール付近。決して特等席とは言えないが、見やすい上に割と安い。座席の堅さ狭さは愛嬌みたいなもので、試合が始まりさえすれば大して気にならなくなるというもの。
ただ、負けた日ばかりは、腰の痛みが倍増するように感じられるのは何故だろうか。
エリオット・スミスは鼻歌交じりに、慣れた様子でピーナッツの殻を剥いて口に放り込んだ。天気が良く、チームは開幕から連勝中で、片手にはビール。それに加えて、今日の先発はチームの大エースだ。これ以上の日があるだろうか。
試合は立ち上がりから上々で、一回の表からリズム良く打者を打ち取って、裏では上位打線が良い仕事をしている。スコアボードに輝く「3」の数字。球場の雰囲気は最高だ。
すっかり機嫌の良くなったエリオットは、セブンス・イニング・ストレッチを待たずして既に名曲を口ずさんでいる。彼の機嫌を飛び切り良くしたのは、先頭打者がホームランを放ったからだ。
ウェトランド・パークの歴史は長く、この国で野球がプロスポーツとなって最初に建てられた球場だ。歴史あると言えば聞こえが良いが、設備は古く、席は狭く、その上、限られた土地に造られた為に球場の形も歪ときている。
この球場のセンター、ライト方向は深く、レフト方向だけが極端に短い。だから、レフト方向への本塁打が頻発することを防ぐため、十一メートルをも超える非常に高いフェンスが設置されている。
そのフェンスを超えていく白球と項垂れる敵チームのバッテリーの姿は、チームを鼓舞し、観客を熱狂させる最高の起爆剤だ。今日は先頭打者からそれを見せられたとあって、エリオットのテンションは上がりきっている。
「ああ~もう。他には何も要らねぇな」
噛みしめるように呟くと、球場の空にビールを掲げて神様に乾杯。ビールは既に温くなっているが、今はこの温い泡が美味い。
そんなエリオットの肩を、後ろの客がトントンと叩く。
エリオットは無視したが、後ろの客はそれでも肩を叩いてくる。
「おー。何よ?」
少し頭を後ろに倒すようにして、エリオットは尋ねた。顔はフィールドに向けたままだ。
歌が五月蝿いだとか、ピーナッツの殻が汚いだとか、エリオットが予想したのはそういうことだった。誰でも上機嫌の時は歌うし、ピーナッツの殻は皆が下に捨てている。それでも、そういう事が嫌いな人間は何処にでもいるし、そういう人間の中には相手を注意しないと気が済まないタイプも少なからずいるのだ。
後ろの客はエリオットには答えず、再び彼の肩をトントンと叩く。
エリオットの目は、マウンドに向けられている。相手の打者が粘って、いつの間にかフルカウントだ。先頭打者の四球だけは避けたいところ。
後ろの客が、またエリオットの肩を叩いた。
試合は中断。キャッチャーがタイムを取って、マウンドに駆寄っている。
「だ~から、何だって聞いて……」
気怠そうに振り向いて、エリオットは言葉を失った。エリオットの後ろには、彼以上にムスッとした表情のリアムが座っている。
「……おう。元気ぃ?」
「うるせーよ。食い逃げ野郎」
言うなり、リアムは両腕をエリオットの体に回してガッチリと固めた。
「あぁ~。わっり。後で払うわ~」
「どうせ払わないだろ。大体、お前、デザートまでしっかり食いやがって」
エリオットを羽交い締めにしながら、リアムはコソッとピーナッツに手を伸ばす。
エリオットはフィールド方向に顔を戻しながら、さりげなくリアムの手からピーナッツを遠ざける。
「よく分かったねぇ~。お前ってば、実は、俺のファンだったりするぅ~?」
「冗談でも笑えないんだよ」
リアムは上着のポケットから取り出したフォークを前の座席に向けて放った。フォークはエリオットの隣の空席に落ちて、カランと小気味よい音を立てている。
「俺なんか探すのに能力使ったわけ……?」
呆れ半分、驚き半分で、エリオットは呟く。
「……ってか、お前、どやって来たの?」
ここ数年のチケットの値上がりは凄まじい。それでなくとも人気球団でチケットが取りにくく、エリオットも今朝ようやく転売サイトでチケットを入手出来たのだ。
「いや~。気前の良い友達がいてさぁ~」
リアムは、ピーナッツに手を伸ばす。
エリオットは羽交い締めにされながらも、限界まで腕を伸ばしてピーナッツをリアムの手から遠ざけている。
「あ~。な~るほど」
不意にトウマ・ブルームフィールド=マツモトの顔を思い浮かべて、エリオットは謎が解けたという様子で頷いた。
球場の壁面に掲載された沢山の広告。それらはブルームフィールド・コーポレーション系列の様々な会社と、マツモト銀行、マツモト自動車、マツモト汽船など「世界のマツモト」を冠する企業ばかり。
そんなスポンサー企業の息子が一声掛ければ、後は何処へでもフリーパスと言う訳だ。
「そういう訳で、ちょっと手を貸せよ」
「どぉ~いう訳よ。俺は嫌だね。どうせ、仕事じゃないんだろ」
ギクリとした様子で目を逸らすリアム。
エリオットは予想通りという顔で、いつの間にかリアムの腕から逃げ出して隣の空席に移っている。
エリオットは、カフェ・クラウンでリアムとセリアが食事しているのを目撃していた。その時の様子から、仕事の話ではない事を察していたのだ。仮に仕事だったとしても、ごねて逃げる気ではいたが。
「俺はね、トーマみたいなボンボンじゃないし、お前みたいなお人好しでもないの。普通の、何処にでもいる、ただのセクシ~なお兄様なの」
「……つまり?」
「飲んで食って、暮らすので精一杯ってこった。俺にタダ働きする余裕なんか無いのよ」
「それは、お前の金遣いが荒いからだろ?」
ピッチャーの手から離れたボールは、外角に大きく外れていく。四つ目のボール球。先頭打者は一塁ベースに向けて歩き出すも、球場内はまだ余裕を感じさせるムード。エースへの信頼は厚い。
リアムはヒョイと椅子を乗り越えると、エリオットの本来の座席に腰を下ろした。彼は座るなり、足下を見て汚いと文句を言う。
「……とにかく、俺は嫌だね。何だったら、金貰ったって今日は嫌だ。今日の俺は、この試合のために生きてんだ」
シーズンは、始まったばかり。しかし、エリオットには、今日のこの一戦がチームの未来を象徴づける大事な試合になる気がしている。
「もう勝ってるじゃん」
リアムは、野球のルールをよく知らない。彼は昔からフットボールが好きだ。
リアムが三点も入っていると主張すると、エリオットはため息交じりに首を横に振った。
「お前ねぇ、相手のラインナップ見てないの? 分かんない? 打って走れる奴らがゴロゴロいんだよ。凡ミスだって命取りなんだわ」
「へー」
「『へー』って、お前ねぇ……」
少しは教えてやらないと――そんな事を思ってエリオットが視線をリアムに向けた時、彼の後ろからは嫌な音がした。慌てて視線をフィールドに向けると、輝く様な白球がセンターを抜けていく。
「あ~。本当だ。ピンチってやつ?」
リアムは周囲のムードも気にせず、呑気に言う。
ランナーは一、三塁。
嫌な空気が漂い始めた球場内。
エリオットはピーナッツが盗まれている事に気付いても、もうそちらを構う事もしない。
現れた打者の精悍な顔つき。
息を飲む場内。
減っていくピーナッツ。
あっという間に、ボールカウントはスリー。
そうして追い詰められたエースの放ったボールは、打者の左肘にコツリ。
「これって、次打たれたら逆転?」
リアムはピーナッツの殻をバリバリ剥くのに夢中で、試合は殆ど観ていない。
その隣で、エリオットは青い顔をしている。満塁。いや、それが原因ではない。
今、この試合を観ている多くのファンは、一つの嫌な予感を覚えていた。そして答え合わせするように、マウンドに向かって監督とコーチ、キャッチャーが近寄っていく。
何かを悟った様子で、項垂れるエース。
人々の視線は、同じ場所に向けられている。そこにあるのは、ガラスの肘――。