××年三月十日
シーポート地区 コンテナターミナル
警察車両が、港を忙しなく行き来している。その様子を離れたベンチで見守りながら、セリアはため息を漏らした。
海中から見つかったのは、地元の有力者であるレッド議員名義の車だ。警察の上層部は議員からの圧力に耐えきれず現場に無茶な要求を繰り返し、現場の人間は指示を下す上司に恨みを募らせる。
「中間管理職の辛いところ、ですか?」
「あら。そんな風に感じたことは無いわ。多少の不満を向けられる位が丁度良いものよ」
アラン・シモンズに手渡された紙コップを受け取りながら、セリアの目は現場でモタついている部下に向けられている。
引き上げた車は岸壁の端に前輪が引っかかった状態で、ろくに調査が進んでいないばかりか、移動もままならない状況だ。
「それに、私の部下にお馬鹿さんはいないもの。ねえ?」
セリアの表情を横目で盗み見て、アランは彼女の機嫌を量る。嫌味を口にしている間は、まだ怒ってはいない。無言になり、頻繁に脚を組み替え、ため息すら吐かなくなってからが恐怖の始まりだ。
「先程、応援が到着したところです。直に車両の移動が開始される見込みですが、その前に状況について確認を」
「そうね。あの様子では、証拠品なんて全て海の中かしら?」
セリアの視線の先では、突然バカッと開いた車のトランクから海水がドバドバと海に向かって流れ出ている。
一体何をどうしたら、引き上げたはずの車がまた海に落ちるのか。すっかり呆れ果てて、セリアは手にしていた紙コップを口に運んだ。
「それでは、僕が――」
「ねえ。ミスタ?」
コーヒーを一口飲んだところで、セリアがそっと脚を組み替える。
アランはその様子に気付いたが、逃げる間もなく彼はネクタイを掴まれていた。
「相変わらず、変装がお上手ね。フェイスレス。また捕まりたいの?」
「――俺は、君に捕まりたくて罪を重ねているのかもしれないな」
「困った人ね」
誤魔化せないと悟って、アランはいつもとは違う笑顔を見せる。
アラン・シモンズに変装していたのは、フェイスレスの名で知られるエリオット・スミスという男だった。彼もまた、アシュケナージの言う「アルゴスの目」の一人である。
「なるほど。コーヒーか。俺もまだまだ甘いねえ」
「そうね。朝はブラック、午後はミルクを淹れて少し温めに。私の部下が間違えたことはないの」
「そりゃあ良いことを聞いたな。俺が毎日、淹れてもいいかい?」
「ダメ」
「厳しいねえ」
ニッと笑うと、エリオットはセリアの手からスルリと逃げて走り出す。セリアが立ち上がって太もものホルスターに手を伸ばした時には、彼の姿は既に見えなくなっていた。
地面に転がった二つのカップから流れ出たコーヒーが、古びたコンクリートの上に染みを作っている。
エリオットが走り去って行った方を見つめながら、セリアはMWに触れてアランに電話をかけた。コール音は存外に大きく、そして近くから聞こえている。
「警部? ご用ですか?」
セリアが振り返ると、彼女の後ろには紙コップを二つ持ったアランが立っていた。走って戻ってきたらしく、彼の頬は薄らと赤い。
「……もっと早く気付くべきだったわ」
ため息を漏らして、セリアは髪をかき上げる。アランからカップを受け取ると、セリアは迷わずそれに口をつけた。
「あなた、タバコは吸わないもの」
最初に受け取ったカップから微かに感じたタバコの香りを思い出しながら、セリアは自分の初歩的なミスを恥ずかしく思っている。
アランはセリアの様子を不思議に思いながら、同じようにしてコーヒーを口に運んだ。
心地の良い風。
コーヒーの香り。
遠くからは、ドボンッという不吉な音――。
車両の移動にはまだ時間がかかりそうだなと、アランはセリアの顔を見られずに目を閉じた。
*
「おい、そこのお前」
声をかけられて、リアムは思わず体を強ばらせた。港の倉庫までやってきたは良いが、警官の多さに近付くことすら出来ず、物陰に隠れていたところで声をかけられたのだ。
「いや、僕は、怪しい者では」
「怪しいだろ。こっちに来なさい」
警官に腕を掴まれてリアムは物陰から引き出され、そのままパトカーの後部座席へと押し込まれていく。リアムは抵抗もままならず、後部座席のシートに転がった。
「手荒過ぎるだろ! 裁判やったら勝つぞ!」
「はいはい。裁判なんか無駄だよ~っと」
運転席に乗り込むなり、警官は振り向きながら顔を手で拭う。その一瞬で、警官は別の顔に変わっていた。目元と口元に皺の刻まれた、無精髭だらけの顔。ろくに櫛も入れていない髪。青い瞳。
「エリオット!」
「おう! ……なんか、お前臭うな。ゴミ捨て場で暮らしてんの?」
「色々あったんだよ」
「あらそう。お前も大変だねぇ。ま、取り敢えず移動だな」
エリオットが手で拭うと、彼の顔は再び警官のものになっている。彼は口笛を吹きながら、車を走らせ始めた。
エリオットは、変装の達人だ。普段は四十そこそこの小汚い男にしか見えないが、彼は一瞬で誰にでも変装することができる。
リアムがサイコメトリーで捜査の切掛けを掴み、トウマとレイが足で、エリオットが彼方此方に忍び込んで情報を集める。それが、彼らが一緒に仕事をする時の大まかな役割だった。
「取り敢えず、警察側の資料送っとくぞ~」
運転しながら両手を離して、エリオットはMWを操作している。最近老眼が始まったらしい彼は、近くの物を見るのが辛い様子。
適当に車を捨てて別の手段で事務所に帰ろうと話しながら、リアムは受信した資料を確認し始めた。
「キャサリン・レッド。十二歳。父母と三人暮らし。カレッジでは経済学の……カレッジ?」
「優秀だねぇ。親父の方も飛び級で大学出てるからな。血なんだろ」
「大学生だなんて情報は、聞いてなかったな」
「あらら。不貞腐れてんの? 珍しいじゃない」
エリオットは何処からともなくタバコを取り出して咥えると、服の内側をゴソゴソと弄ってライターを探し始めた。
リアムはエリオットの言葉に反発するように、視線を窓の外へ移す。
リアムは、セリアが全ての情報を寄越すとは思っていない。アシュケナージの命を受けて動いているとはいえ、警察組織の一員である以上、彼女には立場があるからだ。
リアムが引っかかりを感じているのはもっと別のことだったが、それを口にするのは良い気がしなかった。言葉にすれば、現実に変わるような気がして嫌なのだ。
とにかく、先ずは事務所に戻ろうとリアムは決意した。熱いシャワーを浴びて清潔な衣服に着替え、コーヒーを一杯。そうすれば、思考もマシになるだろう。
「今日はやたら混んでんなぁ」
煙を吐き出しながら、エリオットが呟く。
リアムが視線を前に戻すと、フロントガラスの向こうには延々と車が並んでいる。パトカーは渋滞とは無縁にも思えたが、身動きがとれない程の混みようでは打つ手が無い。
「連行して行く体で、このまま車捨ててくか~」
「気軽に言ってくれちゃって。知り合いに見られたら最悪だ」
「知り合いねぇ。家賃回収オババくらいか?」
「大家さんて言えよ」
毎月末に事務所のドアをノックしに来る眼鏡の老女を思い出して、リアムは笑いを噛み殺した。彼女のノックは、工事現場のドリルのようだ。
「しっかし、こりゃマジで動かねぇぞ。奥の方、救急車来てねえ?」
ハンドルに頭を乗せるようにして身を屈めて、エリオットは目を細めて遠くを見ている。複数の救急車が駐まっているようで、辺りには人だかりも出来ているようだ。
「……そうだった。あのバカップル……」
「ああ~。そういう感じぃ?」
二人は同じカップルの姿を思い浮かべて、一方は額に手を当ててため息を漏らし、もう一方は笑みを浮かべている。
歩いた方が早いなと、二人は同時に口にした。