××年三月十日
ブラクストン地区 チェスナッツ通り
クシャミを一つ。リアムは体を震わせて、両手で左右の肩を摩った。陽が落ちるにはまだ時間があるというのに、風は冷たくなり始めている。季節は、まだ冬を引きずっているようだ。
隣を歩くエリオットのタバコの煙が路地裏に溶けていき、石畳を歩く音が人の往来の中に消えていく。街の中に居ながら街に没していくような感覚は、素敵だ。それは孤独を消してくれる。
アパートの入り口まで来たところで、リアムは裏に回って階段から上がれとエリオットに指示した。エレベーターの調子が悪い事を思い出したのだ。
旧市街でエレベーター付きの建物は多くない。だから、十数年前の大規模なリフォームで、何処よりも早くエレベーターを設置したことは大家の自慢だった。その存在が、建物の価値を上昇させたかどうかは別として。
「最期がオッサンと二人きりじゃ不幸だ」
リアムは、過去に見聞きしたことのある悲惨なエレベーター事故のニュースを思い出している。
「お望みなら、セクシーなオッサンに化けてやるけど?」
「オッサンが嫌なんだってば」
建物の裏に回って、リアムは壁に打ち付けられた傾いた事務所の看板を地面と平行に直した。マーシャル調査事務所。探偵を名乗らないのは、州の正式なライセンスを取得していないからだ。
二人は取り留めのない言葉を交わしながら、外階段を上がって三階へと急ぐ。
この小さなアパートは各階に二部屋ずつ並んでいて、一階の南側は大家が使っている。三階にある部屋はメゾネットになっていて、屋上には不要になったソファなどの家具が放置されていた。
リアムの部屋は、三階の北側だ。メゾネットとはいうが、狭い部屋同士を階段で繋いでいるだけだから使い勝手が宜しくない。その上、空調設備はポンコツで、年中寒風が吹き込んでくる。
鍵を使って家に入ると、リアムの鼻が何時もの匂いを捉えた。自分の家の匂い。外から帰った時だけ感じられる、不思議と心地よいものだ。
玄関を入って直ぐ右側には洗面所があり、正面の廊下の先にはリビングがある。向かい合わせに置かれたソファに、小さなローテーブル。その向こうには、リアムのデスク。全部、貰い物だ。
デスクの背面には、錆びて開かない大きな窓がある。街路樹の高さがピッタリなこともあり、うまい具合に部屋が隠れるのでカーテンは取り付けていない。
リアムの部屋の一階部分は、名目上、彼の事務所ということになっている。
元々、リアムは自分の能力を生かして捜し物をする何でも屋のようなことをやっていたが、事務所を構えるつもりはなかった。電話があれば、仕事を受けることは可能だからだ。
セリアの前でつい見栄を張って自宅を「事務所」と言ってしまってから、彼の家は人の訪問を許す場所になった。元来、リアムは家に人を招くのが好きなタイプではなかったのだが。
「シャワー使うから。こっち来んなよ」
「野郎に興味ないですぅ~」
エリオットは部屋に入るなり、事務所のソファにドカリと腰を下ろした。
灰皿代わりの缶には、吸い殻の山。その上に新たな吸い殻を器用に乗せて、エリオットは新しいタバコに火を点ける。タバコが無い時は酒。酒が無い時はカジノ。それが、エリオットという男だ。
リアムが洗面所でドロドロのコートを脱いだ時、彼の背後から音がして、ドアの向こうからはトウマとレイが姿を現した。
「おう。嬢ちゃん。トーマ。まーた派手に暴れやがって」
「よう。オッサン。スロットは勝ったのか?」
「かったかー?」
トウマの真似をしながら、レイもエリオットの対面にあるソファに腰を下ろす。彼女の腕の中の紙袋からは、飲み物やお菓子の包装が見えている。
「勝ってたらな、今頃はビール片手に踊ってんだわ。お、嬢ちゃん、それくれ」
「はい。どーぞー。プリーズ」
片言の言葉で返して、レイはエリオットの手に荒々しく紙袋を押しつけている。
「トーマ。さぁては、嬢ちゃんに取り敢えず『プリーズ』付けときゃ良いって教えてんだろ?」
「へえ。不思議だな。どうして分かったんだ?」
「馬鹿たれ」
ガハガハ笑って、エリオットは紙袋の中を覗いている。
トウマはレイの拙い会話にエリオットが付き合うのを眺めていたが、暫くすると洗面所の入り口に凭れてリアムに声をかけた。
「リアム。さっきは悪かったな。無事で何よりだ」
「嘘だろ? 無事に見える?」
「まあ、な。……そりゃあ、変わった香水だな」
トウマが笑って誤魔化そうとするのを見て、リアムもつられて笑った。悪気が無いだけに質が悪いが、レイや喧嘩のことが絡まなければ、トウマは気の良い男だ。
「急げよ。先、食ってるぜ」
「なんだ。待つ気はないの?」
「もう、オッサンが食ってる」
ヒラヒラと手を振って、トウマもソファへ移動する。
エリオットは紙袋の中にあったサンドウィッチに齧り付いていて、レイはトマトソーダを飲んでいた。トウマは何時ものようにレイの隣に座って、素手でコークの栓を抜いている。
トウマ、レイ、エリオットがリビングで会話しているのを眺めて、リアムはふと胸を締め付けられるような感覚を覚えた。それは懐かしさにも似た、誰の中にもある感覚だ。
不意に、何処かに帰りたいと思う事がある。それが何処で、どんな場所なのかは分からない。ただ、そこが本当に帰る場所だという事だけは分かる。そんな感覚が、リアムにもある。
不思議な感覚を振り切るように軽く頭を振って、リアムはシャワールームの扉に手をかけた。すると同じタイミングで、コツコツと玄関ドアをノックする音が響く。
ババアかと、エリオットが小声で訪ねる。
リアムは、直ぐにそれを否定した。大家は小柄な女性だが、見た目に似合わず爆音でドアをノックする。彼女がこんなに優しくドアをノックしたことは過去に一度としてない。
リアムは風の音だと考えたが、ソファに座る仲間たちの表情はそれを否定していた。レイに至っては、ドアの外を警戒して体に黒い霧を纏い始めている。
「えっと、どなたです?」
警戒しながら、リアムはドアの外に向かって尋ねる。
返答はない。
しかし、間を置いて、再びコツコツとドアをノックする音がした。
「風で、なんか当たってんじゃねえの?」
そう言いながらも、エリオットは既に身を屈めて体を半分ソファに隠している。
「トウマ。壊す? あれ」
レイがトウマに体を寄せて、耳元で訪ねる。その間、彼女の目はドアから離れない。
トウマはレイの頭を撫でて彼女を制止しているが、彼の手はいつでもナイフを引き抜ける位置に留められている。
リアムはドアの外に何かが居ることを確信して、仕方なく玄関のドアノブに手をかけた。万が一のことがあっても、リビングにいる彼らは無事だろう。自分は、隣の洗面所に逃げ込めば良いのだ。
覚悟を決めて、リアムはドアを勢いよく開いた。古いアパートのドアは軋んで悲鳴を上げながら、全開になる。
「……なんだこれ?」
ドアの外には、誰もいない。しかし、そこには小さな人形が落ちていた。それは、フリルやレースをふんだんに使った赤いドレスを纏っている。金髪に青い目の可愛らしい人形だ。
リアムは首を傾げながら、人形を拾って部屋に戻った。
リビングのソファには、拍子抜けしたようなトウマの姿。エリオットは、何故かソファから落ちて腰を痛めている。レイだけは警戒を解いていないが、彼女にも違和感の正体は掴めていない様子だ。
「あ~ら。カワイイお人形さんですこと~!」
腰を摩りながら、エリオットが立ち上がる。
「なんだろうね? というか、なんだか見覚えがあるような……?」
人形の腰を持って、リアムはドレスの生地を確かめようと裾を持ち上げた。ドレスの端は、何やら千切れてしまっている。
「ヘンタイ!」
突然の罵倒に驚いて、リアムはエリオットと顔を見合わせた。勿論、彼ではない。トウマもレイも驚くばかりで、彼らが声を発していないことは確かだ。
嫌な予感を覚えつつ、そんな訳がないと言い聞かせながら、リアムはそっと人形の口元に耳を当てた。
「止めろって言ってんのよ。このドヘンタイが!」
リアムは人形から耳を離すと、仲間たちの顔を見回した。
仲間たちは、既にリアムの考えを理解している。彼らは無言で深く頷くと、リアムの考えに賛同してみせた。
安堵して、リアムは微笑む。こういう時、気の合う仲間がいることは幸せだ。言葉がなくとも、皆は同じことを考えている。
「……じゃあ。さようなら」
人形をドアの外にそっと置くと、リアムは扉をバタンと閉めた。