××年三月十日
イーストベイチェスター地区
イーストベイチェスター地区。それは、ベイチェスター北東部にあるチャールズフォードタウンと、ノースエンドエリアに面したベイチェスター湾を挟んだ対岸に位置している。閑静な住宅街であるサウスエンドや歴史ある高級住宅街の並ぶチャールズフォードとは異なり、空港などの比較的新しい建物が並ぶエリアだ。
空港から離れた高台には、富裕層向けのマンションが建てられている。数年前に大規模な再開発によって誕生したその区画は、豊かな自然と最新のテクノロジーとが共存する場所だ。
住民たちからブルーダイヤモンドの愛称で知られている一際目立つ美しいガラス張りの建物も、この区域に存在している。入居しているのは、選ばれた数世帯のみ。
誰もが羨むこの場所には、旧市街のような湿っぽさも、学生街のような活気も、港湾地区のような騒々しさもない。
この場所から見えるのは、むせかえるような緑と、空と海の美しいブルー。燃えるような夕日。ベルベットの様な夜空だ。
そんなマンションの一室で、トウマはデスクに向かっている。リアムの住んでいるアパートが丸ごと入ってしまいそうな広い空間は、爽快な開放感だけでなく孤独をも煽った。
トウマは、ふと気付く。モニターの隅。暗い部分に、小さなネズミが映り込んでいる。オーバーオールに麦わら帽、農業用のフォークを手にした人形だ。
掌サイズのその人形は、普段は花瓶の隣やらプランターの端に乗せられている。それが今は、モニターの隅に映り込む位置で右に左にトコトコと歩いているのだ。
「ネズミが脱走してるぞ。レイ」
顔をモニターに向けたまま、トウマが声を掛けた。
トウマの後方にあるソファの後ろから、レイがひょいと頭を出す。彼女の手には、ネズミの人形が握られている。
「ネズミじゃないよ。あるじゃーのん」
「良い名前だ。アルジャーノンは、何て言ってる?」
「んー。『そろそろ、ごはんを食べようよ』って」
レイは、台詞に合わせて人形を上下させた。白いネズミは、何時も穏やかな笑みを湛えている。
トウマは伸びをすると、チェアに体を預けて首をぐるりと回した。現場付近から回収したチップのうち、内容の確認が出来たのはまだ三分の一にも満たない。
だが運の良いことに、トウマの捜し物は比較的早く完了していた。今、トウマの脳裏には、レッド議員と握手を交わしていたトマス・ムーア警部の姿が浮かんでいる。
(利用するつもりが、逆に喰われたってところだな)
トウマは、今回の事件がレッド議員の自作自演ではと考えていた。そうであれば、事件現場付近のカメラの映像にトマス・ムーアや彼の部下の姿が残っていることにも納得がいく。
レッド議員は何らかの事情で娘の誘拐事件を企て、警察の一部に圧力をかけてもみ消させようとした。だが計画は失敗し、今度は、その事実を元に議員が警察から脅されているのではないだろうか。
「トマス・ムーアには、随分前から『怖いお友達』の噂があった。もう少しだけ調べたいんだ」
「えー。どうせ、もう見つけてるくせにー」
「まあな。でも、どうせなら確実な証拠が欲しいだろ?」
「知らなーい。そんなの、だれにだって作れちゃうー」
口を尖らせて、レイはソファの上にゴロリと横になる。彼女はどちらかといえば体を動かす方が得意で、パソコンに向き合ってじっとしているのは好きではなかった。
横になってネズミの鼻先を撫でているレイを見て、トウマは自然と力が抜けている自分に気付く。
「仕方がないな。おいで」
トウマが手を広げて呼ぶと、レイはパッと立ち上がってトウマの腕の中に飛び込んだ。
「アルジャーノンは、何て言ってる?」
「あるじゃーのんは、もう寝ちゃった」
レイが直前まで転がっていたソファの上では、ネズミの人形が仰向けに寝転んでいる。
トウマは小さく笑って、レイの髪に手を伸ばす。
すると、同じタイミングで、トウマの左手首のMWが鳴った。相手は、リアムだ。彼は、腕にキャサリンを抱いて歩いている。
「どうした? リアム」
「どうしたも、こうしたもさあ! ……え。ごめん、タイミング悪いやつ?」
「いや?」
「ええ……。あ、そう……?」
MWから投影されたリアムは、トウマとレイを見てなんとも言えない表情を浮かべている。普段と変わらない様子で電話に出たトウマと違って、レイはやや不満そうだ。
トウマが気にせずに再び要件を訪ねると、リアムは困った様子で頬を掻いた。
「それがさあ、シモンズがしつこいんだ。地下水道から上がれなくて困ってるんだよ」
「地下水道? リアム。位置情報、送れるか?」
電話の向こうから、送ったとリアムの返事。
トウマが確認すると、リアムはバックベイ地区とサウスエンド地区の境目辺りを行き来していることが確認できた。さらに衛星画像を確認すると、辺りには警察車両が頻繁に行き来している。
「VIP待遇だな」
「笑い事じゃないんだって。手首も、こんなんだよ」
リアムは手錠を見せようとしたが、それは上手く映らなかった。
「悪い、悪い。迎えに行くぜ。……ところで、データチップの内容について話しておきたいことがある」
「実はさ、僕も、ちょっと聞きたいことがあるんだ。レイの分野かもしれないけど……」
名前を呼ばれて、レイは訝しげな様子で首を傾げた。
トウマがギフトに関することかと尋ねると、リアムは歯切れ悪く返事する。トウマはリアムの反応から、この内容はキャサリンには聞かれたくないことなのだと察した。
「オーケイ。それじゃ、地図を送るから移動してくれ。十五分で行く」
「ありがとう! 恩に着るよ~」
「オッサンも一緒か?」
「エリオット? 知らないよ。どうせ飲み屋でしょ。それじゃ後で」
通信が切れると、レイが消えたリアムの残像を目で追うように宙を眺めた。
「いやなもの、見たんだね。たぶん。……向かないね。あれ」
レイの言いたいことを悟って、トウマは彼女の頭をポンポンと撫でた。
人の残した強い感情や記憶を読み取る力は、時には苦痛の種になる。リアムのような性格では、人間の負の部分を引き受けるには酷だろう。
「最後まで、一緒、いてね。トウマ」
トウマの肩に顔を寄せて、レイがポツリと呟く。堅く目を閉じるその様は、祈るようでもある。
「一緒だ。最期まで」
レイを力強く抱きしめて、トウマは迷い無く言い切った。彼の目に映る部屋には、高価な家具や美術的に価値の高い調度品が並んでいる。だがそのどれも、トウマの心を突き動かす事はなかった。
二人を変えたのは、互いの存在だけ。
正面から向き合って見つめ合うと、やがて二人はガレージに向かって歩き出した。