あの後、だいぶ長居してしまったツクヨミからログアウトし、時計を確認すると、時刻は軽く深夜一時を回っていた。
ド平日。数時間後には学校へ行かなければならない。
俺は慌てて寝る準備を済ませ、急いで布団に潜り込んだ。
さて、寝るか。
そう思ったのだが、最後にヤチヨからこんなことを言われていたのを思い出した。
『タブレット、布団の横に置いてから寝てね』
……意図がまったくわからん。
とはいえ、逆らったら後が怖い。
せっかく布団に入ったというのに、俺は再び体を起こし、言われたとおりタブレットを枕元に置いた。
そして、今度こそ眠りにつこうと目を閉じたのだった。
――朝。
「…………ん」
カーテンの隙間から差し込む朝日が、俺の顔を容赦なく照らしていた。
眠い。
とにかく眠い。
昨夜、ツクヨミからログアウトしたのは深夜一時過ぎ。そこから寝る準備をして布団に入ったわけだから、睡眠時間は決して長くない。
おまけに、昨日はいろいろありすぎた。
8000年ぶりに再会した幼馴染が実は仮想空間にいて、手を握ったら昔の記憶が一気に蘇り、泣かれたと思ったら一緒に行動する約束をさせられた。
……うん。
改めて考えても意味がわからん。
「……夢だったらよかったのに」
そんなことを呟きながら、俺は寝返りを打った。
そのとき。
『おはよー、朔!』
「…………」
…………ん?
今、何か聞こえたような。
『朔ー? 起きてるー?』
「…………」
俺はゆっくりと目を開けた。
そして、枕元へ視線を向ける。
そこには、昨夜言われたとおりに置いておいたタブレットがあった。
画面は明るく点灯している。
そして、その画面いっぱいに、見慣れた銀髪の少女が映っていた。
『あ、起きた! おはよう、朔!』
「…………」
『ん? どしたの? 寝ぼけてる?』
「…………ヤチヨ?」
『はーい! ヤチヨちゃんでーす!』
「…………」
俺は無言でタブレットを手に取った。
画面を確認する。
通信状態、良好。
アプリケーション、起動中。
表示されているアバター、ヤチヨ。
……うん。
何もおかしくない。
いや、おかしいだろ。
「……なんでいるんだよ」
『え? だって、昨日タブレットを枕元に置いて寝てねって言ったでしょ?』
「言ってたな」
『だから来たんだよ!』
「どういう理屈だよ!?」
思わず叫んでしまった。
朝っぱらから何を言っているんだ、こいつは。
そもそも、ここは俺の自宅だぞ。
俺の寝室だぞ。
仮想空間の住人が、なんの断りもなく朝から現れる場所じゃないだろ。
『いやー、朔の寝顔を見られるなんて、技術の進歩ってすごいねぇ』
「おい。今なんて言った?」
『ん? 技術の進歩ってすごいなーって』
「その前だよ、その前!」
『朔の寝顔?』
「見たのか!?」
『うん!』
「うん! じゃねえよ!」
俺は慌てて布団を頭まで引っ張り上げた。
いや、待て。
落ち着け、俺。
相手はタブレットの中だ。物理的に何かできるわけじゃない。
……できないよな?
「……お前、いつから見てたんだよ」
『んー? ヤッチョも朔と別れた後に寝たから、寝顔を見てたのはほんの数時間前からかなー』
「おい……」
『だって、久しぶりに会えたんだもん。寝顔くらい見ていたいじゃん?』
「…………」
ぐうの音も出なかった。
いや、気持ちはわからなくもない。
8000年だ。
8000年も会えなかった相手が、ようやく目の前に戻ってきたのだ。
少しくらい様子を見ていたくなる気持ちも、理解できなくはない。
……理解できなくはないが。
「……ヤチヨ」
『なあに?』
「普通、そういうのは事前に説明するもんだろ」
『あはは! ごめんごめん!』
「絶対反省してないだろ、お前……」
画面の向こうで、ヤチヨは楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見ていると、どうにも強く言い返せない。
昔からそうだ。
こいつは、俺が本気で怒れないことを知っている。
……いや、だからって何でも許されると思うなよ。
「とにかく、俺はまだ眠い。学校に行くまで時間もあるし、もう少し寝る」
『えーっ! せっかく朝から朔とお話しできるのに?』
「どっかの超人と違って、俺には睡眠が必要なの!」
『むぅ……』
ヤチヨは頬を膨らませた。
その仕草が妙に懐かしくて、俺は思わず小さく笑ってしまう。
「……起きたら話くらい聞いてやるよ」
『ほんと!?』
「だから、あと一時間だけ寝かせてくれ」
『……わかった! じゃあ、一時間後に起こすね!』
「いや、起こさなくていいからな?」
『一時間後だね! 任せて!』
「話を聞けぇ!」
俺の抗議もむなしく、ヤチヨは満面の笑みを浮かべていた。
……駄目だ。
こいつ、絶対に一時間後に起こす気だ。
俺は深いため息を吐き、タブレットを枕元に戻した。
そして、布団を頭まで被る。
「……おやすみ」
『おやすみ、朔』
今度こそ静かになった部屋で、俺は目を閉じた。
……頼むから、せめて夢の中くらいは平穏であってくれ。
そんな願いを込めながら、俺は再び眠りについたのだった。
なお。
『……ふふっ……いとかわゆし。ーーおやすみ、朔』
タブレットの画面の向こうで、ヤチヨがどんな顔をしていたのか。
そのときの俺は、知る由もなかった。
――少女が眠りについた、その内側。
意識の深淵にて、ひとつの存在が静かに目を開いた。
肉体もなければ、明確な形もない。
ただ、そこには確かな意思があった。
『……再会、か』
誰に聞かせるでもなく、そいつは呟く。
八千年。
人の一生など幾度となく塵に帰すほどの、長い長い時間。
その歳月を越えて、二つの存在は再び巡り合った。
『随分と遠回りをしたものだな』
声に感慨はない。
あるのは、ただ淡々とした観察者の響きだけだった。
天城朔。
幾度も生まれ変わり、幾度も死を迎え、それでもなお歩み続ける少女。
英雄になれなかった英雄。
輪廻の理から外れながら、なお人として生きようとする、矛盾した存在。
そして今、彼女は再び過去と向き合った。
八千年ものあいだ、置き去りにしてきたものと。
『……おまえは、何を選ぶ?』
問いかける。
答えはない。
少女は眠っている。明日になれば何事もなかったかのように目を覚まし、いつものように憎まれ口を叩き、いつものように誰かのために自分を後回しにするのだろう。
それが、あの少女という存在だった。
『己の身すら顧みず、他者を守ろうとする。愚かと評するべきか、それとも――』
言葉を切る。
まだ、結論を出すには早い。
この少女が何者なのか。
何を成し遂げ、何を失い、最後に何を選ぶのか。
それを見届けるまでは、判定を下すわけにはいかなかった。
ゆえに、そいつは今も彼女の内側に在る。
彼女を守るために。
そして、彼女を見定めるために。
『せいぜい、私を失望させるなよ。天城朔』
その言葉に応える者はいない。
少女はただ、穏やかな寝息を立てていた。
そのすぐ傍らでは、タブレットの画面越しに、ひとりの少女が彼女の寝顔を眺めている。
八千年の孤独を越えて、ようやく手に入れた再会。
その意味を、内側の存在はまだ語らない。
ただ静かに、見定め続けていた。
――もっとも。
ひとつだけ、気に掛かることがあった。
少女の傍らに置かれた、小さな板状の機械。
その向こう側に存在する、ひとつの意識。
『……あれが、八千年ものあいだ彼女を待ち続けた者か』
彼女は、タブレットの画面に映る少女を見つめた。
正確には、見つめているという表現が正しいのかすら定かではない。
そもそも、彼女に人間と同じ視覚があるわけではないのだから。
それでも、分かることはあった。
彼女が、天城朔という存在に向ける感情。
それは、単なる懐旧の念などではない。
長い歳月を経てなお薄れることなく、むしろ積み重なり、深く根を張った執着。
失ったものを、もう二度と手放したくないという願い。
『……なるほど』
神霊は、ほんのわずかに意識を揺らした。
人間の感情など、幾度となく見てきた。
愛も、憎悪も、絶望も。
それらが人を強くすることもあれば、容易く壊してしまうことも知っている。
では、この少女はどうだろうか。
八千年という歳月を越えてなお、再び彼女の隣に立とうとしている。
その願いが、天城朔に何をもたらすのか。
救いとなるのか。
それとも、新たな枷となるのか。
『……見届ける必要があるな』
結論は、まだ出さない。
あの少女が何を望み、何を選び、何を守ろうとするのか。
そして、その選択の果てに何が残るのか。
すべてを見極めるまでは。
彼女は再び、意識を深淵へと沈めようとした。
――その直前。
眠る少女の指先が、ぴくりと動いた。
『…………』
神霊の意識が、わずかに揺れる。
夢を見ているのだろうか。
それとも、無意識のうちにこちらの存在を感じ取ったのか。
確かなことは分からない。
ただ。
少女の口元に、ほんのわずかな変化が浮かんだ。
「……ん、だよ……」
寝言だった。
それだけのことだ。
神霊は、しばし沈黙した。
『……まったく』
呆れたような声が、深淵に落ちる。
『本当に、手の掛かる娘だ』
その声音に、先ほどまでの冷徹さとは異なる何かが滲んでいた。
けれど、それが何なのか。
彼女自身にも、まだ答えは出せなかった。