俺はあの後、ヤチヨに起こしてもらい、朝ご飯を食べて学校へ行く準備を済ませた。
身支度を整えて玄関を出ると、ちょうど彩葉も家から出てきたところだった。
「あ、おはよう、朔」
「おう、おはよ」
そんな偶然もあって、俺たちは一緒に学校へ向かうことになった。
いつもと変わらない朝。
……ただ、一つだけ気になることがあった。
「……彩葉、お前、ちゃんと寝たか?」
「え? うん、一応は寝たけど……どうして?」
「いや、なんか眠そうだから」
彩葉は少しだけ目を丸くしたあと、困ったように笑った。
「昨日、少し遅くまで起きていたからかな。大丈夫だよ」
「その大丈夫ってやつ、便利だよな」
「ふふっ、何それ」
「無理してる奴ほど、そう言うんだよ」
そう言うと、彩葉は何も言い返さず、ただ小さく笑った。
……まったく。
しっかりしてるのはいいけど、もう少し自分のことも大事にしてほしいもんだ。
そんなことを考えているうちに、学校へ到着した。
*
いつもと同じくらいの時間に教室へ入ると、女子二人がこちらに手を振ってきた。
「おはよー、彩葉、朔ー!」
「おー、朔、彩葉、おはよー!」
芦花と真実が、俺と彩葉の机に腰掛けながら挨拶をしてきた。
「おはよ」
「おーっす」
俺たちも軽く返事をして、それぞれ自分の席へ向かう。
「二人とも一緒に来たんだ?」
真実が、俺と彩葉を交互に見ながら尋ねた。
「うん。家を出たところで偶然会ったんだ」
「へえー。偶然ねえ?」
「……なんだよ、その顔」
なぜかニヤニヤしている真実に、俺は思わず眉をひそめた。
「べっつにー?」
「絶対なんか思ってるだろ」
「いやいや、仲いいなーって思っただけだよ」
「そうかよ」
俺は興味なさげに返し、鞄を机の横に掛けた。
隣では、彩葉が困ったように笑っている。
「二人とも、朝から元気だね」
「そりゃあね。朝から面白いものが見られたし?」
「芦花まで何言ってんだよ……」
こいつら、朝っぱらから人をおもちゃにしやがって。
俺が呆れていると、芦花がふと彩葉の顔を覗き込んだ。
「そういえば、彩葉。今日ちょっと眠そうじゃない?」
「え? そうかな?」
「うん。いつもより少しだけ目がとろんとしてる」
「昨日、少し遅くまで起きていたからかも」
「えー、ちゃんと寝なきゃだめじゃん!」
「ふふっ、そうだね。気をつけるよ」
彩葉はいつものように穏やかに笑った。
けれど、どうにも気になる。
「……で、昨日は何時に寝たんだ?」
俺が尋ねると、彩葉は少し考えるように視線を上げた。
「バイトが終わってから勉強してたんだけど……二時くらいかな」
「……は?」
「ええ……」
「ちょっ、彩葉!? ほんとにちゃんと寝て!?」
芦花の声が裏返った。
いや、そりゃそうなるだろ。
バイトが終わってから勉強して、深夜二時に就寝。
それで朝から学校に来ているんだから、眠くならないほうがおかしい。
「でも、やらなきゃいけないことだったから」
「いや、やらなきゃいけないのはわかるけどさ……」
俺は思わず額を押さえた。
こいつ、本当に自分のことを後回しにしすぎだろ。
「……彩葉」
「ん? どうしたの、朔?」
「今日、放課後は予定あるか?」
「今日はバイトもないし、特にはないけど……」
「じゃあ、うちに来い」
「……え?」
「少し休んでけ。今のお前、どう見ても寝不足だろ」
彩葉はきょとんとした顔で俺を見つめた。
「でも、朔に迷惑じゃ……」
「俺が呼んでるんだから、迷惑なわけないだろ」
「……ふふっ」
なぜか彩葉は、そこで小さく笑った。
「何がおかしいんだよ」
「ううん。朔って、やっぱり優しいなって思って」
「……はあ?」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
そう言って微笑む彩葉に、俺は思わず視線を逸らした。
……別に。
ただ、心配なだけだ。
*
そして、放課後。
俺たちは寄り道をせず、まっすぐ家へ帰ってきた。
「お邪魔します」
「おう。適当に座ってていいぞ」
彩葉を部屋に通すと、彼女はソファに腰掛けた。
その表情にはまだ笑顔が浮かんでいたが、朝と同じように、時折まぶたが重そうに落ちている。
「……やっぱ眠いんじゃねえか」
「うーん……少しだけ」
「少しだけ、ねえ」
俺は呆れたように息を吐いた。
「昨日、二時まで勉強してたんだろ。無理して起きてる必要ないから、寝てろよ」
「でも、せっかく朔と一緒にいるのに……」
「寝不足の奴と話しても、俺が気を遣うだけだろ」
「ふふっ、ひどいなあ呼んだのは朔なのに」
彩葉は笑ったものの、やはり眠気には勝てないらしい。
こくり、と頭が揺れる。
俺は少し考えてから、自分の隣を軽く叩いた。
「ほら」
「……?」
「膝枕。ここで寝ろ」
「えっ?」
彩葉が目を見開いた。
「いや、でも……それは、さすがに恥ずかしいよ」
「今さらだろ」
「今さらって……」
「いいから。せっかく休みに来たんだから、ちゃんと休め」
彩葉はしばらく迷っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「ご飯も昨日の肉じゃがの作り置きがあるから」
「……じゃあ、本当に少しだけ」
「はいはい」
彩葉はそっと横になり、遠慮がちに俺の膝へ頭を預けた。
「……なんだか、落ち着かないね」
「そのうち慣れるだろ」
「朔は慣れてるの?」
「いや、別に」
「ふふっ」
何がおかしいんだか。
俺がそんなことを考えていると、彩葉は少しだけ身じろぎをした。
「……朔」
「ん?」
「もう少し、こっちに寄ってもいい?」
「……好きにしろよ」
そう答えると、彩葉はほんの少しだけ俺のほうへ頭を寄せた。
そして、安心したように目を閉じる。
俺は手を伸ばし、顔にかかった前髪をそっと払った。
「ほら。目、閉じろ」
「……うん」
それから、しばらく。
部屋には時計の針が進む音だけが響いていた。
彩葉の呼吸は、次第にゆっくりになっていく。
やがて、小さな寝息が聞こえ始めた。
「……寝たか」
俺は小さく呟き、膝の上の彩葉を見下ろした。
普段の彩葉は、何でも自分でこなそうとする。
勉強も、バイトも、日々の生活も。
誰かに迷惑をかけないように、周りに心配をかけないように。
そうやって、きっと毎日を頑張っているのだろう。
だからこそ、こうして安心しきって眠っている姿を見ると、なんだか不思議な気持ちになった。
「……ほんと、頑張りすぎなんだよ。お前は」
誰にも聞こえないくらいの声で呟く。
俺は彩葉の髪を、もう一度そっと撫でた。
さらさらとした髪が指の間を滑っていく。
起こさないように、優しく。
まるで壊れ物に触れるように。
「……たまには、誰かに甘えたっていいだろ」
返事はない。
彩葉はただ、穏やかな寝息を立てている。
俺はその寝顔を見つめた。
いつもはしっかり者で、落ち着いていて、俺よりもよっぽど大人びて見えることがある。
そんな彩葉が、今は無防備に俺の膝を枕にしている。
……なんだかな。
少しくらい、こういう顔を見せてくれてもいいのに。
そう思った瞬間、自然と頬が緩んだ。
普段のぶっきらぼうな顔からは想像もできないほど、穏やかな笑みだった。
「……おやすみ、彩葉」
そっと声をかけ、もう一度髪を撫でる。
彩葉がその笑顔を見ることはない。
だからこそ、自然に浮かんだ笑顔だった。
誰かを守るとか、何かを背負うとか。
そんな大層な理由なんてない。
ただ、目の前の大切な子に、少しでも安心してほしかった。
今はそれだけでよかった。
……まあ。
起きたら、またいつもどおりに接するつもりだけど。
こんな顔を見られたら、きっと恥ずかしくて仕方がないからな。
――静かだ。
つい先ほどまで聞こえていた彩葉の声も、今ではすっかり聞こえなくなっていた。
タブレットの画面越しに見えるのは、ソファに座る朔と、その膝の上ですやすやと眠る彩葉の姿。
朔は起こさないように気を遣っているのか、ほとんど身動きひとつしない。
ときおり、彩葉の顔にかかった髪をそっと払ってやるくらいだ。
『……ふふ』
思わず、笑みがこぼれた。
彩葉が眠っている。
それも、あんなに安心しきった顔で。
普段は自分のことを後回しにして、アルバイトに勉強にと頑張っている子だ。誰かに甘えることだって、きっと簡単ではないのだろう。
だからこそ、今くらいは何も考えずに休んでいてほしい。
そう思う。
思うのだけれど。
『……いいなぁ』
ぽつりと、本音がこぼれた。
朔の膝の上で眠る彩葉。
その頭を優しく撫でる朔の手。
あの手を、私だって知っている。
八千年前、何度も触れた手だ。
一緒に歩いて、食事をして、眠るときには隣にいて。
何気ない毎日の中で、当たり前のように触れていた。
それなのに。
今の私は、こうして画面の向こうから眺めることしかできない。
『……ずるいなぁ、朔』
責めるつもりなんてなかった。
彩葉が悪いわけでもない。
朔が彩葉を大切にしていることだって、嫌なわけじゃない。
むしろ、嬉しい。
あの子が誰かに優しくできることも、誰かを安心させられることも。
私が知っている朔が、今もちゃんとここにいるのだと感じられるから。
けれど。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけでいいから。
ーーああしてほしいと思ってしまった。
ーーああしたかったと思ってしまった。
八千年も待っていたのだから。
二人には再会できたら、伝えたいことも、聞きたいことも、山ほどあった。
どこにいたのか。
どうしていなくなったのか。
どんな時間を過ごしてきたのか。
そして、もう一度会えたら、今度こそ絶対に離さないと。
なのに、いざ再会してみれば、彩葉も朔も相変わらずで。
自分のことは平気で後回しにするくせに、誰かが困っていれば放っておけない。
私がどれだけ心配しているのかも知らないで、平然と笑ってしまう。
『……ほんと、変わらないんだから』
呆れたように呟いて、私は画面に映る朔を見つめた。
朔は彩葉の寝顔を見下ろしていた。
その表情は、いつものぶっきらぼうな顔とは違う。
どこか柔らかくて、穏やかで。
本人はきっと、自分がそんな顔をしていることにも気づいていないのだろう。
――ああ。
私は、この顔を知っている。
ずっと昔から、知っている。
だからこそ、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
もう一度、この子達の隣に立ちたい。
画面越しではなく。
手を伸ばせば届く距離で。
名前を呼べば、振り向いてくれる距離で。
ーーそして、できることなら。
今度は私も、あの手に甘えてみたい。この手で甘やかしたい。
『……朔、彩葉』
声に出して名前を呼んでみる。
当然、返事はない。
朔は彩葉を起こさないように、そっとその髪を撫で続けていた。
私は少しだけ頬を膨らませた。
『……今度は、私の番だからね』
誰にも聞こえない、小さな宣言。
彩葉が眠っている今なら、少しくらい独り占めしたっていいだろう。
……彩葉を独占するのも、ずるいけど。
もちろん、彩葉が目を覚ましたら、そんなことは言わない。
私はちゃんと、いつもどおりのヤチヨでいる。
でも。
朔と二人きりになれたら。
八千年分の寂しさを、少しくらい埋めてもらったっていいはずだ。
彩葉にはまだ会えない。確定した未来がどうなるのかも今じゃわからない。
でも、あの彩葉のことだ。どんな未来に進んでも彩葉はきっと変わらない。
そう考えると、自然と笑みが浮かんだ。
『……覚悟しててね、朔。彩葉も、再会できるその日まで、たっくさんお歌を届けるからね。』
画面の向こうの朔は、そんな私の思惑など知る由もなく。
眠っている彩葉の頭を優しく撫でながら、静かに微笑んでいた。