結局、俺はスマコンを買った。
数十万円。
数十万円だ。
「…………」
帰宅してから、改めて購入履歴を確認した俺は、そっとスマートフォンを伏せた。
ふっ……見なかったことにしよう。
そうしよう。
人生、時には勢いも大切だ。
……いや、勢いで済ませていい金額じゃねえだろ。
「はあ……」
深いため息をつきながら、俺は箱を開封した。
中に入っていたのは、専用のデバイスと簡単な説明書。それから、初回起動時の設定について書かれた案内だった。
思ったよりもシンプルな構造らしい。
もっとこう、複雑な機械が入っているものだと思っていた。
「ま、考えても仕方ねえか」
説明書をざっと読み、必要な設定を済ませる。
そして、デバイスを装着した。
――これで、ツクヨミに行ける。
昨日までは、名前すら曖昧だった仮想空間。
それなのに、今は妙に胸が騒いでいた。
期待しているのか。
それとも、怖がっているのか。
自分でもよくわからない。
「……よし」
俺はベッドに腰を下ろし、初回接続のボタンを押した。
次の瞬間。
視界が、白く染まった。
*
――月が、あった。
目の前に広がるのは、どこまでも続く夜空。
その中央に、巨大な月が浮かんでいる。
周囲には無数の光が瞬き、幻想的な光景が広がっていた。
空中を走る光の軌跡。
現実ではあり得ない景色が、当たり前のように存在している。
「…………へえ」
思わず、そんな声が漏れた。
正直、驚いた。
仮想空間というものを、俺はもっと無機質なものだと思っていた。
所詮はデータ。
どれだけ精巧に作られていようと、現実とは違う。
そう考えていたのだが。
「……すげえな、これ」
見上げれば、夜空を流れる光の粒。
もちろん、すべてが現実のものではないのだろう。
それでも、ここに立っているという感覚は、驚くほど自然だった。
俺はしばらく、その光景に見入っていた。
――綺麗だ。
そう思った。
そして、なぜだか。
ひどく懐かしかった。
「……またかよ」
最近、こんなことばかりだ。
知らないものを見て、懐かしいと感じる。
知らない名前を聞いて、胸が痛くなる。
まるで、自分の中に空白があるみたいに。
その空白を埋めるために、何かが必死に手を伸ばしている。
そんな気がした。
俺は小さく首を振る。
今は、そんなことを考えていても仕方がない。
せっかく高い金を払ったんだ。
まずは、この世界を楽しもう。
「……で、ヤチヨはどこにいるんだ?」
俺は周囲を見回した。
スマコンを買った目的は、もちろんツクヨミそのものにも興味があったからだ。
だが、それ以上に。
昨日、モニター越しに見た少女。
あの悲しそうな顔が、どうしても頭から離れなかった。
名前を呼んだ瞬間に跳ねた心臓。
聞こえた気がした声。
そして、あのお守り。
すべてが偶然だとは、どうしても思えなかった。
「……とりあえず、案内でも探すか」
そう呟いたときだった。
――声が聞こえた。
遠くから、微かに。
透き通るような声が、夜空に溶け込んでいく。
「…………」
俺は顔を上げた。
聞き覚えのある声。
忘れるはずもない。
昨日、あの場所で聞いた声だ。
ヤチヨ。
彼女の歌声だった。
世界の音が急に遠くなる。
まるで、その声だけが俺に届くように、世界そのものが静かになったかのようだった。
――こっち。
誰かが、そう囁いた気がした。
「……え?」
俺は振り返る。
そして、向いた方向には一人の女性が立っていた。
「こんばんは」
そう、ずっと会いたかった人がそこに立ち、優しくこちらに微笑んだのだ。
*
長い髪。
穏やかな表情。
そして、どこか現実離れした美しさ。
昨日、モニター越しに見た姿と同じだ。
ヤチヨ。
彼女は大勢の観客に向けて、歌を届けていた。
その声は、昨日と変わらず優しかった。
けれど。
「…………」
俺は、どうしても目を離せなかった。
胸の奥が、ざわついている。
何かが違う。
昨日と同じ声。
同じ姿。
同じ歌。
それなのに、今はもっと近くに感じられた。
手を伸ばせば、届くような距離。
そんなはずはないのに。
――どうして。
不意に、頭の中で声が響いた。
昨日と同じ声だった。
いや。
正確には、もっと古い記憶の奥底から聞こえてくるような声。
――どうして、今になって。
「っ……!」
頭の奥が、ずきりと痛んだ。
視界が揺れる。
一瞬だけ、別の景色が重なった。
夜空。
波の音。
誰かと並んで座っている、自分。
その隣で、笑っている少女。
顔は見えない。
けれど、その笑い声だけは。
なぜだか、鮮明に聞こえた。
――朔。
「…………え?」
今、誰かが俺を呼んだ。
間違いなく。
俺の名前を。
けれど、その声はヤチヨのものとは違っていた。
もっと幼くて。
もっと無邪気で。
それなのに、どこか寂しそうな声だった。
――朔。
もう一度。
今度は、はっきりと。
俺は思わず、胸元を押さえた。
心臓が、痛いくらいに脈打っている。
「……誰だよ」
声が震えた。
「……誰なんだよ、お前」
答えはない。
そのとき。
ヤチヨが、ふと顔を上げた。
そして。
視線が、ぶつかった。
「…………」
彼女は、止まった。
この空間の空気が、一瞬だけ凍りつく。
ヤチヨは、俺を見つめていた。
昨日と同じように。
けれど、今度は違った。
彼女の瞳が大きく見開かれる。
唇が、微かに震えた。
「……うそ」
かすかな声が聞こえた。
「そんな、まさか……」
彼女は一歩、こちらへ踏み出した。
その表情には、驚きと戸惑いが浮かんでいる。
そして、その奥に。
長い時間をかけて押し殺してきたような、深い悲しみがあった。
「……朔、なの?」
――その瞬間。
俺の中で、何かが軋んだ。
知らない。
俺は、この人を知らない。
なのに。
その声を聞いた途端、どうしようもなく。
どうしようもなく、泣きたくなった。
「……っ、は……」
息が詰まる。
視界が滲む。
なんだよ、これ。
どうして。
どうして、俺は。
この人に、こんな顔をさせたくないと思っているんだ。
ヤチヨは何かを言おうとしていた。
けれど、言葉にならないらしい。
彼女はただ、俺を見つめていた。
まるで。
もう二度と会えないと思っていた誰かが、突然目の前に現れたみたいに。
俺は震える唇を開いた。
「……あんた」
知らない人のはずだ。
初めて会ったはずだ。
それなのに、口から出かかった言葉は。
――ごめん。
だった。
なぜ謝ろうとしたのか。
何に対して謝ろうとしたのか。
俺自身にも、わからなかった。
その瞬間、ポケットの中のお守りが淡く光った。
そして。
俺の脳裏に、知らないはずの光景が浮かび上がる。
月明かりの下。
誰かが、俺の手を握っていた。
小さな手だった。
その手を、俺も握り返していた。
――約束だよ。
誰かが言った。
――絶対に、また会おうね。
俺は。
俺は、その言葉に。
何と答えたんだろう。
「…………」
思い出せない。
どうしても、思い出せない。
ただ一つだけ。
その手を離したくなかった。
そう思ったことだけは、わかった。
*
ヤチヨは、立ち尽くしていた。
胸がざわめき始める。
「……ごめんなさい」
小さく、そう呟いた。
「私、ずっと……」
そこまで言って、彼女は口を閉じた。
笑おうとしているのだろう。
けれど、その笑顔はひどく不器用だった。
「……ううん。何でもない」
ヤチヨは、ゆっくりと目を伏せた。
「きっと、私の勘違いだから」
昨日と同じ言葉。
けれど、今度は違う。
彼女の声が震えている理由が、少しだけわかった気がした。
この人は。
何かを待っている。
ずっと、誰かを待っている。
そして、その誰かは。
もしかすると。
「……俺、なのか?」
口にした瞬間、胸が痛んだ。
答えはない。
ヤチヨは再び顔を上げ、何事もなかったかのように俺へ向き直った。
チュートリアルが再開される。
今この場に、優しい旋律が戻ってくる。
けれど、俺の耳にはもう、ほとんど届いていなかった。
ただ、彼女の最後の言葉だけが、頭の中で何度も繰り返されていた。
――私の勘違いだから。
「…………」
俺は、ポケットの中のお守りを握りしめた。
もう、ひび割れたそれは熱を失っていた。
代わりに。
胸の奥に、確かな痛みが残っていた。
「……ヤチヨ」
初めて、その名前を呼んだ。
けれど、声は届かない。
彼女は、もうこちらを見ていなかった。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
そして、ようやく気づいた。
俺はこの世界に、ただ興味本位で来たわけじゃない。
きっと。
ずっと昔から。
ここへ来ることを、望んでいたのだ。
誰かに会うために。
その誰かが誰なのかさえ、忘れてしまったまま。
――俺は、ここに来たのだ。