『太陽が沈んで、夜がやってきます』
緊迫した空気から一変して、ヤチヨは機械的にチュートリアルを再開した。
……さっきのヤチヨとは、別の個体なのだろうか。
そんな疑問を抱きながら、目の前に現れたウインドウに触れる。
しかし。
『対象情報を認識できません』
「……え?」
何度試しても、画面にはエラーが表示されるばかりだった。
「うーん……おかしいなぁ。アバターの生成自体は問題ないはずなんだけど」
ヤチヨが首を傾げながら、ウインドウを操作する。
やがて、画面にひとつの項目が表示された。
『AVATAR DATA』
名前――未登録。
プロフィール――未登録。
作成日時――不明。
外見情報――読み込み可能。
「……最初からデータがある?」
ヤチヨが指先を動かす。
次の瞬間、俺たちの目の前に、ひとりの少女が現れた。
淡い銀色の髪。灰色がかった長い前髪。どこか中性的な顔立ち。
その姿は、今の俺と瓜二つだった。
「…………」
「…………」
「……これ、俺?」
「ねえ! やっぱりヤッチョ達、どこかで会ったことない?」
「いや、初対面のはずだけど……」
俺自身、自分のことをよくわかっていない。
それでも、この少女を見ていると、胸の奥が妙にざわついた。
まるで、ずっと昔から知っていた誰かを見つけたような。
「んーそっか……あ、名前だけなら登録できるみたい。ねえねえ!名前を教えてくれる?」
「朔」
「ッ……オーケー、名前はそのままだと身バレするから少し変更しとくね~」
なぜか少し驚いたヤチヨが名前を入力する。
直後、画面が赤く染まった。
『登録を拒否しました』
『既存個体との重複を検出』
「……えっ?」
ヤチヨの表情から、笑みが消えた。
「このデータ……まるで、最初からそこに存在していたみたい」
その言葉が、なぜだか頭から離れなかった。
俺は、いったい何者なんだろう。
そんな疑問を振り払うように、ヤチヨがぱん、と手を叩いた。
「よし! とりあえず、今はこっちを使おう!」
彼女が選んだのは、黒を基調としたシンプルなアバターだった。
「これなら、朔ちゃんもツクヨミで遊べるよ!」
「……いいのか? こんなことまでしてもらって」
「もちろん! せっかく出会えたんだから、楽しまなくちゃ!」
ヤチヨは、いつものように屈託なく笑った。
その言葉に、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
「……そうだな」
俺は確認画面に触れた。
『仮アバターを適用します』
視界が光に包まれる。
その瞬間だった。
「――っ!」
不意に、身体から力が抜けた。
「朔ちゃん!?」
傾いた身体を、ヤチヨが慌てて支える。
そして、俺の手を握った。
温かい。
……いや、そんなはずはない。
ここは仮想空間だ。触覚の再現はされていても、本当の温もりなんて感じられるはずがない。
それなのに。
俺は、この温もりを知っていた。
ずっと昔から。
何よりも大切なものとして。
なのに。
――ざあっ。
耳の奥で、波の音がした。
目の前に広がる、どこまでも青い海。
潮風に揺れる草木。
見知らぬはずの景色なのに、ひどく懐かしい。
その向こうに、誰かが立っていた。
顔は見えない。
けれど、その人がこちらに手を伸ばしていることだけは、はっきりとわかった。
――やっと、見つけた。
誰の声だろう。
わからない。
それなのに、どうしてこんなにも。
胸が、痛いんだ。
「……かぐや?」
気づけば、俺は彼女の手を握り返していた。
すると。
「……あ、れ……?」
ヤチヨの瞳が、大きく見開かれる。
その目に映っているのは、俺の姿ではなかった。
もっと遠い、過去の何か。
彼女の唇が、かすかに震える。
「……サク、なの……?」
初めて聞くはずの声。
なのに、その呼び方が。
どうしようもなく、懐かしかった。
握り合った手から、何かが流れ込んでくる。
忘れていたはずの景色。
交わしたはずの言葉。
そして、何度も何度も繰り返した、誰かとの約束。
――ああ。
そうだった。
俺は。
俺たちは。
ずっと昔に――。
その先を思い出すよりも早く、視界が真っ白に染まった。
『既存個体との照合――完了』
誰にも聞こえない電子音が、静かに鳴り響いた。
*
――海の音が、聞こえる。
ざあっ、ざあっ、と。
寄せては返す波の音。
潮風の匂い。
隣から聞こえる、楽しそうな笑い声。
『ねえ、サク! 今日はどこに行く?』
『どこって……昨日もその話しただろ』
『昨日は昨日! 今日は今日!』
『はいはい。わかったから』
『えへへっ!』
小さなウミウシが、俺の手に乗る。
何もない日々だった。
特別なものなんて、何ひとつなかった。
ただ海を眺めて、集落の人たちと話して、日が暮れるまで二人で遊ぶ。
そんな日々が、何年も、何年も続いていた。
春が来て、夏が過ぎて。
秋が訪れ、冬がやってくる。
何度も、何度も。
そのたびに、隣に彼女がいた。
『サク!』
『ん?』
『また明日も、一緒にいようね!』
『……ああ。もちろん』
――約束した。
ずっと一緒にいようと。
明日も、その先も。
当たり前のように、隣にいるのだと。
なのに。
ある日、俺は――。
*
「――っ、は……!」
息を呑んだ。
目の前に広がるのは、見慣れたツクヨミの景色。
光に包まれた街並みも、足元に広がる地面も、何も変わっていない。
なのに。
俺の手は、誰かの手を握りしめていた。
「…………」
「…………」
目の前にいる少女が、俺を見つめている。
長い髪が揺れる。
見慣れた笑顔が、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「……サク」
その声を聞いた瞬間。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「……ああ」
喉が震える。
何を言えばいいのか、わからない。
だって、あまりにも長い時間が過ぎてしまった。
俺たちは、ずっと昔に出会って。
ずっと一緒に過ごして。
そして、俺は――彼女を置いて、いなくなった。
何も告げずに。
何も残さずに。
「……かぐや」
名前を呼ぶ。
今度は、間違えなかった。
目の前の彼女が、びくりと肩を震わせる。
「……っ、うそ……」
ヤチヨの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
「うそ、うそ……! だって、だって……!」
彼女は何度も首を振った。
信じられないものを見るように。
夢なら覚めてほしくないと願うように。
「もう、会えないと……思ってたのに……!」
「…………」
「ずっと……ずっと、探してたわけじゃ、ないの……。覚えてたわけでも、ないのに……っ」
言葉が途切れる。
ヤチヨは握った手に、ぎゅっと力を込めた。
「でもね……あなたを見たとき、なんだか、すごく懐かしくて……」
涙が、またひとつ頬を伝う。
「……会いたかった」
その一言が、胸に突き刺さった。
「会いたかったよ、サク……!」
次の瞬間、ヤチヨが俺に飛びついてきた。
「うおっ!?」
慌てて受け止める。
小さな身体が、俺の胸にしがみついていた。
その腕は、離すものかと言わんばかりに強く、強く俺を抱きしめている。
「ちょ、かぐや……!?」
「やだ……! もう、離さない……!」
「いや、離すとかそういう……」
「やだっ!」
子供みたいな声だった。
いつもの明るくて、余裕たっぷりで、何でも楽しそうに笑うヤチヨとは違う。
まるで、長い間ずっと我慢していたものが、一気に溢れ出してしまったような。
「……っ、もう、どこにも行かないで……!」
俺は、何も言えなかった。
だって。
そんなことを言われたら。
俺だって、もう――。
「……ごめん」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
「……ごめんな、ヤチヨ」
彼女の背中に、そっと腕を回す。
「……ただいま」
その言葉を口にした瞬間。
ヤチヨは、俺の胸に顔を埋めたまま、声を上げて泣いた。
「……おかえり、サク……!」
何度も。
何度も。
まるで、今まで言えなかった分まで取り戻そうとするように。
「おかえり……っ! おかえりなさい……!」
その声を聞きながら、俺は彼女の頭をそっと撫でた。
懐かしい。
そう思った。
この感触も、この声も。
何もかも、ずっと昔から知っている。
俺は、ようやく思い出したのだ。
八千年前。
何も持たなかった俺の隣で、笑ってくれた女の子。
世界がどれだけ変わっても、時代がどれだけ過ぎても。
俺にとって、かけがえのない友達だった少女。
――かぐや。
「……ただいま」
もう一度、そう告げる。
すると、彼女は顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
それでも、そこには確かに、いつもの笑顔が戻り始めていた。
「……うんっ!」
ヤチヨは、俺の手を握り直した。
「おかえり、サク!」
その笑顔を見た瞬間。
俺も、ようやく笑うことができた。
――ああ。
帰ってきたんだ。
俺は、ようやく。
大切な友達のもとへ、帰ってこられたんだ。