感動の再開から少し時間が経ち、チュートリアルの空間から移動し、ヤチヨだけが入れる部屋に俺達はいる。
サクはなぜか正座を、ヤチヨはサクの前で明らかに怒っていますといった表情で仁王立ちしていた。
「あの、かぐや……?」
たまらなく俺が話しかけると、ヤチヨはハイライトのない目をこちらに向けた。
その目が怖くて俺は小さく悲鳴を上げる。
「サク……? そんなに怖がらなくていいよ? あの時私の目の前から消えたのも、仕方のないことだと思ってるから」
「……はい」
「うん。いい返事だね」
ヤチヨはにっこりと微笑んだ。
――怖い。
怖すぎる。
普段なら、その笑顔を見られただけで嬉しくなっていたかもしれない。
けれど今は違う。
俺の生存本能が、全力で警鐘を鳴らしていた。
これは駄目だ。
絶対に逆らってはいけないやつだ。
「ええと……その、かぐやさん?」
「なあに?」
「……怒ってる?」
「ううん?」
首を傾げるヤチヨ。
その口元には相変わらず笑みが浮かんでいる。
「私、怒ってないよ?」
「そ、そうか……」
「ただね」
すっと。
ヤチヨが一歩、俺に近づいた。
「八千年と少し前に、私の目の前から突然いなくなった朔が、今になってようやく見つかったんだもの」
「…………」
「しかも、私のことをすっかり忘れていたみたいだし?」
「いや、それは……お前も一緒じゃーー」
「は? しかもお前?」
「いえ、すみませんでした。かぐや様」
「うん。わかってるよ。朔にも事情があったんだよね。記憶がなくなっていたことも、私のことを思い出せなかったことも、朔が悪いわけじゃない」
ヤチヨはそこで言葉を切った。
そして、ゆっくりと腰を落とす。
正座している俺と目線を合わせるように、目の前にしゃがみ込んだ。
「でもね、朔」
「……はい」
「私は、ずっと寂しかったんだよ?」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
怒りを押し殺した声ではない。
責め立てるような声でもない。
ただ、どうしようもなく寂しそうな声だった。
「明日になったら帰ってくるのかな、とか。何か事情があって、少し遠くに行っただけなのかな、とか。……そうやって、ずっと待ってた」
ヤチヨの指先が、俺の頬に触れた。
「でも、どれだけ待っても帰ってこなかった」
「……かぐや」
「何度も探したよ。サクがいそうな場所を、二人で行った場所を、サクが好きだった景色を。もしかしたら、どこかで生きているんじゃないかって」
頬に添えられた手が、そっと俺の髪を撫でる。
「……会いたかった」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
俺は何も言えなかった。
だって、そうだろう。
俺は何度も生まれ変わった。
いろんな時代を生きて、いろんな人と出会って、いろんな人生を送ってきた。
その中で、忘れてしまった大切なものもあった。
けれど。
俺が忘れてしまった時間は、ヤチヨにとっては違ったのだ。
彼女は、ずっと覚えていた。
俺がいなくなったあの日から、ずっと。
「……ごめん」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
「ごめん、ヤチヨ。俺……」
何を言えばいいのか、わからなかった。
謝ったところで、八千年もの時間が戻るわけじゃない。
寂しかった時間を埋められるわけでもない。
それでも、謝ることしかできなかった。
すると。
「……うん」
ヤチヨは俺の頬を両手で包み込んだ。
「謝ってくれたから、許してあげる」
「……本当か?」
「うん。本当だよ」
「そ、そっか……」
よかった。
目のハイライトも戻ったし、これでようやく、この正座地獄から解放され――。
「でもね?」
「……はい?」
ヤチヨの笑顔が、深くなった。
「これからは、私のそばにいてね」
「……え?」
「もう勝手にいなくならないこと。何も言わずに一人で抱え込まないこと。辛いことがあったら、ちゃんと私に相談すること」
「いや、でも俺にもいろいろと――」
「朔?」
「うっ……」
「お返事は?」
「……はい」
反射的に答えてしまった。
ヤチヨは満足そうに頷くと、今度は俺の頭を優しく抱き寄せた。
「よしよし。いい子だね、朔」
「いや、俺は別に子供じゃ……」
「ふふっ。そうだね。朔は昔から、こういうところは変わらないね」
耳元で囁かれた言葉に、俺は思わず息を止めた。
昔から。
その言葉が、妙にくすぐったかった。
俺にとっては、失われた記憶の中にしかない時間。
けれど、ヤチヨにとっては、今も胸の中に残り続けている時間なのだ。
そう思うと、なんだか無性に恥ずかしくなった。
「……わかったよ」
「うん?」
「もう、勝手にいなくならない。約束する」
そう口にすると、ヤチヨは一瞬だけ目を見開いた。
それから、泣きそうな顔で笑った。
「……うん。約束だよ」
そして、ぎゅっと俺を抱きしめた。
俺も、そっと彼女の背中に腕を回す。
今度こそ。
今度こそ、この手を離さないように。
そう思った、その時だった。
「……ところで、朔?」
「ん?」
「まだ、お話は終わってないよ?」
「…………え?」
嫌な予感がした。
恐る恐る顔を上げる。
ヤチヨは、とびきり優しい笑顔を浮かべていた。
「八千年分、いっぱいお話ししようね?」
「……あ、ああ。もちろん」
「それから、朔が今までどんな人生を送ってきたのかも、ぜーんぶ教えてね?」
「…………」
「寝るまで、ずっと一緒にいようね?」
逃げ道が、ない。
物理的にも、精神的にも。
俺はようやく理解した。
この再会を、ヤチヨは絶対に手放すつもりがないのだ。
「……なあ、かぐや」
「なあに?」
「俺、いつまで正座してればいいんだ?」
「ふふっ」
ヤチヨは俺の手を握り直した。
「サクが、私の寂しかった時間を埋めてくれるまで?」
「長すぎるだろ、それ……!」
思わず叫んだ俺に、ヤチヨはようやく声を上げて笑った。
その笑顔を見て。
俺も、つられて笑ってしまった。
――ああ。
やっぱり、俺はこの人が好きなんだ。
たとえ八千年の時間が流れても。
たとえ何度、生まれ変わったとしても。
きっと、何も変わらない。
そんな気がした。
「てか、なんで俺の手縛られてるん?」
俺は自分の手元に視線を落とした。
右手と左手。
その両方が、白い紐のようなもので丁寧に結ばれている。
いや、丁寧に結ばれている場合じゃない。
「……かぐやさん?」
「なあに?」
「これ、何?」
「見ての通り、紐だよ?」
「いや、そういうことを聞いてるんじゃなくてさ!?」
なんでだ。
さっきまで感動的な再会をしていたはずなのに、どうして俺は拘束されているんだ。
俺、何かした?
……いや、したか。
八千年くらい前に突然いなくなったわ。
うん。
それは確かに、怒られても仕方がない。
でも、だからって拘束は違うだろ!
「かぐや、俺はもう逃げないって約束したよな?」
「うん。ちゃんと覚えてるよ」
「じゃあ、これいらなくない?」
「ううん。必要だよ?」
即答だった。
「なんで!?」
「だって、朔ってば、昔から隙があるとすぐどこかに行っちゃうんだもの」
「いや、それは昔の話だろ!?」
「そうかな?」
ヤチヨは小首を傾げた。
「さっきだって、私がちょっと目を離した隙に逃げようとしてたよね?」
「……え?」
記憶を辿る。
そういえば、正座を命じられた直後、俺は一度だけ立ち上がろうとした。
いや、だって足が痺れそうだったし。
あれは逃走じゃなくて、体勢を変えようとしただけで――。
「……見てたの?」
「もちろん♡」
にっこり。
駄目だ。
この人、全部見てやがる。
「それにね、朔」
ヤチヨは俺の隣に腰を下ろすと、結ばれた俺の手を両手で包み込んだ。
「私、もう二度と朔を見失いたくないの」
「…………」
その声は、先ほどまでの冗談めいた調子とは違っていた。
「目を離したらいなくなってしまうんじゃないかって。眠っている間に、また消えてしまうんじゃないかって……そう考えるだけで、怖いんだ」
ヤチヨは、俺の手をぎゅっと握った。
「だから、今だけはこうさせて?」
……ずるい。
そんな顔で言われたら、何も言い返せないじゃないか。
俺は小さく息を吐いた。
「……わかったよ。でも、ずっとは駄目だからな?」
「うん。わかってる」
ヤチヨは嬉しそうに頷いた。
そして。
「じゃあ、今夜はこのまま一緒に寝ようね?」
「待て待て待て待て」
「どうしたの?」
「なんでそうなる!?」
「だって、朔がいなくならないようにするためだよ?」
「理由が一貫してるのが怖いんだよ!」
俺が抗議すると、ヤチヨはくすくすと笑った。
それから、俺の肩にこつんと頭を預ける。
「……ねえ、朔」
「……なんだよ」
「おかえり」
たった一言。
それだけで、俺は何も言えなくなった。
八千年。
その長い時間を越えて、ようやく帰ってきた場所。
俺の帰りを待ち続けてくれた人。
だったら、今くらいは。
「……ただいま、かぐや」
そう答えて、俺は彼女の頭にそっと自分の頬を寄せた。
……まあ。
手の拘束については、あとで絶対に話し合おうと思う。
絶対に。
――その三十分後。
「……かぐや?」
「なあに、朔?」
「なんで押し倒されてるんだ?」
「気のせいじゃないかな?」
「いや、気のせいじゃねえよ。明らかに見てる景色が違うんだが」
八千年ぶりの再会。
ヤチヨは俺の上に乗り、白く綺麗な手で俺の頭を撫でた。
妙に優しく壊れ物を触るかのようなその手付きはこそばゆくて肩が少しビクッとする。
その後ヤチヨは耳元まで顔を近づける。
「ふふ、もうぜーったいに……逃がさないからね」
「ひいいいいい……」
……俺の平穏な夜は、まだまだ遠そうだった。