最初に違和感を覚えたのは、研究棟の廊下を歩いているときだった。
床も壁も、夕方の光が差し込む窓も、毎日見ている研究棟のままだった。それなのに、廊下の奥まで見渡したとき、いつもより視線がわずかに高いところを通っている気がした。
私は足を止め、近くの研究室の扉を見た。
ドアノブの位置が少し低く感じられる。
その程度なら、姿勢のせいだと思えたかもしれない。けれど窓枠の高さまで妙に低く見えてくると、さすがに気のせいだけでは片づけにくかった。
廊下には私以外の姿がなく、空調設備の低い音だけが響いていた。大学は夏休みに入っているうえ、時刻も午後六時を過ぎている。普段なら学生が行き交うこの建物も、今はほとんど人の気配がなかった。
私は壁際まで寄り、背中を伸ばして立ってみた。
意味がないことは分かっている。それでも、自分の身体が本当に変わったのかどうかを確かめたかった。
視線を下へ向けると、履いているジーンズの裾がいつもより少し短かった。足首が見えている幅も広く、スニーカーの中では親指が先端へ押しつけられていた。
そこで初めて、二時間ほど前のことが頭に浮かんだ。
私はその廊下の突き当たりにある実験室で、床に散った液体を拭いていた。
事故と呼ぶには小さなものだった。実験室の棚から試料を取り出そうとしたとき、肘が小さな容器に当たった。蓋が外れ、透明な液体が右手首から肘にかけて流れた。
慌てて流水で洗ったものの、皮膚に痛みも赤みも出なかったため、それ以上は深刻に考えなかった。担当している院生が残した資料にも、培養細胞の体積を増大させる試料で刺激性は低いと書かれていた。
研究室には、人間の身体を突然どうにかしてしまう薬品が、無造作に置かれているはずはない。少なくとも私は、そう思っていた。
「由衣、まだ帰ってなかったの?」
背後から声をかけられ、肩が跳ねた。
振り返ると、千尋が私の鞄を持って立っていた。同じ学科で、研究室でも普段から一緒にいる友人だった。
「今から帰ろうと思ってたんだけど、ちょっと変な感じがして」
「体調悪いの?さっき液体かかったから?」
「具合は全然悪くない。ただ、私のこと見て何か気づかない?」
千尋は訝しげに眉を寄せ、それから私の顔をじっと見た。
その視線が途中で止まった。
「由衣って、こんなに背高かったっけ」
「やっぱりそう見える?」
二人とも、そのまましばらく動かなかった。
入学した頃に一度だけ身長の話になって、千尋が百六十七、私が百六十二だったことを覚えている。向かい合った時、私はわずかに目を上げる。そのたびにちょっとだけ羨ましいと思ってしまう。
ところが今は、ほとんど同じ高さに目がある。
千尋が自分の頭に手を置き、水平にこちらへ動かしてくると、手のひらが私の髪へ触れた。
「ちょっと待って。本当に同じくらいあるよ。変な靴でも履いてる?」
「靴はいつもの。厚底でもないし」
「たしか研究室にメジャーあったよね。戻って測ろう」
さっきまで帰るつもりだった実験室へ、二人で引き返した。
壁際に置いてあった巻き尺を伸ばし、私は靴を脱いで背中を壁につけた。千尋がファイルを頭の上に当て、床と平行になるように調整する。
「百六十八くらいある」
「そんなに伸びることある?」
「普通はないでしょ。朝はどうだったの?」
「何も気づかなかった。少なくとも服は普通だったと思う」
口ではそう答えながら、朝のことを思い返した。
自宅を出るとき、鏡は見た。服を着替えて、髪も整えた。それでも裾が短いとは感じなかったし、靴がきついとも思わなかった。
つまり、大学へ来てから身体が変わった可能性が高い。
二人の視線が、ほぼ同時に机の上へ向いた。
そこには、先ほどこぼした試料容器が置いてあった。
「やっぱり、あれかな」
「他に心当たりないでしょ。資料をもう一回見よう」
千尋がパソコンを起動し、共有フォルダに入っている実験資料を開いた。
細胞膜の透過性に関する試料で、投与後に細胞の体積増大が確認されている。一定時間で反応は安定し、その後は分解される。
何度読んでも、それ以上のことは書かれていなかった。
「これ、細胞が大きくなるって書いてあるだけだよね」
「人にかける実験なんてしてないんだから、当然でしょ」
「じゃあ、私の細胞が全部大きくなってるのかな」
自分で口にすると急に現実味が増した。
腕を持ち上げ、手のひらを眺める。
形そのものは何も変わっていない。指が増えたわけでも、皮膚がおかしな色になったわけでもなかった。
それでもマウスの上へ手を置くと、普段よりわずかにマウスが小さく感じた。
膝が机の裏へ当たった。いつもなら足を組める程度の余裕がある机だった。
胸の辺りが急に重くなり、私は椅子を後ろへ引いた。
「千尋、もう一回測ってくれない?」
言われた意味を理解した瞬間、千尋の表情が変わった。
「さっき測ったばかりだよ」
「分かってる。でも机に膝が当たった」
今度は二人とも何も言わず、壁へ向かった。
背中をつけて立ち、ファイルを頭へ当ててもらう。
千尋は巻き尺の数字を確認すると、すぐには口にしなかった。
「百七十一ある。さっきより三センチくらい伸びてる」
測定してから十五分も経っていなかった。
私は壁に背をつけたまま、自分の呼吸だけを意識していた。
痛みも、身体が引っ張られる感じもなかった。
ただ、身長だけは確実に伸び続けていた。
「先生に連絡した方がいいよね」
「する。病院にも行った方がいいかもしれない」
「病院で何て説明するの。十五分で三センチ伸びましたって言って、信じてもらえるかな」
「信じてもらうしかないでしょ。少なくとも検査はしてくれる、はず」
千尋が担当教員へ電話をかけたものの、海外出張中のせいか応答はなかった。メッセージを送ったあと、大学の保健管理センターにも連絡してみたが、すでに受付時間を過ぎている。
救急へ行くべきか、それとも原因らしい試料が残っている大学にいた方がいいのか、二人で話しても結論は出なかった。とりあえず、大学にとどまって先生からの返信を待つことにした。
その間にも、私は何度も自分の身体を見ていた。
ジーンズは明らかに短くなっている。
Tシャツの袖も肩へ引かれ、いつもより二の腕が出ていた。
鏡で全身を確認してみると、脚が少し長くなったせいで身体の印象まで変わっていた。見慣れた服を着ているのに、映っている自分だけが知らない人に近づいている。
鏡から目が離せなかった。
千尋も私を見つめていたようで、鏡越しに目が合った。
「何か変?」
鏡越しに千尋へ聞くと、彼女は少し困った顔をした。
「変っていうか、普通に背の高い人」
「それだけ?」
「今のところは。服はきつそうだけど。具合悪そうにも見えない」
私は鏡の前で背を伸ばした。
千尋より高い位置の自分の顔を見るのは、思っていた以上に新鮮だった。ほんの一時間ほど前までなら、こんな姿になることなど想像もしなかった。
「由衣、ちょっと楽しんでない?」
「かも。昔から背の高い人にあこがれてて」
「私は全然楽しくないんだけど」
そう言われて、鏡から目を離して、千尋と向き合う。
千尋の表情から本気の心配が伝わってきた。
妙な好奇心を出していたことが急に恥ずかしくなった。
「ごめん。私も怖くないわけじゃない」
「だったら、とりあえず広い場所へ移ろう。ここでどんどん大きくなったら、階段も通れなくなるかもしれない」
その言葉で、私は初めて天井を見上げた。
まだずっと高いところにある。
けれど、さっきまで普通の建物だった研究棟が、急に限られた空間に見えてきた。
この身体が止まらなければ、いつか届く。
そう考えた瞬間、それまで漠然としていた恐怖がはっきりした。
「工学部の実験棟なら、搬入口のところが広いよね」
「天井も高いし、外へ出るのも楽だと思う。今のうちに移ろう」
白衣を脱ぎ、鞄を持とうとした。
肩紐へ腕を通すと、かなり短く感じられた。
持ち慣れない鞄を千尋が何も言わずに取り上げる。
「鞄くらい自分で持てるよ」
「でも今は身体の変化に集中した方がいいでしょ」
言い返そうとして、やめた。
二人で廊下へ出る。
三階から一階へ向かう階段を降り始めると、一段ごとの高さが妙に低く感じられた。手すりへ手を添えれば、肘がいつもより大きく曲がる。
身体の使い方がうまく噛み合わない。
頭では以前と同じ歩幅で降りようとしているのに、脚が思った以上に先へ届いてしまう。何度か足を置く位置がずれ、そのたびに手すりを握った。
「歩きにくそうだね」
「脚の長さが変わったのに、感覚が前のままなんだと思う。もう少ししたら慣れるかもしれないけど」
「もう少ししたら、また長くなりそうだけど」
「それは言わないでほしかった」
踊り場の窓に、夕暮れの中を歩く二人の姿が映った。
さっき研究室を出たときより、身長差が広がっている。
千尋の頭が、もう私の目元より下にあった。
その光景を見て、足が止まった。
「千尋、私また伸びてるよね」
「測らなくても分かるくらいには伸びてる」
私は手すりを握ったまま、自分の腕を見た。
身体の奥に、ひどく薄い違和感がある。
皮膚の感覚同士が離れていくようだった。注意を向けなければ気づかないほど弱くゆっくりなそれは、一度意識してしまうと気になって仕方なかった。
「今も大きくなってる気がする」
「分かるの?」
「何となくだけど、さっきより身体が広がってる感じがする」
千尋も何も言わず、それまでより速い足取りで階段を降り始めた。
外へ出た瞬間、私は思わず深く息を吸った。
八月の夕方の空気は、冷房の効いた建物の中よりずっと重く、湿っていた。それでも頭上に天井がないというだけで、胸の圧迫感が薄くなった。
空は高い。
どれだけ身体が大きくなっても、触れることはない。
そんな当たり前のことが、ひどくありがたかった。
実験棟へ向かって歩き始める。
数歩進んだところで、千尋が遅れていることに気づいた。
「ごめん。歩くの速かった?」
「速いというより、一歩が長い。私が普通に歩いたら追いつかないよ」
意識して歩幅を小さくした。
それでも、以前と同じ感覚では並んで歩けない。
千尋に合わせるためには、足を途中で止めるようにして一歩ずつ短く出す必要があった。
今まで何も考えず横を歩いていた相手なのに、もう意識しなければ隣にいられない。
そのことが、身体が伸びたこと以上に気味悪く感じられた。
途中でスニーカーの痛みに耐えられなくなり、ベンチへ座った。
紐を緩めて足を抜くと、指先が靴の内側へ強く押しつけられた跡が残っていた。
「もう履けそうにないね」
「朝は普通だったんだけどな」
「持っていく?」
千尋が靴を持ち上げる。
一瞬、置いていこうかと思った。
どうせこのまま伸びれば、二度と履けないかもしれない。
それでも捨てる気にはなれなかった。
「持ってて。戻ったらまた履けるかもしれないし」
千尋は何も言わず、私の鞄と一緒に抱えた。
裸足で歩く舗装は思った以上に熱かった。
身体が大きくなっても、足裏の熱さや舗装のざらつきは以前と変わらず伝わってきた。
日がすっかり沈みきった頃、実験棟へ着いた。その時には、私は周囲の人より明らかに頭一つ以上大きくなっていた。
夏休み中でも残っていた数人の学生が、廊下の端からこちらを見ている。
視線が集まることに居心地の悪さを覚えながら、搬入口まで進んだ。
横には資材の寸法確認に使う長い定規が壁へ固定されていた。
近づいて、壁を背につけて立つ。千尋が私の頭の位置を確かめる。
「百八十四くらい。最初に測ってから十六センチ以上伸びてる」
「一時間でそんなに……速くなってる」
数字を聞いている間にも、視線は壁へ向いていた。
千尋との身長差は、もう小さなものではない。
彼女の顔を見るには明確に下を向く必要がある。
手も腕も以前より細く見えた。
まだ十何センチしか違わないはずなのに、相手の大きさに対する感覚まで変わり始めていることが怖かった。
「千尋、写真撮ってくれない?」
自分でも唐突なお願いだと思った。
「今なの?」
「今だから撮っておきたい。次に見たとき、また変わってるかもしれないから」
千尋は少し迷ったあと、スマートフォンを取り出した。
壁際に立って一枚撮ってもらう。
画面を見せてもらうと、そこにはTシャツとジーンズが身体に張りついている私がいた。
けれど身体の比率が違う。
脚は長く、肩の位置も高い。眺めていると、自分なのに見慣れない長身の体つきに見えた。
「何か変な感じ」
「そりゃ変でしょ。たった二時間で二十センチ近く伸びてるんだから」
「それはそうなんだけど、もっと気持ち悪い見た目になると思ってた」
写真の中の私は、ただ背が高いだけだった。
そのことに少し安心しながら、同時に妙な興味も湧いた。
この先、さらに伸びたらどう見えるのだろう。
そんな考えが浮かんだ自分に気づき、すぐ画面を千尋へ返した。
*
時計が午後八時を回る頃には、頭が搬入口の非常灯へ届きそうになっていた。
もう身長を細かく測る意味はなくなっていた。
数字を見るより、周囲を見た方が早い。
初めてこの場所へ来たとき、搬入口の天井はずっと高く感じられた。大型車両が入ることを前提に作られた空間なので、普通の人間なら頭上を意識することさえない。
その天井へ、今は腕を伸ばせば手が届く。
私は立ったまま、頭上の鉄骨を見た。
「触れそう」
「触らなくていいからね」
「分かってる。確認したかっただけ」
そう答えながら手を上げると、指先が鉄骨へ触れた。
冷たくてざらついた感触が、指の腹に伝わる。
何度も出入りした建物の中、自分の手で天井へ触れることができる。
その事実に、思わず笑ってしまった。
「本当に届いた」
千尋が何も言わないので、そちらを見る。
呆れているのだと思っていたが、表情はむしろ不安そうだった。
「由衣、頭」
言われて上を見る。
髪の先が天井材へ触れていた。
すぐに膝を曲げようとしたものの、身体が伸びる速度の方が早かった。
頭頂部へ、平たい圧迫感が広がる。
次の瞬間、小さな音とともに白い粉が肩へ落ちてきた。
私は慌てて身体を低くした。
背中が後ろの壁へぶつかり、重い音が建物に響く。
前へ避ければ、今度は膝が床に置いてあった資材箱へ当たった。箱が勢いよく滑って壁へぶつかり、中の金属部品が激しく鳴った。
その音で、周囲にいた人が一斉に離れた。
私は四つん這いに近い姿勢のまま動けなくなった。
さっき頭を押しつけた場所には、細い亀裂が走っていた。
ほんの少し触れただけだった。
力を込めたつもりもない。
それなのに建物の方が壊れた。
「外へ出た方がいいよ」
千尋が少し離れた場所から声をかける。
私は搬入口のシャッターを見た。
ここへ来たときには十分すぎるほど大きかった開口部が、いつの間にか狭くなっている。
「まだ通れるかな」
「今なら身体を低くすれば大丈夫だと思う。でも、これ以上待ったら分からない」
シャッターが全開にされた。
外にはすでに大学の職員や警備員が集まっていた。
遠巻きにスマートフォンを向けている学生もいる。
見られていることに気づいた途端、全身が落ち着かなくなった。
ただでさえ限界に近かった服は、先ほどの動きであちこちが裂け、ぼろぼろになっていた。
これだけ多くの人に裸に近い自分の身体を観察されている状況は気分がいいものではない。
「ゆっくり行こう。途中で止まりたくなったら止まっていいから」
千尋が出口の外へ回った。
私は両手と膝を床につけ、少しずつ身体を進める。
先に腕を外へ出し、頭を低くしてシャッターの下へ入る。
服がびりびりと破れる音がする。体を伏せて隠しながらゆっくりと這っていった。
肩が枠へ擦れた。
金属が耳元で嫌な音を立てる。
「もう少し左へ寄れる?」
「これ以上行くと反対側に当たりそう」
「じゃあ肩を少し斜めにしてみて」
言われた通り身体をひねる。
頭と胸は通った。
次に腰を抜こうとしたところで、左側が支柱へ触れた。
ほんの軽い接触だったのに、支柱が目に見えて揺れる。
驚いて身体を反対へ逃がすと、今度は右肩がシャッターのレールへぶつかった。
大きな金属音が響き、外壁の一部から細かな破片が落ちた。
「由衣、そのまま止まって!」
千尋の声で身体を止めた。
狭いところへ押し込まれた姿勢で呼吸をすると、それだけで胸と背中が壁へ近づいていくような気がした。
実際に身体は今も大きくなっている。
ここで動けなくなったら、本当に建物の一部を壊さなければ外へ出られなくなる。
「私、動くだけで壊してる」
声が震えた。
「まだ壁が少し欠けただけだよ。誰も近くにいないから、人に当たる心配はない」
「千尋が近くにいるでしょ」
「私は平気、気にしないで」
「さっきまで普通に歩いてた建物なのに」
「今は外へ出ることを優先しよう。ここにいたらもっと危なくなる」
千尋の言葉で浅かった呼吸を整え、再び出口を見据えた。
肩を抜き、腰を少しずつ滑らせ、最後に脚を引き寄せる。
足先まで完全に外へ出た瞬間、身体の力が抜けた。
私はその場へ座り込んだ。
頭上には何もない。
夕方だった空はすでに深い青へ変わり、屋根の向こうまで途切れず続いていた。
空気には夏の湿気が残っている。
アスファルトの熱と、遠くから流れてくる潮の匂いも感じられた。
建物の中で縮めていた背中を、ようやく真っ直ぐに伸ばす。
それだけでずいぶん楽になった。
「外って、こんなに広かったんだ」
口から自然に出た言葉に、千尋がこちらを見上げた。
「その感想が出てくる時点で、もう普通の身長じゃないよ」
私は返事をせず、もう一度空を見た。
不安は消えていない。
このままどこまで大きくなるのかも分からない。
それでも、天井を気にしなくていいことが嬉しかった。
*
屋外へ出てから、成長はさらに速くなった。
十分ほど前まで私の肩にあったた2階の窓が、次に立ち上がったときには胸より下へ移っていた。
大学側は周辺から人を遠ざけ始めた。構内放送が繰り返され、実験棟の周辺には警備員が立っている。
私は建物から少し離れた舗装広場に座り、自分の膝の間へ手を置いていた。
動くのが怖かった。
腰の位置だけでも、人の頭を簡単に越えている。
腕を下ろせば掌は以前の何倍もの大きさになり、近くに立つ千尋がひどく小さく見えた。
「もう少し離れててくれる?」
私が頼むと、千尋は不満そうな顔をした。
「ここでも十分離れてると思うけど」
「私から見ると近いんだよ。もし足を動かしたとき、そこにいたらと考えると、怖い」
千尋は一度私の足元を見てから、さらに数歩下がった。
たったそれだけの距離なのに、今の私にはほとんど変わっていないように見える。
「このくらいならいい?」
「もう少しだけ。ごめんね」
「謝らなくていいから、ちゃんと私の場所だけ見てて」
その言葉に頷いた。
自分より遥かに小さくなった人間を見下ろすことに、まだ感覚が慣れない。
顔も姿勢もいつもの千尋なのに、身体だけが縮んだように見える。
「水でも飲んで、ちょっと落ち着いたら?」
そう言われてペットボトルの水を渡してもらったとき、それをいっそう強く感じた。
以前なら片手で普通に持っていた五百ミリリットルの容器が、指先だけで軽くつまめてしまう。
キャップを開けようとしても、指先が太くなりすぎてうまく摘めなかった。
「これ、開けてもらっていい?」
「そこまで大きくなると、逆に不便なんだね」
「笑わないでよ。自分の指なのに扱い方が分からないんだから」
千尋に開けてもらった水を口へ運ぶ。
一本飲んでも、喉を少し濡らした程度にしか感じなかった。
「お腹とか減らないの?」
「今は何も食べたいと思わない。身体だけ増えてるのに、胃まで同じ割合でお腹空いたら困るけど」
話しながら、ペットボトルを横へ置いた。
小さすぎて、うっかり手を置けば簡単に潰してしまいそうだった。
周囲を見ると大学の建物が、急速に自分から離れていく。
窓が小さくなり、外灯の上端が目線の近くへ来ている。
身体を立たせれば、どこまで見えるのだろう。
そう思った瞬間、確かめたい気持ちが湧いた。
「ちょっと立ってもいい?」
千尋がこちらを見上げる。
「周りに何もないの確認してからね」
「分かってる。ゆっくり立つ」
周囲を見渡し、両手を地面につき、膝を伸ばす。
身体が持ち上がるにつれて、視界も大きく上がっていった。
二階の窓が目の高さを通り過ぎる。
研究棟の屋根が下がっていく。
さっきまで建物の陰になっていた図書館や講義棟まで見えるようになった。
私は立ち上がったところで動きを止めた。
「こんなところまで見えるんだ」
声が思った以上に広く響いた。
地上の何人かがこちらを振り返る。
自分では普通に話しているつもりなのに、身体が大きくなったぶん声量も増しているらしい。
「由衣、少し声落として!」
千尋が下から叫ぶ。
私は慌てて口元へ手を添えた。
「ごめん。これくらいなら大丈夫?」
「まだ大きいけど、さっきよりはいい!」
意識して声を小さくする。
それから改めて大学を見渡した。
毎日歩いていた建物の配置が、一度に全部見える。
講義棟の向こうに食堂があり、その先に駐車場があることは知っていた。けれど上から見ると、それらは一つの敷地の中に綺麗につながっていた。
さらに向こうには住宅街が見えた。
普段は研究棟の窓から一部しか見えない道路も、今なら長い区間を追うことができる。
「すごい……」
小さく呟いた。
口にした声が自分でも弾んでいたのがわかる。
足元には階段も建物もなく、高い場所へ登ったときとは違う景色だった。
自分自身の身体だけで今まで見たことのない高さへ来ている。
「由衣、やっぱり楽しそうだね」
下から聞こえた千尋の声に、身体がわずかに固くなった。
「そんなつもりじゃなかったんだけど」
「責めてるわけじゃない。ただ、私には今のところ怖いことしかないから」
私は膝を曲げ、少しだけ身体を低くした。
千尋の顔が見える程度まで近づく。
「怖いのは私も同じだよ。建物から出られなくなりかけたときは本当に怖かった」
「でも、今は楽しい?」
しばらく考えた。
適当に否定してしまえば簡単だった。
けれど千尋には、もう表情で分かっている。
「少しは楽しいと思う。自分がこんな大きさになるなんて、一生想像もしなかったから」
千尋は黙って聞いていた。
「止まらなかったら困るし、元に戻れなかったらもっと困る。でも、今まで見えなかったものが見えるのは、普通にすごいと思ってる」
「そういうことなら分かる。でも、あんまり夢中にならないでね」
「どうして?」
「下に人がいることを忘れそうだから」
私は足元を見た。
舗装の上には、小さくなった人影がいくつもある。
自分にとっては少し足をずらすだけでも、ほかの人にとっては大きな衝撃になりうる。
「忘れないようにする」
私はしっかり頷いた。
*
その後、私は運動場へ移ることになった。
実験棟周辺に留まるには、身体が大きくなりすぎていた。
普段なら数分歩くだけの距離も、今の私ならほんの数十歩で着く。それでも、最初の一歩を出すまでにかなり時間がかかった。
道路の幅だけを見て足を置くと、踵が後ろの物へ触れるかもしれない。
脚を振れば、その途中に街路樹や街灯がある。
以前は考える必要さえなかったことを、一つずつ確認しなければならない。
最初の数歩で、歩道脇の金属柵を踏んだ。
足先を置いた場所には何もなかったが、踵の位置を見誤った。
足裏から何かが折れる感触が伝わり、慌てて足を持ち上げる。
金属製の柵が途中から押し潰され、一本の支柱が舗装から抜けていた。
「気づかなかった……」
見下ろしながら、声が漏れた。
強く踏んだつもりなどない。
小石を踏んだ程度の感覚しかなかった。
「由衣、そのまま止まって。次に足を置く場所、私たちで確認するから」
少し離れたところから千尋が叫ぶ。
私は頷き、しばらく片足を上げたまま待った。
身体が大きいということは、単純に力が強いというだけではない。
たとえ踏んだのが人間だとしても、壊したことすら十分な感触が返ってこない。
その事実が、一番怖かった。
それからは、一歩ずつ千尋に確かめてもらいながら進んだ。
進む場所を見て、足を上げ、ゆっくり下ろす。
足が着いたあとも周囲に何か触れていないか確認してから、次の一歩を出す。
自分でも不自然だと思うほど慎重な歩き方だったが、それ以外に方法がなかった。
運動場の中央まで来ると、ようやく周囲に物がなくなっていた。
私は腰を下ろした。
土が身体の下で沈み、低い振動が腹へ返ってくる。
立ち上がってみると、座っていた場所だけ地面が広く押し固められていた。
グラウンドには、自分の尻の形に大きな窪みが残っている。スポーツはできそうになかった。
「これ、あとで怒られるかな」
足元から千尋の声が返ってきた。
「もう怒られるとかいう規模じゃないと思う」
「あとで請求とかこないといいな」
「実験棟も少し壊してるから、今さら一個増えてもあんまり変わらないよ」
「慰め方が雑すぎる」
思わず笑った。
声の振動で、千尋の服や髪が少し揺れたように見える。
私はすぐに口元を押さえた。
「声、大きかった?」
「響く。普通に話すだけでもかなり。もう少し小さくできる?」
意識して声量を落とす。
胸の奥で自分の声が低く響いた。
身体が大きくなったせいで、声を出したときの感覚まで変わっている。
遠くでサイレンが鳴っていた。
大学の外の道路にも人が増えている。
建物の窓や歩道橋の上には、こちらへスマートフォンを向ける人影が見えた。
恥ずかしさは実験棟を出るときに置いてきた。スマホを向けられても気にしないことにした。
研究室だけで始まった出来事が、もう大学の敷地内だけには収まっていない。
「あ、先生から返事来た」
海外出張先から返信があったらしい。千尋はスマートフォンの画面を確認した。
「試料を作った人にも連絡が取れたみたい。あの培養液なら、しばらくすると膨張は止まるはずだって」
「どのくらい大きくなったところで止まるの?」
「それが人間には換算できないって。そもそもこんな状態になる想定がないから」
「まあ、そうだよね」
「ただ、試料そのものは時間が経つと分解されるらしい」
「じゃあ、そのあと縮むのかな」
「そこまでは何も分からないって」
息を吐く。
元に戻るかはわからないし、期待し過ぎないほうがいい。
だが、ずっと身体の中に残るものではない。終わりがあることに救われていた。
私は両手を後ろへつき、夜空を見上げた。
建物や人の見た目は次々と変わったのに、空だけは何も変わっていなかった。
数十メートル高い位置へ頭が来たところで、星は相変わらず遠い。
当たり前なのに、その距離に安心した。
「千尋、こっち来てみない?」
「どこへ?」
私は片方の手を地面へ置いた。
「手の上。今なら乗れると思う」
千尋は大きくなった掌を見て、明らかに嫌そうな顔をした。
「それ、本当に大丈夫?」
「落としたりしないよ。動かすときもゆっくりにする」
「普通に怖いんだけど」
「だったら無理には言わない。怖いなら地面にいていいよ」
少し待つと、千尋が掌の方へ歩いてきた。
縁の近くで立ち止まり、私を見上げる。
「急に動かさないでね」
「分かってる。乗ったら言って」
千尋が足を乗せる。
皮膚へ、ほんのわずかな圧力が伝わった。
その感触が思った以上に小さくて、私は身体を固くした。
彼女が掌の中央まで歩く間も、一歩ごとの重さを意識しなければ見失いそうになる。
「乗ったよ。もう動かしていい」
「じゃあ上げるね」
指を少し曲げ、周囲に低い壁を作る。
そこから腕全体をなるべくゆっくり持ち上げた。
千尋は最初こそ身体を低くしていたものの、揺れが少ないと分かると立ち上がった。
胸の辺りまで掌を上げる。
久しぶりに千尋の表情がよく見えた。
「千尋が小さくなったみたいに見える」
「私は一ミリも小さくなってないからね。全部由衣のせい」
「分かってるけど、頭で分かるのと実際に見るのは違うよ」
さらに顔の近くまで手を上げる。
髪が頬へ張りついているのが見えた。
額には汗も浮かんでいる。
研究室で二人並んでいたときと、顔そのものは何も変わっていない。
その当たり前のことに、思った以上に安心した。
「何か、やっと顔見られた気がする」
「下にいたときも顔くらい見えてたでしょ」
「見えてたけど、ずっと見下ろしてたから遠かった。声だけ聞いてる感じに近かったんだよ」
千尋は少しだけ黙った。
「私も、こっちの方が話しやすいかも」
その言葉を聞いたとき、久しぶりに笑えた気がした。
身体の大きさが離れすぎてしまっても、こうすればまだ同じくらいの距離で話せる。
そんな単純なことが嬉しかった。
そのときだった。
背中の奥から全身へ、これまでより強い圧迫感が広がった。
腕がじわじわと伸びていくのが、自分の目でも分かる。
「千尋、いったん下ろす。急にまた速くなった」
返事を待たず、できるだけ静かに掌を地面へ戻す。
千尋が降りたのを確認してから、両手を土の上に置いた。
内側から押し広げられる感覚に耐えるように、無意識に踏ん張っていた。
身体の輪郭が、外側へ押し広げられていく。
さっきまでは、しばらくしてから景色の変化に気づく程度だった。
今回は、腕や足が伸びていくのがはっきりと分かった。
地面へ置いた手が、胸から少しずつ遠ざかっていく。
膝の位置も変わり、足先がグラウンドの端へ近づいた。
私は慌てて身体を起こした。
座ったまま大きくなれば、周囲の設備を押し潰してしまう。
立ち上がるにつれて、視界が急激に持ち上がった。
照明塔が目線の下へ落ちる。
研究棟の屋上が見える。
その向こうにある住宅地まで、一気に視界へ入ってきた。
身体はまだ止まらない。
「ちょっと待って……」
声を抑える余裕もなく、言葉が漏れた。
足元で人がさらに遠ざかる。
大学の建物が小さくなる。
いつもなら高いと感じていた研究棟の屋上が胸より下へ来た。
図書館も、講義棟も、全部同じ地面の上に並ぶ小さな建物へ変わっていく。
このまま止まらなかったらどうなるのか、考えるだけで息が浅くなる。
それでも、視界へ広がる景色から目を離せなかった。
大学の外、住宅街の向こうを走る幹線道路も、その先に広がる海も、ひとつの視界の中へ入っている。
私はこんな高さから、自分の通っている街を見たことがなかった。
身体がまた一回り大きくなる。
建物がさらに沈む。
「こんなに見えるんだ……」
自分でも声が弾んでいるのが分かった。
それを止められなかった。
背筋を伸ばすと、それだけで頭の位置がまた一段高くなった。
今まで遠くにあってみえなかったものが、少しずつ自分の視界に浮かび上がってくる。
足裏には増した体重がずしりと乗っているのに、脚はむしろ前より安定して地面を踏めていた。
立っているだけで、これまでの自分とは比べものにならない大きなものになったことを感じる。
大学の建物は、自分を囲う壁ではなくなった。
道路も、樹木も、車も、すべて足元にある。
さっきまで天井につかえて身動きが取れなかった自分が、今は何にも押さえつけられていない。
笑いがこみ上げた。
「私、本当に大きくなってる……」
口にした途端、地上の人々が耳を押さえるのが見えた。
私はすぐに口元を押さえた。
口元を押さえたまま、さっきまでの笑いが消えた。
千尋はどこにいる。
慌てて足元を探した。
人間の姿が小さすぎて、一人ずつ見分けることができない。
喉が詰まり、口を開くまでに一拍かかった。
「千尋……」
今度は可能な限り声を抑える。
それでも返事は聞こえない。
私は動かず、地上を見続けた。
やがて一か所で、スマートフォンのライトが何度も左右へ振られているのが見えた。
千尋だとすぐに分かった。
片膝を運動場の中央へ下ろす。
地面がわずかに沈み、周辺の木々が振動で揺れた。
これ以上急に動けば危ない。
私は掌を近くの地面へつけ、千尋が自分から乗ってくるまで待った。
小さな光が掌の上へ移動する。
ゆっくり耳元まで持ち上げると、ようやく声が聞こえた。
「由衣、大きくなりすぎ!さっき呼んだのに全然聞こえてなかったでしょ!」
「ごめん。景色見てたら夢中になってた」
「ずっと笑ってたから、こっちは本当に怖かったんだよ」
千尋の声には、はっきり怒りが混じっていた。
「私、ここにいるのに、途中から完全に忘れてたでしょ」
否定できなかった。
大学を見下ろせるまで大きくなったとき、足元の人のことをほとんど考えていなかった。
ただ、自分の身体がさらに大きくなることと、見える景色が変わることばかりを見ていた。
「一瞬だけ、本当に忘れてた」
「それが怖いって言ってるの。約束したでしょ、忘れないって」
「分かってる。ごめん」
「謝って終わりじゃなくて、次からはちゃんと見てて。由衣にとっては小さく見えても、下には普通に人がいるんだから」
私は視線を地上へ落とした。
足元には、いくつもの人影がいる。
その周囲には大学の建物や道路がある。
今の自分なら、その多くを簡単に壊せる。
声をできるだけ落として言った。
「大きくなるの、気持ちよかった。建物より高くなって、今まで見えなかったものが全部見えたら、何にも邪魔されない感じがした。だから夢中になった」
言い訳にはしたくなかった。
「でも、人を傷つけたいわけじゃない」
千尋はすぐには答えなかった。
掌の上へ座り、少ししてからこちらを見た。
「だったら、楽しいと思うことまでやめなくていいよ」
私は思わず彼女を見る。
「ただ、壊すことまで楽しくならないで。そこを一緒にしないでほしい」
「それは私も嫌」
「じゃあ、それだけ忘れないで」
千尋の小さな声に、私はすぐ返事ができなかった。
「わかった」
千尋を揺らさないように、小さくゆっくりとうなずいた。
*
夜が更けてきた。
大学の敷地には、もう留まれなくなっていた。
しゃがんでいても身体の一部が周囲の建物へ近づき、少し姿勢を変えるだけで何かへ触れてしまう。
大学の近くには、海沿いにまだ開発途中の埋立地がある。
倉庫や広い道路はあるものの、夜は人が少なく、空き地も多い。
そこまで移動することになった。
周辺の道路から車や人が退避したと連絡を受けてから、私は立ち上がった。
大学の外周フェンスを跨ぐ。
以前なら出入口を探さなければ越えられない高さだったのに、今は足を少し上げるだけで済んだ。
一歩目を道路の向こうへ置く。
足裏が舗装へ触れると、低い振動と沈む感触が脚に伝った。
白線の一部が、自分の足の下へ隠れる。
二歩目は倉庫の脇へ。
屋根の上に並んだ空調設備や配管が、手に取れそうな高さに見えた。
元の大きさだった頃には、建物の屋上をこんな角度から見ることなどなかった。
三歩目を出す前に、海が見えた。
大学の窓から何度も見ていた海だった。
建物の隙間に細く見えるだけだったものが、今は視界の大半へ広がっている。
港の照明が黒い水面へ伸び、遠くの船の光まで見えた。
風も大学の中より強い。
潮の匂いが髪の間を抜けていく。
「しっかり下見て。海見るのはあとでもできるから」
掌に乗った千尋が声を上げた。移動中は千尋を見失わないよう、指を軽く曲げて周囲を囲い、胸元でなるべく水平に保った掌にいてもらっている。
「分かってる。でも、思ってたより海が近く見えて」
「由衣の一歩が大きすぎるんだよ」
私は再び足元へ注意を戻した。
途中、街路樹の枝が腕に触れた。
避けたつもりだったが、細い枝が何本か折れて地面へ落ちる。
「ごめん、また折った」
「今度は木だけだから、そのまま動いて大丈夫」
「後でちゃんと謝りたいんだけど」
「誰に謝るつもりなの」
「管理してる人とか」
「その話は明日考えよう」
千尋と軽口を交わしているうちに、さっきまで浅かった呼吸がいつの間にか戻っていた。
埋立地の広い空き地へ着き、さらに海側へ移動した。
護岸の前で立ち止まり、千尋をおろす。
足元にいる千尋に確認してもらいながら、慎重に海へ片足を入れた。
冷たい水が足首へ触れる。
「思ったより浅い」
さらに一歩入る。
水面はまだ脛の途中までしか来ない。
身体が大きすぎるせいか、船が通れる海を歩いているという感覚がほとんどなかった。
もう一歩沖へ進む。
脚に押された大量の水が左右へ逃げ、白い波が広がった。
陸上で動くのとは違い、海水の抵抗が身体全体へ返ってくる。
地面や建物は、触れ方を間違えれば壊れてしまう。
けれど海なら、踏んでも押しても形を変えて逃げていく。
久しぶりに、身体を動かすことそのものを怖がらなくて済んだ。
私はもう少し沖へ進んだ。
水が膝の近くまで上がる。
両腕を少し広げると、潮風が全身の肌にあたる。
身体が大きくなってから初めて、周囲のものを壊さずに思い切り身体を伸ばせた。
自然と笑みが浮かんだ。
そのとき、また身体の内側にあの感覚が戻ってきた。
私は動かず、その場に立っていた。
海面の位置が少しずつ下がる。
膝近くまであった水が、やがて脛の上へ移った。
潮が引いたのではなく、海に浸かっている自分の脚の方がさらに伸びていた。
遠くに見える倉庫の屋根も、大学の建物も、ゆっくりと視線の下へ沈んでいく。
成長速度は大学で急激に大きくなったときより遅かった。
そのぶん、自分の身体が変わっていく時間をはっきり感じられた。
高層建築の航空灯火が、少しずつ目線の高さへ近づいてくる。
道路を走る車の光は細い線になり、大学は街の中へ埋もれ始めた。
もう何メートルあるのかを数字で想像しようとしても、まるで実感が湧かなかった。
胸へ手を当てる。
巨大になった身体の中でも、心臓の鼓動はきちんと感じられた。
緊張すれば速くなり、息を深く吸えば少し落ち着く。
視線を岸へ戻し、千尋の姿を探した。
千尋がスマートフォンのライトを振っている。
あまり離れすぎる前に戻った方がいい。
海水を大きく動かさないよう注意しながら、ゆっくり護岸へ戻った。
地面に片膝をつき、掌を下ろす。
千尋が乗ってから、耳元まで持ち上げた。
「聞こえる?」
「聞こえてるよ。今度はちゃんと私のこと見てたね」
「さっき怒られたばかりだから」
「先生から連絡来たよ。成長速度、かなり落ちてるって」
息が止まりそうになった。
「本当に?」
「大学からずっと見てた人たちがいるけど、さっきより明らかに変化が遅いみたい。試料の反応が弱くなってる可能性があるって」
「じゃあ、止まるかもしれない?」
「まだ断言はできない。でも、ずっと加速し続ける状態ではなさそう」
張っていた肩が落ち、膝まで緩んだ。
そのまま座ろうとして、背後に倉庫があることを思い出す。
私は海側へ身体を向け、浅瀬へゆっくり腰を下ろした。
大量の海水が押し出され、護岸へ波が打ち寄せる。
「今の大丈夫?」
「ちょっと大きい波ができたけど、大丈夫だと思う!」
「ごめん。座るだけでもこれなんだ」
「由衣は動くたびに何か起こるから、しばらく大人しくしてて」
「そうする」
脚を沖へ伸ばす。
海水が腰の周囲で揺れていた。
もう身体が成長しているのか、自分でもほとんど分からない。
さっきまで確実に感じていた膨らむ感覚も弱くなっている。
「千尋、明日からどうしよう」
今まで考えないようにしていた言葉が、ようやく出た。
千尋もすぐには答えなかった。
「それは明日になってから考えよう。今日のうちに答え出せるような話じゃないよ」
「大学には行けないね」
「その身体で講義棟へ入ったら、出席どころじゃなくなるでしょ」
「単位、結構ぎりぎりなんだけど」
「そこを今心配する余裕があるなら大丈夫」
笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「もし戻らなかったら、家にも帰れないんだよね」
口にした途端、それまで遠ざけていた現実が一気に近くなった。
自宅の玄関や狭い階段、自分の部屋のベッドや机が次々と頭に浮かんだ。
毎日何も考えず使っていたもののほとんどが、今の身体では触れることさえ難しい。
「お母さんにも何て説明すればいいか分からない」
「たぶん、もうニュースで見てると思う」
「それ最悪だよ。連絡する前に巨大化した娘をテレビで見るんでしょ」
「連絡するなら、私のスマホ使う?」
「あとで借りる。今話したら、多分泣いちゃう」
言った直後、すでに目の奥が熱くなっていた。
指で涙を拭う。
巨大な指先へ、涙の水滴が付く。
その水滴すら以前より遥かに大きい。
「服も着られないし、電車にも乗れない。コンビニで飲み物買うこともできない」
「研究室にも戻れないしね。困ること、まだ増えそう」
「千尋と普通に並んで歩けない」
最後の言葉だけ、喉へ引っかかった。
最初に身長差が逆転したときから、少しずつ失われていたものだった。
大学の中を並んで歩いて、駅まで一緒に帰り、学食では向かいの席に座る。人混みで肩がぶつかることだってあった。
そんな何でもない距離が、今はもう存在しない。
「それが一番嫌かもしれない」
千尋は掌の上で黙っていた。
「巨大化するのは、途中まで本当に楽しかったんだよ。今まで見られなかった景色も見られたし、大きくなる感覚そのものも嫌いじゃなかった」
海の向こうへ目を向ける。
「楽しかったのは本当だけど、このままでいたいわけじゃない」
「別に矛盾してないと思うよ」
千尋の声が返ってくる。
「楽しかったなら、それはそれでいいんじゃない? だからって、このままでいたいって話にはならないでしょ」
私は掌を少し顔へ近づけた。
「千尋、たまにすごくいいこと言うね」
「帰っていいなら帰るけど」
「ごめんなさい。今のは言い方が悪かった」
久しぶりに、自然に笑えた。
東の空がわずかに明るくなり始めている。
研究室で最初の違和感に気づいてから、まだ半日も経っていない。
私は海辺に座り、街を見下ろしている。
大学の建物より遥かに大きな身体で、膝を少し動かすだけでも海水が揺れる。
「朝になったら、また写真撮ってくれる?」
「まだ撮るの?」
「撮りたい。今度は大学も一緒に入れてほしい」
「由衣の全身を写真に入れるなら、かなり離れないと無理そう」
「最初に撮った写真も残しておいてね」
「百八十四センチくらいのときの?」
「そう。それと並べたら、たぶん笑えるから」
「あの頃に二十センチくらい伸びたって騒いでたの、今だと誤差みたいだね」
その言葉がおかしくて、また笑った。
風が髪を後ろへなびかせた。
しばらく何も話さず、二人で朝を待った。
そのうち、身体の違和感が完全に消えていることに気づいた。
私は海面から遠くの倉庫へ順に視線を移した。
膝に触れている水の位置が変わっていない。
遠くの倉庫の屋根も、視線の同じ場所にある。
「千尋、ちょっと待って」
「どうしたの?」
「たぶん、もう大きくなってない」
千尋が掌の上で立ち上がった。
「しばらく動かないで。先生たちにも外から確認してもらう」
「分かった。十分くらいこのままでいる」
二人とも黙り、景色だけを見た。
東の空が明るくなっていく。
建物の輪郭が少しずつ見え始める。
それでも、自分の視線の高さは変わらなかった。
海面も下がらない。
身体の内側から押し広げられる感覚も戻ってこない。
十分以上経ってから、私はゆっくり息を吐いた。
「止まったみたい」
今度は、さっきより自信を持って言えた。
千尋が掌の上へ座り込み、両手で顔を覆った。
「本当に疲れた……。昨日の夕方から、ずっと気を抜けなかった」
「付き合わせてごめんね」
「本当に由衣のせいだからね。帰ったら一週間くらい寝たい」
「私、帰れるかな」
口にしたあと、二人とも少し黙った。
戻れるかはまだ分からない。
試料の分解が進めば身体も縮むのか、それともこのまま固定されるのか、誰にも答えはない。
私は朝日に照らされ始めた街を見た。
昨日まで自分を囲っていた街が、今は足元に広がっている。
建物も道路も驚くほど小さい。
さっきまで見下ろすだけだった街を、今は道路や建物の隙間まで目で追っていた。
触れ方を間違えれば壊してしまうものが、そこにたくさん集まっている。
住宅の窓にはまだ灯りが残り、道路では小さな車が途切れず動いていた。
「もしこのままだったらさ」
掌の上の千尋へ声をかける。
「何?」
「また手の上へ乗ってくれる?」
千尋はすぐには返事をしなかった。
やがて掌の中央から親指の付け根まで歩き、そこへ腰を下ろす。
「毎日は嫌。高くて怖いから」
「かなりゆっくり動かしてるんだけどな」
「由衣がどれだけ慎重でも、高いものは高いし、怖いものは怖いの」
「じゃあ、たまにでいい」
「それなら考えてあげる」
私は小さく笑った。
水平線から朝日が昇り始める。
光が海面を長く渡り、私の脚へ届いた。
朝日は私の肩や顔を照らし、海面に伸びた光の筋が脚のまわりまで揺れて、掌の上の千尋も同じ明るさの中に入っていった。
「おはよう、千尋」
声を抑えて呼びかける。
千尋は眩しそうに海の方を見てから、こちらを振り返った。
「おはよう。とりあえず、本当に止まってよかったね」
「うん。これからのことは、全然分からないけど」
「それは今日考えればいいよ。まず先生たちの話も聞かないと」
私は街を見ながら頷いた。
身体はまだ巨大なままで、家にも大学にも入れず、この先縮む保証もなかった。
掌の中央では、千尋が体重をかけるたびに、小さな圧が皮膚へ返ってきた。
海水はまだ冷たく、朝の風が髪を揺らしている。
私はその感触を一つずつ確かめながら、昨日までとはまるで違う身体の中で、ようやく肩の力を抜いた。
素の文が生成文すぎるとAIに言われました。
そうですか……