「ほのかちゃん、だっけ? 部活どうするの? もう決めた?」
放課後の終鈴が鳴り響いた教室で、机の横にかばんをかけた前の席の女子生徒が、身を乗り出すようにして聞いてきた。
「ボク? ボクはどこにも入らないよ。帰宅部一筋で、のんびり過ごすつもり」
「えーっ、もったいない! ほのかちゃんと同じ中学だった子から聞いたんだけど、運動神経抜群らしいじゃん! スタイルもいいし、運動部から引く手あまたなんじゃないの?」
呆れたように肩をすくめる彼女に、俺は心の中で乾いた苦笑を返した。
スタイルがいい、だと。冗談じゃない。
肩幅は狭く、手足も細く短い。どれだけ鍛え込んでも太くならず、出力もまるで足りない。息が続くようにいくら肺を鍛えても、人並みより少し粘れる程度で頭打ちになる。生まれ持った器そのものが決定的に足りていないのだ。
「スタイルなんて全然だよ。それに比べて、君のふともも、すごくいい筋肉がついてるよね。ふくらはぎの発達具合も素晴らしいし、羨ましいよ」
「……は? ちょっと、ほのかちゃん!?」
本心からの賞賛を告げた瞬間、彼女は信じられないものを見るような目で自分のスカートの裾を押さえ、真っ赤になって後ずさった。
「足が太いって言いたいの!? 自分が細くて可愛いからって嫌味!?」
「えっ? いや、本当に素晴らしい、パワーのありそうな脚だなって褒めたんだけど……」
「余計なお世話! デリカシーゼロ!」
うーむ。怒られてしまった。
あれだけしっかりした筋肉が付いているのは天恵としか言いようがないのに、なぜ怒るのだろうか。
前世は男で、今世も中学までスポーツ漬けだった身としては、同年代の普通の女子の地雷というやつがさっぱり掴めない。二十一歳でトラックに跳ねられ、気がついたら女子として生まれ変わっていたわけだが、中身が男のまま育ってしまったツケがこういうところで出る。
教室を出て、掃除で少し帰りが遅くなった渡り廊下を進む。
校舎から門までの道にあるグラウンドからは、放課後の活気が渦を巻いていた。
手前ではサッカー部が汗を流し、奥のダイヤモンドでは野球部がノックの乾いた打球音を響かせている。
泥にまみれて白球を追う男子生徒たちの姿をフェンス越しに眺めていると、胃の奥がきりきりと痛んだ。
────前世の俺は、野球にすべてを捧げていた。
無名の弱小校を背負い、マウンドに立ち続け、俺一人の力で甲子園の準決勝まで勝ち進んだ。だが、その土壇場で右肘が激痛とともに砕け散り、チームは敗北した。あの瞬間の絶望は、今でも鮮明に焼き付いている。
自然と、フェンス越しの選手たちの動きに意識が吸い寄せられた。
あいつは足の動かし方がなっていないから切り返しで一瞬遅れている。
ノックを受けているセカンドは腰が高く、あれではイレギュラーに対応できない。
外野手は腕を大回りに振りすぎていて、送球の初速が死んでいる。
肘を壊したあと、スポーツ科学の道へ進んで身体の構造や動作の理論を貪り学んだ俺は、見ようとしなくても粗ばかりが目に飛び込んできてしまう。
見れば見るほど歯痒く、同時にどうしようもない虚しさがこみ上げてきた。
いくら頭で理論を理解していようが、今の俺の身体ではそれを形にできない。
自分では何一つ再現できないくせに、観客席の安全圏から好き勝手に野次を飛ばす評論家気取りの連中と同じだ。そんな苦々しい自嘲を吐き捨てながら、俺はグラウンドに背を向けた。
前世より十数年ほど昔のこの時代は、まだ非効率な根性論と練習量の暴力が現場を支配していた。正しい負荷管理と身体操作の知識さえあれば、女の身体に生まれ変わったとしても人一倍有利に立ち回れるはずだ。
そんな打算を胸に、俺は日本一への未練を捨てずに肉体を限界まで追い込んだ。水泳でも、陸上でも、柔道でも、前世の知見を総動員して中学で全国大会の切符をもぎ取るところまでは行ったのだ。
だが、そこまでだ。
全国の頂点には、俺が積み上げた技術や工夫を、生来の長い手足や天性のバネで軽々とねじ伏せていく怪物たちがいた。その女子のトップですら、男子のトップのパワーやスピードには遠く及ばない。どれだけ技を磨いても、生まれ持った器の差はどうあっても埋まらない。
日本一にはなれない。自分には才能がない。
それを何度も目の当たりにした俺の心は、もうポッキリと折れてしまったのだ。
だから、高校に上がると同時にすべての競技から身を引いた。
もう二度と、あの熱気の中へ戻ることはない。
そう言い聞かせ、校門へ向かって歩き出した、その時だった。
甲高い金属音が、グラウンドの奥から響いた。
芯で捉えられた打球が高く舞い上がり、青空を切り裂きながら舗装路の植え込みへと落ちていく。
「ファウルボール! あぶないぞー!」
野球部員の叫び声とともに、ボールが生け垣を揺らして通路の真ん中で転がって止まった。
俺から十メートルほど先だ。
「すいませーん! そっち行ったボール、投げ返してもらえますか!」
レフトの定位置あたりにいた外野手が、こちらへ手を振っている。五十メートル近く離れているだろうか。一般の生徒なら近くまで走って持っていくか、山なりの大きな放物線を描いてなんとか届かせるような距離だ。
そのとき、通路の先から歩いてきた一人の男子生徒が足を止めた。
同じ学年の制服を着て、スクールバッグを肩にかけた、どこにでもいそうな風貌の少年だった。
「あ、はい! 拾います!」
少年は素直に応じ、かがんで右手にボールを収めた。外野手は「適当なところまで投げてくれればいいですからー!」と呑気に声をかけている。
少年はスクールバッグを肩にかけ直すと、外野手の方へ寄ることもせず、その場に突っ立ったまま右腕を大きく振りかぶった。
そのフォームを見た瞬間、俺は思わず目を疑った。
滅茶苦茶だった。
ステップも踏まなければ体重移動もない。野球の基本など爪の先ほども知らない、上半身を正面に向けたまま右腕だけを力任せに振り回す完全な手投げだ。
あんなフォームでは、せいぜい二十メートルで失速して地面を転がるのがオチだ。
そう思った次の瞬間。
少年の右腕が一気に振り下ろされた。
肩が信じられないほど大きくしなり、後ろに残った腕が鞭のように振り抜かれる。
指先がボールを弾いた刹那、ピシッと乾いた破裂音が通路に小さく響いた。
放たれた白球は、山なりの軌道を描くことすらなかった。
地面と平行に近い低空飛行のまま、ボールは一直線に外野グラウンドへと突き刺さっていった。
風を切り裂く矢のようなレーザービーム。五十メートル近い距離をものともせず、低く伸びた白球は、外野手が胸の前に構えていたグラブへ吸い込まれるように収まった。
バシィン、と小気味のいい捕球音がグラウンドに響く。
「おお、ナイスボール! ありがとな!」
外野手は礼を述べると手を振って守備練習へ戻っていった。
投じた当の少年は、肩のバッグを揺らしながら、何事もなかったかのように再び歩き出そうとしている。自分がやったことの意味を、何ひとつ理解していない顔だ。
だが、俺の全身は、まるで氷水を浴びせられたかのように硬直していた。
嘘だろ。
おい、嘘だろ……。
全身の毛穴が一斉に逆立つような強烈な戦慄。心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく跳ね上がっていた。
あいつは今、下半身を一切使っていなかった。子どものごっこ遊びのような最悪の投げ方で、平然とレーザービームを放ってみせたのだ。
もし、あいつがちゃんとした投げ方を覚えたらどうなる。下半身の力を使って、腰の回転を腕に伝える投げ方を身につけたら、一体どれほどの球を投げるというんだ。
化け物だ。
途方もない、本物の怪物だ。
どれほど血の滲むような鍛錬を重ねても手に入らない、天から与えられた肉体の奇跡が、あの少年の身体の中に手つかずのまま眠っている。
その事実を悟った瞬間、戦慄の奥底から、ドス黒い炎のような感情が激しくせり上がってきた。
猛烈な、狂おしいほどの嫉妬だ。
前世のすべてを捧げ、右肘を壊してまで白球に縋り付き、今世でも二度目の生を丸ごと注ぎ込んでなお届かなかった神の愛。なぜ、あいつがそれを持っている。
どこにでもいそうな平凡な顔をした少年が、なぜ俺が生涯をかけて喉から手が出るほど欲しかった至宝を、最初から当たり前のようにその身に宿しているのか。
内臓が焼けただれるような悔しさと妬ましさで、奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。
そして、それ以上に煮え滾ったのは、激しい憤りだった。
あいつはなぜ何のユニフォームも着ていない。それほどの奇跡を右腕に抱えていながら、何の鍛錬もせず、それがさも当然のような顔をして帰宅しようとしている。
ふざけるな。
神から与えられたダイヤの原石を、手入れもせずにドブに捨てているのと同じだ。才能に対するこの上ない冒涜じゃないか。
お前にその腕を振る気がないなら、今すぐ俺に寄越せ。寄越せないというなら、今すぐグラウンドへ行ってマウンドの上に立て。
何を呑気に歩いているんだ。何を眠らせているんだ。
気がついたときには、俺の足は勝手に地を蹴っていた。
「待って!」
いまだに慣れない甲高い声が、喉から飛び出した。
舗装路を進んでいた少年が、驚いたように足を止め、振り返る。
「えっ……俺?」
少年はきょとんとした顔で、自分の胸を指さした。その瞳は澄んでいて、どこまでも人懐っこく、悪気というものがまるで感じられない。
「あ、あの……き、君は……」
「城ヶ崎、くんだよね」
胸元のネームプレートを素早く視認して、俺は一気に間合いを詰めた。
「ひ、姫宮……さん?」
城ヶ崎は俺の剣幕に面食らったのか、後ずさりしながら目を白黒させた。
だが、そんな些細なことはどうでもいい。俺は城ヶ崎の前に踏み込み、躊躇することなくその右腕を掴み取った。
「うわっ!? な、何!?」
「ちょっと触らせて」
「ええっ!? さ、触るって何を……っ!?」
狼狽える城ヶ崎の制止を完全に無視して、俺はブレザーの袖の上から、その右肩と背中を念入りに確かめた。指先を押し込み、筋肉の張りと骨の収まり具合を探る。
関節が驚くほど柔らかい。力を抜かせた状態で軽く腕を回してみると、信じられないほど滑らかに動く。腕の筋肉もしっかりしていて、鍛え始めればまだまだ大きくなりそうだ。
「素晴らしい……なんて理想的な肩なんだ。生まれつき肩の関節がここまで柔らかく動く人間なんて、めったにいないぞ」
「ちょ、ちょっと姫宮さん! 近い、顔が近いよ! それに何言ってるの!?」
城ヶ崎は耳まで真っ赤にして、顔を背けながら激しく取り乱していた。腕を振り払おうとする力すら、しなやかで強い。
だが、俺は離さなかった。逃がすわけにはいかない。
「城ヶ崎くん、君、運動部入ってる?」
「えっ? う、運動部? 入ってないけど……」
「中学のときは?」
「中学も別に……。体力テストのボール投げだけ妙に良かった気がするけど、走るのも体育も苦手だし。放課後は友達とゲームしたりするくらいで……」
「帰宅部だと……!?」
俺は思わず声を荒らげていた。
これほどの素材を抱えていながら、帰宅部とは!
犯罪的だ。才能に対する冒涜と言ってもいい。
「さっきの送球、見たよ。完全な手投げで、足も使わず突っ立ったままなのに、あの距離を一直線のレーザービームで届かせていた。あのフォームであの軌道とスピードを出せる人間がどれだけいると思っているんだ」
「え、あ……あれ? 投げ返してって言われたから、普通に投げただけで……」
城ヶ崎は戸惑ったように眉を下げ、心底から不思議そうな顔をしていた。
本気で言っているのだ。この少年は、自分がどれほどの怪物を右肩に宿しているか、これまでの人生で一度も自覚したことがない。頼まれたから投げた、それ以上のことなど何ひとつ考えていない。自分の右腕にどれほどの価値が眠っているのか、爪の先ほども理解していない顔だ。
「普通に投げて届く距離じゃないだろ! ボクには分かるんだ。君のあの腕の振り、ボールの伸び、どれをとっても天性の才能だよ! ────あれは選ばれた人間にしかできない、本物の投球なんだ!」
「いや、そんなこと言われても……」
城ヶ崎は困惑しきった表情で、ぽりぽりと頬を掻いた。視線が泳ぎ、俺の顔を見るたびに首筋まで赤らめている。
急に知らない人に詰め寄られて、緊張しているのだろう。人見知りな性格なのかもしれない。
逃げられてはたまらん。俺は夢中で距離を詰め、城ヶ崎の二の腕を両手でしっかりと掴み直した。
「どうして野球部に入らなかったの? 高校の野球部なら、ちゃんとした指導者もいるし、甲子園だって目指せるのに」
「そんな大げさな……。俺、運動とか全然ダメだし。走るのすぐ疲れるしさ。それに野球部って上下関係とか厳しそうだし、毎日練習があって大変そうじゃない? 俺なんかが入っても、絶対についていけないよ」
城ヶ崎は自嘲気味に笑った。その表情には、運動部という高い敷居に対する引け目が滲んでいた。
胸の奥で、黒い感情が疼かなかったと言えば嘘になる。なぜお前なんだ、と。なぜ野球に命を懸ける気もないお前がそれを持っていて、すべてを捧げた俺が持っていなかったのかと、叫び出したいような嫉妬が喉元までせり上がってくる。
だが、それ以上に。その醜い嫉妬の何倍も強く、激しい衝動が俺の魂の底から湧き上がっていた。
見たい。この腕が、正しいフォームと正しいトレーニングを手に入れたとき、一体どんな球を投げるのか。ちゃんとしたマウンドの上で、真剣勝負の打者を相手に腕を振り抜いたとき、この剛腕がどれほどの伝説を刻むのか。それを誰よりも近くで、この目で見届けたい。
自分がプレイヤーになれないのなら、この最高の原石を磨き上げるための力になりたい。前世と今世で積み上げてきた俺のすべての知識、すべての経験は、もしかしたらこの少年の才能を咲かせるためにあったのではないかという、運命じみた思いすら胸を焦がしていた。
「城ヶ崎君」
俺は城ヶ崎の目を真っ直ぐに見据えた。春の風が吹き抜け、俺の黒髪を揺らす。城ヶ崎が呆然と俺を見下ろしている。
「明日の放課後、時間ある?」
「え? あ、うん。帰宅部だから、時間はいくらでもあるけど……」
「決まりだね」
こういうおどおどしたやつには、押せばいけるもんだ。
「明日の放課後、グラウンドの裏の空き地に来て。ボクがグローブとボールを用意しておくから」
「は、はあ!? なんで!?」
「明日、君にちゃんとしたフォームで投げさせたらどこまで行くのか、確かめたいんだ」
「いや、だから俺は野球なんてやる気ないって……!」
「いいから! 減るもんじゃないでしょ? ちょっとキャッチボールするだけ。ボクに付き合ってよ」
俺は念を押すように城ヶ崎の手をぐっと握りしめ、顔を覗き込んだ。重なり合った手のひらに、城ヶ崎が小さな悲鳴のような息を漏らして身体を強張らせる。
「約束だからね。逃げたら教室まで迎えに行くから」
親しみやすい雰囲気も出しておこうと、指を一本立ててウインクしてみせると、城ヶ崎は完全に思考を停止させた様子で、真っ赤な顔のままコクコクとぎこちなく頷いた。
よし、まずは第一段階クリアだ。
俺は手を離すと、弾むような足取りで踵を返し、下校の途へと戻った。
胸の中で、長らく眠っていた闘志が、確かな熱を持って脈打っている。あのダイヤの原石をどう磨き上げてやろうか。
俺の頭の中はすでに、明日の初めてのキャッチボールへの期待でいっぱいだった。