五月の朝。澄んだ青空の下を通学路に沿って歩き、俺はいつも通りの時間に校門をくぐった。
昇降口で上履きに履き替え、階段を上がって一年二組の教室に入る。
朝のホームルームまではまだ二十分ほど時間があり、教室の中には疎らに生徒たちが集まって思い思いに談笑していた。
ふと視線を教室の後方へ向けると、城ヶ崎が自分のロッカーの前で、何やら怪しい動きをしていた。
立ったままロッカーの奥を覗き込み、何かを布で丁寧に磨いている。
何度も角度を変えて眺めては、誰も見ていないのを確認してにやにやと口元を緩ませていた。
「おはよう、城ヶ崎君。朝からずいぶん熱心だね」
俺が後ろから声をかけると、城ヶ崎は文字通り跳び上がった。
「うわあっ!? ひ、姫宮!?」
慌てて背中でロッカーを隠そうとして、後頭部を棚の角に派手にぶつける。
「痛ったぁ……! びっくりさせんなよ、心臓止まるかと思ったぞ……!」
「そんなに慌てなくてもいいのに。大事そうに触っていたのは、昨日のグラブかな?」
俺が微笑みながらロッカーの隙間を覗き込むと、城ヶ崎は頭を擦りながら、恥ずかしそうに身体を横へずらした。
棚の特等席には、昨日の夕方に街のスポーツ用品店で買ったばかりの、ピカピカのキャメル色の硬式投手用グラブが鎮座していた。
埃がつかないように清潔なタオルが敷かれ、ポケットには型崩れを防ぐための丸い保型ボールが挟まれ、専用の幅広バンドできっちりと巻かれている。
「へえ、ちゃんと保型ボールを挟んでバンドを巻いているんだね」
「おう……! 店員さんに言われた通りに手入れしてるよ。自分の部屋の机の上に飾って寝たんだけど、朝起きて一番に目に入ったとき、すげえ嬉しくてさ……」
城ヶ崎は照れくさそうに頭を掻きながら、それでも誇らしげに白い歯を見せた。
少年のような無邪気な笑顔だ。
これまでは共用グラブを借りていたから、愛着を持って自分の手で育てる感覚など知らなかったはずだ。自分の道具を持つことで生まれるこの誇らしさと高揚感こそが、上達への一番のガソリンになる。
「これで今日からは、昼休みに部室まで走って道具を借りに行かなくて済むね。チャイムが鳴った瞬間にこのロッカーからグラブを出して、そのまま中庭へ行ける」
「そうなんだよ! それだけでもう最高だ!」
城ヶ崎が嬉しそうに頷いた、その時だった。
「あらあら? 朝から二人で仲良く何を盛り上がってるのかな?」
聞き覚えのある弾んだ声が、すぐ背後から降ってきた。
振り返ると、ブレザーのボタンを留めながら大原桃香さんが歩み寄ってくるところだった。
そのすぐ後ろからは、緩めのカーディガンを羽織った横山広美さんも続いてくる。
「おはよう、姫宮さん、城ヶ崎君。朝からロッカーの前で密談やなんて、怪しい匂いがプンプンするやん?」
「大原さん、横山さん、おはよう」
俺が普通に挨拶を返すと、大原さんは腕を組んで、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら城ヶ崎の顔を覗き込んだ。
「それで? 昨日の放課後デートはどうだったわけ? 二人で駅前のビルに行って、楽しくお買い物できたのかしら?」
「で、デートじゃないって昨日も言っただろ! 野球の道具を買いに行っただけだよ!」
城ヶ崎が一瞬で顔を真っ赤にして反論する。
いつもの光景だ。男子高校生というものは、女子にからかわれると反射的に茹でダコになってしまう生き物らしい。
「はいはい、照れちゃって。で、その買った道具ってのが、ロッカーに入ってるそれ?」
大原さんがロッカーの中を指差した。
城ヶ崎は少し躊躇いながらも、大事そうに両手でキャメル色のグラブを取り出し、二人の前に差し出した。
「これだよ。俺の、初めてのマイグラブだ」
「へえぇ……! 綺麗な色! 革のいい匂いがする!」
大原さんが目を丸くして身を乗り出し、指先で恐る恐るグラブの表面を撫でた。
「ほんまや、すっごいええ色やね。ツヤツヤしとるし、なんか高そうに見えるで」
横山さんも感心したように頷いている。
高校生の女子には野球道具の細かな違いなど分からないだろうが、最上級の革が放つ品のある佇まいは直感的に伝わるらしい。
「でしょ? すっごく良いグラブなんだよ。城ヶ崎君の手の大きさにぴったりで、変な癖がつかないように革の厚みや手首のホールド感まで計算して選んだんだ」
俺が横から胸を張って説明すると、大原さんがふと思い出したように首を傾げた。
「ねえ、これって大体どれくらいするものなの? 高校生の部活の道具って、一万円くらい?」
「うっ……」
大原さんの何気ない問いかけに、城ヶ崎の息がピタリと止まった。
目を泳がせ、視線をあらぬ方向へ逸らしながら口ごもる。
「え、ええと……それは……その……」
何を言い淀んでいるのだろうか。
値段を隠す理由など何もないはずだ。俺は城ヶ崎に代わって、あっけらかんと答えた。
「五万二千円だよ」
教室の空気が、完全に凍りついた。
大原さんの動きがピタリと静止した。
横山さんの口が、ぽかんと開いたまま塞がらなくなった。
二人は石像のように固まったまま、俺の顔と、城ヶ崎の手にあるグラブを何度も往復して見つめた。
「……は?」
数秒の沈黙の後、大原さんが掠れた声で呟いた。
「ご……五万……!? ごまんえん!?」
「嘘やろ!? 五万二千円って、高校生が放課後に買う値段ちゃうやろ! 原付の頭金か何かの間違いちゃうん!?」
横山さんが両手で頭を抱えて叫んだ。
周りの席にいたクラスメイトたちも、あまりの数字にギョッとしてこちらを振り返る。
「城ヶ崎君、あんたそんな大金どこから出してきたのよ!? お年玉を全部貯めてたとか!? それとも怪しいバイトでも始めたわけ!?」
大原さんが詰め寄ると、城ヶ崎は顔を真っ青にして後ずさりした。
だが、城ヶ崎が口を開く前に、俺は自然な流れで補足した。
「ああ、違うよ。城ヶ崎君が出したのは八千円で、残りはボクが払ったんだ」
再び、教室の空気がピキピキと凍りついた。
「……え?」
大原さんの瞳が点になった。
「ボクの家はトレーニング器具や本なら言えば買ってくれるし、ボク自身も無駄遣いをしないから、高校生にしては口座にお金が貯まっているんだ。城ヶ崎君を野球の世界へ引っ張り込んだのはボクだし、これくらいは初期投資として当然の出費だよ。だから、ボクが奢ったんだ」
俺は屈託のない笑顔で言った。
城ヶ崎がこれほどまでに野球にハマってくれて、五万円の道具代金を支払う気概まで見せてくれたのだ。育成者としてこれほど嬉しいことはない。
ところが、その言葉を聞いた瞬間、城ヶ崎が火がついたように叫び出した。
「お、奢られてない!! 全額奢られたわけじゃないぞ!!」
城ヶ崎は顔を真っ赤にして、両手をブンブンと振り回した。
「俺の手持ちの八千四百円は全部頭金としてレジに叩きつけた! 残りの四万三千六百円は……立替えてもらった借金だ! 毎月のお小遣いから一円も狂わずに全額返すって約束したんだ! 絶対に奢られたりなんかしてない!!」
「いいよいいよ、城ヶ崎君。昨日も言っただろ? 出世払いですらなくていいんだよ。ボクが勝手に選んだんだから、返す必要なんて全くないさ。ボクとしては奢ったつもりでいるんだから、君は気にせず野球に集中すればいいんだよ」
俺が穏やかに宥めると、大原さんが突然、両手で自分の額を強く押さえて天を仰いだ。
「あ、頭が痛い……! 情報量が多すぎて頭がパンクしそう……!」
「ちょっと待って、一回整理しよ? 深呼吸しよ?」
横山さんも胸元を押さえて荒い息を吐いている。
二人は顔を見合わせ、それから深いため息を同時に吐き出した。
「あのね、姫宮さん」
大原さんが俺の両肩をガシッと掴み、真剣そのものの表情で顔を近づけてきた。
間近で見ると、本当に目が血走っている。
「何だい、大原さん?」
「今から言うことを、耳の穴をかっぽじってよく聞きなさい。手痛い訂正をしてあげるから」
「訂正……?」
「そうよ! あんたね、『奢ったつもりでいる』とか言ってるけど、城ヶ崎君は全っ然奢られた気になってないからね!」
大原さんが人差し指をピシッと城ヶ崎に向けた。
「いい? 高校生の男の子にとって、好……同級生の女の子に四万円以上もする高額な買い物を奢られるなんて、男としての尊厳が粉々に砕け散る死刑宣告みたいなものなの! 『お前は無力だから私が養ってあげるわ』って言われてるのと同義なのよ!」
「えっ……? そんなつもりは毛頭ないよ。ただ、彼にはこのレベルの道具が必要だったからで……」
「あんたにそのつもりがなくても、男のプライドってのはそういう風にできてるの! 城ヶ崎君がその場で財布をひっくり返して八千四百円を払ったのはね、男としての最後のプライドだったのよ!」
「そうやで、姫宮さん」
横山さんが横から腕を組み、深く頷きながら加勢してきた。
「男の子っちゅう生き物はな、見栄と意地で呼吸しとるようなもんやねん。特に好きな……やなくて、世話になってる女の子の前やったら尚更や。そこで『いいよいいよ、私が奢ったつもりでいるから』なんて言われたら、プライドずたずたのギタギタやで。城ヶ崎君の必死の形相を見たら分かるやろ?」
二人に言われて城ヶ崎の方を見ると、あいつはロッカーの前で小さく丸まり、顔から耳まで真っ赤にして床の一点を見つめていた。
肩を小刻みに震わせ、今にも消えてしまいそうな顔をしている。
前世で男として生きていた俺だが、当時の俺は野球のことしか頭にない筋肉バカだった。女の子に物を買ってもらう経験など一度もなかったし、上達するための機材投資なら、誰の金だろうと使えるものは使うのが合理的だと思ってしまう。
「……うん、わかったよ」
「分かったならよろしい。姫宮さんのズレた認識はこれで訂正完了ね」
大原さんがふうと息を吐き、満足そうに腕を解いた。
だが、その直後だった。
大原さんと横山さんの視線が、スッと冷たい光を帯びて、ロッカーの前で小さくなっている城ヶ崎へと向けられた。
「……まあでも」
大原さんの声のトーンが、一段低くなった。
城ヶ崎がビクッと肩を跳ねさせる。
「女の子に全額奢られるのは確かにダサいわ。でもね……同級生の女の子に四万も借金する男も、大概ダサいからね!?」
大原さんの容赦のない言葉のナイフが、城ヶ崎の胸に深々と突き刺さった。
「ぐはっ……!?」
「ほんまそれやわ」
横山さんが呆れたように首を横に振りながら、追い討ちをかける。
「『女の子に五万奢られた男』から、『女の子に四万円借金しとる男』にランクアップしただけやん。どっちに転んでも全然カッコついてへんて。むしろ毎月お金返すたびに頭下げるんやろ? 完全に上下関係できあがっとるやんか」
「うぐあああっ……!!」
城ヶ崎が胸を押さえてその場に崩れ落ちた。
膝を床につき、両手で頭を抱えて激しく身悶えしている。
「だ、ダサいのは分かってる……! 俺だって昨日の夜、ベッドの中で百回くらい悶絶したよ! でも……でもあのグラブ、すっごく手に吸い付いて……どうしても諦めきれなかったんだよ……!」
床に突っ伏したまま、城ヶ崎が魂の叫びを絞り出した。
女の子の前で格好つけたい男のプライドと、本物の道具を手に入れて上手くなりたいという野球少年としての純粋な欲求。
その二つが正面衝突した結果、あいつは苦渋の決断として借金を選んだのだ。
「まあ、手持ちの八千四百円を全部出して、残りを毎月のお小遣いで返すって頭下げたのは、ギリギリ誠意があるとは認めてあげるけどさー」
大原さんが意地悪そうに口端を吊り上げた。
「でも、女の子に借金して道具買ってもらうなんて、それなんてヒモ?」
「ヒモ言うなああああっ!!」
城ヶ崎が顔を上げて絶叫した。
「ヒモじゃない! ちゃんと全額耳を揃えて返す! それに、ただ返すだけじゃない! 誰よりも練習して、誰よりも速い球を投げて、県で一番のピッチャーになって……このグラブ代の何十倍も結果で返してやるって約束したんだ!」
真っ赤な顔で、涙目になりながらも熱く吠える城ヶ崎。
その必死な姿に、大原さんと横山さんは顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。
「あはは! 結果で返すって、昭和のプロ野球選手か何か!?」
「昭和のスポ根やん! でもまあ、それくらい気合入っとるならええんとちゃう? 姫宮さんに借金しとる間は、頭上がらへんやろうけどな」
「ううっ……それは否定できない……」
城ヶ崎は力なく肩を落とし、情けなさそうに項垂れた。
すっかり女子二人の掌の上で転がされている。
俺は苦笑交じりにその様子を眺めていた。
女友達からの容赦ないツッコミや、男のプライドとやらは俺にはいまいちピンとこない部分も多い。
だが、大金を背負ってまであいつが本気で野球に向き合おうとしていることだけは確かだった。
始めたばかりの競技にこれほどの覚悟と情熱を注げる初心者が、一体どれほどいるだろうか。あいつを無理やりマウンドへ引っ張り込んだ俺としては、その熱意が何よりも嬉しかった。
「大原さんも横山さんも、それくらいにしてあげてよ。道具への投資を惜しまないのは、アスリートとして一番正しい姿勢なんだからね」
俺が助け舟を出すと、城ヶ崎がすがるような目でこちらを見上げてきた。
「ひ、姫宮さん……!」
「それに、毎月の返済なんて気にしなくていいって言ったのは本当だよ。ボクとしては城ヶ崎君が最高の球を投げてくれれば、それで十分元が取れるんだからね」
「だから! それは男の意地として絶対に返すんだってば!」
城ヶ崎が立ち上がり、またしても頬を膨らませて叫んだ。
頑固なやつだ。だが、その頑固さこそがマウンドで一人で戦う投手に必要な資質なのかもしれない。
ちょうどその時、朝の始まりを告げるチャイムが教室に鳴り響いた。
「ほら、先生が来ちゃうわよ。みんな席につきなさい!」
大原さんが仕切り直し、横山さんと一緒に自分の席へと戻っていく。
城ヶ崎も慌ててグラブをロッカーの奥へ丁寧にしまい、窓際の自席へと滑り込んだ。
午前中の授業が終わるのを待ちわびていたように、四時間目の終了を告げるチャイムが教室に鳴り響いた。
音が響き渡った瞬間、城ヶ崎が弾かれたように立ち上がった。
「姫宮! 行くぞ!」
「落ち着いて、城ヶ崎君。先にお弁当を食べようよ。お腹が空いたまま動いても力が入らないよ」
「あ……そ、そうだな。焦りすぎた……」
城ヶ崎はバツの悪そうに苦笑いし、机の中から大きめの弁当箱を取り出した。
俺も教室の窓際にある城ヶ崎の席で、家から持ってきた弁当箱を広げた。
城ヶ崎は、白米とおかずを勢いよく口に放り込んでいく。早く中庭に行きたくてたまらないのが丸わかりだった。
俺も自分の弁当をしっかり食べ終え、お茶を飲んで一息ついてから席を立った。
「お待たせ、行こうか」
「おう!」
「ボクも家からグラブを持ってきたよ」
俺は通学カバンの中から、自分のグラブを取り出した。小学生の頃から使っている、飴色に色づいた小ぶりのマイグラブだ。革はすっかり柔らかく馴染んでいて、手のひらに吸い付くようになっている。
城ヶ崎はロッカーの扉を開け、タオルに包まれていたキャメル色のグラブと、昨日用品店でグラブとは別会計で俺が買った軟式球を取り出した。
部室に道具を借りに行ったり、誰かが使っていないか確認したりする必要はもうない。自分たちの道具を抱えて、そのまま教室を出て階段を降りた。
中庭に出ると、五月の柔らかな風が吹き抜けていた。
中庭の端にある、いつもの空きスペースで立ち止まる。周囲に人がいないことを確かめ、互いに距離を取った。
「よし、まずは八メートルくらいの間隔で、山なりのボールをゆっくり投げてみよう」
「わかった!」
城ヶ崎がキャメル色の硬式投手用グラブに左手を差し込んだ。まだ新品の革が張りつめていて、手を入れるだけでも少し窮屈そうだ。
俺も左手に小ぶりな飴色のグラブをはめ、球を軽く握って、ふわりとした緩い球を相手の胸元へ放った。
パシッ。
乾いた音が響いたが、ボールが捕球面で小さく跳ねた。昨夜店頭で握って型を確かめたとはいえ新品の革はまだ硬く、受けるタイミングがわずかにずれただけで弾きそうになる。城ヶ崎は慌てて右手を上から添え、手の中でぎゅっとボールを押さえ込んだ。
「っと……あぶねぇ! 弾くかと思った」
「大丈夫だよ。まだ革が硬いから、今日はこのくらいの緩い球で慣らそう」
「おう! でもすげえよ、この革の張り! 共用のくたくたのグラブと全然違う!」
城ヶ崎が歓声を上げた。ボールが手のひらの中で暴れず、革の芯がしっかりと衝撃を受け止めている感触に興奮しているらしい。
「いい音だね。次は君から投げてみて」
「よし、行くぞ!」
城ヶ崎が右手にボールを持ち替え、山なりの軌道でこちらへ放ってきた。
俺は左手の飴色グラブをすっと出し、ポケットの真ん中でぱすんと軽やかに受け止める。長年使い込んできた革は、意識しなくても自然にボールを包み込んでくれた。
「うわ、姫宮は捕るのめちゃくちゃ上手いな。音が全然違う」
「ボクのグラブはずっと使っているからね。城ヶ崎君のも、これから使い込んでいけばどんどん手に馴染んでくるよ」
「そうだな。早く育ててやりたいよ」
城ヶ崎が嬉しそうに歯を見せて笑い、もう一度グラブを胸の前に構え直した。今度は少し腰を落とし、ボールの軌道を目でしっかり追っている。
俺がもう一度緩やかな球を放つと、城ヶ崎はボールの正面にグラブを差し出した。今度は芯の近い位置で捕らえられたのか、さっきよりも低く心地よい音が響く。まだ手の中で遊ぶ感覚はあるものの、弾くことなくしっかりと収まっていた。
「よっしゃ、今度は綺麗に入った!」
「うん、いい音だったね。芯で捕れるようになってきたよ」
「すげえな、自分のグラブでボールを捕るのって、こんなに気持ちいいんだな……!」
城ヶ崎は左手のキャメル色のグラブを掲げ、ポケットに収まったボールをしみじみと眺めた。日光に照らされた革が、新品特有の美しい艶を放っている。
その顔には自分の新しい相棒への信頼と、野球が上手くなっていくことへの純粋な歓喜が溢れていた。
「姫宮」
「何だい?」
「俺、絶対にこのグラブで、お前に最高の球を投げてみせるからな。四万三千六百円はきっちり返す。それだけじゃなく、結果でも恩返ししてやるよ!」
城ヶ崎が白い歯を見せて、自信満々に笑った。
朝の教室で大原さんたちに散々いじられて真っ赤になっていた男とは、まるで別人のような精悍な顔つきだった。
「楽しみにしているよ。でも、お金のことは気にしなくていいからね。その調子でどんどん上手くなっておくれ」
「だから、金も返すんだって! 男のケジメなんだから!」
城ヶ崎が苦笑いしながらボールを投げ返してくる。
それから二人で何度か球をやり取りしているうちに、遠くの校舎から昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが響いてきた。
「あ、もう予鈴だ。戻ろうか」
「いや、まだ十球は投げれるよ!」
城ヶ崎は時間ギリギリまでボールを投げたあと、名残惜しそうにグラブから手を抜いた。
俺たちは中庭を横切って校舎へ戻り、階段を上がって教室へと入った。城ヶ崎はロッカーの前でタオルを取り出し、グラブについたわずかな土埃を優しく払い落としてから、保型ボールを挟んでバンドを巻き直した。そして、大切そうに棚の奥へと収める。
俺も自分の飴色のグラブをロッカーにしまい、自分の席についた。
城ヶ崎の反応は上々だ。このグラブへの投資は間違いなく大正解だったと。俺は気分を良くするのだった。