六時間目の終了を告げるチャイムが校舎の隅々にまで鳴り響くと、教室の張り詰めていた空気が一気にほどけ、あちこちで机を引く音や椅子の軋む音が重なり合った。
ノートと筆箱をスクールバッグに放り込み、ファスナーを閉めていると、前の席の大原さんがくるりと振り返ってきた。その隣では、すでに鞄を肩にかけた横山さんが、のんびりとした調子であくびを噛み殺している。
「姫宮さん、今日も真っ直ぐ帰るの? もし時間あるなら、駅前のパン屋さんに新しく出たメロンパン、一緒に食べに行かない?」
大原さんが楽しそうに誘ってくれた。女子高生らしい、放課後の平和で輝かしい提案だ。甘い誘惑に心が揺らぎそうになるが、俺は小さく首を横に振った。
「誘ってくれてありがとう、大原さん。すごく行きたいんだけど、今日は放課後にちょっとグラウンドへ寄る約束があるんだ」
「グラウンド? あ、もしかして……」
横山さんが細い目をさらに細めて、ニヤリと意味ありげな笑みを浮かべた。
「また城ヶ崎君の見張りなん? ほんま仲ええよね。お昼休みも中庭で二人仲良くキャッチボールしとったし、すっかり専属マネージャーさんやん」
「違うよ、マネージャーじゃないってば。ただの見張り役。あんな最高の原石が、おかしな投げ方をして肩や肘を壊したらもったいないでしょ。ちょっと様子を見に行くだけだよ」
「はいはい、そういうことにしておくわ。あんまり遅くまで付き合わされて風邪ひかんようにね」
「うん、気をつけるよ。メロンパンはまた今度、絶対に一緒に行こうね」
二人に手を振って教室を出た。
昇降口でローファーに履き替え、外の渡り廊下へと足を踏み出す。
五月の風は心地よく、渡り廊下の屋根を抜けていく風が頬をかすめていく。グラウンドに近づくにつれ、春の乾いた土煙の匂いと、金属バットが硬式球を弾く甲高い破裂音が耳に届き始めた。
グラウンドの中では、すでに放課後の練習が始まっていた。
内野の黒土の上では、上級生たちが守備位置について鋭いノックを受けていた。だが、激しいノックの合間、笛の合図とともに主将の堂本先輩が野太い声を張り上げた。
「給水! 三分間、各自しっかり水分と塩分を摂れ! 喉が渇いてからじゃ遅いぞ!」
その号令とともに、内野陣が一斉にベンチ前へ駆け込み、ずらりと並べられた水筒を煽り始めた。誰一人として水を飲むことを咎められない。
外野の芝生では、下級生たちが短いダッシュを何本も繰り返していた。以前なら、足をもつれさせてへたり込むまで外周を延々と走らされていたところだ。
ただ長い距離を走らせるやり方は、野球という競技において意味が薄い。息を整えながら短距離を一気に駆け抜けるほうが投球や守備の一瞬で爆発的な力を出す筋肉が身につき、無駄に体を摩耗させずに済む。水分の補給も同じだ。水を我慢させても根性などつくことはない。こまめに喉を潤すほうが、体を壊さずに質の高い動きを続けられる。
城ヶ崎が入部した四月、練習中に水を飲ませない古いやり方や、意味のない長距離走が真っ先に鼻についた。あんな並外れた肩を持った怪物をくだらない根性論で消耗させてたまるか。そう思った俺は堂本キャプテンに助言し、練習環境の改善に着手したのだ。おかげで、部員たちのへばり方も目に見えて減ったらしい。
その恩恵を一番感じているらしい下級生たちが、外野の芝生から給水所へ戻る途中、ネットの外に立つ俺の姿に気づいた。
「あ……姫宮さんだ」
「マジか、見に来てくれたんだ」
二、三人の一年生部員が顔を見合わせ、水筒を手にしたまま、ネット越しに嬉しそうにぺこりと頭を下げてきた。中には、両手を合わせて拝むような仕草をして「女神様、今日も水がうまいです」と冗談めかして言ってくるお調子者もいる。
「こら、ふざけてないで早く戻ってね」
俺が軽く手を振ると、部員たちは小走りで列へと戻っていった。大げさに騒がれる筋合いはない。すべてはあいつの肩を万全に育てるための地ならしに過ぎない。そのついでに部員連中も強化されるのなら、甲子園にいける確率も高まるというものだ。
視線をグラウンドの奥へと巡らせると、三塁側のベンチ脇で、新品のキャメル色のグラブを手にした城ヶ崎の姿があった。
城ヶ崎もこちらに気づいたらしく、パッと顔を明るくして駆け寄ろうとした。
だが、それよりも早く、内野のノックを切り上げた堂本キャプテンと、エースの成瀬先輩が、ネットの通用口の方へと歩み寄ってきた。
「姫宮さん。来てくれたんだな」
泥だらけの防具をつけた堂本キャプテンが、ゴツゴツとした手で帽子を脱いで声をかけてくれた。隣に立つ成瀬先輩も、汗をタオルで拭いながら穏やかに笑いかけてくる。
「こんにちは、姫宮さん。城ヶ崎の様子を見に来てくれたのかい?」
「はい。邪魔にならないよう、外から少し見学させてもらおうと思いまして」
「邪魔だなんてとんでもないよ。……実は姫宮さん、少し相談があるんだ」
成瀬先輩が困ったように眉を下げ、グラブを抱えたまま口を開いた。
「さっきブルペンで何球か投げていたんだけど、どうも右腕を振り抜いた後、身体が一塁側に流れてしまう感じがしてね。右バッターのインコースを狙った球が、指先から少し抜けてシュート回転してしまうんだ」
「成瀬先輩の球が、ですか?」
西高の大黒柱であるエースから真顔で教えを請われ、俺は少し背筋を伸ばした。
「ああ。俺の目から見ても、球自体は悪くないんだが、リリースの瞬間にどこか引っかかりがあるように見える。姫宮さん、ちょっと見てみてもらえないか」
堂本キャプテンからも頼まれ、俺は小さく頷いた。
「分かりました。ボクが見て分かる範囲でよければ」
スクールバッグを通路のベンチに置き、通用口からグラウンドの中へ足を踏み入れる。
三塁側のブルペンへ移動すると、成瀬先輩がマウンドに上がり、堂本キャプテンがミットを構えた。
「じゃあ、一本いこう」
「お願いします」
成瀬先輩が息を吐き、足を上げて腕を振る。
バシィン、と乾いた捕球音が響いた。球速は百三十キロ台半ば。さすがにフォームは綺麗だが、ボールが捕手の構えた位置よりもわずかに外へ流れ、右打者の内角を突くには少し甘い軌道を描いていた。
二球、三球と見せてもらい、俺は成瀬先輩の身体の使い方を注意深く追った。
「そこまでで大丈夫です、成瀬先輩」
俺が声をかけると、成瀬先輩がマウンドを降りて小走りで駆け寄ってきた。
「どうかな、姫宮さん。何か気になる所はあったかい?」
「はい。成瀬先輩、右腕をしっかり振ろうとする意識が強い分、グラブを持っている左手を胸の横へ強く引き込みすぎているみたいです」
「左手の引き込み……?」
「左手を早く後ろへ引いてしまうと、右腕が出る前に左肩が相手の方へ開いてしまいます。そうすると身体全体が一塁側へ引っ張られて、右腕の軌道が遠回りになるんです。だからボールの右側を擦るような形になって、シュート回転してしまうんだと思います」
成瀬先輩がハッとしたように自分の左肩を押さえた。
「言われてみれば……腕をもっと振らなきゃと思って、左手を脇の下へ無理やり引き込んでいたかもしれない」
「左手は後ろへ引くのではなく、胸の前に置いておくイメージがいいと思います。胸の前に壁を作るような感覚でグラブを抱え込んで、そこに右腕を巻きつけていくように振ってみてください。左肩が相手に長く向いている状態を保つんです」
俺が身振りを交えて伝えると、成瀬先輩はその場でグラブを胸元に構え、ボールを持たずにシャドーピッチングを繰り返した。
「左手を引かずに、胸の前に壁を置く……こうか? あ、頭がぶれないな」
「はい、軸が真っ直ぐ残っています。その感覚のまま、力を入れずに一球投げてみてください」
「よし、やってみるよ」
成瀬先輩が再びマウンドへ上がり、ゆったりとしたモーションから足を上げた。
グラブを抱え込んだ胸の向きが我慢され、ぶれない回転軸から右腕が鋭く振り下ろされる。
ドゴンッ!
ミットの芯を射抜く重たい捕球音がブルペンに響き渡った。
構えた膝元へ、寸分の狂いもなく低めの直球が突き刺さっている。
「……おおっ! 成瀬、今の球めちゃくちゃいいぞ!」
堂本キャプテンがミットを叩いて声を張り上げた。
成瀬先輩も驚いたように自分の右腕を見つめ、それから嬉しそうに顔を綻ばせた。
「全然違う……! 無理に力を入れていないのに、ボールが手元でグッと伸びる感覚があったよ。姫宮さん、ありがとう。すごく分かりやすかった」
「お役に立ててよかったです。でも、無理して投げ込みすぎないでくださいね」
「分かっているよ。堂本、今の感覚を忘れないうちに、あと五球だけ受けてくれ」
二人が嬉々としてブルペンでの練習を再開するのを見届け、俺は胸の奥で息を吐き出した。成瀬先輩の球は百三十キロ台半ばで、公立校のエースとしてはまずまずの球威といったところだ。
ふと視線を横へ向けると、ブルペンのフェンス脇に城ヶ崎が突っ立っていた。
練習着の膝を泥で汚したまま、両手で大事そうにキャメル色のグラブを抱え込んでいる。その大型犬じみた顔には、隠そうとしているものの不満がありありと張り付いていた。露骨に唇を尖らせ、ブルペンで投げる成瀬先輩を睨みつけている。
「あ、城ヶ崎君。待たせちゃってごめんね」
俺が歩み寄ると、城ヶ崎はびくっと肩を揺らし、それから不貞腐れた足取りで近寄ってきた。
「姫宮……」
「どうしたの? そんなところで突っ立ってないで、こっちにおいでよ」
「……成瀬先輩に、すげえ熱心に教えてたじゃん」
吐き捨てられた言葉は、ずいぶんとげとげしかった。城ヶ崎は胸元のグラブをぎゅっと抱え直し、恨めしそうに視線を落とす。
「成瀬先輩の球ばっかり見てさ。今日は俺の練習を見るって話だっただろ……先輩ばっかり構って、ずるいじゃんか」
「成瀬先輩が投げ方に少し悩んでたから、ちょっと話をしただけだよ」
「そうだけどさ……。姫宮があっという間に先輩たちと仲良くなって、そっちばっかり相手にするから……いつの間にか遠くなっちゃうんじゃないかって」
ボソボソと愚痴をこぼす顔を見つめ、俺は胸中でやれやれと首を振った。
何を拗ねているのかと思えば、指導の手間が分散してしまうのを心配しているらしい。あちこちに教えて回るせいで、自分の面倒を見てもらえる時間が減るのを嫌がっているのだ。
身体が大きくて、投げればとんでもない剛速球を放つ怪物のくせに、教え手を独占したがる子供みたいなところがある。そんなに自分の投球を見てほしいなら、素直にそう言えばいいものを。
「何を馬鹿なこと言ってるの」
俺は少し呆れたように息を吐き出し、城ヶ崎が胸元に抱えているキャメル色のグラブを指先で軽く小突いた。
「ボクが今日、なんのために放課後のグラウンドへ来たと思ってるのさ。新しく買ったそのグラブを、城ヶ崎君がちゃんと使えているか見届けるためでしょ」
「あ……」
「先輩たちへの話はついでだよ。ボクが見に来たのは、城ヶ崎君の球なんだから」
「俺の、球……」
城ヶ崎の耳が、目に見えてカッと赤くなった。
さっきまでのふてくされた表情が一変し、垂れ目の奥にパッと光が戻る。本当に単純なやつだ。だが、それだけ自分の投球に貪欲なのだと思えば、手取り足取り仕込む甲斐もあるというものだ。
「当たり前でしょ。四万円以上も立て替えて買ったんだから、城ヶ崎君がこのグラブでいい球を投げてくれなきゃ困るんだよ」
「う、うん! 俺、投げる! 姫宮、ちゃんと見ててくれよな!」
現金なもので、さっきまでのしょげた様子はどこへやら、城ヶ崎は元気よく返事をして空いていた隣のマウンドへと駆け上がっていった。
成瀬先輩の球を受け終えた堂本キャプテンが、汗を拭いながらマウンドの城ヶ崎の方へやってきた。
「城ヶ崎、お前の番だな。姫宮さんの前で無様な球は投げられんぞ」
「はい! よろしくお願いします!」
城ヶ崎がマウンドのプレートに右足をかけ、真新しいキャメル色のグラブを胸の前でセットした。
まだ革に硬さが残っているはずだが、自分の手足の長さに合った硬式用のグラブをはめている姿は、それだけで一端の投手らしく見えてくる。
城ヶ崎が大きく息を吸い、左足をゆっくりと持ち上げた。
右足一本で立つ。
ここ一週間、昼休みの中庭でフォームを整え、いい球を投げていた。ここでも同じ球が来るはずだった。
腕が鋭く振られると、指先から放たれた白球が低い唸りを上げてベースの上を通過した。
バシィン、と乾いた破裂音がグラウンドに響きわたる。
構えた位置より少し高めに浮いたものの、堂本キャプテンのミットを激しく揺さぶる一球だった。
「やっぱり速え……!」
「おいおい、百三十キロは出てるぞ。まだ入って一ヶ月の一年だろ。成瀬の球と変わらないじゃないか」
ブルペンの周りにいた先輩たちがざわつき、驚きの声を漏らす。
だが、俺はひとり、ブルペンの脇で首を傾げた。
こんなものじゃない。
ここ一週間、昼休みの中庭で俺が受けていた城ヶ崎の球は、もっと重く、もっと回転がかかっていた。今の球はスピードこそ出ているが、腕の力だけで振っているのかどこか上擦っている。
どうしていつもの球が出ないのか。
マウンドの上で、城ヶ崎が首を傾げながら自分の右手を見つめている。その向こうでは、大きな防具を身につけた堂本キャプテンが、どっしりとホームベースの後ろに腰を下ろしていた。
その光景を見ていて、違和感の正体がすとんと腑に落ちた。
受け手の大きさだ。
昼休みの中庭で城ヶ崎が投げていた相手は、女子の体になった小柄な俺だった。
背も低く、肩幅も狭い俺が低く構えていたからこそ、城ヶ崎の視線は低い位置の一点に留まり続けていたのだ。そのおかげで頭が浮かずに右足の上に体重がしっかり残り、体が前に倒れ込まずに済んでいた。
だが、今の相手は大柄な堂本キャプテンだ。身体の幅も座高も俺の倍近くあり、構えるミットの位置も自然と高くなる。
的が大きくなったせいで、無意識のうちに城ヶ崎の目線が上がってしまっているのだ。目線が高くなればつられるように頭と上半身が前へ突っ込み、手元が早く離れて球が上へ抜けてしまう。
俺はマウンドのすぐ横、ファウルグラウンドの土を踏んで歩み寄った。
「城ヶ崎君、一回深く息を吸って」
城ヶ崎がはっと顔を上げた。
「姫宮……昼休みのときはいつも上手く投げれるんだけど、部活のときはなぜか上手く投げれないんだ」
「焦らなくていいよ。何がおかしいのか、ちゃんと分かったから」
「え、本当か?」
「受け手の大きさだよ。堂本キャプテン、身体も大きいし防具も着けているでしょ。お昼休みは小柄なボクが相手だったから、目線が低い位置の一点に固定されていたんだよ。でも今は目の前の的が大きいから、無意識に目線が浮いて、身体が前へ突っ込んじゃってるんだ」
城ヶ崎が目を丸くして、ホームの堂本キャプテンを見つめ直した。
「堂本キャプテンの身体全体を見るんじゃなくて、ミットの真ん中、革紐のあの一点だけを見るようにしてみて。お昼休みにボクの構えを見ていたときと同じように、目線を低く絞るんだよ。そうすれば、身体は勝手にお昼休みの投げ方を思い出すから」
「そっか……! キャプテンがデカいから、目線が浮いてたのか!」
「おいおい、デカくて悪かったな」
ホームベースから堂本キャプテンの苦笑い混じりの声が飛んできた。ミットをぽんと叩いている。
城ヶ崎は頭を下げつつも、視界の霧が晴れたような顔つきになった。
「右足で地面を踏んで、キャプテンのミットの真ん中だけを見る……よし」
城ヶ崎が息を長く吐き出し、両肩を一度落としてリラックスさせた。
新品のグラブを胸元に構え、再びセットポジションに入る。
左足が静かに持ち上がった。
今度は、右足の膝が早く折れない。右足の裏全体でプレート前の土をしっかりと噛み、軸足の上にどっしりと体重が乗っている。
左足が前へ大きく踏み出されていく間も、城ヶ崎の胸は横を向いたまま、相手捕手に対して背番号が見えるほどの深いタメを保っていた。
そして、踏み出した左足が、ズシッとマウンドの土を捉えた瞬間。
下半身に溜め込まれたエネルギーが一気に腰を伝わり、遅れて出てきた右腕が、まるで鞭のように凄まじいしなりを描いて空を切り裂いた。
バシュッッッ――!
それは、先ほどの成瀬先輩の直球ともまるで違う、大気を引き裂くような鋭い風切り音だった。
白球が指先を離れた瞬間、ボールの縫い目が視界から消え去り、白い残光となってキャッチャーミットへと吸い込まれた。
ドガァァァンッ!
凄まじい破裂音がブルペンに響き渡った。
堂本キャプテンの体が衝撃で後ろへ弾かれ、構えていたミットが大きく跳ね上がった。捕球したミットの革から、土煙がパッと散るほどの衝撃だった。
「…………っ!?」
ブルペンの空気が、一瞬にして凍りついた。
マウンドで次の球を握ろうとしていた成瀬先輩も、外野で走っていた部員たちも、何事かと一斉にこちらへ視線を向け、息を呑んで立ち尽くしている。
沈黙を破ったのは、ミットを抱えたまま固まっていた堂本キャプテンの、唸るような声だった。
「……おいおい……嘘だろ……?」
堂本キャプテンはおそるおそる立ち上がり、痺れた左手をミットから引き抜いて、信じられないものを見る目でボールを見つめた。
「手が……手が千切れるかと思ったぞ。城ヶ崎、お前……今、何キロ出てるんだ……!?」
「え……?」
投げた本人の城ヶ崎も、自分の右手をまじまじと見つめ、目を白黒させていた。
「す、すげえ……! 腕に全然無理な力が入ってないのに……勝手に腕が振れて、ボールが指先から飛んでいった……!」
城ヶ崎は弾かれたように振り返り、マウンドの脇に立つ俺へと駆け寄ってきた。その顔は、まるで新しい玩具を見つけた子供のように喜びに輝いていた。
「姫宮! 今の、すっげえ投げやすかった! 全然肩も痛くないし、ボールが勝手に走ってくれたよ!」
「うん、すごくいい球だったよ」
思わず、口元から乾いた笑いが漏れそうになった。
俺の前世は何だったんだ。
無名の弱小校で朝から晩まで腕を振り、たった一人で甲子園の準決勝まで投げ抜いて、最後は右の肘を粉々に壊した。人生をまるごと捧げてようやく手に入れた球の速さのすぐ足元まで、こいつは野球を始めてたった一ヶ月で迫っている。
馬鹿馬鹿しくて、笑うしかない。
胸の奥がひどく焼けるように苦い。これほどの怪物を預かった指導者として、武者震いが止まらないだけだ。
ここで気を良くして力任せに腕を振らせれば、あっという間に壊れて終わる。
潰れた経験がある俺だからこそ、正しい身体の使い方を叩き込み、この才能を最後まで守り抜く責任がある。満面の笑みで駆け寄ってきた城ヶ崎を見つめ、俺はすっと息を整えた。
「でも、調子に乗っちゃダメだよ。今のは体重移動としなりが、たまたま噛み合っただけ。毎回同じ投げ方ができるようにならなきゃ、試合では使えないからね」
「う、うん……! そうだよね」
「それに、気持ちよく腕が振れるからって、何十球も全力で投げたらすぐに肩が壊れちゃうよ。今日は新しいグラブの感触を確かめるのが目的だからね。あと十球、さっきの足の裏の感覚を確かめながら軽く投げたら、今日の投球はおしまい」
「えっ、もう終わり!? もっと投げたいよ……!」
「ダメ。怪我をしてからじゃ遅いんだから。ボクの言うことが聞けないなら、もう見に来てあげないよ?」
「うっ……! わ、分かったよ! 姫宮の言う通りにする!」
城ヶ崎はしおしおと眉を下げ、名残惜しそうにしながらも素直に頷いてマウンドへと戻っていった。
その様子を横で見ていた堂本キャプテンが、ミットの土を払いながら、深く息を吐き出して笑った。
「恐れ入ったよ、姫宮さん。あの怪物の手綱を、そこまで完璧に握っているとはな」
「そんなことないですよ。ボクはただ、城ヶ崎君が無理をして怪我をしないように見張っているだけです」
「……姫宮さん、また気が向いたら、いつでも顔を出してやってくれ」
「はい。都合がつくときは、また見学させてもらいますね」
俺が会釈を返すと、堂本キャプテンは嬉しそうに頷き、再び城ヶ崎の投球練習へと付き合ってくれた。
その後、城ヶ崎は約束通り丁寧なフォームで十球を投げ終え、きっちりと投球練習を切り上げた。
他の部員たちも効率的なメニューを順調に消化し、夕暮れの空が茜色に染まり始めた頃、放課後の部活は無事に終了となった。
部室で制服に着替えてきた城ヶ崎と合流し、俺たちは並んで西高の長い心臓破りの坂道を下り始めた。
夕日が西の空を橙色に染め上げ、二人の長い影がアスファルトの道の上に伸びている。夕暮れの涼しい風が、部活帰りの火照った肌に心地よかった。
城ヶ崎は肩にスポーツバッグを担ぎ、反対の手には大切そうに手入れ布で拭かれたキャメル色のグラブを抱えていた。その横顔には、練習をやり切った充実感が滲み出ている。
「……なあ、姫宮」
「ん? 何、城ヶ崎君」
歩幅を合わせながら問いかけると、城ヶ崎は少し照れくさそうに視線を泳がせ、それから意を決したように俺の顔を真っ直ぐに見つめてきた。
「今日さ、すっげえ楽しかった。いつもの球も本番で投げれるようになったし、キャプテンも驚いて……野球って、あんなに面白いんだな」
「うん、城ヶ崎君の最後の球、すごく良かったよ。あの感覚を身体が覚えたら、もっと凄い球が投げられるようになるよ」
「……うん。でもさ」
城ヶ崎は足を止め、夕日を背にして立ち止まった。
俺もつられて足を止め、振り返る。
「俺さ、もっともっと練習して、絶対に誰よりも速い球を投げるようになるよ。成瀬先輩よりも、どこの高校のエースよりも、一番すげえピッチャーになる」
真剣な瞳だった。普段の頼りない大型犬のような表情は消え失せ、底知れない闘志と才能を宿した少年の顔がそこにあった。
「だからさ……俺のこと、一番近くでずっと見ててくれよな。姫宮」
夕暮れの風が吹き抜け、城ヶ崎の切実な声が真っ直ぐに届いてきた。
あいつの射貫くような眼差しを受けて、皮膚の裏側がじわりと熱を帯びた。
相棒など一人もいなかったあの夏を思い出す。誰にも頼れず、全部を自分の腕一本で背負い込み、そして壊れたのだ。
向かい合った城ヶ崎の右肩に、自然と目が行く。厚くてしなやかな肩。そこに見えるのは、まだ軋みを知らなかった頃の、壊れる前の俺自身の腕だ。
「もちろん、ずっと見てるよ。せっかく四万円以上も立て替えて買った新品のグラブがあるんだからね。元を取るまでは絶対に逃がしてあげないから」
「えっ……そこはグラブの元を取るためなのかよ……!?」
城ヶ崎が大げさに肩を落とし、情けない声を上げた。
「あはは、冗談だよ。約束する。城ヶ崎君が最高の球を投げられるようになるまで、ちゃんと一番近くで見張っててあげるから」
「……うん! 約束だからな、姫宮!」
城ヶ崎の顔に、夕日のように温かく眩しい笑顔が咲いた。
並んで歩き出す坂道。二人の靴音がリズミカルに重なり合いながら、茜色に染まる街並みの中へと溶けていった。