水曜日の放課後。練習終わりのグラウンドには、まだ熱気が低く淀んでいた。
グラウンド整備のトンボが砂煙を立て、部室の裏手からは片付けを急ぐ部員たちの乾いた笑い声が聞こえてくる。昇降口へ向かう通路の脇で俺は立ち止まり、スポーツバッグを抱えて小走りにやってくる城ヶ崎を待った。
頭の奥には、昨日の夕暮れのマウンドが焼き付いて離れなかった。
目線を堂本キャプテンのミットの革紐に絞らせた途端、百四十キロ台半ばに達していた城ヶ崎の白球。
だが、同時に俺の目を釘付けにしたのは、踏み込んだあとの城ヶ崎の左足だった。
入学のときに買ったという学校指定の運動靴は、どうも微妙にサイズが合っていないらしい。踏み込むたびに靴の中で足が遊んでいた。百四十キロを超える球を投げるということは、踏み出し足の親指の付け根や踵に自分の体重を大きく超える衝撃がかかるということだ。土の表面を噛みきれずに靴の中で足が遊べば、せっかく下半身から汲み上げた力が逃げるだけでなく、足首や膝を壊しかねない。
道具の不備で怪物が潰れるなど、あってはならないことだ。
学校の最寄り駅前にある小さなスポーツ店では、棚に並んでいる種類も限られていて、足に合うものを選びようがない。あんなところで間に合わせの靴を買わせるわけにはいかなかった。
「お待たせ、姫宮! 靴、本当に今日買いに行くんだよな?」
息を切らして駆け寄ってきた城ヶ崎は、ブレザーの襟元を少し崩し、大型犬のように嬉しそうに目を細めていた。
「うん。昨日の球を見て、やっぱり放っておけないと思ったんだ。球が速くなればなるほど、踏み出す足を支える靴が一番大事になるからね。今日は電車に乗って、前と同じ、数駅先の大きな街の店まで行くよ」
「前グラブを買ったところだろ? やっぱあっちは品揃えが違うからな」
「うん、そうだね。しっかり履き比べて、城ヶ崎君の足の形に合うものを探さないと」
二人で並んで校門を出て、駅へと続く坂道を下り始めた。
夕方の風が少し冷たくなり始めていたが、城ヶ崎の体からはまだ練習後の熱が微かに立ち上っている。ふと、城ヶ崎がカバンをごそごそと探り、白い封筒を取り出して見せてきた。
「あのさ、これ。昨日家に帰って、野球をちゃんとやるって話したらさ、父さんと母さんがすっげえ喜んでくれてさ。靴を買ってこいって、二万円持たせてくれたんだ」
「二万円か。ご両親、優しいね」
「うん。母さんなんて、俺が部活をすぐ辞めるんじゃないかって心配してたみたいでさ。本気でやってるなら靴くらいちゃんとしたの履きなさいって。だから今日は俺、ちゃんと自分で払えるぞ」
誇らしげに封筒を胸ポケットへしまい直す城ヶ崎の横顔を見て、俺は小さく笑った。
まだ城ヶ崎の両親には会ったことがないが、息子の挑戦を応援してくれる良い親なのだろう。高校生の部活用スパイクの相場を考えれば、二万円という予算は十分すぎるほど親心に満ちている。普通の親なら一万円前後の普及モデルで済ませるところを、わざわざ二万円も包んでくれたのだ。
駅の改札を抜け、ホームへと上がる。
夕方の帰宅ラッシュが始まりつつあり、車内は制服姿の学生や仕事帰りの大人たちで混み合っていた。吊り革に掴まる城ヶ崎の肩幅は同年代の誰よりも広く、隣に立つ俺の頭一つ分以上高い位置にあった。
電車が揺れるたび、城ヶ崎は周囲に気を遣うように少し背を丸め、それから俺の方を見下ろして所在なさそうに笑う。
「姫宮ってさ、本当に詳しいよな。グラブのときも思ったけど、なんでそんなに道具のこと知ってんだ?」
「道具を疎かにする選手は、絶対に上にはいけないからね。自分の力を目標に伝える接点は、全部道具なんだよ」
今世の俺は、この体を限界まで鍛えても並以下だった。水泳でも陸上でも柔道でも、最後に足りなかったのは体の器そのものだ。だから道具で埋められる差は一ミリでも埋め、必死にしがみついてきた。
その経験が、今他人の靴選びにまで顔を出しているだけのことだ。
「……そっか。昨日は踏み出した足がちょっと滑る感じがあったけど、それも靴のせいだったのかな」
「そうだよ。昨日は土が少し乾いていたから余計にね。ちゃんとした靴を履けば、地面を掴む感覚がまるで変わるはずだよ」
電車に揺られること十数分、数駅先の大きなターミナル駅に着くと、改札を抜けて駅前の広場へと出た。
夕暮れの空はすっかり群青色へと沈み、立ち並ぶ商業ビルのネオンが眩しく路面を照らし出している。駅前の喧騒を抜け、目指す大型スポーツ店のガラス張りのエントランスをくぐると、フロア全体に新品のゴムや革の匂いが満ちていた。
エレベーターを降りると、壁一面に硬式用のバットやグラブがずらりと並び、中央の広いスペースには各メーカーの最新スパイクが整然とディスプレイされている。
「うわ……すげえ。こんなにいっぱいあるのかよ。どれ見ても同じに見えるな……」
城ヶ崎が圧倒されたように立ち尽くし、口を半開きにしていた。
「見た目だけで選んじゃダメだよ。まずは足の形を測ろう」
俺は近くにいた店員に頼んでメジャーと白い紙を借り、城ヶ崎を試着用の丸椅子のそばへ連れていった。
靴下を脱がせ、紙の上に立たせる。座ったままでは足が縮んで正しい形にならないから、必ず立たせて、両足に同じだけ体重を乗せさせる。かかとの一番後ろと、一番長い指の先に鉛筆で印をつけ、その間を測った。続けて、親指の付け根と小指の付け根の一番張り出したところにメジャーをぐるりと回し、足の周りを測る。これを左右とも。夕方の足は朝よりむくんで大きくなるから、部活のあとの今測るのはちょうどいい。
「城ヶ崎君、右と左で長さが四ミリ違うね。幅は広いけど甲はそこまで高くない。それに、立つとかかとが少し内側に倒れる。かかとをしっかり包んでくれる靴じゃないと、踏み込んだときに外側へ力が逃げるよ」
紙の印とメジャーの目盛りを見比べながら俺が言うと、そばで見ていた店員が目を丸くして感心したように頷いた。
「おっしゃる通りですね。右投げのピッチャーですと、踏み出した左足のかかとが内へ倒れないことが大事です。それに、親指の付け根の幅に比べてかかとが細めなので、幅広の靴だとかかとが浮いてしまうかもしれませんね」
「ですよね。つま先が中で遊ばなくて、かかとと土踏まずのあたりをしっかり包んでくれるものを出してもらえますか。金具は、踏み出したときに外側とかかとがしっかり土を噛むものでお願いします」
「かしこまりました。何足か候補を持ってまいりますので、こちらのベンチでお待ちください」
店員がバックヤードへ走っていくのを見送りながら、俺は試着用の丸椅子を指差した。
「城ヶ崎君、座って」
「あ、うん。……姫宮、なんかすごくないか? 店員さんとプロみたいな会話してたぞ」
「普通だよ。自分の足の骨格に合わない靴を履いて投げるなんて、自殺行為なんだから」
店員が両腕いっぱいに青や黒のシューズボックスを抱えて戻ってきた。
国内の老舗メーカーから、海外のブランドまで、十数足のスパイクがフロアの床にずらりと並べられた。
城ヶ崎が最初の一足に足を入れ、紐を締めようとしたところで、俺は思わずその前に膝をついた。
「待って。紐の締め方が全然なってない」
「えっ? 普通に結ぼうとしただけなんだけど……」
「つま先側を緩くしたまま足首だけ縛っても意味がないでしょ。一回全部緩めて」
俺は制服のプリーツスカートが汚れるのも構わず、両膝をフロアのカーペットにつき、城ヶ崎の大きな足元を覗き込んだ。
右足のつま先から順に、紐の穴に通された平紐を一本ずつ指先で引き上げていく。革が甲のカーブに沿って吸い付くように、ミリ単位で締め付けを調整した。
「踵をトントンって床に打ち付けて。一番後ろに骨を密着させるんだ」
「こ、こうか?」
「そう。そのまま足首の角度を九十度に保って。……うん、ここを締めるよ」
足の甲を包み込む革の張り具合を、両手の手のひらで確かめる。
親指の付け根、小指の付け根、土踏まずの隙間、かかとの上の締まり具合。指先の腹で革越しに城ヶ崎の骨の感触を確かめ、余分な隙間がないか、圧迫が強すぎないかを細かく探った。
「立ってみて。右足にぐっと体重をかけて、マウンドのプレートを押すみたいに踏ん張ってみて」
城ヶ崎がおそるおそる立ち上がり、試着用マットの上で右足に重心を乗せた。
「どう? 親指の付け根が靴の中でずれる感覚はある?」
「あ……なんか、ちょっと外側に逃げる感じがする。痛くはないんだけど、踏ん張ると親指が少し浮くかも」
「やっぱりね。この靴は幅が広くて甲の高い足向けだから、城ヶ崎君の足だと真ん中のあたりがゆるいんだよ。次、これ履いてみて」
俺は即座にその靴を脱がせ、別の箱から取り出した黒いスパイクを差し出した。
再び膝をつき、紐を解き、城ヶ崎の足を滑り込ませて紐を引き直す。指先で革の沈み込みを確かめ、足首の曲がり具合を指でなぞる。
城ヶ崎の足は恵まれた体躯に違わぬ骨太な構造をしており、正しい位置で支えてやりさえすれば、とてつもない推進力を生み出す素質を秘めている。この原石の足元を、寸分の狂いもなく地面と噛み合わせたい。その一心で俺は靴を変え、何度も足裏の感触を確かめさせた。
「次は左足。踏み出し足だからこっちの方が大事だよ。大きく一歩踏み出して、着地した瞬間にピタッと止まってみて」
「う、うん!」
城ヶ崎がマットの上で大きく左足を踏み出し、体重を前へ移動させた。
「どう? 足首がぐらつく?」
「全然ぐらつかない! 靴底の金具がマットに突き刺さるみたいにピタッと止まって、膝が前へ流れないぞ!」
「でも、小指の横が少し当たってない? 革が突っ張ってるように見えるけど」
「言われてみれば、ちょっとだけ当たってるかも……。でもこれくらい普通じゃないのか?」
「普通で妥協しちゃダメ。百球も投げたら、その小さな当たりが血豆になるんだよ。はい、次」
試し履きは十足を超え、気づけば一時間以上が経過していた。
城ヶ崎も最初は緊張していたようだが、足を入れ替えるたびに歩きやすさや踏ん張りやすさが劇的に変わる面白さに取り憑かれたらしく、目を輝かせてステップを踏み直していた。
「姫宮、これすごいよ! 靴を履いてるっていうより、足の裏に直接硬い地面が張り付いてるみたいに軽くて、足が勝手に前へ出る!」
「それが本当に足に合ってるってことだよ。靴の中で足が遊ばないから、余計な筋力を使わずに済むんだ」
棚の前に並んだいくつもの箱を見比べ、最終的に選んだのは、国内の老舗メーカーが作る最上級のスパイクだった。
革は薄いのにしなやかで強く、靴底の歯は土を捉えて踏み込んだ力を逃さず前に送れる配置になっている。
「これだね。スパイクはこのモデルにしよう。これさえあれば、グラウンドでの足元は万全だよ」
「本当か! すっげえ、早くこれ履いて投げたいな!」
城ヶ崎は子供のように顔をほころばせ、箱を大事そうに胸へ抱え込んだ。
「よし、じゃあお会計に行こうか」
俺が立ち上がってレジへ向かうと、城ヶ崎も嬉しそうに後ろをついてきた。
レジカウンターに箱を置き、店員がバーコードを読み取る。澄んだ電子音が鳴り、液晶画面に数字が表示された。
合計金額、二万九千八百円。
「……えっ?」
後ろから画面を覗き込んだ城ヶ崎の喉から、間の抜けた声が漏れた。
城ヶ崎は目を見開き、画面の数字と自分の胸ポケットを交互に見つめ、一気に青ざめていく。
「に、二万九千……!? ひ、姫宮、見間違いじゃないよな!? スパイク一足で三万近いの!?」
「うん。最上級のモデルだからね。プロも使っている型だし、これくらいになるのは当然だよ」
「と、当然って……! 俺、親から二万円しかもらってないぞ! 全然足りないじゃんか!」
城ヶ崎は青ざめた顔で胸ポケットから封筒を取り出し、震える手でそれを握りしめた。
「大丈夫だよ。最初からボクが出すつもりで選んだんだから。城ヶ崎君はご両親からもらった二万円を大事に持っていなよ」
俺は鞄から財布を取り出し、迷うことなくお札を抜き出そうとした。
足元のブレや怪我のリスクを抑え、あの規格外の踏み込みを支えるための土台だ。三万程度でその安全と技術の向上が買えるなら安い。道具をケチって怪我をさせる気など毛頭なかった。
だが、店員にお金を渡そうとした瞬間、横から伸びてきた大きな手が俺の手首を慌てて掴んで止めた。
「ま、待て! 待ってくれ姫宮!」
城ヶ崎が血相を変えて首を横に振っていた。
「ダメだって! グラブだって、四万三千六百円も姫宮に立て替えてもらってるんだぞ! その上、スパイク代まで出してもらうわけにいかないよ!」
「でも、城ヶ崎君の手持ちじゃこの靴は買えないだろ。中途半端な靴を選んで足を痛めたら元も子もないよ。君を野球に引っ張り込んだのはボクなんだから、これくらいはボクに奢られなよ」
「気にするに決まってんだろ! 親からもらった二万円は全部出す。だから……足りない分は頼むからまた俺に貸してくれ!」
「貸すも何も、返す必要なんてないって言ってるじゃないか。前のグラブだって四万いくらか出したけど、あれもボクが勝手に払ったんだからさ。出世払いですらなくていいんだよ」
「四万いくらじゃない、四万三千六百円だ! ここからさらに二万九千八百円なんて、女の子に奢られていい金額じゃないだろ!」
細かい数字まで律儀に覚えているあいつの頑固さに、俺は思わず苦笑した。
「七万ちょっとくらい、たいした額じゃないよ。君の足首を守るための必要経費なんだから」
「七万三千四百円は大金だ! 見栄とかじゃなくて、俺の男の意地なんだよ! 毎月のお小遣いから絶対に全額返すし、足りなければバイトしてでも耳を揃えて返すから! だからお願いだ、奢りじゃなくて借金にしてくれ!」
城ヶ崎は床に頭がつきそうなほど深々と腰を折り、親から預かってきた二万円をカウンターの上へ無理やり押し出してきた。
これ以上押し問答を続けても埒が明かない。高校生にとって五万を超える金がどれほどの負担か分かっていないわけではないだろうに、施しを受けることだけは死んでも呑めないらしい。そんな不器用な意地も、マウンドで孤独に戦う投手としては悪くない気骨だ。
「分かったよ。そこまで言うなら、差額は貸したことにしておくね」
「う、うん……! 絶対に返すから、貸しにしといてくれ!」
城ヶ崎はほっと息を吐き出しつつも、背負い込んだ金額の重さに顔を青ざめさせていた。もちろん、俺の方から毎月回収する気など全くないが、あいつが満足するなら借金という名目にしておいてやろう。
俺は代金を払い、店員から紙袋を受け取った。
ずっしりとした重みがある。だが、この中に入っているのはただの靴ではない。あの怪物が次のステージへと駆け上がるための、頑丈無比な土台だ。、極上の買い物を完璧にやり遂げたという達成感で、胸の奥がじんわりと満たされていた。
店を出ると、冷え込んだ夜の空気が火照った頬を撫でた。
駅前の時計塔を見上げると、針はすでに夜の八時半を回っていた。すっかり遅くなってしまったが、それだけの価値がある時間を過ごした確信があった。
「すっげえ喉渇いたな……。試着して足動かしてただけなのに、汗びっしょりだ」
城ヶ崎が首筋を拭いながら、情けない声を上げた。
「一時間以上も集中して足踏みしたり体重かけたりしてたからね。あそこの自販機でお茶でも買ってきなよ」
「うん、買ってくる! 姫宮の分も買ってくるから、そこで待っててくれ!」
城ヶ崎は大きな紙袋を抱えたまま、駅前広場の端にある自動販売機コーナーへと小走りで駆けていった。
俺は一人、駅前広場の植え込みの縁に腰を下ろした。
学校帰りの制服姿のまま、ブレザーの胸元を少し合わせて息を吐く。スカートの裾から伸びる脚に、夜の冷気がかすかに染みてくる。ターミナル駅の広場は、帰宅を急ぐ通勤客や、酒を飲んで楽しげに歩く若者たちの波で絶え間なくざわついていた。
ぼんやりと人の流れを眺めていると、正面から歩いてきた人影が、ふいに俺の前で足を止めた。
「ねえ、お姉さん。こんなところで一人? 制服だし、高校生でしょ。何してんの?」
見上げると、明るい金髪をワックスで固めた二十代前半くらいの若い男が立っていた。流行りのだぼついた服を着て、値踏みするような下品な笑みを口元に浮かべている。
面倒なものに引っかかったな、と俺は内心でため息をついた。
「人を待っているだけなので。構わないでください」
冷淡に言い捨て、視線を斜め下へ逸らす。女子高生が一人で夜の駅前に突っ立っていれば、こういう輩が寄ってくるのは世の常だ。相手にするだけ時間の無駄だった。
だが、男は立ち去るどころか、面白そうに口の端を吊り上げて一歩間合いを詰めてきた。
「つれないこと言わないでさ。これから友達と飯食いに行くんだけど、一緒にどう? 美味いもん奢ってあげるよ。ねえ、ちょっとだけでいいからさ」
「興味ありません。連れがすぐに戻ってくるので、退いてください」
俺は立ち上がり、男の脇をすり抜けて自販機の方へ歩き出そうとした。
しかし、男は素早く横へ回り込み、俺の進路を遮るように立ち塞がった。
「待てよ。せっかく声かけてやってんのに、無視はねえだろ。ちょっと付き合えって」
男の右手が伸びてきて、俺の左手首を力任せに掴んだ。
骨が軋むほどの強い握力ではない。だが、逃がさないという明確な悪意と、自分より小柄な女を力でねじ伏せられるという傲慢な確信が、その掌の重みから生々しく伝わってきた。
相手は一人。体格は百七十センチ半ば、体重は六十キロ台後半といったところか。腕の筋肉に筋ばった硬さはなく、運動を日常的にやっている身体ではない。腰が浮いたような立ち方で、両足の開きも狭い。格闘技の経験はおそらく皆無。ただの素人だ。
この男に怪我をさせず、周囲に無用な騒ぎを起こさず、最も効率的に動きを封じるにはどうすればいいか。
「離してください」
「お前が大人しく話聞くなら離してやるよ。ほら、ちょっとあっち行こうぜ」
男が俺の左腕を自分の方へ強く引き寄せる。
その瞬間、俺の身体は反射的に動いていた。
引かれる力に逆らって踏ん張るのではない。引かれる力をそのまま使い、自分から男の懐へと一気に踏み込んだ。
「え……?」
抵抗されると思っていた男が、予想外の軽さで飛び込んできた俺に虚を突かれ、上体をわずかに後ろへのけぞらせた。
その刹那、俺は掴まれた左手首を男の親指の隙間に向けて鋭く回転させ、梃子の原理でやすやすと拘束をすり抜けた。自由になった左手で男の右袖の肘裏をつかみ、同時に右手で相手の首根っこを巻き込むように引き落とす。
自分の全体重を男の右半身へ預けながら、右足を男の右足の外側へ滑り込ませた。
中学の三年間、柔道場で畳が擦り切れるほど繰り返した体落としの軌道。男の重心は完全に宙に浮き、視界がぐるりと反転した。
ドサッ!
植え込みの柔らかい土の上に、男の背中が鈍い音を立てて落ちた。
敷石を避けて土の上に落としたため、骨折するような衝撃は無い。だが、肺の空気を一気に吐き出された男はカエルのような声を漏らし、何が起きたのか理解できずに目を白黒させている。
立ち上がらせる隙など与えない。
俺は倒れた男の右腕を両手で抱え込み、胸の上に自分の腰を素早く密着させた。男の右腕を自分の両脚の間に挟み込み、相手の肘関節を上に向けて固定しながら、後ろへゆっくりと体重を倒していく。
腕ひしぎ十字固めだ。
相手が少しでも暴れれば肘が壊れる体勢だが、俺はその一歩手前、関節が限界まで伸びるギリギリの角度でピタリと動きを止めた。
「がっ……!? な、なんだこれ……痛え! 痛たたたたっ!」
男が悲鳴を上げ、左手で地面をバンバンと叩いた。
起き上がろうと上半身を浮かせようとするが、俺の太ももが男の胸部と喉元を上から抑え込んでいるため、どれだけ足をばたつかせてもびくともしない。大きな男が、自分より頭二つ分も小さい女子高生に完全に地面へ縫い付けられていた。
男の荒い息遣いと、軋む関節の微かな抵抗が、俺の太ももと手のひらを通してダイレクトに伝わってくる。
その瞬間だった。
……ああ、最高だ。
自分より二回りも大きな大人の男が、腕の角度と体重の預け方ひとつで、指先を痙攣させるだけで起き上がれなくなっている。
背筋の奥が粟立ち、甘い熱が喉元までせり上がってきた。
前世の俺は男の身体で、鍛え上げた大柄な体を持っていた。生まれ変わったこの身体は小柄で非力で、どれだけ鍛えても並以下の頼りない器だ。
それがどうだ。力任せに振り回す筋肉などなくても、体の使い方さえ正しければ、大柄な男を地面に縫い止めてしまえる。小さく非力な器への鬱屈が、鮮やかな手応えによって塗りつぶされていく。頭の芯が痺れるような快感が胸を満たした。
けれど、その昂ぶりは次の瞬間、驚くほど急激に霧散した。
……だから何だというのだ。
路上で素人を転がしたところで、野球には何の役にも立たない。この身体でどれだけ足掻いても、あの頃のような球を投げることは二度とできない。他人の腕をねじ伏せる優越感など、失った右腕の代わりにはなり得ないのだ。
急激に冷めていくのを感じながら、腕を固定したまま冷たく息を吐き出した。
「ひっ……折れる、折れるって! 頼むから離してくれ!」
「暴れないで。少しでも腰を浮かせたら、本当に肘が折れちゃうからね」
男が痛みに悲鳴を上げた、そのときだった。
「ひ、姫宮ぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
夜の駅前広場を切り裂くような絶叫が響き渡った。
緑茶の缶を二本抱えた城ヶ崎が目を見開き、紙袋を放り出しそうになりながら猛ダッシュで駆け戻ってきた。その顔は完全にパニックに陥り、顎が外れそうなくらいに口を開けている。
「な、ななな、何やってんだお前ぇぇぇっ!? えっ、誰!? なんで人を倒して腕固めてんだよ!?」
「あ、城ヶ崎君。お茶買えたんだ」
俺が素っ気なく顔を向けると、城ヶ崎は頭を抱えてその場で飛び跳ねた。
「お茶買えたんだ、じゃないって! なんだその技! プロレス!? スカートで何やってんだよ!」
「絡まれたから、怪我させないようにちょっと押さえてただけだよ」
俺はふっと息を吐き、男の右腕を解放して、土の上から静かに立ち上がった。
拘束を解かれた男は転がるようにして跳ね起きると、折れそうな右腕を左手で押さえながら、一目散に駅の雑踏へと脱兎の如く逃げ去っていった。二度と振り返りもしない、見事な逃げっぷりだった。
男の背中を見送りながら、俺はブレザーの裾を正し、スカートについた土を両手で軽く払った。
「……行ったね」
「行ったね、じゃないよ……!」
城ヶ崎はその場に崩れ落ちるように膝をつき、抱えていたお茶の缶を地面に置いた。
肩で激しく息をし、震える手で自分の額を押さえている。
「俺……俺さ、姫宮を一人で待たせてるから、ナンパとか変なやつに絡まれたら助けなきゃって思って……走って戻ってきたのにさ……」
城ヶ崎は地面を見つめたまま、今にも泣きそうな情けない声を絞り出した。
「助けるどころか……姫宮が一人で男を地面に叩きつけて、腕へし折ろうとしてさ……。俺、何のためのデカい体なんだよ……守るどころか、俺の方が守られそうじゃんか……」
大型犬が雨に濡れて打ちひしがれているような、あまりの落ち込みように、俺は思わず吹き出してしまった。
「あはは、何言ってるのさ。城ヶ崎君は野球のピッチャーなんだから、喧嘩なんかに首を突っ込んだら一発で出場停止だよ。怪我でもしたらどうするの」
「でも……男としてさ……情けないだろ……」
「情けなくないよ。城ヶ崎君はその大きな身体と腕を、グラウンドの上で百パーセント使うことだけを考えてればいいの。外のくだらないトラブルは、ボクが全部片付けてあげるから」
俺は地面に置かれていた冷たい緑茶の缶を拾い上げ、プシュッとプルタブを開けて一口飲んだ。冷たい液体が喉を通り抜け、高揚していた熱を心地よく鎮めていく。
路上で男の関節を極めたときの手応えは、もう指先から消え失せていた。素人を転がして一瞬だけ覚えた優越感の薄っぺらさに、胸の奥が苦く冷え切っていく。
「ほら、城ヶ崎君。いつまでもへたり込んでないで、早く立って。もう九時になっちゃうよ」
俺が手を差し伸べると、城ヶ崎はおずおずと顔を上げ、情けなそうに鼻をすすりながらその手を掴んで立ち上がった。
「……姫宮って、本当に強いんだな」
「強くないよ。技術の使い方を知ってるだけ」
「それが強いって言うんだよ……。俺、もっと練習しなきゃダメだな。野球も、身体の使い方も……」
「そうだね。まずは今日買ったその靴をしっかり履きこなすことからだよ。明日から、足元の感覚を一から叩き直すからね」
「うん……! よろしく頼むよ、姫宮」
城ヶ崎は紙袋を持ち直し、まだ少し腰が引けたような足取りで並んで歩き出した。
夜のターミナル駅の改札へ向かう人波の中、二つの長い影が明るいタイルの床の上に揺れている。
紙袋の中で揺れる新品のスパイクの重みを感じながら、俺たちは改札口へと吸い込まれていった。