金曜日、六時間目の終わりを告げるチャイムが校舎に響き渡る。
担任の教師が手早く連絡事項を読み上げて終礼を締めくくると、教室の空気は一瞬で緩んだ。
あちこちでパイプ椅子の脚が床を擦る甲高い音が立ち、部活動の荷物を抱えて飛び出していく足音が廊下にこだまする。
俺が机の横に掛けてあったスクールバッグを引き寄せ、教科書を放り込んでファスナーを閉めようとした時だった。
目の前に、大きな影がすっと落ちてきた。
見上げると制服のボタンを喉元まで窮屈そうに留めた城ヶ崎が、突っ立ったまま俺を見下ろしていた。普段の気安い調子はどこへやら、大きな身体を縮こまらせて所在なさそうに両手を太ももの脇で握りしめている。
「……あ、あのさ。姫宮」
蚊の鳴くような、ひどく掠れた声だった。いつもグラウンドや中庭で無駄に通る太い声を出している男とはまるで別人のようだ。
「何、城ヶ崎君。どうかしたの?」
「その……放課後にちょっとだけ、時間もらえないかな。大事な話があって」
床の木目を穴が開くほど見つめながら、城ヶ崎は絞り出すようにそう言った。まるで清水の舞台から飛び降りる寸前のような切羽詰まった顔つきだ。
その様子を、前の席の大原さんが目ざとく捉えた。
「あらあら? 城ヶ崎君、顔真っ赤じゃない。放課後に二人きりで大事な話って、それもしかして……」
大原さんが悪戯っぽく口元に手を当て、隣の席で鞄にペンケースをしまっていた横山さんへと意味ありげな視線を送る。
横山さんもすぐに察したらしく、細い目をさらに細めて笑った。
「いやあ、これは見過ごせへんなあ。放課後の教室で男の子が顔を真っ赤にして呼び出しとか、完全にアレやん。告白の前振りにしか見えへんのやけど。うち、邪魔にならんように早よ帰ったほうがええ?」
「ちょ、違う! 違うって! 変な冷やかしはやめてくれよ!」
城ヶ崎は飛び退くように両手をぶんぶんと振った。肌の赤みが一段と増して、今にも頭から湯気が噴き出しそうだ。
「野球の話だよ! 本当にお願いだから、変なこと言わないでって……!」
大原さんと横山さんは顔を見合わせて楽しそうにくすくすと笑い声を上げたが、それ以上は追及せずに肩をすくめてみせた。
「はいはい、分かったわよ。冗談だってば。城ヶ崎君、相変わらずからかい甲斐があるんだから」
「ほんまやねえ。ほな姫宮さん、うちらは先に帰るわ。応援しとるわ、城ヶ崎君」
「応援しなくていいよ! ちょっと話すだけだから!」
二人はひらひらと手を振りながら、連れ立って教室を出ていった。
残された教室にはまだ何人かの生徒が机を囲んで談笑していたが、これ以上ここに突っ立っていれば余計な詮索をされかねない。俺は鞄を肩に掛け、立ち上がった。
「城ヶ崎君、ここでは落ち着かないでしょ。渡り廊下のベンチへ行こう」
「あ……うん。ごめん、助かる」
城ヶ崎はホッとしたように大きく肩を落とし、俺の後ろを大人しくついてきた。
本館と体育館を繋ぐ渡り廊下には、夕方の心地よい風が吹き抜けていた。中庭のツツジが揺れ、遠くのテニスコートから乾いた打球音が規則正しく響いてくる。
俺は屋根の下に置かれた木製のベンチに腰を下ろし、スクールバッグを膝の上に置いた。城ヶ崎はベンチの端に、大きな背中を丸めて遠慮がちに腰掛けた。
「それで、日曜の試合のことって何? 堂本キャプテンから何か言われたの?」
俺が問いかけると、城ヶ崎は膝の上に置いた拳をぎゅっと握り締めた。さっきまでの照れくさそうな空気は消え、今度は底知れない緊張がその横顔を覆っていた。
「……今日の昼休み、堂本キャプテンに呼ばれたんだ」
「うん」
「日曜にある隣町の商業高校との練習試合……二試合やるうちの第二試合で点差が開いていたら、終盤の一イニングだけ投げさせてやるって言われた」
城ヶ崎の声は、わずかに震えていた。
「俺が、マウンドで投げるんだ。公式戦じゃないけど……審判もいて、ユニフォームを着て他校と戦う試合なんだよ」
「……そうなんだ。よかったじゃないか。入部して一ヶ月でもう実戦の機会をもらえるなんて、普通ならあり得ないことだよ」
俺は率直に言った。隣町の商業高校といえば、県内でもそこそこの力を持つ堅実なチームだ。高校から野球を始めたばかりの一年生をそんな相手に投げさせるなど、並のチームなら考えもしない。堂本キャプテンも、城ヶ崎の肩の並外れた威力にそれだけ大きな期待を寄せているということだ。
だが、城ヶ崎の表情は少しも晴れなかった。むしろ、今にも泣き出しそうなほど強張っている。
「嬉しいよ……嬉しいけどさ、めちゃくちゃ怖いんだ。俺、中学まで野球どころか運動部にすら入ってなかったんだよ。小学生のときに友達と公園でキャッチボールしたくらいで、ルールだってまだ怪しいところがあるのに。バッターが打席に立って、俺の投げた球を打とうとしてくるんだよね? ストライクが入らなかったらとか、デッドボールを当てたらとか……昼休みに言われてからずっと心臓がバクバクしてるんだ。今夜は全然眠れそうにないよ」
言葉を吐き出すたびに、城ヶ崎の呼吸が浅くなっていくのが分かった。
無理もない話だ。中学まで帰宅部だった人間が、いきなり試合のマウンドに立てと言われたのだ。恐怖を感じないほうがどうかしている。硬式球は石のように硬い。当たりどころが悪ければ骨が折れる代物だ。それを相手の打者に向けて全力で腕を振る重圧は、経験したことのない者には想像もつかないだろう。
「でも、部活でも投げさせてもらってるでしょ。この前だって、堂本キャプテン相手にあれだけ投げてたじゃない」
「うん。キャプテンには受けてもらってる。でもさ……」
城ヶ崎は膝の上で拳を握り直した。
「試合の前の日に、もう一回だけ姫宮に見てほしいんだ。最初に投げ方を教えてくれたのは姫宮だし、どこかおかしかったらすぐ気づいてくれるよね。明日の練習は夕方までだから、そのあとで」
防球ネット越しに見たあの放課後、城ヶ崎は堂本キャプテンのミットに百四十キロ台半ばを投げ込んでいた。部活中に投げる時間がないというわけではない。あいつはどうしても、俺と試合前日の最終確認をしたいらしい。
「だから……お願い、姫宮」
城ヶ崎はベンチから立ち上がり、俺の前に立って深く頭を下げた。
「明日の練習が終わったら、近くの河川敷で俺の球を受けてくれないかな。試合の前に、最後にもう一回だけ見てもらいたい。そうしたら俺、日曜のマウンドに自信を持って上がれる気がするんだ」
頭を下げたまま微動だにしない城ヶ崎の頭頂部を見つめ、俺は胸の奥で小さく息を吐いた。
ここで断る理由など、最初からどこにもない。
「頭を上げてよ、城ヶ崎君。頼み込まれなくても、そのつもりだったよ」
城ヶ崎が弾かれたように顔を上げた。垂れ目が丸くなり、すがるような光が宿っている。
「本当……? 受けてくれるの?」
「当たり前でしょ。あれだけ偉そうなことを言って、新しいスパイクを買わせたんだから。道具を新調した直後が一番大事なんだよ。変な足のつき方を覚えたら、せっかくの性能が台無しになっちゃうからね」
「姫宮……! ありがとう……! 本当にありがとう!」
「お礼はいいから、今日の部活もしっかりね。明日、練習が終わったら河川敷の広場で待ち合わせよう」
「うん! 絶対に待たせないから!」
城ヶ崎は何度も頭を下げながら、部室へと転がるように走っていった。さっきまでの怯えた様子が嘘のように、その足取りは軽い。本当に分かりやすい男だ。
遠ざかっていく大きな背中を見送り、俺は一度教室へと戻った。
人影の消えた教室は、夕闇の気配で薄暗くなり始めていた。一番後ろのロッカーを開け、教科書の束の奥から飴色のグラブを取り出す。
小学生の頃から使っている、硬式用の小ぶりなグラブだ。昼休みに中庭で城ヶ崎の球を受けるために、いつもはこのロッカーに置いてある。使い込んだ革は柔らかく馴染み、今の小さな掌に吸い付いてきた。
この体でもう一度あの白球を追えると、信じて疑わなかった頃から使っているものだ。毎日暗くなるまで壁当てを繰り返し、このグラブで何千球も捕ってきた。だが中学に上がると男子の体は急に骨太になっていき、俺の体だけが華奢なまま。全力で腕を振っても、投げる球は前世の足元にも及ばなかった。
頂点には届かない。女の体では、あの夢の続きを見ることはできない。
俺の真ん中には、いつもあの白球の感触が居座っている。
俺はポケットを右手で軽く叩き、乾いた音を確かめた。明日はあいつの全力の球を、このグラブで受けるのだ。
グラブをスクールバッグに入れ、俺は家路についた。
***
翌日の土曜日。夕方、野球部の練習が終わる頃を見計らって俺は家を出た。
学校の裏門の前を通り、住宅街の坂道を下っていく。
歩いて五分ほどで、視界が一気に開けた。川沿いに広がる河川敷の緑地だ。春の草が青臭い匂いを放ち、川面が夕暮れの残光を反射して鈍く光っている。散歩をする近所の住人の姿もまばらで、川のせせらぎと遠くの電車の走行音だけが低く響いていた。
約束の草地に着いて間もなく、土手の上から激しい足音が近づいてきた。
「はぁっ、はぁっ……! 姫宮……!」
土手の階段を駆け下りてきたのは、泥にまみれた練習着姿の城ヶ崎だった。汗で額に張り付いた前髪を乱暴に払い、肩で大きく息を切らしながらこちらへ駆けてくる。
その胸元には、一緒に選んだキャメル色のグラブが抱えられていた。
そして足元には、先週一緒に選んだ黒いスパイク。
二万九千八百円の、最上級品だ。昨日の練習で、黒い革にはもう土の色が馴染んでいた。
「待たせて……ごめん! 部活、終わってすぐ走ってきた!」
「いいよ、ボクも今着いたところだから。息を整えて」
「うん……っ!」
城ヶ崎はその場に立ち止まり、深く息を吸い込んで吐き出した。視線を落とし、しきりに自分の足元を気にしている。足首を回したり爪先立ちをしたりして、スパイクの感触を確かめているようだった。
「どう、そのスパイク。足に馴染んでる?」
「うん、だいぶ馴染んできたよ。運動靴のときと違って靴の中で足が全然滑らないんだ。足の裏全体が地面に吸い付いてるみたいでさ」
「しっかりと採寸したんだから当然だよ。でも、道具に頼り切っちゃダメだからね。まずは軽く走って、ウォーミングアップからしよう」
「うん!」
城ヶ崎は草地の上を、軽いダッシュで何本か往復した。
ザッ、ザッと力強い足音が草の根と土を捉える。踏み出すたびにスパイクの金具がしっかりと地面をグリップし、無駄な横滑りが一切生じていないのが見て取れた。走るときの足元のブレは、道具の力で綺麗に消えている。
「よし、いい感じだね。じゃあ、まずはキャッチボールから始めようか」
俺はスクールバッグから飴色の小さなグラブを取り出し、左手にはめた。
「ほら、下がって」
俺が草地の上に立ってグラブを構えると、城ヶ崎は十メートルほどの距離を取った。
一球目。肩慣らしの山なりの球が投げ込まれる。
パシッ、と小さなグラブの芯で白球を受け止めた。
硬式球のずっしりとした重みが、革越しに伝わってくる。
「うん、いい球。少しずつ距離を伸ばしていくよ」
何球かやり取りを交わし、距離を十八メートルほどまで広げた。正規のマウンドとホームベースの距離だ。
夕闇が一段と濃くなり、周囲の輪郭が曖昧になり始めていた。川向こうの街並みに、ぽつぽつと街灯が灯り出している。
「城ヶ崎君、マウンドに立っているつもりで投げてみて。日曜の試合を意識してね」
「うん……!」
城ヶ崎の表情が引き締まった。キャメル色のグラブを胸元に引きつけ、セットポジションに入る。
右足に体重を乗せ、左足をゆっくりと持ち上げる。
だが放たれたボールは大きく外へ抜け、俺のグラブをかすめて背後の草むらへと転がっていった。
「あ……ごめん! 抜けちゃった!」
「いいよ、気にしないで。ボール拾ってくるから」
草むらからボールを拾い上げ、俺は城ヶ崎の元へと歩み寄った。
「城ヶ崎君、さっきの球は何が原因か分かった?」
「え……腕が変な風に振れた、とか?」
「違うよ、足元。スパイクのせいじゃなくて、足元が滑らなくなったぶん踏み出し方の癖がそのまま出たんだ」
城ヶ崎が自分の足元を見下ろした。
「スパイクの金具は、土に深く刺さるでしょ。だから左足を斜めに踏み出すと、そこで足首が固まって膝が外へ逃げちゃうんだ。そうすると体が早く開いて、腕が体の回転に置いていかれる。だから球が外へ抜けるの」
「足首が固まる……」
「踏み出す左足のつま先を、真っ直ぐボクに向けて。つま先が相手に向いていれば、踏み込んだときに膝が外へ割れずに壁を作れるから。それと、腕を無理に高く上げようとしなくていいよ。高く上げようとすると肩に力が入って、かえって腕が振れなくなるから。それよりも胸をしっかり張るイメージ。胸を相手に見せつけるように張れば、腕は最後に勝手についてくるから」
俺は城ヶ崎の左足の向きを手で正し、胸の前を軽く叩いて示した。
城ヶ崎は自分の身体の感覚を確かめるように、ボールを持たずに何度か足を前へ踏み出す動作を繰り返している。
「つま先を姫宮に向けて……膝を逃がさない。胸を張る……こう?」
「そう、その形。スパイクの金具が土をがっちり掴むのを感じてみて」
「分かった。やってみる!」
城ヶ崎が再び元の位置へ戻り、息を整える。
俺はホームベースの位置に腰を落とし、小さなグラブを膝の高さに構えた。
城ヶ崎が息を吸い、静かに左足を引き上げる。
軸足である右足の裏全体で、しっかりと河川敷の土を踏み締めている。踏み出された左足のつま先は、真っ直ぐに俺のグラブを向いていた。
ズシッと重たい音がして、スパイクの金具が草地の土を深く噛んだ。
膝が外へ逃げない。内太ももに強烈なタメが生まれ、下半身のエネルギーが逃げ場を失って腰へと駆け上がる。胸の開きがぎりぎりまで我慢され、遅れて出てきた右腕が振り下ろされた。
バシュッッッ!
大気を引き裂くような、獰猛な風切り音が夕闇の河川敷に響き渡った。
白球が指先を離れた瞬間、糸を引くような閃光となって一直線に迫ってくる。
速い。
昼休みに中庭で投げていた球よりも、さらに一段伸びが増している。新しいスパイクが地面を完璧にグリップしたことで、下半身の力が余すところなく指先に集約されていた。
重い衝撃が、俺の左手を襲った。
「っ……!」
グラブの芯で捕った。革越しに、球の重みがずしりと手のひらに響く。思わず息が詰まった。
「……す、すごい……!」
投げ終えた城ヶ崎が、自分の右手を見つめながら興奮に震えた声を上げた。
「今の……めちゃくちゃ指先に引っかかった! 地面を蹴った力が足から腰を通って、そのままボールに伝わった感覚があったよ! 姫宮、今の球どうだった!?」
満面の笑みを浮かべ、無邪気に駆け寄ろうとしてくる城ヶ崎の姿が見えた。
俺は左手を軽く振って痺れを逃がし、何食わぬ顔で微笑んでみせた。
「……うん。すごく、いい球だったよ。スパイクの金具がちゃんと土を噛んで、力が逃げてなかった」
「本当!? よ、よかった……! つま先を姫宮に向けるだけで、こんなに変わるんだね!」
「そうだよ。だからその感覚を忘れないうちに、もう何球か続けてみようか」
「うん!」
城ヶ崎が意気揚々とマウンドの位置へと戻っていく。
その背中を見送りながら、俺はグラブの中で左手を握り直した。
昼休みの中庭でキャッチボールを始めた頃の球とは、もう別物だ。
城ヶ崎の成長速度は俺の想定を遥かに超えている。体の使い方を教えて道具を整えるたびに、あいつの球は目に見えて鋭さと重さを増していく。それは指導者として望んでいた通りの結果であり、喜ぶべき成果のはずだった。
なのに。
どうして、こんなにも胸の奥が焼けるように苦しいのか。
胃の底から苦い汚泥のような熱がせり上がってきて、喉の奥を塞ぎそうになる。
手塩にかけて育てた原石が、いよいよ自分の掌を離れて巣立とうとしている。その成長の早さに、指導役としての名残惜しさを感じているのだろうか。教え子が想像を超えていくのを見届けるのは、指導役としての本望のはずなのに。
それなのに、思考の隙間から名前のつかないものが滲み出してくる。
あの頃の俺が払ったものは、いったい何のためだったんだろう。
血の滲むような練習を繰り返し、誰にも頼れずにたった一人でマウンドを守り抜いた。走って走って肩をすり減らし、最後は右肘を壊してマウンドを降りた。命を削るようにして手に入れたあの領域に、こいつは生まれつきの骨格と肩だけで足を踏み入れようとしている。たった一ヶ月で、何の苦労も知らずに。
俺が女の体に転生し、どれほど渇望しても二度と届かないと諦めざるを得なかったあの高みを。
なんの挫折もなんの痛みも知らぬまま、無邪気な笑顔のままで飛び越えていく。
……何を感傷に浸っているんだか。最初から分かっていたことじゃないか。
この怪物を壊さずに、誰も追いつけない場所まで羽ばたかせてやる。それが途中で夢を断たれた俺が、この世界で野球と向き合う唯一の筋道なのだから。
俺は小さなグラブを構え直し、姿勢を低くした。
「城ヶ崎君、あと五球! さっきのフォームを完全に体に染み込ませて!」
「了解!」
二球、三球と城ヶ崎の剛球が闇を裂いて飛んできた。
革とボールがぶつかる破裂音が、川面に反響して遠くまで響き渡る。俺は一球ごとに、何食わぬ顔でボールを投げ返した。
そして、五球目。
「姫宮!」
ボールを手にした城ヶ崎が、マウンドの位置から大きな声を張り上げた。
「最後の一球、全力で投げてもいい!? 今持ってる力、全部出して投げたいんだ!」
夕闇の中に浮かぶ城ヶ崎の瞳は、純粋な闘志と渇望でギラギラと輝いていた。自分の限界を試したいという、投手の本能そのものの眼差しだった。
今日の締めくくりに、全力の一球。悪くない。
だが俺の口から出た言葉は、迷いのないものだった。
「いいよ。おいで、城ヶ崎君。思いっ切り腕を振ってごらん」
「……っ、いくよ!」
城ヶ崎が大きく息を吸い込んだ。
左足が高く舞い上がり、右足のスパイクが河川敷の土に深く食い込む。
つま先が真っ直ぐに俺を捉え、体幹が深く捻られる。溜め込まれた力が、土を噛んだ左足から一気に解き放たれた。
右腕が、空気を切り裂く。
ドシュッッッ!
それは今日投げたどの球よりも低く鋭い唸りを上げて迫ってきた。
回転の効いた白球が夕闇の空間を切り裂く白い閃光となって、俺の胸元へと突き刺さる。
逃げたらぶつかる。逸らしたら終わる。
俺は全身の神経を左腕に集中させ、グラブの真ん中でその怪物を迎え撃った。
銃声のような炸裂音が草地に轟いた。
受け止めた衝撃に身体ごと後ろへ持っていかれそうになり、俺は右足で芝生を強く踏ん張って堪えた。
ずしん、と重い響きが左腕を肩まで駆け上がった。
だが、ボールは。
白球は俺の小さな飴色のグラブの奥に、しっかりと収まっていた。
「…………っ」
息を吐き出すこともできず、俺はその場に蹲りそうになるのを必死で耐えた。
グラブの中で、ボールがぎちぎちと革を軋ませている。
「……取った……」
城ヶ崎が呆然と呟いた。それから、我に返ったように駆け寄ってきた。
「取った……! すごい、今のが今までで一番速かったって! 姫宮、すごいよ! 俺の全力の球、一発でビタッと止めたじゃん!」
城ヶ崎は興奮で顔を紅潮させ、子供のように飛び跳ねて喜んでいた。
俺はゆっくりと立ち上がり、息を整えて微笑んだ。
「……うん。文句なしの、最高の球だったよ」
「本当!? やった……! 俺、投げられたんだ……!」
城ヶ崎はその場にへたり込み、草の上に大の字になって夜空を見上げた。肩で息をしながら、込み上げる嬉しさを噛み締めるように何度も拳を握り直している。
空にはいつの間にか星が瞬き始め、冷たい夜風が汗ばんだ肌を冷やしていった。
「なあ、姫宮」
仰向けになったまま、城ヶ崎がぽつりと呟いた。
「何?」
「俺さ……もし姫宮がいなかったら、とっくに野球部辞めてたと思うんだ」
静かな川のせせらぎに混ざって、その言葉が耳に届いた。
「中学まで運動なんて全然してこなかったし、野球部に入っても周りは経験者ばっかりでさ。先輩たちは怖いし、球拾いばっかりで全然面白くなくて。俺なんかが入る場所じゃなかったんだって、最初の週で逃げ出したくなってたんだよ」
城ヶ崎は身体を起こし、草の上に胡座をかいて俺を見上げた。
「でも、姫宮が声をかけてくれてさ。キャッチボールに付き合って投げ方を教えてくれて……グラブもスパイクも一緒に選んでくれて。姫宮がいてくれたから俺、野球がこんなに楽しいんだって知ることができたんだ」
濁りのない、真っ直ぐな瞳だった。
「日曜の試合、俺は絶対に抑えるよ。一イニングだけかもしれないけど、成瀬先輩や堂本キャプテンに俺の球をちゃんと見せるんだ。姫宮が教えてくれた投げ方で、絶対にバッターを打ち取ってみせる」
「うん。城ヶ崎君なら、絶対にできるよ」
俺が頷くと城ヶ崎は照れくさそうに頭を掻き、それから思い出したように顔を輝かせた。
「あ、そうだ! 言い忘れてたんだけどさ」
「ん?」
「今日の部活が終わった後、堂本キャプテンに頼み込んできたんだ。日曜の試合、姫宮がベンチで見ていていいかって」
俺は思わず目を見張った。
「え……? ボクが?」
「うん! キャプテンに『姫宮がいないと緊張で腕が振れません!』って頼み倒したら、笑いながら許可してくれたんだよ。だから……日曜、ベンチで俺のこと見ててくれ!」
屈託のない笑顔で、城ヶ崎はそう言った。
「……勝手なことして。ボクが日曜日、暇だとは限らないでしょ」
「えっ!? だ、ダメなの……!?」
城ヶ崎の顔が、一瞬で絶望に染まる。耳が垂れ下がった大型犬そのものの表情に、俺は思わず吹き出してしまった。
「嘘だよ。見には行く。どこで見るかは、当日のボクが決めるけどね。城ヶ崎君が無様な球を投げないか、しっかり見張っててあげるよ」
「……っ! うん! 任せてくれ!」
城ヶ崎は立ち上がり、スパイクについた土を丁寧に手で払い落とした。それからキャメル色のグラブを大切そうに抱え、土手を上がっていく。
帰り道、街灯の薄暗い夜道を俺たちは並んで歩いた。
城ヶ崎は日曜の試合のシミュレーションを延々と楽しそうに語り続けている。ストレートで追い込んで最後は高めで空振りを取るんだとか、いや低めの見逃し三振のほうがかっこいいかなとか。取り留めのない妄想を口にしては、一人で照れ笑いを浮かべている。
俺は適当に相槌を打ちながら、ブレザーのポケットの中に左手を滑り込ませていた。
ポケットの中で、まだ痺れの残る左手をぎゅっと握り込む。口の端が、自然と吊り上がってしまうのを止められなかった。
この痺れは、あいつが放ったあの獰猛な剛速球を受け止めた証拠だ。
俺の目論見通りに、あいつの体が変わりつつある証拠。
俺の手で、あの怪物の肩を作り変えているのだ。
ポケットの中で左手をもう一度握りしめながら、俺は夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。あのマウンドで、あの白球がどんな軌道を描いて相手をねじ伏せるのか。それを想像するだけで、胸の奥が熱くなる。きっと楽しみで仕方がないのだ。
そう思うと同時に、俺は奥歯の力を抜いた。いつから噛み締めていたのかは、自分でも分からなかった。