五月の日差しが、朝のグラウンドを白く照らし始めていた。
日曜の西高グラウンドには、いつもと違う張り詰めた空気が漂っている。
試合相手の商業高校の遠征バスも、すでに駐車場に停まっていた。濃紺のユニフォームの相手の選手たちは、外野の芝生で整然とアップを始めている。
今日は午前と午後で二試合を行う予定だ。
俺はいつもの制服で学校へやってきて、一塁側の防球ネットの裏に立っていた。錆びた金網のひんやりとした感触が、ブレザーの袖越しに二の腕へと伝わってくる。
一塁側ベンチの入り口では、ユニフォームを着た城ヶ崎が落ち着かない様子で立っていた。一緒に選んだキャメル色のグラブを抱え、何度も首を伸ばしては通用門のあたりを見回している。
俺がベンチの中で見られるように許可をもらってきたとあいつは言っていたが、部外者の俺がベンチに入るわけにはいかないだろう。ユニフォームも着ていない女子が一人混じっていたら部員たちだって気を遣うし、試合に集中できなくなってしまうかも知れない。
だから今日は、ネットの外から見ることにした。ここならグラウンド全体が見渡せるし、打者の踏み込みもベンチの様子もよく見える。
そんなことを考えていると、ベンチの方から足音が近づいてきた。
「姫宮さん」
ベンチの通用口の網を開けて、防具を身につけた堂本キャプテンが顔を出した。後ろからは、キャプテンの背中に隠れるようにして城ヶ崎も小走りでついてくる。
「おはようございます、堂本キャプテン。朝早くからお疲れ様です」
「おはよう。……中には入らないのか。ベンチの端にパイプ椅子を一脚置いてあるんだ。城ヶ崎からも頼まれていたし、俺からも許可は出してあるぞ」
堂本キャプテンは太い眉を寄せて、ネットの隙間から手招きをした。城ヶ崎もすがるような目で俺を見つめている。
「ありがとうございます。でも、ボクはここで十分ですから。部員でもない女子がベンチをうろうろしていたら、選手の皆さんもやりづらいでしょう。外から静かに応援させてもらいますね」
愛想よく笑って首を振ると、堂本キャプテンは少し困ったように頭の上の捕手用ヘルメットを押し上げた。
「やりづらいなんてことはないんだがな。むしろ姫宮さんがいてくれた方が、うちの城ヶ崎の落ち着きがまるで違うんだが」
「いつもあんなに教えてあげているんですから、グラウンドに入ったら一人でしっかり立ってもらわないと困りますよ」
「う……そりゃそうだけどさ……」
城ヶ崎が気まずそうに視線を落とし、抱えたグラブの親指のあたりをもごもごと指先でいじった。少し残念そうではあるが、ネットのすぐ向こうに俺がいると分かって肩の力がいくらか緩んだようだ。
「まあいい。気が変わったらいつでも入ってこい。入り口の鍵は開けてあるからな」
「はい。ありがとうございます」
キャプテンが城ヶ崎の背中を平手で叩いてベンチへ連れ戻していった。城ヶ崎は何度も振り返りながら、自分のベンチへと小走りで戻っていく。
グラウンドに整列の合図が鳴り響いた。俺は肩から下げていた通学用の小さな手提げから、一冊のノートと一本のボールペンを取り出した。
ただ見ているだけというのも手持ち無沙汰で落ち着かない。そのため、対戦相手の特徴でも観察しておこうと思ったのだ。
第一試合は、お互いの主力同士をぶつけ合う本気の戦いだった。
西高のマウンドにはエースの成瀬先輩が上がり、商業高校の先頭打者に向かって初球を投げ込んだ。前にネット越しに伝えた左手の使い方が、もうフォームに馴染み始めている。左肩を早く開かずに、胸の前に残せていた。腕の振りが打者から見えにくくなった分、相手のバットがわずかに差し込まれる。
俺は防球ネットの網目に額を近づけるように観察して、ノートの最初のページにペン先を走らせた。
一番打者、カウントワンボールから甘い内角直球を見逃し。右肘が下がる癖あり、外の落ちる球に腰が引ける。二番打者、バントの構えが早い。一塁手のチャージに対してバスターへの切り替えが遅い。三番打者、追い込まれるとノーステップに変えて右方向へのゴロを狙う傾向。
スコアのマス目を埋め、打者の立ち姿や足の引き方を書き連ねていった。
相手投手の癖も目に飛び込んでくる。セットポジションで直球のときはグラブの小指側がわずかに外へ向き、変化球を握っているときは手首の筋が強く浮き出る。
それらをノートの罫線の上に落とし込んでいるあいだ、俺の頭の中は驚くほど静まり返っていた。
試合は息詰まる投手戦となった。成瀬先輩は走者を出しながらも、要所を低めのスライダーで引っかけさせて連打を許さない。西高の打線も相手の好投手に手を焼いていたが、五回裏に四番打者が甘い変化球を左中間へ弾き返して二点を先制した。
八回表に一点を返されたものの、成瀬先輩が最後まで投げ抜いて二対一で逃げ切った。
整列して礼を交わす選手たちの背中を見ながら、俺はノートを閉じて息を吐いた。成瀬先輩の球数はおよそ百二十球。公立校のエースとしては十分すぎる内容だったし、堂本キャプテンの配球も相手の弱点を実によく突いていた。
昼の休憩に入ると、ベンチから城ヶ崎が弁当箱も持たずに駆けてきた。
「姫宮、昼飯は?」
「持ってきてるよ。城ヶ崎君こそ、ちゃんと食べなよ。午後に投げるかもしれないんだから」
「食ったら吐きそうでさ……。なあ。さっきから何書いてるんだ、それ」
「ただのメモ。相手の打者の癖とか」
「えっ、全員分?」
「全員分。ほら。商業の二番の人、バントの構えがやたら早かったでしょ。ああいうの」
「……全然分かんないって」
「分からなくていいよ。城ヶ崎君は、投げることだけ考えてて」
城ヶ崎はしばらく金網越しにノートを覗き込んでいたが、やがて「おにぎり一個だけ食ってくる」と言い残して、ベンチへ戻っていった。
三十分の休憩のあと、第二試合が始まる。
午前の試合とは打って変わって、グラウンドに出てきた顔ぶれは控え選手や下級生が中心だった。商業高校の二番手投手は球速はあるものの制球が定まらず、西高の打者も浮いた球を力任せに引っ張っていく。
一回の表から試合は激しく動いた。商業高校が長打と四球を絡めて二点を先制すれば、西高もその裏に相手のエラーに乗じて二点を奪い返す。お互いに守備の乱れが目立ち、投手の四球からピンチが広がる典型的な乱打戦の様相を呈していた。
四回の裏、西高の打線が相手の二番手投手を捕まえた。甘く入った直球を外野の頭上へ運んで走者一掃の二塁打。相手の送球ミスも重なって、この回だけで一挙に四点を奪った。
スコアボードの数字は六対二。西高が四点をリードしたまま、試合は終盤へ向かっていく。
俺はネットの外から、ベンチの一番奥の薄暗い日陰に視線を移した。
城ヶ崎がそこにいた。奥の長椅子に腰を下ろし、両膝を小刻みに激しく揺らしている。膝の上に置いたキャメル色のグラブを、爪が白くなるほどの力で握りしめていた。周りの先輩たちが「声出していこう」「気抜くなよ」と声を張り上げている中で、城ヶ崎だけが青ざめた横顔を固まらせている。
グラウンドでは試合が淡々と進み、六回裏の西高の攻撃も無得点。
七回表の守備を控え投手がなんとか無失点で切り抜け、選手たちがベンチへ引き揚げてきたときだった。
ベンチの前で選手たちを迎えていた堂本キャプテンが、奥の日陰に座り込んでいた城ヶ崎の前へと大股で歩み寄っていく。防具の胸当てを外しながら、低く鋭い声が飛ぶのがネットの外まで聞こえた。
「城ヶ崎。八回から行くぞ。外野の裏で肩を作ってこい」
その言葉を聞いた瞬間、城ヶ崎の身体がビクッと跳ね上がった。立ち上がろうとした足がベンチの端に引っかかり、転びそうになりながらグラブを胸に抱え直す。顔から完全に血の気が引いて、唇が小刻みに震えていた。
「は、八回……俺が……?」
「そうだ。点差はあるが、相手は商業のレギュラーも何人か残っている。いい度胸試しだ。しっかり投げてこい」
キャプテンはそれだけ告げると、次の回の攻撃の打順を確認するためにベンチの中央へと戻っていった。
取り残された城ヶ崎は、幽霊でも見たような顔でふらふらとベンチの外へ足を踏み出した。そして金網越しに立っていた俺の姿を視界に捉えると、弾かれたようにネット際へと駆け寄ってきた。
「ひ、姫宮……! 聞いたろ、今の……! キャプテンが、八回から投げろって……!」
金網を掴む城ヶ崎の指先が、目に見えて震えていた。
「聞いたよ。いよいよ出番だね、城ヶ崎君」
「出番って……無理だよ。俺、まだ他校相手に投げたことなんてないんだって! ストライクが入らなかったらどうしよう……相手に滅多打ちにされたら……」
「大丈夫だから。落ち着いて」
「落ち着けないって! 頼むよ姫宮、一緒に来てくれ! 心臓が飛び出しそうだ……!」
必死の形相で懇願してくる大型犬のような姿に、俺は小さく息をついた。
西高の投手用のブルペンは外野の防球フェンスのさらに裏手、木々に囲まれた場所にある。グラウンドの喧騒から切り離された場所で、ベンチを通らずに外側の通路から入ることができる。
「わかったから、大声を出しちゃダメだよ。先に行ってて。すぐに行くから」
俺がそう告げると城ヶ崎はすがるように頷き、フェンス沿いの通路を小走りでかけていった。
ノートとペンを手提げバッグにしまい、俺もグラウンドの外周を取り囲む木立の小道へと足を進める。ここなら誰の邪魔にもならないし、部員たちに余計な気を遣わせることもない。
木漏れ日が落ちるブルペンに足を踏み入れると、すでに城ヶ崎がマウンドのプレートの前に立ち尽くしていた。ボールを握る右手が小刻みに揺れ、呼吸が浅くなっている。
「城ヶ崎君。まずグラブを置いて」
俺の声に、城ヶ崎が弾かれたように振り返った。
「そんなガチガチの身体でいきなり投げたら、肩の筋を痛めるだけだよ。ほら。グラブを置いて、大きく息を吸って」
城ヶ崎はおずおずとキャメル色のグラブを足元に置いた。俺はあいつの背後に回り込み、両手で城ヶ崎の両肩に触れる。
触れた瞬間、肩が板のように固まっているのが掌から伝わってきた。これでは腕が振れるはずもない。
「息を吸って……そう、思いっきり吐き出して。肩の力を抜く」
俺は城ヶ崎の両肩を上からゆっくりと押し下げ、背中の固まったところを指先で小さく揺するようにほぐしていった。
「昨日、河川敷で投げたときのことを覚えてる?」
「河川敷……うん」
「あのとき、どんな感覚で投げてた? 周りに誰がいた? 誰もいなかったでしょ。ボクと城ヶ崎君の二人だけで、風の音を聞きながら投げてたよね」
指先で背中の張りを緩めながら、耳元で穏やかに声をかける。
「相手のベンチも点差もユニフォームも、全部見なければいいんだよ。マウンドに立ったら、キャッチャーのミットの革紐だけを見るの。河川敷でボクの胸元に投げ込んでいたときと、まったく同じなんだから」
「河川敷と……同じ……」
「そう。城ヶ崎君がやることは、いつも通りに指先で縫い目を押し出すだけ。君の才能があれば、あとは何も考える必要はないよ」
背中を手のひらで大きく撫で下ろすと、城ヶ崎の口から長いため息が漏れた。強張っていた首筋の力が抜け、両肩がすとんと落ちる。
「うん……なんか、ちょっと息が吸えるようになってきた」
「よし。じゃあ、球を投げようか」
俺は手提げバッグの底から、飴色の小ぶりなグラブを取り出した。河川敷で城ヶ崎の球を受けている、いつものグラブだ。
左手にはめ、パチンと手のひらで叩いてみる。よく手に馴染んだ革が、乾いた音を返した。
「キャッチャーの先輩たちはみんなベンチに入ってるからね。ボクが受けるよ。まずは七メートルくらいの近い距離から投げて」
「うん、分かった」
俺はマウンドとホームベースの中ほどに立ち、中腰になってグラブを構えた。
「ほら、腕を大きく振らなくていいから。指先の感覚だけを確かめるようにして」
城ヶ崎は言われるままに硬式球を拾い上げ、胸の前でセットした。
一球目。山なりの緩いボールが放たれ、グラブの中に柔らかく収まった。
「そう。指先でボールを弾く感触、しっかりある?」
「うん……わかる」
「じゃあ、少しずつ下がるよ。腕を振るんじゃなくて、足の踏み込みでボールを運ぶイメージでね」
俺は数歩下がり、いつものバッテリー間の距離をとった。薄暗い木立の隙間から木漏れ日が差し込み、土の上に細長い影を落としている。
ホームベースの後ろに腰を落とし、グラブを低めに構えた。
「さあ、おいで。思いっきり腕を振ってみなよ」
城ヶ崎が息を深く吸い込んだ。
左足が静かに、だが力強く持ち上がる。右足の裏がしっかりとブルペンの土を噛み、上半身の開きがぎりぎりまで我慢される。昨日の夕方に河川敷で何度も繰り返した、あの無駄のない体重移動だ。
そして左足が踏み出された瞬間、長い右腕が鋭く振られた。
空気を切り裂く、低く唸るような風切り音。
白い弾丸が一直線に視界を突き抜けてきた。
グラブの芯を撃ち抜く、重い衝撃が左手を襲った。革の隙間から、白っぽい土煙がわずかに上がる。
「っ……!」
手のひらがじんと熱い。
いい球だった。浮き上がらず、低めに構えたグラブへまっすぐ来ている。
「……すげえ。今の球、手応えあった……!」
城ヶ崎が自分の右手を見つめ、それからパッと顔を輝かせた。さっきまでの青ざめた表情は完全に消え去り、瞳の奥に光が戻っていた。怯えも恐怖も、この一球で綺麗に吹き飛んだらしい。
「うん。文句なしの球だよ」
俺は右手に持ったボールを城ヶ崎の胸元へ軽やかに放り返した。
「これなら商業高校の打者でもバットにかすりもしないよ。ほら、もうすぐ七回の裏が終わる。早くベンチに戻りな」
「うん! 姫宮、ありがとう! 俺、投げてくる!」
城ヶ崎はキャメル色のグラブを叩き、長い足で木立の小道を駆け抜けていった。その背中には、もう迷いも躊躇もない。
あいつの姿が見えなくなってから、俺はグラブを外して手提げバッグへしまった。
昨日の河川敷より、また一段重くなっている。たった一日で、だ。
俺はグラブの革の手触りを指先に残したまま、再び外野フェンス沿いの道を歩いて一塁側のネットの外へと戻る。
ちょうど七回裏の西高の攻撃が三者凡退で終わり、攻守交替の笛が鳴り響いたところだった。
「ピッチャーの交代をお知らせします。ピッチャー、城ヶ崎君。背番号十八」
グラウンドのアナウンスが流れ、一塁側ベンチから城ヶ崎が小走りでマウンドへと駆け上がっていった。
捕手の位置には、マスクを被った堂本キャプテンが腰を下ろしている。キャプテンが立ち上がり、マウンド上の城ヶ崎に声をかけながらボールを渡した。
城ヶ崎が投球練習を始める。
一球目から、捕手のミットが派手な音を立てて跳ね上がった。バックネット裏に陣取っていた商業高校の控え部員たちが、一斉にざわめきながら身を乗り出す。
「おい、今の投球練習だよな……?」
「十八番って控えだろ。一年か?」
「知らねえよ。西高にあんなのいたか?」
「八回表、商業高校の攻撃は、七番、ライト」
場内放送の声とともに、相手の七番打者が打席に入った。下位打線とはいえ、ここまで二安打を放っているしぶといバッターだ。打席のやや後ろ寄りに立ち、速球を待つ構えを見せている。
俺は金網に指をかけ、マウンド上の城ヶ崎をまっすぐに見つめた。
ブルペンで言った通りだ。相手のユニフォームを見るな。キャッチャーのミットの革紐、あの一点だけを見ろ。
城ヶ崎がセットポジションに入った。胸の前でキャメル色のグラブをぴたりと止める。
左足が上がった。右足一本でピンと立ち、沈み込むような体重移動から右腕が振り抜かれる。
唸りを上げた直球が、右打者の内角いっぱいへ容赦なく突き刺さった。
打者はバットを出す暇すらなく、のけぞるようにして腰を引いた。球審の右手が勢いよく上がる。
「ストライク!」
グラウンドが一瞬で静まり返り、それから商業高校のベンチから「うおっ」「なんだ今の……!」というどよめきが湧き起こった。
打者は信じられないといった顔で構え直したが、すでに腰が引けている。二球目、外角低めの直球にまったく手が出ず見逃しのストライク。そして三球目、外角高めの直球を振らされて空振りの三振に倒れた。
わずか三球。城ヶ崎は相手の下位打線をまったく問題にしていなかった。
続く八番打者も浮き上がるような直球にバットが空を切り、三球三振。九番打者は初球の甘い球に辛うじてバットを当てたものの、力のないピッチャーゴロに倒れた。
あっという間の三者凡退。城ヶ崎がマウンドを降りてベンチへ戻る際、西高のベンチからは上級生たちの歓声と拍手が巻き起こっていた。
「ナイスボール、城ヶ崎っ!」
「いいぞ、その調子だ!」
先輩たちに頭をはたかれながらベンチへ入る途中、城ヶ崎がネットの方を振り返った。
「姫宮! 見てたか、今の!」
「見てたよ。でも、まだ浮かれないの。初球、ちょっと上体が突っ込んでたからね」
「……あ、ちょっと突っ込んでたかも」
「そう。次の回も、ミットの真ん中だけ見てなよ」
「……おう!」
城ヶ崎は真っ赤な顔で頷き、先輩に襟首をつかまれてベンチの奥へ引っ張られていった。
堂本キャプテンの予定では、この一イニングだけの登板だったはずだ。点差は六対二のまま、試合は最終回へと突入していた。
だが八回裏の攻撃が終わると、堂本キャプテンは九回のマウンドへ再び城ヶ崎を送り出した。
「城ヶ崎、もう一回行くぞ! 上位打線だ、思いっきり腕を振ってこい!」
ベンチの前でキャプテンが城ヶ崎の尻を叩く姿が見えた。城ヶ崎は嬉しそうに頷き、力強くマウンドへと走っていく。
九回表、相手の一番打者からの攻撃。
午前に成瀬先輩の球を見てきた相手の打線には、手元で急に伸びてくる城ヶ崎の球は別物に見えただろう。
一番打者は内角の直球に詰まらされてセカンドフライ。二番打者は三球連続の直球にすべて空振りで三振。そして三番打者にはフルカウントまで粘られたものの、最後は外角低めいっぱいに決まる直球で見逃し三振に仕留めた。
二回を投げて被安打も四死球もゼロ、三振は四つ。
試合終了の笛が鳴り響いた。
六対二で西高の勝ち。整列して礼を交わす商業高校の選手たちが、何人も城ヶ崎の方をちらちらと振り返っていた。
整列が解け、選手たちがベンチ前へ引き揚げてくる。
俺はネットの外でノートに最後の三振の記録を書き込んだ。城ヶ崎投真、投球数二十四球。打者の手元での球威は後半になるほど増していた。課題はセットポジションでの右足のタメだが、初実戦としては上出来すぎる内容だ。
「姫宮さん」
不意に頭の上から声をかけられ、俺は顔を上げた。
防具を外して汗だくになった堂本キャプテンが、一塁側のネット越しにこちらを覗き込んでいた。その太い指先が、金網の隙間から俺の開いていたノートを指差している。
「……すごいな。それ、打者の特徴を全部書き留めてあるのか?」
「あ……はい。勝手なメモですけど」
慌ててノートを閉じようとしたが、キャプテンの鋭い視線が紙面の一角を捉えていた。
「八回の七番打者のところ……初球で内角を意識させれば、次の外角には踏み込めない、か。俺が二球目に要求したコースとまったく同じだ。ネットの外からそこまで見えていたのか」
「あの打者、内角の球に対して右肘をうまく畳めず、体が早く開く癖があって。だから内角を意識させたとき、次の外角に踏み込めなくなっているんだと思います」
淡々と答えると堂本キャプテンは喉の奥で息を呑み、信じられないものを見るような目で俺の顔を凝視した。
「……恐れ入ったよ。成瀬のフォームといい城ヶ崎の成長といい、姫宮さんの野球観はそこらの指導者よりよっぽど筋が通ってる。なあ、姫宮さん」
キャプテンはネットに両手をつき、真剣な眼差しで身を乗り出してきた。
「次の練習試合も、こうしてネットの外からでいい。打者の特徴や気づいたことを、ノートに書き残してくれないか。正式に記録員としてベンチに入ってくれとは言わない。ただ姫宮さんのその目が、このチームには必要なんだ」
キャプテンの言葉には、一片の打算も嘘もなかった。純粋にチームを強くしたいという主将としての切実な願いが籠もっている。
だが、俺は首を小さく横に振った。
「ボクの勝手なメモでよければ、たまにお見せすることはできます。でも、チームの役目として引き受けることはできません。ボクはただの通りすがりの同級生ですから。あんまり期待されると困っちゃいます」
「……そうか。勝手なメモ、か」
堂本キャプテンは苦笑いを浮かべ、それ以上は無理に踏み込んでこようとしなかった。
「わかった。その勝手なメモを、また気が向いたときに見せてくれ。それだけでも十分助かるよ」
「はい。お役に立てる範囲なら」
キャプテンがグラウンドの整備へと戻っていった。
グラウンドの中では、控えの部員たちがトンボを手に内野の黒土を均し始めていた。ベンチの周りでは道具の片付けが進められている。
マウンドのあたりでは、整備の手を止めた上級生たちが城ヶ崎の周りに群がっていた。
「おい城ヶ崎、ナイスピッチング!」
「二回無失点、四奪三振だぞ! 商業の連中、手も足も出てなかったじゃないか!」
「すげえよお前、次の大会でマジで秘密兵器になるぞ!」
先輩たちに次々と背中を叩かれ、城ヶ崎は照れくさそうに首をすくめて笑っていた。大きな身体を丸めて、褒められるたびに耳まで真っ赤にしている。
その光景を、俺はネットの外からじっと見つめていた。
先輩たちの輪の中心で笑う城ヶ崎の姿が、五月の眩しい日差しの中に溶けていく。
気づけば俺の左手が、ブレザーの袖の上から自分の右肘をさすっていた。
かつて砕け散り、二度と全力で腕を振れなくなった前世の傷跡。今の華奢な体には何の傷痕も残っていないはずなのに、皮膚の奥の骨が冷たい水に浸されたように痛んだ気がした。